終幕

第10話 証明

10-1

 森から戻ってから何日か経ちましたが、女の子は忘れ姫のことが忘れられません。

 とうとう我慢できなくなり、継母に内緒で森へ行くことにしました。女の子は、迷いながらもなんとか木のうろまで辿り着き、忘れ姫を見つけました。

「私と一緒に遊びましょう」

 初めて出会った時、忘れ姫がしてくれたように、女の子はにっこり笑って手を差し出しました。けれど忘れ姫は、一緒に遊んだことをすっかり忘れていたのです。

 二人は手をつないで森の奥へと進みました。さらに歩き続け、森のさらに奥深くの魔女の家までやってきました。忘れ姫は女の子を家の中に呼び寄せると、かまどを開けて燃え盛る炎の中へ女の子を突き飛ばしました。


 *

 

「――そうして、女の子は魔女たちの晩のおかずになってしまいました。オシマイ」

 最後の一文は暗記していたのか、私が読むスピードに合わせ、香世子さんはアルトの声音でそらんじる。

 機嫌良さげな香世子さんと対照的に、私は困惑した。多少、引いて・・・しまったかもしれない。

 一体、これはなんなのだろう。何かを暗示しているのか。私に何を伝えようとしているのか。

 母は香世子さんに〝ひどいこと〟をしたと言っていた。おきざりにして食べられた、とも。ならば、この童話のモデルは。

 A4用紙に落としていた目を上げると、香世子さんは黄金色の斜陽に包まれ、微笑んでいた。どこかしら満ち足りたその表情に、言葉が見つからない。

 と、私は気づく。学校から自宅までの徒歩二十分の道程は車で五分もかからないはず。もうとっくに着いておかしくないはずなのに、ハイヤーは滑らかに走り続けている。窓の外を流れゆく風景は見慣れた冬の田畑ではない。いつの間にか幹線道路に出ようとしていた。

「……この車、どこに向かってるの?」

 香世子さんは微笑んだまま答えない。

「香世子さん?」

「N市のM区よ。有名な甘味屋さんがあるの。たまには和風も良いでしょう」

 M区!? ぎょっとして繰り返す。私たちが住む市から小一時間はかかる。久しぶりにデートしましょ、と弾む声音にひやり背筋をなぜられた気がした。反射的に自分の側のドアロックを確認するが、もちろん施錠されている。

 どうしてのこのこと乗ってしまったのだろう。香世子さんは母に〝ひどいこと〟をされた。私は香世子さんの宝物を喪わせた。けれど母は原本を書き換え、脚本を作り上げ、各々役割を演じさせ、罪を隠蔽させた。そういった意味では母も香世子さんも私も共犯だ。……けれど、もし、その結末に納得がいってなかったら。

 クローゼットから見つけ出した『白雪姫』の赤い絵本を思い出す。後になって読んだけれど、私が知っている話と大分違っていた。毒林檎を食べた白雪姫が息を吹き返す方法が王子のキスでないことにも驚いたが、もっとも衝撃を受けたのがラストシーンだ。結婚式に招かれたお妃は焼けた鉄の靴を履かされて倒れて死ぬまで踊らされた。子どもの頃、読み聞かせられた物語にはそんな残酷なシーンはもちろんなく、大人たちも知っているのか知らないのか、匂わすこともなく。自覚のあるなしに関わらず、どこかの時点で脚本は編集・改訂が入る。―個人単位ではなく世代や文化・歴史・政治が背景となる場合もあるだろう。グリム童話が七版まで改訂を続けたように。

 焼けた鉄の靴を履いたお妃は物語から切り取られた。めでたしめでたし、関係者を招いた華やかな結婚式で幕は下ろされた。みんな末長く幸せに暮らしましたとさ。だけど、もし、その結末に納得がいってなかったら。

 ……簡単だ。先人たちが繰り返してきた方法と同じ。脚本を書き足せば良い。

 帰らなきゃ。小さな呟きだったけれど、ほとんど走行音のしないハイヤーの中で拾い上げるのは難しくはなかったようだ。私の言葉に、香世子さんは小鳥のさえずりめいた声を嫌味なくあげる。

「あら、どうして?」

「M区遠いし、受験目の前だし……」

「ちょっとくらいなら良いでしょう。高速を使っていくからそんなに時間はかからないわ」

「足怪我してるし……」

「肩を貸すから大丈夫」

「お金持ってないし……」

「美雪ちゃんが心配する必要ないわ」

 そのやりとりは滑稽だった。白雪姫を殺そうと飾り紐を、櫛を、真っ赤な林檎で誘惑したシーンの粗悪な模倣。

「でも、お母さんに怒られるから」

 自分に都合が悪い時だけ、母を矢面に立たせる。卑怯な手口だとはわかっていたが、効果的な手であることは違いなかった。

「お母さんは外出中でしょ。そんなに遅くならなければ大丈夫よ」

 くすりと微笑む気配がした。そこには嘲りと呆れと、果たせる哉という気配が滲んでいた。すいっと、香世子さんがが身を寄せてくる。芳しい香り、たんなる香水ではきっと立ち昇らない。複雑で濃厚で陶酔させられるそれ。耳元に囁きが落とされる。

「お母さんに言えないこと何度もしてきたのに、今更?」

 あれは、と反論しようとして口を閉ざす。仕掛けてきたのは彼女。嬉嬉として受け入れたのは自分。

 絡め取られる一瞬手前、私はすんでのところでいいわけの舵を切った。

「……お腹こわしてて。今日は、やめとく」

 少し驚いた表情を浮かべた後、香世子さんは苦笑した。生徒の正解ではないけれどユニークな回答を聞かされた教師のそれ。今までの私ならば、〝お腹を壊した〟なんて恥ずかしくて言えなかった。肉を切って骨を断つ。そんな心地だった。

「そんなに怖がらなくても『ハーメルンの笛吹き』じゃあるまいし、ちゃんとおうちに帰してあげるわ」

「怖がってなんかないけど。……ハーメルンは、グリム童話じゃないよね」

 反論というよりもそれはアピールだった。何も知らない、ただただ怯えるだけの子どもではないという。

「よく知ってるのね。グリム兄弟の『ドイツ伝説集』で取り上げられているけれど、グリム童話では採話されていないわ」

「グリム童話は図書室で全部読んだから」

 今度は、模範解答をした生徒を満足そうに眺める教師の笑みを香世子さんは浮かべた。

 ――市内に戻ってください。彼女は運転手に命じる。

 香世子さんから一手奪った。軽い驚きと興奮を覚える。いつだって前をゆく――いや、はるか高みの殿上人と肩を並べられたような。けれど、それは傲慢な思い違いだったとすぐに証明される。

「市内で、受験に関係あって、食べ物屋さんじゃなければ、つき合ってくれるのよね。美雪ちゃん?」

 一つ一つの退路を断たれ、唖然とする。ハイヤーは私の返事を待つことなく、トラックが高速で行き交う幹線道路でUターンした。


 石段がそびえる先は、真冬だというのに、鬱蒼と緑が生い茂っていた。

 辿り着いたのは、自宅から徒歩十分ほどの神社だった。近所といえば近所だけれど、わざわざ石段上の社までは足を踏み入れない。年末年始はもっと有名どころの神社に詣でるし、夏祭りを催されるわけでもない。知っているけど用はない、そんな場所だった。

 ハイヤーは石段の下で停車する。運転手が回り込み、後部座席のドアを開けた。道幅は狭く、ドアを開けるだけでいっぱいになり、対向車は通れそうにない。

 香世子さんはするりと身をくぐらせる途中、助手席の後ろの下げられていたカゴに手を伸ばした。

「キャンディー? 喉が乾燥しちゃって、一ついただいても良いかしら」

 運転手はどうぞどうぞ、いくつかお持ちください、とにこやかに答える。どうやら乗客にサービスしているらしい。お言葉に甘えて、と香世子さんはキャンディーを二個つまみ出した。

 続いて私もハイヤーから出る。真冬の冷たい、けれど神社から下りてくるわずかに湿気を帯びた空気に、頬が包まれた。雪はいつの間にか止んでいたが、雲はまだ重たげで今にも降り出しそうではあった。

 ハイヤーは私たちを降ろすと、そのうち来るかもしれない対向車に配慮してか、道幅が広い次の角の先まで移動した。遠ざかる車の後姿は、置いていかれた心地を膨らませて、ひどく心細くなる。森に置き去りにされた兄妹の気持ちが染み入った。

 一方の香世子さんはごくマイペースだった。もらったばかりのキャンディーの包み紙をはがして口に入れる。真っ赤なビー玉めいた飴。 

 美雪ちゃんもいる?と、黄色い包み紙のキャンディーを差し出してくるが、私は首を横に振った。甘くて美味しいのに、いいの? その言葉にも首を振る。

「毒なんか入っていないわよ」

 香世子さんの瞳は柔和に笑っていた。脚本から削除された〝プレゼント〟を暗喩しているに違いない台詞。いくら鈍感な私でも気づく――香世子さんは、私を。

「さあ、行きましょう。私もこのあと予定があるし、暗くなって狼がやってくる前に帰らないとね」

 冗談めかして笑うけれど、私はそれにはつき合えず、真顔で訊く。

「……行くって?」

「高校受験の合格祈願よ」

 ふわり、処女雪だけを集めて織り上げたような純白のマントを翻し、石段へと踏み出す。重たげなのに、軽やかに。ああ、美しき彼女の矛盾。

 さあ、と優雅に差し出された手を拒む選択肢など、はなから私には無かったのだった。

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