第2章 縁はまわる、因果はめぐる

第1話 誘う声

 夜は沈黙とともに満ちていた。窓から入る月明かりと、懐中電灯の明かりを頼りに、長い廊下を歩く。自分の足音がやたらと響いて落ち着かない。震えているのが、寒いせいか怖いせいか分からない。

 ――やめておけば良かった。

 彼は心から後悔していた。

 教室のプレートと手元の手順書を見ながら、決められた巡回コースを進んでいる。そのはずだが、似たような長い廊下と教室ばかりで、間違えてないか不安になる。自分が何階のどこにいるのか分からなくなって、また教室のプレートを確認して、手順書を確認した。懐中電灯の明かりを右往左往させて、進む方向を確認する。

 ――このあたりのトイレ、勝手に夜中に水が流れることがあるって、誰かが言ってたな。

 流れませんように、流れませんように。大きな音がしても驚かないよう心の準備をしながら、そろそろと先に進む。どうして電気をつけちゃいけないんだと、心の中で悪態をつく。

 ――給料につられたのが間違いだった。

 アルバイト登録している警備会社から紹介された仕事だった。夜の学校の警備。

 冗談ではない。シフトに入れる者が少ないと泣きつかれたけど、知ったことではない。とにあく自分は怖がりだ。嫌ななものは嫌だし、恐いものは怖かった。

 でも支払われる日給が破格だったのだ。それに、自分一人で行くわけではない。チームで行くのだから、まあいいか。と思ったのが甘かった。

 当直室に泊まり込みをして、懐中電灯の明かりを頼りに、決められた時間に学校の隅々まで点検する。皆が手分けして警備するのだが、「手分け」しているのだから、その間は一人だ。

 ――やっぱり、無理だったんだ。俺には。

 泣きたい。情けなくたってなんだっていい。不審人物などいようものなら、真っ先に逃げてる気がする。

 でもお金が必要だった。それもなるべく早く。貯めていたお金もあったが、足りなかった。だから、数日間ここで働いて、給料をもらうまでの辛抱だ。自分に言い聞かせる。

 恋人の顔が脳裏に浮かんで、震えが少しおさまった。彼女のためだ。彼女がなんて言うか想像すると、勇気づけられた。きっと驚くだろう、でも喜んでくれるだろう。目的を思い出して何度も深呼吸しながら、がんばらなくてはと言い聞かせた。懐中電灯を握る手に力を込める。

 顔を上げる。真正面に視線を向けた。

 その目は、数秒前までにはそこになかったものを捕らえる。



 そこにいるのは人間だった。懐中電灯の光に、スポットライトのように照らされて立っているのは、一人の少女だった。長い廊下の途中に、パジャマ姿で、陶然とした顔で立っている。

 気づいて、ゾッと全身を怖気が走った。

 思考がついてこない。なんだ、これは。誰だ。

 目をそらしている間に、どこからか走ってきたのだろうか。でもそんなわけない。廊下の窓も教室の戸も締め切られているし、何の音もさせずに近づいてくるなんてありえない。すこし呼吸するだけでも響きそうなくらい、静かなのに。服も乱れてないし、息も乱れてない。突然現れたのでなければ、説明がつかない。

 少女はさっきまでいなかったはずなのに、ずっとそこにたたずんでいたように、立っていた。

 ――とっさに足を見た。とりあえず、足はある。

「何してるんだ」

 必死に出した声は震えていた。遠い廊下の向こうに響いていく。自分の声に彼自身が驚いた。

 少女は応えない。ぼんやりと夢を見ているかのような表情だった。

 なんだこいつは。相手の反応がないことよりも、ただ気味が悪かった。なんでいきなり現れて、驚かせて、返事もしないんだ。なんなんだこいつは。恐怖を怒りに摩り替えて、再び声を上げようとした。今度は「君は誰だ」と言おうとして。口を開きかけた。

 途端に、少女が笑った。にいい、と、顔を半分に割るかのように唇をつりあげて。

 言葉が出なかった。吐き出すはずだった声が空回りして、喉の奥で音をたてる。細い空洞に風がからみつくような音。逃げたかったが、体が動かなかった。助けを呼ぶことなんて思いつきもしなかった。ただ、少女を照らしている光が小刻みに揺れていて、そのおかげで自分が震えていることが分かった。

「あきらめよ」

 突然聞こえた声は確かに言葉だった。しかし彼の鼓膜を揺らしただけに終わった。認識して、意味をとらえることが出来なかった。

 ただ、声が聞こえたこと、その声は確かに少女の方から聞こえたということ、けれど少女の唇はぴくりとも動かなかったということだけが、観察して見て取れた。恐怖をさらにあおるだけなのに。そのことだけが何故か分かった。

 思ったのは、ただただ後悔。支払われる給料が高いのは、つい最近自殺した生徒がいたからだとか、集団自殺を図った生徒がいたからだとかいう噂を聞いていた。でも、ニュースにもなっていないんだから、大きなトラブルなんかあるわけながない。そう自分を言い聞かせて来たが。いくらお金が欲しいからって、やはりやめておくべきだった。

「手始めにお主にしよう」

 そう聞こえた途端、少女の瞳に生気が見えた。瞳に光りが灯ったかのような鮮やかな変化と、唐突さで、禍々しい笑みを深める。

 抗い難いその瞳。命じることに慣れ、相手が自分に従うことに、寸分の疑いも抱いていないその声。

「聞こえたか?」

 艶やかに問う声が、耳の中に忍び入ってくる。途端、彼の思考からすべての判断が消えた。

 体から力が抜けていた。手から震えが消えていた。廊下に大きな音を響かせて、懐中電灯が落ちる。光りが踊る。強張っていた頬も、表情を忘れてしまった。立っていられるのが不思議なほど、筋肉がゆるんでいる。

 床に転がった光源は、遠く廊下の向こうを無意味に照らしていた。角度の変わった光の余波に照らされて、少女の背後に何かを見た。

 少女の背後には、見たこともないほどに美しく、見たこともないほどに邪悪な女がいた。闇を広げたような黒く長い髪が印象的だった。鮮やかな銀糸で縫い取りされた、黒い着物を身に絡ませる姿は、星を蒔いた夜空をまとっているかのようだ。その反面黒い瞳には光りがなく、白い顔の赤い唇はなまめかしく笑んでいる。高慢に見下すのが、途方もなく似合う。

 彼は女に向けて、無邪気に笑んだ。無意識の服従を呼び起こす、魅惑にあふれた声にのみ心が動かされて。わき上がる歓喜にもてあそばれて。深淵のような瞳に絡めとられて。

 廊下の壁に向かって立つ。



 ごん、と鈍い音が聞こえた。ごん、ごん、ごん、と途絶えることもなく。

 壁に頭を強打し続ける。機械的なリズムで。

 痛みも音も遠い。鈍い彼の脳裏に、一人の女性の顔が波のように浮かんでくる。

 来月は彼女の誕生日だ。お金を貯めていたのは、指輪を贈ろうと思っていたからだった。

 まだお互いに学生で、婚約指輪など大それたことは言えない。でもそのつもりだったし、彼女もそのつもりで受け取ってくれるはずだった。今まで何度もそういう話をしていたのだから。

 きっと驚くだろう。けれども、きっと喜んでくれるだろう……。さっきと同じように思って、でもそれは、遠い世界の出来事になっていた。水面みなもを透かして見る川底のように、茫洋としていた。

 正月に帰省したときに見た、また老いた親の顔。子供が生まれると、大きなお腹を抱えていた姉の顔。飲みに行こうと言っていた友人。それが全部、水鏡に浮かんで消える。それから、提出しなければならない論文のこと、迫っている試験のこと、まとわりつく日常も、同じように――それよりもずっと遠くにぼやけて浮かんで、沈んでいった。

 そして再び、嬉しそうに笑む、恋人の顔――

 すべてが遠かった。ただ現実は、悪夢のような美しい女だけ。

 頭の痛みも、滴り始めた血の感触も、壁を濡らし、床にたまりはじめた色も、何も感じなかった。闇も、恐怖も、驚愕も、感情は追いやられていた。

 ただただ、頭を壁に打ち付ける、単調な音が聞こえている。



「まだ足りぬ」

 再び夢うつつの表情に戻った少女の横で、女は言う。

「まだ足りぬ。まだ足りぬ」

 血溜まりの中、額から血を流して倒れている男を、塵芥(ごみ)のように見てつぶやく。無造作に手を伸ばした。うつぶせの男を片手でごろりと転がし、仰向けにさせると、白い手を男の左胸に突き立てる。上がる血飛沫に、眉すらしかめず。

「なにゆえ、このわたしが、このような下等なことをせねばならぬ」

 つぶやいた声に、一瞬だけ深い憎悪が刻まれた。けれど呪詛はその時だけ。

「血が足りぬ。命が足りぬ」

 再びもれる声は、淡々と落ちる。無造作に男の心臓を取り出した。

 ぬらぬらとなまめかしく唇を動かしながら、血肉の塊に牙をたてる。

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