Honey and Apple 〜おてんば娘は年の差幼馴染に恋してる〜

りつか

1.朱の川、藍の空

「占いなんて当てにならないだろう。意味がない」

1.どうせわたしは子どもよ!

 少女の足はついに止まった。

 水ではない別の色が細波に紛れていないか、流れを妨げるような障害物はないか――水路に沿ってのろのろと歩を進めてきたがこの先はもうフォルト川。悠然と流れゆく本流は茜の色に染まりゆったりと横たわっている。

 これ以上は行けない。

 自覚した途端、目の縁にじわりと熱がこもった。慌ててぎゅっと目を瞑れば今しがた見ていた水面みなもの光がまぶた裏に浮かび上がる。夕陽が作り出したその一筋の道を、少女はわらにも縋る思いでなぞった。


「……大丈夫。明日は笑顔で頑張れる。こんなの、何でもないもの」


 自らに言い聞かせると小さく長く息を吐き出した。

 まっすぐ顔を上げた。ほのかに花の香りのする風が頬を撫でていく。暮れなずむ空と川面を目に焼きつけて、少女は踵を返した。





 * *





 明るい光が降り注ぐ室内の一角、上質だが決して華美ではないテーブルを前に一組の男女がいた。卓上にはいくつかの焼き菓子と、ティーポットにティーカップが並んでいる。

 少女アデレードが真剣な顔つきで見つめる中、青年はクッキーをひとつ口に放りこんだ。


「……どう?」

「うん? 普通に旨いよ」

「ほんと!? よかったぁ。小母おばさまがね、今日はひとりでしてみましょって急に仰って。クッキーは何度も作ってるから大丈夫って言われたけど、絶対失敗しないとは言いきれないじゃない。緊張して手順は飛んじゃうし、だからやっぱりちょっとだけ手伝ってもらって」

「アディは心配しすぎだよ。ちゃんと美味しいから安心して」


 くすくすと微苦笑を浮かべて彼がまたひとつクッキーをつまんだ。アデレードは口角を上げ、取り分けたケーキや小鉢を彼の方へ押し出した。


「ケーキは小母さまのお手製。このジャムをつけると美味しいんですって。クリームもあるから、ウィルトールの好きな方を選んで」


 食べ方を伝えてうきうきとティーポットを取り上げる。お茶の良い香りが室内にふんわり満ちていく。

 湯気の立つカップを受け取りウィルトールはありがとうと笑みを返した。それから思案げに口を開いた。


「そろそろ一年、か。もし面倒に思ってるならはっきり言いなよ。いつまでも母さんの道楽に付き合うことないんだから」

「面倒なんて! そんなこと絶対思わないわ」

「本当に? 遠慮してないか」

「むしろ有り難いくらいよ。うちの母さま、お料理は全然なんだもの。でも小母さまはお料理も刺繍もとってもお上手でしょ。わたしも小母さまみたいにいろいろ作れるようになりたいの。それに、あっ」

「……なに?」

「あ、えーと、なんでもない」


 アデレードはにっこり笑って自分用のカップを手元に寄せた。

 ここでお料理を教えてもらえることはアデレードにとって何にも代えがたい幸せだった。腕が上がるだけでなくという特典つきだから。そのうえ作ったものを食べてもらえるし、味の好みだってわかるし。

 ウィルトールはしばらく小首を傾げていたが、やがて唇に薄く笑みを乗せた。


「母さんさ、いつか娘と一緒に料理するのが夢だったらしいんだ。それが男ばかり四人だろう? 末っ子セイルなんて生まれてからずっと女の子のドレス着せられてた。今じゃ考えられないけど、当時はとても言えなくてさ」

「シアールト村で保養してた頃でしょ? あれはびっくりした……セイル、本当に美少女って感じだったわ」

「俺もびっくりした。喧嘩、止められなくて。みんな泥だらけになって」


 含み笑いをされ、アデレードはパッと顔を赤らめた。


「それは忘れてって言ってるじゃない!」

「最近は、喧嘩は?」


 穏やかに尋ねる青藍色の瞳にアデレードは首を横に振る。手元のカップに少しだけお茶を注いで、彼の向かいに腰を下ろした。


「いつの話をしてるのよ。取っ組み合いの喧嘩なんてとっくに卒業よ。なんならわたしの弟アッシュに聞いてくれてもいいわ」

「お目付役のお墨つきか……それなら間違いないな。しっかりしてるからね、アッシュは」


 ウィルトールは悟り顔で言って破顔した。

 それではまるで姉の自分はしっかりしていないみたいじゃないのとアデレードはしばらく頬を膨らませ抗議の姿勢を保っていたが、いつしかつられて口角を上げた。




 気持ちのいいそよ風がカーテンを揺らしている。ウィルトールが窓の外に目をやり、アデレードはカップを両手で包みこんだ。口をつける彼の横顔を盗み見た。

 風になびく横髪を長い手指が搔き上げる。――あ、今キラキラと光が散った。もしかしてウィルトールには精霊の加護があるのかしら。精霊は普通の人には見えないと言うけれど、ウィルトールはいつもキラキラして見える。彼が精霊に愛されているからだと考えれば全く違和感がなかった。うん、きっとそうだ。

 そうしてアデレードはうっとりと溜息をついた。


 ――今日も素敵。


 蜂蜜色の滑らかな髪。夜明け前の空の色みたいな青藍の瞳。形のよい眉に、すっと通った鼻梁。アデレードはいつもいつも目を奪われてきた。まだ子どもだったあの頃も、そして去年再会したときも。ウィルトールはずっと変わらない笑顔を見せてくれている。


 ウィルトールとセイル、幼馴染の兄弟には昔から黄色い声が飛び交っていた。セイルが割と物事をずけずけ言うたちであることから女子の間での人気はウィルトールの方が上だった。けれど本人たちはどこ吹く風。ふたりとも色恋にはあまり興味がなさそうだった。それよりも弟は男友達と遊び回って問題を起こす日々を、兄はそんな弟に振り回される日々を送っていた。

 何事にも冷静に的確に対処するウィルトールは小さなアデレードにとって憧れのヒーローだった。優しく微笑まれると天にも昇る気持ちだし、反対に静かに見つめられれば何も反論できなくなってしまう。当時の自分はそれはそれはおてんばだったため叱られたことは数知れず、彼自身困ったこともきっと多かっただろう。

 溜息をつきかけ、すんでのところで押し止める。過去を振り返って嘆くのは頭を抱えたくなる前にやめるのが賢明だ。


 子ども扱いされたくない。彼の隣に立って同じ目線でものを見たい。その望みはどうすれば叶うのだろう。

 昔に比べれば身長差は縮まった気がする。隣に並んでもきっと――希望的観測を大いにこめて――遜色ないだろうと思う。そう、見た目は大丈夫のはずなのだ。

 加えて料理や裁縫やその他もっといろんなことができるようになれば。しっかりしたなと認めてもらうことができれば恋愛対象になれる日も近いのでは。


 ――少なくとも喧嘩の心配をされることはなくなるわ。


 思考の隙間に滑りこんできた囁きにアデレードは肩を落とした。道のりはまだまだ遠そうだ。




「何かあった?」

「え?」


 顔を上げるとウィルトールと目が合った。何でも見透かしてしまいそうな藍色の瞳に自分の姿が映っている。アデレードはぱちぱちと目を瞬かせた。


「な、なんで?」

「溜息。あと、ちょっと元気ないように見える」

「そ、そう? そんなこと全然、」

「そういえばアディ。昨日フォルト川に行った?」

「えっ!?」


 ぎくりと顔を強張らせた。

 どうしてそれをという疑問が顔に出たらしい。ウィルトールはのんびりとカップを持ち上げ「セイルがさ、」と口を開いた。


「夕方アディぽい子を見たって。行ったのは確かなんだな?」

「……そうだけど、フォルト川までは行ってないわ。手前の、〝テーネの水路〟で引き返したから」

「テーネの水路にひとりで? アディは少し危機感を持つべきだよ。あそこ、日が暮れたら人通りがなくなるし、水も急に深くなるんだぞ」

「平気よ。水遊びに行ったわけじゃないもの。……占い、してただけ」


 占い、と青年が眉を顰める。彼の顔に僅かに非難の色が混じったのを見つけてアデレードは喉が絞まるような思いがした。この顔になったウィルトールに黙秘は通用しない。かと言ってをきってもうまくいく気がしない。素直に白状するしか道がないのだ。


「……花流しの、恋占い」

「花流し? 花を流すの」

「そう、ハンカチに乗せてね。すぐに沈んだら身近な人と結ばれて、沈むのに時間がかかれば恋人は遠い場所にいる人で」

「ふぅん」

「……それであの、ハンカチ全然沈まなくて。追いかけたけど途中でわかんなくなって、気づいたらフォルト川の手前だったの。……わたし遠距離恋愛するのかしら」


 えへへと口角を持ち上げる。アデレードが口許に笑みを貼りつけたのと、はあ、と深い溜息が耳に届いたのはほぼ同時のことだった。


「好きだね、そういうの」

「え?」


 今度はアデレードが眉を寄せた。声にも温度というものがあるのなら、今のウィルトールのそれは明らかに冷気を帯びていた。今まで何度も怒られてきたが、穏やかに諭されることはあっても彼が不快をあらわにすることはあまりなかった。だけど――。

 ウィルトールは焼き菓子をひとつ口に入れた。


「アディの占い好きは今に始まったことじゃないけどさ。運任せの占いなんて当てにならないだろう」

「……どういうこと?」

「信憑性もなければ真実もない。意味がないよ。違う?」

「意味は……っ」

「そんなことのためにひとりで出歩いてさ……。もし何かあったらどうするつもりだったんだ」


 アデレードはぷいと横を向いた。あまりの言いように反論したかったがいい言葉が出てこない。黙っているのはそれを認めてしまうことに繋がりそうで悔しくて、抗うようにカップのお茶を一気に飲み干した。街で評判だという茶葉を取り寄せ持ってきたものの、味の違いはよくわからなかった。


「そんなふうに言わなくたって……」


 空のカップを見つめる。ウィルトールが真っ向から否定するのはなかなか珍しい。よほど不快だったのかもしれない。そんなに占いが嫌いだなんて考えもしなかった。


 ――きっとわからないのだろう。恋患う者がどういう気持ちで占いを頼るのか。アデレードがどういう気持ちでハンカチを流したのか。そこにこめた想いも。


 鼻の奥がつんとして目頭がじんわり熱くなった。アデレードはがたんと席を立った。


「わたし、帰る」

「アディ」


 ウィルトールも立ち上がるのが気配でわかった。だが顔も見ずにアデレードは部屋を飛び出した。――いや、飛び出そうと扉を開けた瞬間、誰かとぶつかった。弾かれるように後ずさったアデレードはぶつけた鼻を押さえた。


「セイル!」

「アデレードじゃん。来てたのか」


 アデレードの前に立っていたのは先ほど話題にしていたセイルだ。お日さまの光を集めたような明るい金の髪は短く揃えられ、夏に輝く海の色のような碧い瞳が自分を見下ろしていた。

 アデレードの背丈はセイルの肩に届かない。昔は自分の方が高かったのにいつからか逆転してしまった。彼と視線を合わせるためにかなり上を見上げている事実。その身長差から自分の成長のなさをつきつけられているような錯覚に陥り、アデレードはますます柳眉を逆立てた。


「どうせわたしは子どもよ! 意味ないことをしてるわよ! そこどいて!」

「お、おう……」


 セイルの脇をすり抜けるようにしてアデレードは足音荒く去っていった。そんな少女をセイルはぽかんと見つめるしかなく、次いで首を傾げた。


「なんだあれ……ウィル、何かあったのか?」

「お前、フォルト川でも川遊びしたことあるか」

「はぁ? なんの話だよ、オレ十六だぞ。川遊びなんかもうとっくに」


 感情の読めない瞳を向けられ、セイルは眉を顰めた。





 * *





 アデレードが心の赴くまま向かった先は、件のテーネの水路だった。柔らかな下生えが一面に広がる土手に腰を下ろして膝を抱える。

 ちなみに〝テーネ〟とは水の精霊の名前だ。長い髪の女性の姿をしており、通りかかった船乗りを美しい歌声で誘い惑わせ舟を沈めてしまうと言われている。

 そんな恐ろしい精霊の名を冠した水路だがおどろおどろしい雰囲気は少しもなく、舟を沈められるほどの水深もなく、フォルトレストの住民にとってはむしろ憩いの場のひとつだった。水辺だから安易に水の精霊の名前をつけたということかもしれない。


 穏やかに流れる水面は太陽の光を反射しキラキラ輝いていた。対岸では数人の男の子たちが思い思いに歓声をあげている。大方、虫取りか魚取りでもしているのだろう。


『アディは少し危機感を持つべきだよ』

『そんなことのためにひとりで出歩いて』


 きっぱりとした言葉が何度も耳に蘇る。浮かんだ彼の渋い顔が余計にアデレードの心を重くした。


「……なによ、あんな子どもだって平気で遊んでるじゃない。全然危なくなんてないんだから。もう何度も来てるし、第一昨日は川に入ってないのよ!?」


 自身の膝に顎をつき、アデレードはぐちぐちと悪態をつく。


『占いなんて当てにならないだろう。意味がない』


 脳内に棲みついたウィルトールの言葉をどうにか追い出したかった。だけど一度刺さってしまった棘はそう簡単には抜けてくれない。

 ふわり、少女の髪を風が持ち上げた。そよ風に吹かれたままアデレードは目を閉じた。優しい風と子どもたちの楽しそうな声に耳を澄まし、それから膝に顔を埋めた。

 遠い日の記憶が蘇る。あれもこんなふうに金色の光が降り注ぐ午後のことだった。





「なんてこと……!」


 セイルの母が青い顔をして座りこんだ。


「アデレード! これは一体どういうことなの!?」


 アデレードの母は怒っていた。小さなアデレードは思わず首をすくめ、よそゆきのドレスをぎゅっと掴んだ。ふたつ年下の弟アッシュはすでにべそをかいている。

 俯くと泥だらけの靴が目に入った。レースで縁取られた淡い緑色のドレスにもあちこちに泥が飛んでいた。二本に編まれていたはずの髪はリボンをどこかに落としたらしく、片方がバラバラにほどけてしまった。

 でも――弟の隣でふて腐れる子はもっと悲惨だった。なにせ上から下まで全身が泥だらけ。金色の髪はぐしゃぐしゃに乱れ、綺麗な石のついた髪飾りもフリルのたくさんついた花柄ドレスも何もかもが泥にまみれていた。

 ついでに言えばこのフリルのドレスは元はアデレードのものだった。いつしかアデレードには小さくなり、着られなくなったものを母が勝手に持ってきたのだ。どうしてだろうと思っていたがどうやらこの子に着せるためだったらしい。アデレードより小さな、このに。

 いくら着なくなったとはいえお気に入りのドレスである。それをあろうことか男の子が着ているという事実もアデレードには不服で堪らなかった。そのうえこの子はアデレードに向かって暴言を吐いたのだ。

 アデレードは俯いたまま横目でその子を強く睨んだ。


「……わたしのお顔、ブツブツって言ったんだもん」

「ほんとのことじゃねーか。それ、そばかすだってさっき」

「なんですって!?」


 勢いよく顔を上げるとセイルの綺麗な碧色の瞳とぶつかった。見上げられているのになぜか見下ろされているような雰囲気で、彼はフフンとせせら笑った。


「怒りんぼだから髪もそんな赤いんだろ。燃えてんじゃん」

「ひどい! よくも言ったわね!」

「ふたりともやめなさい!」

「離れて! 手を出しちゃいけません!」


 飛びかかろうとしたところでアデレードは母から羽交い締めにされた。めちゃくちゃに両腕を振り回すけれど戒めは解けない。母たちは揃って大きな溜息をついた。


「お願いだからどうか仲良くしてちょうだい」

「アデレードもよ。いつも言ってるでしょう? 淑女たるもの慎ましく淑やかにと。それなのにあなたときたら……」

「だって悪口言っちゃだめって言ったの母さまよ! わたしはだめで、この子はいいの!? そんなのおかしい!」

「そういうことを言っているのではなくて」


 ほとほと困った様子の母にアデレードは思いっきり舌を出した。セイルをドレスごと泥まみれにしたのは紛れもなく自分だ。だけど後悔は一切なかった。始めに嫌なことを言ってきた向こうが全て悪いのだ。


 険悪な空気に耐えきれず、アッシュがうわーんと泣き出した。

 母が弟を宥めに入った隙にアデレードは脱兎のごとく駆け出した。

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