第24話 わたしの初めてをあげようと思って


 光文17年5月27日。

 ぐもしお中将率いる第一航空艦隊が柱島泊地を出撃する、その日が遂にやってきた。

 金色の御紋章を艦首にきらめかせた巨艦群は揃って外洋に舳先を向け、ばつびょうの時を待つ。

 艦隊旗艦・空母赤城の飛行甲板には一航艦全艦載機の搭乗員が集まり、左舷艦橋に立つ参謀長くさ鹿みねから出撃前の訓示を受けていた。


「本作戦は連合艦隊が全勢力を結集して行う! 参加艦艇250隻、艦載機1000機、参加将兵10万人! 世界海戦史上例のない大作戦だ! 一番槍の栄誉は、この第一航空艦隊に与えられた! 敵に発見されることなく作戦海域に到達しミッドウェー島を空襲、所在敵航空兵力及び基地施設を覆滅ふくめつし、後続の攻略部隊を支援する! 最精鋭であるキミ達の勝利を、ボクは微塵も疑わない!」


 宝塚の貴公子役は外見だけでは無かった。

 舞台の上で台詞を吟じるが如きアルトの美声が、朗々と響く。

 洋平は整列の最後さいこうで、手すりの無い飛行甲板から下に落ちやしないか風が吹くたびひやひやしつつ耳を傾けていた。

 本当なら洋平も艦隊幕僚の一員として艦橋の側に立てるのだが、男性恐怖症だという南雲に遠慮したためだ。

 その南雲は訓示を草鹿に代行させて、自身は風にひるがえる草鹿のマントの裾を不安げに握り締めている。さっき一瞬目が合った時明らかにびくっ! とさせてしまったから、洋平はなるべく南雲に視線を向けないよう注意して訓示を聞かねばならなかった。


「敵の通信を傍受したところによれば、ミッドウェー島では真水が不足しているそうだ。そこでボク達は、占領して新たに葦原の領土となるこの島を水無みなづき島と名付けることにした。今回の遠征には占領後の行政施行のために郵便局長さんも同行して下さる。水無月島記念切手が欲しい者は前もって予約しておくように!」


 艦橋に並ぶ艦隊幕僚の中で特に小柄な1人、二航戦司令官の楠木くすのき多恵たえが呆れたように首を横に振るのが見えた。

 水が無いからじゃなく、正しくは攻略時期が6月だから水無月島なのだ。

 いや、その間違いが問題なのではない。戦う前から既に勝った気でいる、この圧倒的慢心感。フラグを建てまくっていることに気付かないのか? そんなところだろう。洋平も全く同感だ。そして、敵機動部隊との交戦という作戦の最重要課題は、ことここに及んでも草鹿の頭には入っていない。


 参謀長とは対照的に、甲板に整列したパイロットの少女達は一様に張り詰めた表情だった。

 洋平は、一航戦そして二航戦の熟練搭乗員達をこの日初めて目にした。

 横須賀で会った納見美凪のように相貌が鋭いだけではない。年齢相応の幼さなど皆無で、男の洋平が混じっていることにも少しも動じない。猛訓練と実戦で鍛え抜かれた一軍の風格だ。

 洋平が元の世界で読んだ何かの本には、緒戦の連勝に酔って皆気が緩み、二軍の五航戦でもレキシントンを沈められたのだから自分達なら楽勝だと豪語していたなどと書いてあったが、彼女達にそんな様子はまるで感じられなかった。

 草鹿が最精鋭と頼る彼女達とて、戦いのたび戦死者は確実に出ているのだ。

 どれだけ神業の操縦技能を誇ろうと皆で敵に肉薄すれば対空砲火は確率論的に誰かに当たるし、葦原機は航続距離と機動性を得るため防弾を犠牲にしている。

 実際に空の戦場で数多あまたの死線を潜り戦友の最期を看取ってきた彼女達こそ、この戦争の本当の厳しさを最も強く感じていたとしても不思議ではない。


「……以上だ! よく勇戦奮闘ゆうせんふんとうして使命を全うし、もって一億国民の負託に応えよ!」


 草鹿が勇ましい訓示を終えようとした時だった。

 白マントの肩に、背後からぽんと手が置かれた。


「峰ちゃん、わたしからも少しいいかな」


「山本長官っ?」


 草鹿が柄にも無く声を裏返らせる。

 洋平も驚いた。いつの間に乗艦していたのか、大和にいるはずの山本五十子が、そこにいた。

 草鹿と南雲が道を譲り、代わって五十子が皆の前に進み出る。


「うわあ、風強い。あー、あー、一番後ろの子まで、わたしの声届いてる? そこの左目の下にホクロがある子、そう、君、わたしの声が聞こえてたら手を挙げて! よしっ、聞こえてるね!」


 第一声がそれだった。

 洋平の2つ隣、つまり最後尾に立つ搭乗員が、手を挙げながら目を白黒させている。

 空の精鋭をして驚嘆させる程の視力の持ち主は、にっこり微笑んで再び口を開いた。


「一航艦のみんな、いつもありがとう。久しぶりの休暇で上陸した葦原の様子はどうだった? わたしは甘味処に行ったら、お店が休業になってて残念でした」


 張り詰めていた搭乗員達の顔が、初めて少し綻んだ。

 だが五十子は反対に微笑みを消して、表情を引き締める。


「今、誰も彼もが、この戦争で辛い思いをしてる。人々を本当の笑顔にするためにわたしたちにできることは何か、わたしなりに考えて出した答え。それがこのミッドウェー作戦なの」


 整列する艦載機搭乗員、およそ400人はいるだろう。飛行甲板を埋める少女達1人1人の顔を目に焼き付けようとするかのように、五十子はゆっくりと視線を動かしながら、


「……厳しい戦いになると思う。これまでもそうだったように、みんなが生きて帰れるとは約束できない」


 そう言って、五十子は皆に深く頭を下げた。

 草鹿が眉をひそめている。

 戦いで死人が出るのは当たり前。普通の将なら、出撃前に兵の士気を下げかねないことを敢えて言ったりはしないだろう。草鹿の訓示の方が模範的なのだ。

 洋平がそう思った矢先、五十子は顔を上げ、静かに告げた。


「でも、これだけは約束する。わたしは誰一人、最後まで見捨てない。無駄死にさせない。わたしたちは全員で、この国に笑顔を取り戻すんだ」


 その声は決して大きくはなかったのに、甲板を吹き続ける風を圧して皆の耳に届いた。

 それは言葉ではなく意思だった。

 何者にも屈しない、五十子の意思。

 五十子の信念。


「仲間のために。家族のために。わたしたちを信じて待ってくれている大勢の人達のために。そしてわたしたち自身の未来のために。この戦いに勝って、そして、戦争を終わらせよう!」


 声にならないどよめきが、飛行甲板を揺さぶった。

 草鹿はあっけにとられた様子だったが、我に返って踵を合わせる。


「連合艦隊司令長官に、敬礼!」


 洋平が、全員が、間髪を入れずに敬礼する。

 五十子は微笑んで、鮮やかな答礼を返した。




 搭乗員達が解散した後、五十子とともに見知った顔の少女が2人、洋平のところへやってきた。そのうち背の高い方が長いポニーテールを揺らしながら、片頬に意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「おう久しぶりだな源葉! また幼女に手ぇ出したりしてねえか見に来てやったぜ!」

「出してないからね、一度も! いきなり大声で何言って……」


 時既に遅く、少し離れたところにいた南雲が泡を吹いて卒倒しかけ、抱きとめた草鹿が「汐里さん、逆に考えるんだ! 汐里さんは年長だから奴のアウトレンジだって考えるんだ!」と有難いフォローをしてくれている。

 確信犯的なにやにや笑いをする束に恨みのこもった目を向けた洋平は、


「……あれ? 束さん、その手どうしたんですか」


 右手の甲に包帯が巻かれているのに気付いて指摘した途端、束は何故か舌打ちしそっぽを向いた。


「大したことねえよ。ちょっと擦り剥いただけなのに軍医が大袈裟でよ。んなことより!」

「があああ折れるう!」


 唐突に腕を捻られ、情けない悲鳴を上げてしまう。井上成実といい、海軍乙女という人種は何故こうも乙女らしからぬ腕力を発揮できるのだろう。ちょっとでも心配して損した。


「前から言おうと思ってたんだが、てめえの敬礼は陸軍式っぽいぞ。大和を降りても、てめえが連合艦隊司令部付の参謀であることに変わりはねえんだ、あたし達に恥かかせんじゃねえ。いいか、脇をしめて肘は横に張るな。海軍は狭い艦艇内で敬礼するからな。手のひらは内側にして相手から隠せ。これは帆船時代、ロープについたタールで汚れた手を見せないっつう伝統があってだな、」


「あー、普段部下から敬礼されても答礼さぼってる人がなんか言ってますよお」


 束に羽交い絞めにされての粗暴極まりない敬礼レクチャーの途中に、ふわふわした声が被さった。声の主、渡辺寿子が束と洋平の中間に割り込んでくる。


「そもそも宇垣参謀長、まともに軍帽被ったことないですよねえ。無帽の時はお辞儀をするのが実は正しい敬礼だってことご存知ですかあ? 嫌ですねえ知ったかぶりは」


「お辞儀だと? それじゃ民間人の挨拶と区別つかねえだろ。挙手の礼の方が軍隊らしくて場が引き締まるから敬礼すなわち挙手の礼なんだよ、いい加減にしろ!」


「あはは……わたしは、気持ちが伝わるのが大事かなって」


 そして最後には五十子が仲裁して、束が頭をかいて、寿子が笑う。他愛も無いやり取り。

 洋平が大和にいたのはほんの数日前までで五十子達とは毎日顔を合わせていたはずなのに、今はもの凄く久しぶりに思えて、そしてこみ上げてくるものがあった。

 決心が、揺らぎそうになる。


「……洋平君?」


 五十子が首を傾げている。


「いや、みんなが来てくれるとは思わなくて……うわっ」


 声を詰まらせる洋平に、寿子が横から飛びついてきて転びそうになる。


「もおっ、水臭いですよお未来人さん! 宇垣参謀長が言った通り、未来人さんはどこへ行っても連合艦隊司令部の参謀なんですからねえ。何も言わずにいきなり出て行っちゃうなんて、私正直ちょっと怒ってますよお」

「ご、ごめん」

「で、どうでしたかあ峰×汐は? どこまでいってるとこ見ましたか? 写真は?」

「いやあ、それがまだ全然見れてなくてさー……じゃないよ! 全く……そういえば、亀子さんは?」


 遅まきながら、メンバーが1人足りていないことに気付く。いても寝ていることが多いから違和感無く会話していた。寿子が眉根を寄せる。


「それが……黒島参謀、一昨日ぐらいから誰も見てないんですよお」

「えっ、それどういうこと?」

「私が訊きたいですよお。最初はいつもみたく部屋に引きこもってるんだろうと思って気にしなかったんですけどお、扉の前に置いた食事が減ってないって従兵達が騒ぎ出して、それで、さっきここへ来る前に部屋を開けたらいなくて……未来人さん、何か心当たりとかないですよねえ?」

「うーん……大和の艦内って、迷子で行方不明になっても不思議じゃないくらい広くて複雑だからなあ。亀子さん寝ぼけてる時夢遊病状態だし……海に落ちたとかだったら洒落にならないな」

「そんな、源葉じゃねえんだからよ」


 束が茶化したが、寿子の顔は深刻なままだった。


「困りましたあ、大和も2日後には出撃なのに……それに黒島参謀が立案した、二式大艇を真珠湾に飛ばして事前に敵情を偵察する作戦が、予定通りにできてないらしくて……」

「あー、亀子さんが寝言でぶつぶつ呟いてたあれ」

「他にも、黒島参謀の計画ではもうとっくにハワイの周りに引き終わってないといけない哨戒線が、アフリカ沖や豪州沖に遠征してる潜水艦の帰りが遅れてて間に合ってなかったり……」

「あー……いくら潜水艦が足りてないとはいえ、アフリカや豪州の任務から帰ってくる艦をそのままミッドウェーに投入とか、計画の時点でブラック過ぎたね」


 島だけに、とは流石に言わない。


「もお、どうしたらいいんでしょう! 敵艦隊の所在がわからない中で作戦を予定通り進めていいのか、黒島参謀の意見を聞きたいのに! もし敵の空母がハワイにいなかったら、この作戦は燃料を無駄遣いするだけの完全な徒労に終わっちゃいますよお!」


 頭を抱える寿子の肩に、洋平はそっと手を置く。

 少なくとも、今彼女がしている心配は杞憂だ。


「大丈夫。敵情偵察や潜水艦の哨戒線が間に合わないのは、僕の知ってる史実通りだ。敵の空母は必ずミッドウェーに現れる。良くも悪くも、徒労に終わることは無いよ」


 洋平の言葉に安堵する寿子の後ろで、五十子が目を細くする。束がふんと鼻を鳴らした。


「まあ、てめえには大して期待してねえ。ここではせいぜい南雲達と上手くやれよ」


 あれ、こないだまでは励ますようなことを言ってくれてたのに、今日は冷たい。


「南雲さん達とは、さっき束さんがしたデマ発言のせいで上手くやるのが一段と難しくなった気がするんですが……あ、多恵さんには挨拶していかないんですか? まだあっちにいますよ」


 言って視線を動かしてから、少し後悔した。

 楠木多恵は甲板の端で、4人の海軍乙女と打ち合わせをしていた。蒼龍艦長のやなぎもと大佐と飛龍艦長の加来かく大佐、蒼龍艦爆隊隊長のぐさ少佐、それに飛龍艦攻隊隊長の友永ともなが大尉。多恵の率いる二航戦の幹部達だ。

 真剣に聞き入る4人に、多恵は激しい身振り手振りで何かを指示している。険しい顔付きで、焼き鳥を頬張っていた時とはまるで別人だ。こちらの存在には全く気付いていないし、気軽に声をかけられそうな雰囲気ではなかった。

 束は突っ立ってしばらくの間その光景を眺めていたが、やがて小さくかぶりを振ると、きびすを返した。


「じゃあな。……おい渡辺、帰るぞ」

「あれえ、宇垣参謀長もう行っちゃうんですかあ? って、何するんです引っ張らないで下さい痛い痛い私まだ未来人さんと話が……未来人さんっ、戻ったら峰×汐レポよろしくですよおー!」


 束に強引に引き摺られて、寿子の声が遠ざかっていく。


「相変わらずだな、あの2人は……」


 溜め息混じりにそう呟いた洋平は、直後、背中に視線を感じて硬直した。

 恐る恐る振り返る。

 1人残った五十子が、洋平のことをじっと見詰めていた。思わず目を逸らしそうになるのを、ぐっと堪える。

 こうして五十子と向き合うのは、あの夜以来だ。2人きりになると、どうしてもあの夜あったことを思い出して気まずい。

 それだけが理由ではなかったが、連絡役として赤城に乗り込むことについても洋平は自分の口から言わず、井上成実に頼ってしまった。

 成実は既にアリューシャン作戦参加部隊を率い大湊を出航していて、彼女があの時具体的にどんな言葉で五十子を説得したかは知らない。結果として五十子は皆の前で快く了承してくれたばかりか渋る草鹿達の説得までやってくれたわけだが、五十子本人がどういう思いでいるかはずっと気になっていたことだった。

 あんな形で五十子のもとから去ったことを、怒っているかもしれない。


「あの、五十子さん……?」


 無言で洋平を見詰めていた五十子は、しかし不意にいたずらっぽく微笑むと、洋平の手を引いた。


「洋平君、こっち」


 誘われるまま、人気の無い艦橋裏へ回る。


「ここなら大丈夫かな? 誰かに見られてると、ちょっと恥ずかしいからね。……よし」


 五十子の意図がわからず、洋平は戸惑う。何が「よし」なのか。

 すると五十子は頬をほのかに赤く染め、次に紡がれた一言は洋平を未曾有のパニックに陥らせた。


「洋平君に、わたしの初めてをあげようと思って」


「……へ?」


 そんな間抜けな声が出てしまう。

 周囲に女子しかいないこの特殊な世界に来るまで、洋平は同年代の異性とあまり関わらず、例の一件もあってむしろ関わるのを避けていた。今でも男女共学はGHQの占領政策の中で最悪な置き土産の一つだったと信じて疑わない。

 だからこういう時どんなリアクションをすればいいか全くわからない。

 ごめん、今何か言った? とかか。

 いや、この距離で鈍感どんかん難聴なんちょうを演じるのは無理があり過ぎる。

 そもそも本当に今何て言った? ワタシノハジメテ? そういうのは普通もっと色んなステップを踏んだ先に出てくる台詞じゃないのか? 確かに五十子とはラムネの間接キスとか人工呼吸とかそれ以外にも色々あったけど、まだ心の準備が……


「目を閉じて……動いちゃダメだよ」


 声に絶対遵守の魔力でもあるのか、反射的に目を閉じてしまう。

 画面がブラックアウトした洋平の脳内司令部に、視覚が無くなったことでかえって鋭敏になった残りの感覚から接近警報が鳴り響く。酸素の供給が滞り、心臓の異常な鼓動が脳を揺さぶる。混乱の果てに唇が勝手に臨戦態勢に入ったその時、

 全く予期しない右肩と胸の上の第一ボタン付近で、何やらごそごそやる感触があった。


「……ふう、できた。自分以外の人に飾緒を付けてあげるのってやったことないから、変な風になっちゃってたらごめんね。えへへ、やっぱり恥ずかしいな」

「……しょくしょ?」


 目を開けて顔を下に向けると、身につけた海軍第二種軍装にさっきまでは無かった金色の飾緒が吊るされていた。

 五十子が中腰になって、指で微調整を加えている。


「うん。洋平君を参謀にしたのに、まだ参謀飾緒をあげてなかったなって。これはね、わたしが兵学校を卒業して第二艦隊の参謀になった時、第二艦隊の長官だったない先輩から頂いた初めての参謀飾緒なんだよ。米内先輩も、初めて参謀になった時にこれを上官の人から貰ったんだって。参謀でなくなってからはずっと付ける機会は無かったけど、わたしのお守りなんだ」


 あー……初めてってそういう意味だったのか。

 ヴェルタースオリジナル的な。

 って自分は何を期待していたんだ! 

 恥ずかしさで消えてしまいたくなりながら改めて見ると、確かに金ぴかな新品とは違い、いぶしをかけたような、くすんで渋みのあるがね色の飾緒だった。

 長い年月、それも大切に手入れをしていないと出せない色。

 浮ついていた頭が、急速に冷えていく。

 ……自分がこの飾緒を、受け取っちゃいけない。


「……ごめん。嬉しいけどこれ、五十子さんの大事な物だよね。僕なんかには」

「大事な物だからだよ!」


 唐突に、五十子が大きな声を出した。

 両手をぎゅっと握られ、洋平の言葉は途中で掻き消える。

 五十子自身、大きな声を出した自分に驚いたようだった。

 目を見開いてから、首を振って微笑む。


「本当はね、今でも反対。洋平君を、大和に連れて帰りたいよ」

「五十子さん……」

「でもね、成実ちゃんから聞いた! どうしても赤城ここで、試してみたいことがあるんだって? それが洋平君の決めたことなら、わたしにはもう何も言えないよ」


 頑固なのはわたしも同じだからねと、五十子は可愛く舌を出してみせた。


「一航艦のみんなを……ううん、わたしたちを守ってね、洋平君」


 五十子の手が、もう一度洋平の手を強く握り締めてから、身体ごと離れる。

 頭の白いリボンが、風に小さく揺れる。

 「帰ってきて」とも、「死なないで」とも言わなかった。言えるはずがない、彼女の立場では。しかし洋平は気付いてしまった。握った五十子の手が微かに震えていたことに。

 洋平が帰ってこなかったら、五十子はあの暗い部屋で、独りで泣くんだろうか。誰にも涙を見せることができずに、ただ独りで。

 五十子に言わなければならないことがあるはずだ。

 他の誰かに託すだけではなく、今ここで、洋平自身の口から。

 洋平は一度閉じた口を開いた。


「五十子さん」


「……はい」


 五十子が、居住まいを正した。大きな瞳が、洋平を真っ直ぐに見詰める。待ってくれている、洋平の言葉を。

 洋平は拳を固く握り、肺に空気を送り込み、声を出しかけて、そして、決定的なところで逡巡した。

 言えば、五十子は自分を行かせてくれなくなる。あるいは五十子の悲しみを、それだけ増やすことになる。

 言えば……弱い自分はきっと、今の決意を保てなくなる。

 時間だけが過ぎていく。逡巡の末に洋平が声に出したのは、当初言うつもりだったこととは全く別の事柄だった。


「……赤城は、大和と違って無線のアンテナが低いところにあるから、遠くからの電波は受信できるか怪しい。大和の通信設備は連合艦隊で一番優秀だ。だから、そっちで重要な情報を掴んだら、無線封止中であっても赤城に中継を頼む」


 戦術的な要請。

 自分の意気地の無さへの失望で、心が抉れる。

 五十子は瞬きをしてから、最上級の優しい笑顔で、大きく頷いた。


「わかった。必ずそうするよ」


「……ありがとう」


 そう呟くのが、精一杯だった。

 長官専用の内火艇が発動機を動かし、航跡を残して赤城の舷梯を離れていくのを、洋平は黙って見送るしかなかった。

 返すことができなかった胸の参謀飾緒が風に舞い上がり、我に返る。洋平は飾緒の先端の、鉛筆を模しているという部分に触れた。

 兵士は銃や剣を手に戦場で戦うが、参謀は鉛筆を手に、作戦で戦う。

 そうだ。まだ可燃物が残っていないか、防火態勢は万全か、艦内をもう一度くまなく見て回ろう。数日間しかなかったが、入渠しなくても出来る対策は残らず施したつもりだ。

 しかしラッタルを昇り舷門のところまで引き返した洋平は、そこに人が入れそうなくらい大きな木箱が置かれているのを発見した。

 五十子と一緒だった時に気付かなかったのはしょうがないとしても、少なくとも今朝の時点で見回りをした時は、こんな大きな箱は無かったはずだが……?


「そこにいたのか、占い師君!」

「あ、草鹿参謀長」


 草鹿峰が、肩を怒らせてこちらへ向かってくる。

 何やら洋平に対して腹を立てている様子だ。上官なので一応こちらから敬礼すると、そういう性分なのか立ち止まって律儀に答礼をしてから、


「赤城は間もなく出航する。そんな時だというのに、これは一体どういうことなんだ!」


 これ、と言って草鹿が指さしたのは、洋平が今正に問題視している木箱だ。


「いや、それはこっちが聞きたいというか……」

「キミに言われた通りボク達は燃えるかもしれない私物を全部降ろしたんだぞ、汐里さんとボクのダブルベッドまで! なのに、キミだけこんな大きな荷物を運び入れるとは何事だ!」

「僕の荷物? そんなはずは……」


 一緒に何か聞いてはいけないことまで耳に入ってしまった気がするが、今はそれどころではない。洋平の私物は全て大和の小堀一等水兵に預けて来たし、仮にそれが送られてきたのだとしても、こんな大荷物になるはずがない。


「しらばっくれるな、キミの名前がここにちゃんと書いてあるじゃないか! ほら!」


 草鹿が鼻息も荒く指さす箱表面に貼られた紙に顔を近付けると、確かに洋平の氏名が洋平の筆跡そっくりな字で書いてあった。

 ただし、『平洋葉源』と左右逆の横書きで。厳密には、横書きの左右が逆なのではない。この時代はそもそも横書きの様式が無く、縦書きが一文字毎に改行してあると解釈するのが正しくて……いや、それも今はどうでもいい。


「……草鹿参謀長、気のせいでしょうか。この箱、中から何か変な音が聞こえてくるんですが」

「なっ、何、音? 時限爆弾かっ? キミは男の癖に海が平気だしボクと一人称が被ってるし、前から敵の工作員なんじゃないかと疑ってたけど、この赤城の爆破が目的で乗り込んだのかっ!」

「爆弾に自分の名前書く工作員なんていないし、つうかどんだけ一人称根に持ってんだよ!」


 下らない言い争いをしつつも、2人で恐る恐る箱の表面に耳を押し当てる。


「しゅぴー……しゅぴー……」


 木箱の中から規則正しく聞こえていたのは、洋平もよく知っている人物特有のいびきだった。

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