家族、そして私について

らうのうた

第1話

「お前なんか、人間ちゃうわ」

 深夜、病院の廊下だった。私より4つ年上の長女、美佐に怒鳴りつけられた。その声は細長く伸びる廊下に響き渡った。軽い貧血で冷たい床に倒れ込んでいだ私は、その声に驚いてすぐに意識を取り戻した。見上げると、美佐は恐ろしい憎悪の瞳で私を睨みつけていた。人間の衣装をまとった悪魔に見えた。そんな怒声を荒げる美佐こそ人間じゃない、と私は思った。

 それは1994年の正月明け、底冷えのする本当に寒い夜のことだった。その前の年の年末に奈良・橿原のK病院に呼吸困難で緊急搬送された母は、年が明けてから父の友人が院長を務める大阪・生野の内環状線に面するS病院に転院した。その病院の5階、集中治療室の前を細長く伸びる薄暗い廊下、そこに母以外の家族がそれぞれのその先に対する何らかの漠然とした不安を胸に抱えたまま、一所に集まって立ち尽くしていた時のことだった。

 美佐の発したその怒声に対して、そばにいた父、清一も、私より2つ年上の次女、由美子も一言も発しなかった。微かに、ほんの一瞬、その表情を曇らせただけだった。そしてすぐに二人とも、何事もなかったような顔に戻った。私は、特に家族の誰かから何か柔らかな同情の言葉を求めていたわけではなかった。が、誰も私に向かってたった一言も声をかけてくれなかったことに、私はひどく孤独を覚えた。それまでに一度も味わったことのないような心寒々しい孤独だった。意識を取り戻した私はすぐに立ち上がった。まだ少し揺れている瞳に映った天井の蛍光灯の青白い光が冷たかった。そのせいで余計に心寒々しい孤独を感じたのかもしれなかった。

 だが私は、美佐に対して一切反撃には出なかった。その理由は二つあった。一つは、それまでの約1年もの間、ほぼ車椅子か、あるいは介護ベッドで寝たきりの生活をずっと強いられた末に救急で運ばれ、そして転院してから処置を受け、そのまま集中治療室のベッドに横たわる母のことを思うと、とてもそんな気にはならなかったからだ。そしてもう一つは、生まれてからその日を迎えるまで母が頻繁に口にしていた言葉が、その時までにもう25年も生きていると、すでに私の血となり、身となり、骨となり、・・・、そう、私というものを形成していたからだ。

「幸治、いずれ幸治も大人になるやろ。大人になればいろんな人に出会うもんや。お父さんやお母さんはな、幸治らよりも先に死んでしまうんやからな。せやから、姉弟、常日頃から仲良うせなあかんよ。出会う人はええ人ばかりやないで。悪い人もぎょうさんおるんよ。せやけどな、幸治、姉弟だけはな、絶対に足元すくったりとか裏切るようなことはせえへんから・・・。姉弟同士はな、いつまでも大切に思い合って、そして協力し合って一緒に仲良く生きていくもんなんやで。最後に頼りになるのはな、家族、そして特に姉弟なんやで・・・」

 母、一子は私が幼かった頃から、頻繁にこの言葉を繰り返し子供たちに聞かせていた。本当にただそう願っていたのだろう。そして気がつけば、ついこの言葉を口にしていたのだろう。この言葉を口にする時の母の表情には、家族に対して自然と溢れ出す愛情、家族とともに日々を無事に過ごせていることに対する感謝、まだ見ぬ子供たちの将来の姿に対する夢のような期待など、いろんな感情の混ざり合ったものがうっとりとするほどに満ち満ちていた。まだ私が幼くてまだ母が元気だった頃はいつも、あぁ、またあの話が始まった、と思いながらも、それでも母のそんな表情をチラチラと盗み見ながら母の話に耳にしていると、何か温かいものが全身に広がっていくような、そんな幸福感に満たされたものだった。母がこの言葉を口にする度、私は何かこそば痒いものを感じながらも、心の中ではいつも深く頷いていた。

 その夜の私は、心身ともに疲労の限界附近にいた。すでに嫁に出ていた美佐を除いての、父、由美子、そして私3人での母の介護を中心とした生活が始まってからその日が来るまで約8か月間、それは気の休まることのない時間だった。それでもどうにか持ちこたえることができていたのは、病に冒されてからの母はいつもその悔しさに苛まれながらの日々を送ってはいたものの、そのほとんど毎日、ほんのたわいのない話から大切な話に至るまで、何らかの心ある会話を母と私との間で交わすことができていたからであった。弱っていく母に私が勇気を与える以上に、私は母からいつも大きな愛情を頂戴して、気の休まることのない時間を乗り越えていくことができていた。

「人様に可愛がられる大人になりや」

「人様の前に出るときはな、身なりは綺麗にせなあかんよ」

「身につけるもの、ひとつだけでええ、例えば腕時計とか、ほんまにええものをひとつだけ付けるんがええんやで」

「男はな、年に一度だけええ格好するくらいが一番格好ええ、それ以外は汗まみれで働いてるんがほんまに格好ええんやで」

「賭け事だけはしたらあかんよ」

「お酒は飲んでもかめへんけど、みっともないほどに酔っ払うのは情けないことやで」

「男はな、べらべら喋らんといつもニコニコしてるだけがええんやで」「・・・・・・」

 母は、いつもゆっくりと丁寧に言葉を選びながら話す人で、か細い綺麗な声の持ち主だった。いくら日々に疲れていても、母のそばでゆったりとした母の語り口調、そして綺麗な声を聞いているだけで、いつもそれは夢心地の時間だった。母と話していると日々の疲れは、まるで霧が風にさっと流されてどこかに消えていくような速さで、いつもあっという間に忘れていた。

 私も、できるだけ仕事であったことをおもしろおかしく母に話して聞かせた。本当は仕事自体、苦しみの連続だった。バブル経済もはじけ、納品先のどこにお邪魔しても担当者の誰もがギスギスしていた。いつも胃のほうがキュンと痛んだ。それでも日々の出来事の中から、何か母との会話のムードが朗らかになるようなものを選んでは母に話して聞かせた。母は恐らく、そんな私の精一杯の話題選びについては気づいていたことだろう。そして母は恐らく、仕事に苦心する私の気苦労をすっかり見抜いていたことだろう。それでも決して心配している素振りなど一切見せず、母はそうか、そうかと相槌を打ちながら、ただ静かに微笑んで私の話を嬉しそうに聞いてくれるのだった。

 母もどうにか病に打ち勝とうと必死だった。私もどうにか社会に馴染もうと必死だった。お互いにそんな毎日でも、仕事を終えて家に帰って母のそばにいくと、お互いの必死の中に何が何でも深刻なムードだけは持ち込まない、そんな母の強い意志がいつも感じられた。深刻な顔して眉間にシワを寄せて何になる、ニコニコしながら生こうじゃないか。あの柔らかな微笑みの裏側に母は誰よりも、そのような生に対する静かながら強い意志、そして密やかながら熱い願いを、人知れずにこっそりと隠し持っていたように思う。

 だが転院したS病院で、母は不本意にも体中にたくさんの管を刺され、胃に直接管を通され、切開された喉に呼吸器を繋がれ、そのために体の自由は一切奪われ、そして何よりも悲しいことにその「声」を失った。母はその日突然、家族と「声」を使って思うままに思いを伝え合う術を奪われてしまった。集中治療室のガラスの向こうに横たわる母は、たったその日一日の転院、その後の処置のうちにやつれていた頬が更にまたやつれこけて、そんな姿のままに「声」を失った悔しさのあまりずっと泣いていた。そして、泣きはらした真っ赤な瞳を大きく見開いて、ガラスのこちらの私たちを憎むように睨んでいた。その涙で真っ赤な怒りのこもった瞳で、「なんでお母さんの体に穴なんか開けたんや。誰もこうしてくれなんて頼んでないのに・・・。こんな機械に繋がれてみんなに迷惑かけてまで生きたないわ」と叫び訴えているようだった。とてもじゃないが、そんな母の姿はじっとは見ていられなかった。

 その日のうちに母の身に起きたこと、それらすべては私の頭で整理できる速さを軽々と飛び越えていた。そのせいで、母に対する医師の無機質な処置がすべて済んで夜を迎えた頃には、もう私は疲れと動揺にやられてフラフラになっていた。家族の誰もがそうだったに違いない。しかし、そんなに目まぐるしく過ぎ去ったその日に、母が「声」をなくしたその日に、子供たちの中で母と一番長く時間を共にした長女の美佐は、あの廊下で一体何を思い、どんな神経であのような怒声を発したのだろうか。まさか美佐は、子供の頃から一度も母のあの願いのような言葉を聞いたことがないとでも言うのだろうか。そんなことは決してありえないことだった。やはりあれが美佐という人間の本性で、ただ私が知らなかった部分をたまたまその夜、初めて目にしただけのことだったのだろうか。

 その夜の事件以降、私の中でどうにか保ち続けてきた心身のギリギリの均衡は端の方からジリジリと崩れ始めた。

 その夜、初めて私は、それまでどれだけ私は母に守られてきたかということを痛感した。それと同時に、まだ母が元気だった頃の、家族全員が揃った時のあの何とも言えない朗らかで夢心地のような温かな安らぎは、母が家族の中心に立って守り抜いてきたものだったんだということを思い知った。

 

 人は、いつもそこにある幸せというものは、いつもそこにあるうちは気づかない。なくしそうにならなければければ気づかない。なくしそうになって初めて慌てる。そして結局はなくす。そして腑抜けたように項垂れる。次こそは気をつけようと胸に誓う。それでもまた慌てた末に項垂れる。そんなことを何千回、何万回繰り返しても、やはり人は、いつもそこにある幸せというものは、いつもそこにあるうちは気づかない。人の一生のうちに、この愚かさはほとんど改善されることはない。心しないで過ごしていると、本当にこの愚かさは改善されることはない。私たちの世代は、前世代より、3世代前より、10世代前よりは少しはマシになっただろうか。私たちの50世代後輩は、私たち世代より少しはマシになるのだろうか。世代を積み上げることでしか、この愚かさは改善されることがないんじゃないかと思う。そしてそのくらいの緩やかな改善、そして成長の歩みを、もし神様がいるなら私たちはそう望まれているんじゃないだろうかとも思う。人はどうやら生きているうちに何かを満足に成し得ようと急ぎすぎて、大切な何かのほとんどをなくし続けているんじゃないだろうか。大切な何か、それは母の胸にいつも自然に湧き出しているもので、「どうぞ周りに惑わされないで、そばにある幸せのことを忘れないでいてください。そしてその幸せが土台となって未来が築かれていくのです。そして繋がっていくのですよ」という命の願い。


 廊下にいても私たちには何かできるわけでもないのに、母が処置された直後ということで誰かが交代で家に帰って休むという気持ちにもなれず、私たちはそのまま立ち尽くしているしかなかった。その廊下では、私たちがその場所に陣取る前と同じ空気が何事もなかったように留まっていた。しかし私の心の中だけは違っていた。暴風が人知れず激しく吹き乱れ続けていた。暴風に煽られるままに、私はふとこんなことを思った。「母がこんなこととなって、もうこれまでの母のように家族のことだけをただ思って思いを伝え、中心に立って家族の朗らかで温かなムードを守る人なんて、もうこの廊下にいる4人の中には誰一人いないんじゃないか」。私はこっそりと盗み見るように、父とふたりの姉たちの様子を覗った。私にはそばにいる家族が、いつでも思うままに思ったことを口に出し、そして行動に移してやるぞという、そんな冷酷な顔をしているように映った。実際には誰もそんなことを思っていなかったのかもしれない。だが、心吹き荒れる私の瞳にはそんなふうに映った。そばにいる家族からは、母がひたすら家族を守り抜いてきた時代の朗らかさや温もりは一切感じられず、廊下の天井の蛍光灯のような、チリチリと細く刺してくるような苛立たしさと薄ら冷たさが滲み出ているようだった。私はビクビクと一人震えていた。それでも体裁を保ちながら、どうにかそこに留まっていた。

 結局その廊下で、家族から私に向けて、大丈夫か、というたった一言さえも届けられることはなかった。

 美佐の事件から小1時間ほどが経った頃だった。由美子が突如、私の顔を数秒じっと覗き込んだ。そして本当に邪魔くさそうな、そして苛立ちを隠しきれない表情を顔に浮かべたまま、

「こんな大変な時に何を青白い顔してるの・・・」

 とだけ小声で吐き捨てるように言った。美佐に続く攻撃が始まったと思った。突然の不意打ちだった。胸が苦しくなった。目眩がして視界が霞んだ。蛍光灯の光がさらに冷たく、そして刺々しくなって皮膚に刺さった気がした。しかしその後すぐに、美佐の事件の時と同じように誰も何も言わないまま、また何もなかったようにダラダラとひんやりとした無音の時間が流れ出した。

 明け方にようやく、普段から無口でほとんど何を考えているのかわからない父が口を開いた。

「幸治、明日も配達あるやろ。ここにおっても今はどうすることもでけへんからな、家に帰って少し休んで、それから会社へ行け」

 私はその8か月前、1993年4月から父の会社に就職していた。従業員十数名の小さな町工場だった。父の会社は、その病院から車で30分くらいのところに位置する八尾空港の南脇にあった。父がそう口にしたのは朝の5時くらいだっただろうか。病院のある生野から平野、藤井寺、そして県境を跨いですぐの奈良の香芝にある実家に帰るには小1時間かかる。そしてそこから出社するのに通勤ラッシュに揉まれてまた小1時間。家に帰るなんてことをすれば、家でゴソゴソと動いているうちに横たわる時間も取れないままに、ただ車を運転するだけで終わってしまう。それならばもうそのまま会社に向かって、会社の2階の事務所奥の応接室のソファで始業の時刻まで少しでも横になる方がいいと私は考えた。私は一人家族に背を向けて、薄暗い廊下を抜けてエレベーターに向かった。ほんの数歩足を運んで家族から離れただけで、全身の緊張が一気に解けていくのがわかった。家族のそばで立ち尽くした数時間は、自分で思っていたよりももっと激しく、脳みそから、筋肉から、血管から、神経から、爪に至るまで体中のどこもかしこも緊張して、ずっと固まったままでいたようだった。それが一気に解け出したのがよくわかった。エレベーターで1階まで降りて、薄暗い通路を抜けて外へ出て、そこで一度大きく背伸びをした。そして車へと歩き出した。朝日が顔を出す少し前だった。良く晴れた放射冷却の朝だった。目にした街の景色がすべて凍てついていた。白い息を吐きながら車のそばまで来ると、フロントガラスが凍りついていた。エンジンをかけ、ガラスの表面の氷の膜が溶けるのを待ちながら、外で震えながらゆっくりとタバコを吸った。その後、冷え切った車中に乗り込んで運転席に身を沈めて、凍えながら氷が溶けるのをもうしばらく待った。すると不意に、昨夜の美佐の怒声が背後から私を襲ってきた。やはり、母とともに何十年も生きてきた人間が発することのできる言葉だとは思えなかった。ただ悲しかった。信じられなかった。美佐のことを憎む、恨むというところにまでもたどり着けないほどに、本当にただ悲しくて、本当にただ信じられなかった。一言も美佐に対して反撃に出ずに終始無言を貫いたことは、母の息子として自分を褒めてあげたかった。しかしそうは思っても、その誇らしさと悲しみや不信とは、心の中で別々の場所に存在しているようで、いくら昨夜の自分を自賛したところで悲しみが癒えるものでもなく、不信は拭えるものでもなかった。悲しみも不信も、昨夜のうちにしっかりと心の奥深くの別場所に貼り付いてしまったようだった。

 会社に到着した。とにかく腹が減っていた。温かいものが欲しかった。会社へ車を走らせる途中、コンビニの脇を何度も通り過ぎたのに、心穏やかでないままぼんやりと車を走らせてきたものだから、何かおにぎり一つでも買おうなんて、思いつきもしなかった。事務所脇の自動販売機で、缶入りのコーンスープが売られていた。私はそれを買って、そしてそれを一気に飲み干した。なんの腹の足しにもならなかったが、ほんの一瞬その時だけ少し温もった気がした。もうすっかり朝が訪れていた。ふと見上げた八尾空港の上に広がる広い空、その空の朝焼けのオレンジ色さえも凍りついているように見えた。事務所へと続く階段前の鉄の扉の鍵を開けて階段を上り、2階の事務所奥の応接室に向かった。その冬一番の冷え込みだったのかもしれない。6畳ほどの応接室に入ると、すぐにストーブに火を入れてエアコンを最強にした。しかし、しばらくしても一向に室温は上がらず、とても安心して横なれるほどまでにはならなかった。しばらくはストーブにへばりついていたが埒があかず、私は1階の工場内の、一体どこから仕入れてくるのか分からないが、ウエス(工場の現場の床を拭くためのボロ布)が積み上げられている場所に向かった。ウエスの山を引っ掻き回すと、埃まみれの、一体かつては誰が使ったのかもわからない、そんなヨレたボロボロの毛布が一枚見つかった。助かったと思った。それを脇に抱えてまた応接室に向かった。ソファに横たわって、少しの隙間もできないようにきつくボロ毛布を体に巻きつけて、臭い毛布の臭いに苛立ちながらブルブルと震えているうちに、しばしの眠りに落ちた。

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