#17 ライ麦畑で逃げ切って



 商店街の一画に生える柿の木。

 通りにはみ出すよう張り出した枝に、彼は全身全霊でしがみ付いていた。

 その姿に題を付けるなら、哀れなるコアラか不屈のナマケモノと言ったところだろう。

 それもそうだ。何しろ彼の真下には正気を失った村人たちが、柿の実が落ちてくるのを待つ子供のように、いや、獲物が力尽きて落ちてくるのを待つ獣そのものの様態でうろついている。

 彼がいる柿の木は枝が細く、身の軽い子供である彼の体重は支えられても、大人の体躯では途中で枝が折れてしまう。なので、木の上まで追いかけられることは無かったのだが、その下で彼が限界に達するのを、村人たちは今か今かと待ち構えているのだった。


 力が強く、頼りになる大叔父のドモンは、ここから見えるところにはいない。

 恐らく彼を逃すため、村人たちを食い止める盾となって離れてしまったのだろう。

 そのお陰で、彼は間一髪木の上に逃れることができたけれど、孤立無援の状態で敵のただ中に取り残されることになってしまったのだった。

 彼は泣きじゃくりながら助けを求める。

 一番信頼している大好きな父親は、先日大怪我をして神殿に運ばれてしまった。次に大好きな義母は、村長の家にいて無事かどうか分からない。

 誰が助けに来てくれるのか、そもそも助けてくれる人間がまだこの村に残っているのかすら、彼には分からないのだ。


「やっぱり、宇宙人がみんなを洗脳しちゃったんだ……」


 良く見知った村人たちが、目を血走らせ、正気を失った様子でうろつき回る眼下の光景は、彼にとっては悪夢でしかなかった。 

 彼は怯え震える腕で、枝をしっかり抱きしめる。しかし、彼の心と身体をどうにか支えている枝が大きく揺れた。

 時に優しく、口やかましく彼の悪戯を叱ったであろう近所のおばさんが、目を血走らせ、そしてその太ましい身体をぶるんぶるんと揺らして、再び柿の木を登ろうとその枝を掴んだのだ。


「ひ……っ、やだ、止めて! お父さん、お義母さん! 助けて!」


 ごつごつした木の肌をしっかり掴んでいたはずの指から力が抜ける。もはや心も身体も限界だった。このままでは、バランスを崩して枝から落下するのもそう遠くない。

 彼はぎゅっと目をつぶり、自身の落下を覚悟する。しかし、ふと彼は顔を上げる。目を閉じ、自然と澄まされた彼の耳に低い唸り声が届いたのだ。

 それは獣でも、正気を失った人間のものでもない。大型車に搭載される、エンジンの唸り声だ!


 視線を向ければ、通りを一台のトラックがこちらに向かっている。それほど速度を出している訳ではないので、正気を失った村人たちの足でもなんとか避けることが出来る。いや、あえて避けられる速度で走っているのだろう。

 トラックは耳の痛くなるようなクラクションを数度鳴らす。柿の木の下にいた村人たちは、思ったよりも機敏に進行方向から逃げていった。

 彼はただ唖然としてこちらに向かってくるトラックを見ている。その時、彼の耳に見知った声が届いた。


「ケント君、荷台に飛び移って!」


 その声に導かれた訳じゃない。しかし、今を逃したら助かる機会はないだろうことを悟った彼は、トラックの荷台に見えた人影に向かって勢い良く飛び降りたのだった。





  ※   ※   ※   ※




 ケント少年は無事にトラックの荷台に飛び移った。いや、荷台で待ち構えていた村長さんを巻き添えにして落下したと言った方が正確かも知れないが。

 それでも無事にケント少年を受け止めるという任務を成し遂げた村長さんを、私は賞賛する。


「やったね、村長さん。無事に村の外に逃げられたら一杯奢るよ!」


 口に出してみたら縁起でもない死亡フラグのようになってしまったが、まあ気にしない。

 何しろ、走る車の荷台とは言え、寄生虫に操られ正気を失った村人たちが闊歩する中、表に出ていたのだ。その勇気は称えられてしかるべきだろう。

 ちなみに、最初にその役目は私が立候補したのだけれど、あえなく神官長に却下されてしまった。神官長は心配性だ。


「いやはや、それはありがとうございます。しかし、ワシは酒は一切飲めない性質ですので、代わりにヨーグルト牛乳でも奢ってくださいませ」


 公共浴場の冷蔵庫の品揃えはあなたの趣味でしたか。

 背後の窓を振り返れば、ケント少年が村長さんにひしと抱きついていた。一人木の上に取り残されていたことが、余程恐かったのだろう。

 私は彼を助けに来られたことにほっとする。だが、まだ完全に無事になったとは言えない。

 何しろ、彼らのさらに後ろからは意外と俊敏な動きで、村人たちがこのトラックを追いかけている。


「速度を上げるぞ」


 運転席にいる神官長も、バックミラーでそれに気付いたのだろう。アクセルを踏み込む。

 さすがに車の速度には追いつけないようで、村人たちの姿はみるみる小さくなっていった。


「このまま逃げ切れるか……?」


 柳眉を険しげに顰め、神官長が呟く。村を出る道は一本。国道へ出るには、このまま通りを真っ直ぐ進んで山道を降りて行けばいいだけだ。


「大丈夫、大丈夫。女神の加護を信じなさい」

「俄然不安になってきたな……」

「どういう意味よ」

 

 確かにあるのは加護じゃなくて神官長の過保護だけかも知れないけど、こういう時は確信がなくても大丈夫と言っておくもんでしょ。むしろわざわざフラグを立てるような事を言わないで欲しい。

 敢えて言うなら、もし私たちを追いかけて彼らが人通りの多いところに出てしまったらという不安があるけれど、このままこの村に残っても我々にできることはない。それならば、全速力を出して何とかその前に彼らを撒くことに賭けた方がいいだろう。


「でも、そもそも何で私たちは追い掛けられているのかな……?」

「何を暢気なことを言ってるんだ。そう言うことはもっと暇なときに考えてろ」


 私の呟きを聞きつけた神官長が、呆れたように吐き捨てる。

 いやいや、でもこれって、結構大事なことじゃない? 私だって別に、こんなにモテモテで困っちゃう~なんて思って言った訳じゃないからね。


「だってこれまで病気で行方不明になっちゃってた人たちは、皆、滝壷とか沢とかで見つかったんでしょ」


 魔術の暴走によって斜面下の淵に落下したキューザンさんは除外したとしても、それでも一人残らず山の水辺で見つかったのは間違いない。


「何らかのきっかけで、村の人たちの症状が急激に悪化したんだとしても、向かう場所はやっぱり山の水辺であるべきなんじゃないかな」

「つまり、彼らの行動は不自然であると?」

「そういう訳じゃないけど、もし違う行動を取る事に理由があるなら、それを逆手にとって私たちを襲わないようにさせることも出来るかもしれないでしょ」


 このまま無事に私たちが逃げ切ったとしても、この村をこの状態で放置しておくことはできない。今のうちに、何らかのヒントを得ていれば多少は違うはずだ。


「そう上手くはいかないだろう」

「ええ? なんでさ」


 しかし私の提案を、神官長はすげなく否定する。


「彼らには今、理性はないように見受けられる。本能だけで動く野生動物と同じような行動パターンであると仮定するならば、およそその行動原理は三つに分けられる。まず一つ目」


 神官長は片手をハンドルから離し、指を一本立てた。

 なんだ、神官長もちゃんと考えてるんじゃないか。しかも意外とノリノリで説明してくれるんだね。まあ、神官長ってこう見えて結構語りたがりだしなぁ。飲み会とかだと、一人で延々と喋ってそうな迷惑なタイプと見た。


「外敵排除のため。我々を外敵であると判断したならば、姿が確認できなくなるところまで逃げ切れば、それ以上の追跡はないだろう」


 べちんと、彼は私のおでこをその指で弾く。ちょっ、何ででこピンなのさ! それ、カウント用じゃなかったの!? それとも思考が漏れたのか。さては、貴様エスパーか。


「碌な事を考えてないのは見て分かる」


 神官長は呆れたように溜め息をついて、説明を続ける。


「二つ目は捕食の可能性だ。我々を餌だと認識していれば、新たに食餌を得られる可能性がない限りは追い続けて来る。だがそれも、追いかけることで消費するエネルギーと獲物を食らうことで得られるエネルギーが相殺されると判断したなら、それ以上追いかけられることはなくなるだろう」


 確かに食べようとすればするほどお腹が減るなら、別の獲物を探す方が賢い選択だね。


「三つ見は繁殖のため。我々を仲間にしようとして追いかけているのなら、恐らく奴らが諦めるまで追跡は終わらないだろう」

「正解は――、三番?」


 越後製菓は関係ない。ちなみにファイナルアンサーなので、答え合わせは早めにお願いします。


「その可能性が一番高いのは確かだ」


 実際にタンデンさんも仲間にされちゃってるしね。


「だが、奴らがこれまでとは違う行動を取っているのも見過ごせない事実だ。と、なると現在の行動原理は本能に従ったものではないと言う可能性も考えられる」

「その心は?」

「寄生虫の存在を一度切り離して考える必要もあるということだ」


 つまり何ですか! 神官長の答えは、いつも核心から秒速5センチメートルくらいずれてるよ。


「だから……っ、クソッ」


 説明の途中であったにもかかわらず、神官長がふいに悪態をついて速度を落とす。

 私の飲み込みが悪い事がそんなに腹に据えかねたのかと心配になったが、正面を見れば村を出るための一本道に何人もの村人たちが押し寄せて道を塞いでいる。神官長は何度もクラクションを鳴らすけれど、彼らは動こうとしない。

 神官長は忌々しそうに舌打ちをした。


「あいつらを全員跳ね飛ばして良いなら、このまま強行突破するが……」

「よし、行こう!」

「本気でするわけがないだろうが!」


 うん、こちらも分かって言っています。

 神官長は速度を落として、脇道に入る。ひとまずここは敵前逃亡をして、村長さんから別のルートがないか確認するのが一番良い選択肢だ。

 しかし、その目論見は実行に移す間もなく、封じられる。


「危ないっ!!」


 脇道に逸れた直後、進行方向に影が飛び出してきた。

 細い道に入るため、かなり速度は落ちていたとは言え、急ブレーキは間に合わず、正面からぶつかる。しかし、その影は弾き飛ばされることなく、むしろフロントを押さえ込みに掛かった。


「ドモンおじちゃん!」


 ケント少年が悲鳴を上げる。トラックの前にぶつかるようにして立ちはだかったのは、キューザンさんに良く似た、小山のような熊――いや、大男。その目もやはり血走り、正気を失っている。彼の全身の筋肉は、雄々しく盛り上がっており、それ以上トラックが走り出すのを頑として食い止めている。お前は超人ハルクか!


「二人とも、こっち!」


 つっこみもそこそこに私はドアを開け、荷台の二人を車内に引き込んだ。一人用の助手席スペースに無理やり三人乗り込んだため、かなり無理な体勢になるけれど、窮屈だなんて文句を言っている場合ではない。

 どうにかドアロックを掛けたときには、周りは村民たちに取り囲まれていた。


「おじちゃん、どうして……」


 泣き出すケント少年を、私は胸にうずめるように抱きかかえる。

 大丈夫、これはドモンさんの意思じゃないから。操られているだけだから。私はそう慰めるしかできない。願わくば、同じように操られているはずの、ナオミさんの姿を彼が見つけることがないと良いのだが。


「これでは、無理に車を出すことも難しいな」


 仮に、周囲の村人を弾き飛ばす覚悟で車を動かそうとしても、ドモンさんを始め力自慢の村人たちに前輪を持ち上げられてしまえば走らせることはできなくなる。

 完全に手詰まりだ。


「どうしよう。どうすれば――、」


 突破口が見えてこない。このままここで篭城を続けていても、窓ガラスを壊されてしまえば、それまでだ。

 今は取り囲まれているだけだけれど、それが通用しなくなるのもすぐだろう。この状況を打破できなければ、私たちはこのまま一巻の終わりだ。


 私は、両手を組んで強く祈る。

 神様、仏様、女神様――は、私か。とにかく、誰でもいい。

 お願いだから、誰か助けて!

 私は心の中で、他力本願に全力を注ぐ。その瞬間――、


 フロントガラスにへばりついていたドモンさんを初め、村人A~Gまでが、突如ずるりと地面に倒れた。

 それに誘発されたように、ばたばたと周りにいた他の村人たちも倒れていく。

 あまりに突然のその出来事に、私も神官長も唖然としてその様子を目に写す。そして私ははたと気付いて叫んだ。


「私の祈りが天に通じたか!」

「ぼんやりしてないで、こっちに来い!」


 私の声に被さるように、聞きたくもなかった声が耳を打った。





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