4 作品は作家の名刺である

怨色を浮かべた表情——というのはこういうもののことを言うのだろう。

きっとそうだ。そうでなければ『怨色』という言葉が存在する意味がない。


……アサカという女性が俺たちの前に現れたときの表情の話だ。

ミナミ伝いに彼女を呼び出した俺たちは、まず第一に彼女からの謝罪を期待していたが、その期待は裏切られた。

「何か用ですか?」

彼女は小柄な体躯をふんぞり返らせて、そう短く訊ねた。

その不遜な態度が癇に障る。背筋を引っ張られたような感覚で、怒りが思考を支配した。

「何かって、これですよ。これ!」

俺はテーブルの上のブラックノワール——姿——を指差した。

「これに、チョコじゃなく醤油が——」

「ああ、はいはい」

俺の抗議を打ち切って、アサカは面倒そうに手を振った。

「代わりをもってくればいんでしょ」

「なっ……!」

それが正当な理由で怒っている客に対する態度かよ……! 女性じゃなかったら殴り掛かっていたかもしれない。

黒髪で落ち着いた雰囲気があって、こうして改めて見てみると割と美人なのに。

だが、それとこれとは無関係なこと。俺はこの女に怒っているのだ。

「『ノワール』シリーズは、神聖な食べ物なの。そう簡単に食べられると思わないことね」

「はあ?」

そうとだけ言い残し、アサカはキッチンへと消えてしまった。

「ぽかーん……」

と、隣のぼたもちはわざと声に出して言った。その反応もどうかと思うが、俺も同じ気持ちではあった。

もはや怒りを通り越して、今自分の身に何が起こっているのがわからず呆れてしまう。

なぜ今日初めて会った店員からここまで目の敵にされなければいけないのか、その理由がまったく不明だ。

「本当に、本当に今日のアサカ先輩は変ですね」

ミナミは不思議そうに呟いた。

「いつもはすっごく優しいんだよ?」

そう言ってこちらを見やる。だが、そんな言葉で俺が納得できるはずがない。

「説得力がなさすぎる」

俺はそう返答することしかできなかった。

「アサカさんよりも、ミナミが作った方がお二人も安心なんじゃない?」

俺たちを気遣ってか、心優しき幼女がミナミにそう提案した。

「まあ……、そうっすね……」

「あの人よりはマシかな……」

ぼたもちと俺は曖昧に頷く。

「マシって……失礼しちゃうなあ♪」

ミナミはカラカラと笑った。

こんな調子だし、ミナミはミナミで不安だ。内心では、人間性からして幼女が作ってくれるのが最も安心できるのに……と考えていた。

まあ、幼女はここで働いているわけではないので、詳細な作り方は知らないだろうし、キッチンに入る資格もないのだけど。

「わっかりました! 自分が作りますとアサカ先輩に言ってきます♪」

幼女に頼られたのがよほど嬉しかったのか、ミナミは目をキラキラさせて鼻息を荒げてキッチンへと向かって行った。

俺としては安心して食べられるものが出てくるならそれでいいんだが……。どうして世の中で言われている『食の安全』の問題からかけ離れた次元で、食への心配事を抱えなければいけないのか……。

チョコじゃなく醤油がかかっているんじゃないか——などといちいち心配していたら、塩分うんぬん以前にストレスで胃に穴が空きそうだ。

まあ、ミナミが作ってくれるというのなら、ひどい思いをすることはなさそうだ。彼女は仕事はテキトーだが、調子が狂うというだけで実害はない。大丈夫だろう。

——しかし、そんな期待はすぐに打ち砕かれた。

数分後、ブラックノワールが二つ載ったトレイとともにテーブル席へと戻って来たミナミの表情は微妙なものだった。

「どうしたんだ?」

「あのー……」

少し気まずそうに頬を掻くミナミ。

「私がブラックノワールを作るという案は、即刻却下されました……」

「それで?」

「これは、アサカ先輩が作り直したもので……」

「今度は大丈夫なんだろうな?」

「た、たぶん……」

ミナミは曖昧に頷いた。

「ミナミ、あなたが最初に味見をしなさい。お客に対して二度もミスは許されないでしょう」

そう言って、幼女は自分の使っていたフォークをミナミに差し出した。

「……すみませんが、それで構いませんか?」

幼女が俺に確認する。

「え、ええ。それでいいですけど……」

俺は頷いた。

しかし……俺かぼたもちがこれから食べるブラックノワールを、幼女が使ってたフォークで、ミナミが味見をするのか……。

間接キスどころの騒ぎではないな。なにかこう、スクランブル交差点で目についた人に片っ端からキスしていくような乱れ具合というか——って、それは全然違うか。

というか、俺は何を考えてるんだ。ただミナミが責任を持って毒味をするというだけの話だろう。

「じゃあ、いただきます」

ミナミは幼女からフォークを受け取り、皿の端にはみ出た部分のチョコソースをすくってペロリと舐めた。——女の子の食べる姿をまじまじと見ていると、不思議と罪悪感めいたものが芽生えそうになるな。

……それにしても、周囲から見れば異様な光景だろう。客に提供するはずのものを店員が食べているんだから。

注目されて緊張しているのか、ミナミは神妙な面持ちで幼女にフォークを返却し、俺たちの方を見て頷いた。

「大丈夫! めっちゃおいしい! これはブラックノワールを超えたブラックノワール……ブラックゴッドですな〜」

すぐにいつものミナミに戻った。ノワール成分を消すなよ。

「こんなにおいしく作れるなんて、さすがはアサカ先輩!」とミナミは数分前に何があったのかを忘れたかのように言った。

「ささ、どうぞどうぞ〜、では!」

安全なものだと分かるや否や、ミナミは俺たちの前に皿を置き、すぐ他の席の対応に行ってしまった。

あまりに長い道のりだったように思えるが、やっと本物のブラックノワールにありつくことが叶いそうだ。

ミナミが手を付けた箇所のチョコソースがつい視界に入ってしまうが、気にせずパンを切り、チョコソフトを載せて頬張る。

「——!」

こ、こ、これは……!

ここから先は、ほんの少しの間だけ、俺の脳内のイメージ映像に付き合ってほしい。


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蓮の花が咲いている。視界は一面、黄金色だ。

黄金の蓮、黄金の蔦、黄金の空。

黄金の鳥が黄金の風に乗って飛んでいる。

静寂。しんと静まり返り、心を掻き乱す物はここには何一つとしてない。

完璧な世界。それだけで完結した、無欠にして無上の世界だ。

だが、そんな世界は長くは続かない。

——遠くから、音が聞こえる。

その地鳴りのように腹の底に響く音は次第に近づき、やがて洪水が迫って来ていると知る。

そうと知った時には運命はほとんど決まっているだろう。

どろりとした焦げ茶色の液体がこちらに押し寄せてくる。のっそりと、ありえないほど遅く。

……しかしそれは、液体の塊があまりに大きすぎるが故の錯視だ。実際にはそれはとてつもない速度で押し寄せていて、すぐさま轟音とともに俺たちの身体をすっぽりと飲み込み、攫ってしまう。

焦げ茶色に塗りたくられる金色の世界——だが、世界の終末のような洪水に見舞われてもなお、金色の世界は輝き続けていた……。

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以上。

これが、僕がブラックノワールを食べた際の感想である。

もちろん褒めていて、まあ一言で言えば『信じられないほどおいしい』となるだろう。味そのものについて語れば語るほど陳腐になる気がしたので、このような表現にさせてもらった。

「めっちゃおいしい……」

隣のぼたもちは、ほとんど泣きそうな様子でシンプルにそう漏らした。気持ちはわかる。男だって甘いものを堪能したいのだ。

「お二人とも気に入ってくれたみたいで、良かったです」

本当に嬉しそうににっこりと幼女が微笑む。

稿に行き詰まったら、よくこれを食べに来るんです」

「——あ」

原稿というワードで思い出した。

……そろそろ本題に入るか。俺はバッグの中から本を一冊取り出して、幼女の前に差し出す。

「俺たちの本、ぜひもらってください」

「あっ、いえ……もらうのは申し訳ないので——」

すると、幼女もまたワインレッドの手提げバッグの中を漁り始める。

「あっ、お金はいいですよ」

俺が慌てて言うと「いいえ」と幼女は首を振る。

彼女が取り出したのは財布ではなく、一冊の本だった。

「お金じゃなくて……これ、私たちがこの前のイベントで出した小説本です」

「……あっ」

そうだよな。見た目もギャルだし、こうしてクメダコーヒーで会ってるから忘れそうになってたけど、幼女も同人活動をしていて、同じイベントで本を出してたんだよな。

しかも……小説本と言ったか?

差し出された本を見ると、A5サイズの本の表紙にはアニメ『女神ラブ!』の主要キャラの内の二人——なみおんのイラストが描かれていた。

「この絵を幼女さんが? しかも、ほ、ほなりお……!」

俺がこよなく愛するカップリングそのものじゃないか。

……

ほとんど希少種だと思っていたカップリングが、今、目の前にある。

それだけで、俺は嬉しかった。幸せだった。寿命が延びた。

「そう。ほなりおなんです。どうですか? 興味湧きました?」

無邪気な笑顔で問うた幼女のことが、一気に身近に感じた。

身なりは異質でも、俺と幼女は魂で繋がっている——ソウルメイトだったのだ。

そうだ。この感覚はたまらない。同士を見つけた時の、この胸の高鳴りは、他ではちょっと味わえない。

「ええ、もちろんです!」

俺は首が折れるほど頷いた。

「ちなみに、私は小説を書いています」

訊ねると、幼女は少しだけ腰を浮かせて、こちらに見えやすいように表紙を指差した。

その一瞬、豊かな胸の揺れに視線を奪われるが、すぐに邪念を振り払う。

幼女の指し示した先を見ると、そこには確かに『著:幼女』の文字があった。

小説を書いているのか。よりソウルメイト感が強まった気がする。

でも、そうなると。

「じゃあ、このイラストは……?」

言いながら、視線を数センチスライドさせると——

そこには『イラスト:ミナミ』と記されていた。

「「え!?」」

俺とぼたもちの声が重なる。

「あのミナミが、この絵を……?」

より強く反応したのはぼたもちの方だった。

「め、めっちゃ巧い……。原作のアニメ塗りにかなり近いけど、ちゃんと個性も出てる……すごいな……」

その言葉に幼女は自分のことのようにニンマリしていた。

「ええ。あの子はすごいんですよ。……でもまさかミナミ、自己紹介もしてなかったなんて……」

彼女は小さく溜め息をつく。「あとで言って聞かせます」

「いえ、いいんですよ。知れて良かったです」

「そうですよ。しかし、本当に巧いな……」

俺たちがそれぞれの反応を返すと、幼女はもう一度バッグに手を突っ込んだ。

取り出したのは、同じ本だった。

「ちょうど二部あるので、お二人にぜひ受け取って欲しいです。交換にしませんか?」

「いいですね。ぼたもちもいいよな?」

「もちろん」

幼女の申し出に同意して、俺も自分の本をもう一部取り出す。

「じゃあ……」

「ええ」

あとは分かるな? とばかりに言葉少なに俺と幼女は立ち上がり、会釈をしながら互いの小説本を交換した。

まるでサラリーマンが名刺交換をするシーンのような、厳かな雰囲気だったのが妙に可笑しかったが、俺たちは至って真面目だった。


『作品は作家の名刺である』という言葉をどこかで聞いたことがあったが、今この瞬間は、その言葉を象徴しているなと感じた。

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