第4話 程度の問題3

 現象は誰の目にも見えなかった。何が起こったのか、それを知っているのは少年と、魔族だけだった。

 捕らえていた少女が魔族を追いだしたときのように、魔族はびくりと大きく震えた。瞬間、その目から、口から鼻から耳から、体の内部が弾けたかのように、血を吹き出した。その飛沫に、真正面にいた奏は目を細める。そして同時にまた手を伸ばす――が、やはり届かない。再度止められた。腕を、掴まれてしまった。

「侮るな」

 血をぼたぼたと垂らしながら短く吐き捨てて、魔族は奏の腕を掴んだのとは反対の手を、彼の胸にあてた。それは正に死刑宣告の瞬間。相手は傷を追っているとは言え、奏自身もそれは変わりない。

 短い爆音。逃れられない距離で胸を突かれ、奏は音をたてて息を吸った。魔族が腕を離すと、血を吐きながら後ろに倒れ込む。口からも胸からも、どくどくと生々しい血を、夜の暗闇でどす黒く見える血を流して、動かなかった。

 足場を次々と切り崩され、いい加減に苛立ちはじめた魔族の、その後ろ――

「物事には限度ってものがあるんだって、言わなかったっけ?」

 玲瓏な声が、魔族の耳元で告げた。声の主は、魔族が振り向く前にその頭を掴んだ。そして口を開く。

 蓮は魔族の白い首筋に、獣のような鋭い牙をたてた。噛みつくなんて生易しいものではない。食らいつく。しぶきをあげて吹き出す血に顔を赤黒く染めながら、蓮は肉を食い破る。正に鬼の姿にふさわしく。常軌を逸した光を宿す、その金の瞳にふさわしい。

 魔族が悲鳴を上げた。怒りの慟哭だった

「おのれ、離せ……!」

 魔族は顔をしかめて蓮の手を掴む。だが、彼を引き剥がすことは出来なかった。

 倒れた奏が、口からぼたぼたと血を落としながら起きあがり、魔族の腹の少年へ手をのばしていたから。

 そして雅毅は、自身の力と、数々の抵抗ので消耗した魔族の腹から、手を伸ばした。血に濡れた手で奏がその手を握る。しっかりと掴んで、懇親の力を込めて手繰り寄せる。少年の肩が見え、体がずるりと引きずり出されてくる。

「おのれ……!」

 悔しげに魔族が声をあげる。

「離れろっ」

 それとほとんど同時、叫んだのは都雅だった。だが奏はそれ以上動けない。雅毅を庇うように抱え込んだまま、身動きとれないのを見て、蓮は大きく舌打ちをする。

「まったく、なんでこのぼくが、こんなに、力使わなきゃいけないんだっ!」

 悪態をつきながら蓮は、魔族の襟首を掴んだ。自分たちが離れるかわりに、魔族を空中に放り投げた。魔族はまた、虚空に消えようとする。だが、都雅の方が早かった。

 手を伸べて声を上げる。朗々と命じる。

「すべて形あるもの、形なきもの。

 すべて命あるもの、命なきもの。

 すべて名のあるもの、名もなきもの。

 我はここに命ず。ここに汝に命ず。

 我が力となりて、ここに来たりて――」

 それはこの世のすべて、ありとあらゆる存在に力を貸すようにと命じる呪文。

 まさに神さながらの、人としての枠を超えるとも言えるほどのもの。その技が悪魔の技と、「魔道」と言われる由縁。

「破壊せよ」

 対象を手で指し示す。

 都雅の声が命じた途端、一瞬時が止まったようだった。すさまじい光が弾ける。夜の闇を消し飛ばした光の中、空気がゆがむ。突然生み出された巨大な力に、脇へ押しやられた空気が豪風を巻き起こした。爆風が弾ける。

 力の塊は風を引き連れながら、魔族の方へ向かって空を翔けていく。吹き返す風に人々はその場に留まるのが精一杯だった。



「このバカっ。もうちょっと他人のこと考えて攻撃しろよっ」

 魔族の至近距離にいた蓮の抗議が聞こえる。爆風の名残に髪を遊ばせながらも、堂々と直立して腰に両手をあてて悪態をついていた。頭に角を生やした鬼の姿のまま、牙や唇から血をたらしたままなので、高飛車ぶりに磨きがかかっている。

「もうサイアクー。服が汚れたあ。奏、弁償してよねえ」

「だから、なんで俺が弁償しなきゃならないんだっつの」

「ぼくに不愉快な思いをさせたから」

「だからそれはタルトで手を打つって言っただろっ。この上なーんで、洋服まで」

「いい鴨だからに決まってるだろー?」

「ああっ。それが本気ならひどいっ」

 奏はげほげほと血を吐きながら、倒れて腕に雅毅を抱えたままで泣き真似をしていた。

 そんな彼らに構わず、都雅は上空を見上げる。天は暗く満点の星があり、月が白く冷たく輝いている。それだけだった。君臨していた闇そのもののような女性は消えていた。

 しかし、始めから力を失っていたとは言え、自分の内側から破壊されたとは言え、切り札だった雅毅を奪われたとは言え、目の前からいなくなったとは言え。

 倒したと考えていいものか。攻撃をよけられた様子はなかったし、間違いないはずだ。そして雅毅は取り戻せたのだから。これでいいはずだが。

 それなのにどうして……。どうして、こんなに違和感があるのだろう。まだ何かに圧迫されているような、閉じこめられたままのような息苦しさがある。結界が消えていない。

 都雅は違和感を拭えないままに、空を睨みつけていた目をそらした。奏の腕でぐったりとしている少年に近寄ろうとした、その向こうで叫ぶ声がした。

「みなさん、まだです!」

 運動場の隅、校舎の前に影が三つあった。都雅を援護した崇子がいて、その横に美佐子と菊が立っている。崇子を見ると、害意に敏感な彼女は厳しい表情をしていた。

 そして都雅が見ている中で、崇子が慌てて何かを唱えるのが聞こえた。けれども術が結ばれる前に、違和感の正体は、大きな存在感と共に現れる。

 足を止めて振り返っていた都雅の視線の先で空気を割いてそれが現れたのは、美佐子の目の前だった。この場にいて一番の弱者。少し引っかけるだけで死に絶えるもの。魔族の餌食となり得るもの。



「やめておけ」

 血にまみれた爪を掲げて鈍く光らせ、美佐子に襲いかかろうとしていた魔族は、その声に止まった。あちこちから血を流し、強固な意志だけで存在を続ける魔族は、手を止める。すべての動作をやめて振り返る。菊が美佐子を連れて避難したのを見送って、都雅は少しほっとする。魔族もそれに気づいていながら、追わなかった。

 振り返り、都雅を見る。

「なぜ、恐れぬ」

 疑問が魔族の口をついて出た。

 不思議でならなかった。そして何より許せなかった。彼女が都雅にこだわった理由は、傷をつけられたからでも敗走させられたからでもない。

 彼女は、人間などよりずっと希有な己の存在を自負している。力の差は明白で、人間など彼女にとって遊び道具でしかなかった。相手だって、それが分からないほどに馬鹿ではないはずなのに。

 脅威を感じてしまった。傷つけても苦しめても立ち上がってくる相手に、ほんの少しであろうとそんな感情を抱いてしまったことに、彼女は気がついていた。何をしても無駄な気がする……。それは、あってはならない事だった。ありえないことだ。

 強大な自分に決して屈しない相手に、恐怖を感じてしまった。それが何より、許せなかった。

 それなのに、都雅は簡単に答える。

「程度の問題だろう。お前よりも怖いものがあるだけだ」

 強大な存在が恐くないわけではない。人並みに恐怖を感じていると、彼女自身は思っている。けれども、都雅にとって「最も恐いもの」ではないだけ。

「あたしにとっては、生きていくことの方が、ずっと面倒な戦いだ」

 それがどうした、と言う声に、魔族は笑っていた。

「やはりお前はむしろ魔族だな。お前のような人間は見たことがない」

 魔族は血を流し、ぼろぼろの体で、悠然と立っていた。その美しい顔で笑った。矜持が、その表情からあふれている。

 けれど都雅は相手がどうあれ、いつもの、どこか不機嫌そうな顔でそこにいた。

「うるさい」

 魔族の攻撃に破れてしまった黒マントを羽織り、風になびかせて立っている。彼女自身も満身創痍だったが、気に留めていない。はじめから気にもしていない。相手が魔族であろうと、自分に痛手を与えた相手であろうと、普段とまったく変わらない。

 魔族はもうその態度にも慣れてしまったとでもいうような様子で、その紅の唇から艶を帯びた声で言い放つ。

「母親に疎まれ、他人に疎まれ、ようもそう平然としていられるものだな。化け物め」

 その言葉に、都雅の顔から表情が消える。もともと憮然としていた顔から、完全にすべての感情が消えた。瞳だけを怒りに輝かせて、魔道士の少女は魔族を見返していた。

「化け物(おまえ)に化け物呼ばわりされるいわれはないんだよ」

 闇色のマントを払って、彼女は傷にまみれた片手を掲げる。

 ――逃げない。

 あたしは、魔族なんかじゃない。都雅は、冷静に自分自身へ言葉をかける。あたしは化け物なんかじゃない。それを知ってる。知ってる人がいる。ただ臆病で、だから虚勢を張って、傷つかないように懸命に踏ん張っているだけだ。

 何を言われても、どんな目を向けられても自分らしくある強さがほしい。だからこんなところで立ち止まらない。うろたえない。

「悪は滅びるものと決まっている。さっさとあたしの目の前から消えろ」

「いつから魔族は悪となった。いつから人を害するものが存続を許されぬものとなった。我が物顔で世界に蠢く人間にとって都合の悪いものだからという、それだけのことで、排除しようというのは、間違いであると思わぬのか。われらとて世界に在るものであるのに。のう、そこな鬼と同様」

「あたしが自分を正義だと決めた日から、あたしに敵対するものは悪だと決まった」

「人間ごときが。神でも魔でもないくせに、お前が一体何者だと言うのだ」

 魔族が吐き捨てるように言い、反対に都雅は唇を片方つり上げて、笑う。手を掲げながら、感情のこもらない声で淡々と答える。

「正義の味方でぇす」

 棒読みで吐いたのは、いつもと変わらない、陳腐な台詞だった。闇のマントを羽織る都雅は、正に自分自身が、英雄譚の言う悪役魔導士のようだと知っている。とても正義の味方とは思えないような皮肉な笑みで。

 切り捨てるような声で、続けた。

「消えろ」

 命じる。

 呪文でもなんでもない。けれども奥底に深い怒りを宿した、ただの声。言葉。――だが、現象は起きた。それはさっきと同じ魔法。けれどさっきのものよりも、確実に強大な魔法。



 一般に魔道は「呪文を唱えて現象を起こす」ものだとされている。もしくは「悪魔の力を借りたもの」だと。でもそれは、正しくない。後者のそれはむしろ「邪法」と呼び分けられる。

 何もないところに火を熾したり、風を吹かせたりすることは、自然にはあり得ないことだ。だから本来魔道とは、断固たる意志をもって「現実にあり得ない現象」を起こすこと。自然をねじ曲げて自分の思い通りにすることが「魔道」と呼ばれるもの。魔導士の使う、本来必要ないはずの『呪文』とは長年の研究の賜物で、「これを言えば現象を起こしやすく出来るキーワード」でしかない。

 神のように万物に命じるから、その技を悪魔の仕業と言われることも多い。

 身に持った魔力がわずかでもあり、元素に呼びかける素養があれば。そして本人の意志が強ければ。強者が一睨みで弱者を従えることが出来るように、呪文など使わずとも魔法は起こせる。だがそれはやはり生半可なことではなかった。研究の結果呪文というものが生み出されたほどなのだから。しかし精神力を消耗はするものの、それがもしできるのなら、決まり文句である「呪文」などを駆使した時よりも、よほどの効力が得られる。

 ――自我を持って自然すら捻じ曲げる精神力を持つ彼らだからこそ、恐れを持って、同時に皮肉を込めて、魔道士エゴイストと呼ばれるのだ。

 そして今世界は、彼女の意志に従って、力をそこにあらわした。

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