3-3


 ――子ども時代、たった一年過ごしたその町は、森に似ていた。

 彼方に薄青い山の稜線が横たわり、その境界まで田畑が広がる長閑な風景。それは一見、平坦で、間延びしていて、森とは似ても似つかない。だけれども、その気配が、雰囲気が、森を思い起こさせた。見通しが良いにも関わらず、何が潜んでいるかわからない。餓えた獣か、毒の虫か、それとも人喰い魔女か。走っても走っても出口が見えない。進めば良いのか、戻るべきなのか、方向感覚すら失っている。暗い森にポツンと一人。置き去りにされた子どものように、私はただ途方に暮れていた。


 父とその再婚相手が迎えてくれた真新しい白い家は、それまで習っていたバレエの発表会よりも緊張する舞台だった。父が母方の祖母から私を引き取ったのは、義務感からだけではない。そこには不器用ながらも愛情があったと思う。ならばこそ、私は一層、家が明るく平穏な場であるように努めた。だが、十歳という微妙な年齢は、なんのてらいもなく甘えるにはトウが立ち過ぎており、賢く立ち回るには幼すぎた。結局、私は父とも継母ははともうまくコミュニケーションがとれず、申し訳なさは内気の種となった。

 同様に、私は新しい学校にもうまく馴染めなかった。学校という閉鎖的な空間には暗黙のルールが張り巡らされている。持ち物、服装、話し方、挙手の方法。転校生の通過儀礼ではあるが、全てにおいて一匙分ずつ周囲とずれていた私は随分と居心地の悪い思いをした。だがルールが明文化されてないだけに、何がどう違うのか理解できない。小さなずれは降り積もり、足元を埋め尽くす。気付けば、私は身動きが取れなくなっていた。

 ――どうしたの? どこか痛いの? 何か言われたの?

 立ちすくむ私に、手を差し伸べてくれたのが〈彼女〉だった。近所に住む、明るく、利発な、クラスの女子の中心的人物。光溢れる教室で、一人すっと背筋を伸ばし、真っ直ぐに私を見つめていた眼差しが印象的だった。

 〈彼女〉は手取り足取り、学校でのルールを教えてくれた。外での遊びにも誘ってくれた。いつも一人でいた私の面倒をみるよう、教師が頼んだのだろう。それでも私は嬉しかったし、〈彼女〉の手は温かく、柔らかく、たった一つの灯明だった。

 それなのに、一体、何が発端だったのか。いや、そもそも最初から? 祖母に育てられ、良く言えばおっとり、悪く言えば鈍感な私が気付いていなかっただけなのかもしれない。〈彼女〉の言葉や行動の端々に棘が生えていたことに。

 なかなか打ち解けられない私のために、〈彼女〉は他の子ども達との橋渡しをしてくれていた。だから、皆で集まって遊ぶ時、それらの情報は全て彼女を通して入ってくる。放課後、遊ぶ約束をする。〈彼女〉に指定された場所へ時間通りに行く。だがそこには誰もいない。誰も来ない。一人きりの公園で、私はしゃがみ込んで皆を待ち続ける。

 初めは純粋に自分が聞き間違えたのだと思った。あるいは引っ越してきたばかりの土地、まだ地理関係を把握できていないのだと。実際、いつまで経っても来ない私を捜しに来てくれた・・・・・・・・。〈彼女〉もそう私を注意した。

 家が近いのだから、公園なり、児童館なり、神社なり、連れ立って行けば良い。そう提案――あるいは懇願――したが、〈彼女〉はこの町に馴染むため、私のためだからと却下した。

 私は幾度も間違える。〈彼女〉は私を声高に注意する。周囲は私をのろまなおかしな子だと認知する。

 揶揄が混じった渾名で呼ばれ、ゴム跳びや長縄では引っ掛かるようにタイミングをはかって背を押され、両親から与えられた子どもにはいささか高価な筆記用具は使用禁止の烙印を押された。

 一見、楽しげに遊んでいるふうに見えただろう。だが麗しい友情の花には、棘が散りばめられていた。〝アナタのためなんだから〟――その大義名分に隠れて。

 それでも、手を差し伸べられたなら、誘蛾灯に誘われる蛾と同様、ふらふらと寄ってしまう。棘が皮膚を突き破り、血を噴出させるとわかっていても、自らその手を握り締める。

 森の中、私は現在地すらわからない。だからきっと、自分の手がやわなだけ、自分が基準からずれているだけ、自分がオカシイのだと思っていた。迷子になるほど心細いものはない。森に捨てられた兄妹も、目印さえあったなら歩き続けられた。歩き続けるには、信じ続けるしかなかったのだ。

 しかし、のろまな私に、決定的な事実が突き付けられる。

 転校して一カ月半ほど経った、ある土曜日の午後。〈彼女〉の家に招かれ、昼食をご馳走になったことがあった。〈彼女〉の母親が用意してくれている間、私達は畑との境界が曖昧な広々とした庭で遊んでいた。私が脅えるのが面白かったのか、それとも慣れさせようとしていたのか、〈彼女〉はよくミミズやイモ虫など肢の無い虫を探しては、目の前にぶら下げてみせた。その時も、黒くうねる虫を指先で摘み、『うちではごはんを残しちゃ駄目なんだよ』と、意味ありげにくすりと笑んだのだった。

 ――私は見た。汁物の中蠢くそれに、込み上げた吐き気を堪え、口元に手をやったその時、隣に座っていた〈彼女〉の顔を。三日月を描く唇、細めた目、改心の笑み。秘密の部屋で毒林檎を拵えていたお妃もそんな表情を覗かせていたに違いない。

 ようやく、私は〈彼女〉に心底厭われているという事実を受け入れた。


 破綻は想像したよりも早くに訪れる。全く予期せぬ形で。


 全てを忘れておしまいなさい。継母は、世にも恐ろしい形相で、私に言い聞かせた。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。呪文のように、繰り返し、繰り返し、繰り返し。私は思う。いっそ彼女が本当に魔女だったなら、綺麗さっぱりと忘れられたかもしれないのに、と。

 結局、一年――正確には、十カ月と少し――を過ごしただけで、私は祖母の元へ戻った。

 中学を卒業し、高校、大学と進学したが、相変わらず人付き合いが下手だった。人との距離のとり方がわからない。だが割り切ってしまえば、独りは苦痛ではなく、むしろ心穏やかでいられた。

 二十歳の頃、唯一の家族と呼べた祖母が他界する。葬儀の後、父に実家に戻れと言われたが、大学から遠過ぎることを理由に断った。それが口実であったのは父も薄々は感じ取っていたと思う。しかし、継母の無言の反対も後押しして、私は一人暮らしを始めた。

 そんな自分が、たとえ一時といえども伴侶を得たことは、奇跡だと言える。

 大学卒業後、小さな編集プロダクションに入社して、三年目。私は体調を崩し、入院した。職場での人間関係が原因だったのだろう。少し物言いがきつい女性がいて、私は理由もなくびくついてしまい、それがまた相手を苛立たせてしまう。その人は少し〈彼女〉に似ていた。似ているだけで、別人だと頭ではわかっていたのに。

 その時、親身になって私を励ましてくれたのが後の夫だった。得意先の出版社に勤める九歳年上の男性。優しく、物静かで、思慮深い。初めて祖母以外の人の前で息がつけた。ハンサムとは言い難かったが、私にとって『白馬の王子様』以上に魅力的だったのは疑いない。私は彼の朴訥な求婚を受け、結婚を機に退職した。

 結婚生活は順調だった。元職場のつてで適度な原稿書きの仕事をもらい、家の中を整え、食事を作り、良人の帰りを待つ。姑との仲はあまり良好ではなかったが、別居だったので、年に数度だけ嫌味を我慢すれば良かった。一人息子の嫁に対する嫉妬と思えば可愛いもので、それまでの人間関係に比べれば、ずっと気安かった。他人が聞けば笑うかもしれないが、自分にとって最も華やいだ時期だったと思う。

 だが、身に余る奇跡は悲劇を呼ぶ。

 三年後、私は妊娠した。夫は大層喜んでくれたが、私は不安だった。身籠ったのが女の子だとわかり、ますます不安は膨れ上がった。あの一年以来、私はプライベートで『女の子』と付き合った記憶がない。知らず知らずの内に、私はそれを避けていた。

 一体、どうして接すれば良いのか。赤ん坊の内は良い。けれど、その子が成長した時、正面から向き合えるだろうか。

 思い悩むと、決まって斜め後ろの辺りから、声が聴こえてきた。クスクスという、ひそやかなさえずり笑い。ぞっとして振り返れば誰かがいるはずもない。いや、口を閉じただけ? 姿を隠しただけ? 教室で、通学路で、遊び場で。皆、知らんふりをしているのに、私は注目の的。奇妙な認識のクレバス。知らぬまに冷や汗が滲んでいた。

 精神的に良好とは言い難かったが、夫の気遣いもあって私は無事娘を出産した。夫は私の名前から一字取り、『香純かすみ』と名付けた。不吉な名前だと思った。

 この子はどんな大人になるのだろう。どんな人生を歩むのだろう。果たして幸せになれるのか。日に日に、私に似る、私の娘。

 歩き、言葉を覚え、自我を持つ。たどだどしく喋り出した娘に、私は泣きたいような、叫び出したいような、いっそこの子をさらって遠くへ逃げてしまいたいような――実の子をさらうとはなんとも奇妙な話だが――気持ちにさせられた。だが。

 ある日、香純が部屋の中に飛んできた小さな羽虫を捕まえた。虫をなぶろうとするのを慌てて止めようとして――その表情を見て、硬直した。無垢で、残酷で、純粋な笑顔。唐突に悟る。この子は、将来、私に似るかもしれない。同時に、〈彼女〉になる可能性も等しく秘めているのだと。そして……娘か、あるいは娘の手によって他の誰かが、再び悲劇を繰り返す。

 全てを忘れておしまいなさい。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。跡が残るほどに強く両腕を掴まれ、唱えられた呪文。継母の声が、今さっき聴いたばかりのように甦る。

 十五歳の誕生日に紡錘つむに刺されて死ぬと予言された、いばら姫。国中の紡錘を焼けという無茶な布令を出した父王の心中が痛いほどに理解できた。この子が、あの時の私の年齢に達してしまったら。そうなる前に、いっそ、この手で――

 ……違う。私は愕然とした。それはむしろ白雪姫の継母の発想だった。

 陽にくしけずられ、星に飾られ、月に清められ、日増しに美しくなる娘に、恐怖した継母。まるで私。元々『白雪姫』のお妃は、継母ではなく、血の繋がった実母だったという。初版を出した後、グリム兄弟は世間の批判を受け、第二版から継母という脚本に変えたのだ。

 奇妙な符合に私は戦慄した。娘と向き合うのが怖かった。それでも己を奮い立たせ、幼い娘を必要以上に厳しくしつけた。いささか度を過ぎていたのかもしれない。何度か夫に諌められたが、私は頑として態度を変えなかった。不安で押し潰されそうだった。

 十一歳の雪の舞い散るあの日、狼に喰い千切られながらも、森を抜け出したはずだった。だというのに、いつの間にか、再び迷い込んでいる。囚われている。身動きできない。それとも、逃げ出したのは夢? 本当の私は、今なお、森の深奥にいるのかもしれない。獣に喰らわれ、ゆっくり朽ち果て、手足に虫が這う。肉が腐敗し、土に還りながら、死体がみている夢……

 だが、結局私の悩みは杞憂となった。

 四歳の春、香純は信号無視の乗用車にはねられて、呆気なく死んだ。私は呆然として、すぐにはその事態に反応できなかった。

 葬儀を終えた後、夫は私に尋ねた。どうして君は笑っているのかと。言われて、初めて気付く。確かに私は笑っていた。鏡を覗き込んだお妃と同じに。虫を摘んでいた〈彼女〉と同じに。

 誰かに汚されることなく、誰も汚すことなく、綺麗なまま逝った娘。焼かれ、さらさらとした灰にまみれて出てきた骨は眩しいほどの純白で、私は心底安堵した。私はずっと娘の死を願っていたのだ。ならば、娘を殺したのも私なのだろう。

 まともな母親ではない。どこまでもずれている。おかしいのは私。かめこってばヘーン。――ああ、彼らの言い分は正しかった。

 知ってしまえば、もう一緒にはいられない。

 離婚を申し出ると、夫は拒否した。優しい人だ、やり直そうと言ってくれた。孫の死について私を責め立てる姑から庇ってもくれた。だが、そんな夫が好きだったからこそ、これ以上傷付けたくなかったし、その逆も然りだった。

 どうして君は笑っているのか――そう問い掛けてきた夫の深く傷付いた子どものような表情が、今もって焼き付いて離れない。

 話し合いは平行線を辿った。

 一年が過ぎたある日。父からきた一本の電話により、状況は膠着を脱する。――戻ってきなさい。父の話は私を戸惑わせたが、同時に納得もした。諦観、というのかもしれない。運命とまで仰々しく呼ぶつもりはないが、ごく自然な、当たり前の成り行きなのだろうと思った。私は二度目にして父の言葉に従う。

 そうして夫は離婚を承諾し……晩秋の頃、私は実家に戻ったのだった。


 二十年ぶりに戻ったその町は、しかし森ではなくなっていた。胸に去来したのは郷愁ではなく、奇妙な違和感。私は少なからずの衝撃を受けた。

 田んぼの脇を流れる用水路から漂ってくる、濁った水の匂いは変わらない。閑散とした風景も、遥か彼方の山並も。だが、広さの感覚が驚くほど変化していた。子どもの頃はあれほど広大に思えた町も、車ならばほんの数分で横断できる。カーナビなどに頼らずとも真っ直ぐ走れば、国道に突き当たる。日用品の買出し、外食、映画、銀行、果ては美容院、マッサージ、全ての用事を済ませられる大型ショッピングセンターまで出来ていた。

 どこへでも行ける、どこにいても良い、どこも怖くない。あんなに恐ろしく、暗く、果てが無かった〈森〉は、今や地方の開けた暮らしやすい一市町村に過ぎなかった。

 もちろん、わかっていた。町が変わった、それは一側面の真実ではあろう。だが一番の原因は自身が変化したから。大人になったから。そう頭で理解していても、そこはかとない理不尽さを拭い切れなかった。

 実家に戻ってしばらく、私は冬眠中の動物よろしく家の中で過ごした。それこそ亀のようにじっと。家事をこなし、原稿を書き、時折、カーテンの隙間から高台の下の家並を眺める。柔らかな陽射しが照る小春日和の中、広い敷地を有する古い農家の純和風邸宅が見下ろせた。そこにも変化は訪れていた。同じ敷地の中、かつては庭だった場所に玩具めいた赤い屋根の小さな家がちょこんと置かれている。そのあまりの鮮やかさに、私は目をすがめた。

 だが、いい大人が何日も家に閉じこもっていられない。必要に迫られ、今度はリハビリ患者よろしく、おっかなびっくり外に出始めた。実際に外出してしまえば、怯えることなど何一つない。風は穏やかで、空は澄んで、気候は快い。多少、私の毛色は目立っていたかもしれないが、誰かとすれ違っても、くすくす笑われることはなかった。役場で嘘を教えられることも、駅で待ちぼうけになることも、ない。人々は、私に無関心で、かつ優しかった。


 新森弥生と再会したのはそんな折だった。役員である母親に代わって自治会費を集めにやってきた彼女と顔を会わせた瞬間、息が止まった。

 弥生は〈彼女〉の取り巻きの一人だった。もっとも〈彼女〉自身はいじめっ子達から私を護る『正義の味方』を演じており、弥生はそれに敵対する役どころを演じていたので、一見しただけではその繋がりはわからなかったが。私自身、随分後になって知った関係性である。どちらにせよ、弥生は、私を迫害する先鋒の一人だった。

 二十年の時を超えても、身に染み込んだ恐怖は消えない。咄嗟、どんな表情を、言葉を、声を返せば良いのかわからない。目には見えぬ蔓草が音も無くはびこり、私を動けなくする。過去の記憶は、社会人生活で培ったコミュニケーション能力など一息で吹き飛ばした。

 だが、こちらが黙っていると、「同じクラスだったよね?」と、弥生は屈託無く笑い掛けてきた。まるで何事も無かったように。反射的に私は笑みを返し……安堵し、そして安堵した己に、言いようのない惨めさを感じた。

 それから、弥生は度々我が家を訪れるようになった。おぼろげながらもこちらの事情を察し、何くれと世話を焼いてくる。まだこの町での勝手がわからない私にとって、その厚意はありがたかった。私達は昔からの友人のように振舞った。

 それなのに……親切にされればされるほど、苦しい。

 頭では理解していた。現在が良いなら、過去は掘り返すべきじゃない。

 ――全てを忘れておしまいなさい。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。継母が言った通り、やり過ごすべきなのだ。五年、十年先、私がこの町を出られる可能性はとても低い。白馬に乗った王子も、魔法使いのおばあさんも、親切な狩人もやって来ない。あとは緩やかに朽ち果てるのみ。だったら、大人しい、善良な、汚れなき一市民を演じているべきなのだ。上書きされた喉越しの良い爽やかな脚本を、素直に受け取れば良い。そうすれば、きっと誰もが優しくしてくれる。正しい方角を示してくれる。森の奥深くに置き去りにされて途方に暮れることはない。それは子どもだった私が喉から手が出るほど欲しかったもの。

 だから、原本など、初めから無かったことにして。

 でも。だったら……

 唐突にミルクの入ったグラスが脳裏に浮かんだ。娘は砂糖を入れて甘くした牛乳が好きで、よく真っ白になった口の周りを拭ってやった。音を立てて、グラスが倒れる。こぼれたミルクは元には戻らない。香純を叱りながら床を拭く。雑巾も洗わねばならない。力任せに何度もこする。何度も何度も。小学校の細長い水場、アルボースを使っても牛乳の臭いは落ちない。じゃあそれ、かめこ用の雑巾ね。油性ペンで記される名前。うっわ、なにコレ、かめクサー!

 連鎖する追憶。それに呼応するように、子どもの澄んだ笑い声が弾ける。誰? 香純? それとも〈彼女〉? 薄暗い部屋の中、その声音はなおも鮮烈に響き渡った。

 ……部屋の中? そう、ここは結婚後の新居でもなく、ましてや小学校の教室でもない。正気に戻って掛け時計を見上げれば、午後二時半。あの赤い屋根の家の女の子が帰ってきたのだ。手をつないで、歌をうたいながら、優しい母親・・・・・と一緒に。それが、現実。

 原本を忘れて、新しい脚本を演じる。

 でも、だったら。

 どうして、私の娘はいないのだろう?

 どうして、私は娘の死を願ったのだろう?

 どうして、私は娘を愛せなかったのだろう?

 〝そんなこともわかんないの? かめこってば、アっタマおかしいんじゃなーい?〟

 警鐘のように鳴り響く、嘲笑。

 でも。――おかしいのは、本当に、私?

 張りつめていた何かが、音も無く切れた。

 問い詰めれば、弥生はあっさりとかつての仕打ちを認めた。自分はとてつもなく恐ろしい面相をしていたのかもしれない。我が家を訪れ、出されたお茶を啜り寛いでいた弥生は、滑稽なほど蒼褪めてみせた。システムキッチンのカウンター越し、夕食の下拵えをしながら滑り込ませた問い。偶然――本当に偶々――、包丁を握っていたせいもあるかもしれない。

 弥生は、〈彼女〉に私を仲間外れにするよう指示されていた、演じさせられていた、本当はやりたくなかったのだと喚いた。

 もっともらしい話ではあった。ある意味、弥生も被害者なのかもしれない。実際は、善良で大人しく鈍い子だ。それが私を前にした時だけ豹変していた。罪悪感があったからこそ、今こうして罪滅ぼしと言わんばかりに親切にしてくれているのだろう。だけれども、今の私にとってそんなのはどうでも良かった。弥生など、目ではない。

「手を貸してくれる……?」

 床にへたり込んだ弥生の耳に、吹き込むように囁く。

 全てを忘れておしまいなさい。振り返っては駄目、二度と戻ってはならない。

 私は思う。継母の言う通りにできらどんなに良かっただろう。だけども忘れられなかった。真っ白な灰の中、真っ赤な熱を孕み、燻っていた埋み火。ほんの小さなきっかけが吹き込まれれば、すぐさま炎は燃え上がる。

 真っ暗な森。獣か、毒虫か、魔女か――何が待ち構えているかわからない。それでも、もう、蹲るだけの子どもではいられない。己の足で分け入る。

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