シュー生地の耐えられない軽さ(6)

 かつらむきを終わらせて与えられた自室に戻ると、センはベッドに音を立てて横たわった。労働自体もそうだが、自分の身分を偽りながら過ごすのはなかなか神経を使うことだった。締めていたネクタイを寝ながらほどき、ブラウスの一番上のボタンを外し、パンプスを足だけ使って脱ぎ捨てる。そうしてもう一度ベッドに全体重を預けると、そのまま沈み込んでいきそうな感覚を覚えた。体中が疲弊している。


 いつまでこの生活が続くのだろうかと、センは天井を見ながら考えた。この部屋はやや狭いが清潔で、ユニットバスに湯沸かしポット、バスローブに使い捨ての歯ブラシ、それに百万桁分ある円周率表が備えられていた。円周率表はアクルックス星系の生物用で、彼らはこれを彼らの宗教的儀式に使うのである。儀式の中には円周率表の中の数字を息継ぎせずに暗唱するというプロセスがある。このプロセスが何のために存在しているのかはアクルックス星系の生物の間でも種々論議はあるが、未だ答えはでていない。多数派の意見は円周率の無限を神の無限の力になぞらえるためだとするものだが、開祖が円周率を唱えること自体に性的興奮を覚えていたからだという少数派意見も根強い。それでもアクルックス星系の生物は銀河じゅうで旺盛に活動しており、彼らのためにちゃんとしたホテルでは部屋に円周率表を備えておく。リルグランデの反権力団体向けサービスも宿泊業の基本を抑えているようだ。


 この部屋が嫌ではないように、この生活自体もそれほど不快なものではなかった。むしろ、一日に数度どこかの部署(大抵は開発部だが、法務部や人事部のこともある)で爆発が発生したり、シュレッダーロボットがこれみよがしにひそひそ話をしてきたり、自動販売機でジュースを買おうとすると液体飲料供給システムのバグにより紙コップの中に液体窒素が充填されるようなメロンスター社での生活より格段に安全性が高いと言えた。ハイジャック犯たちは礼儀正しく、乗客たちも穏やかで協力的だった。食事や衣服には不足がなく、住むところもこのように快適な場所が与えられている。


 しかしそれでも、センはこの生活に違和感を感じていた。自分の身分を隠蔽することによる精神的な疲れや、乗客の中にあまり馴染めていないという劣等感などとも違う、もっと別のところから来ている違和感だった。それを突き詰めて考えようとしたが、あいにく思索には少々疲れすぎているようだった。


 このまま寝てしまおうかと考えたが、しかしきちんと寝巻きに着替えてからにしないとと起きた時に疲労が残る。それに汗も流したい。センはずるずるとベッドから滑り落ち、ユニットバスへ向かった。


 シャワーを浴びてさっぱりすると、センは部屋に戻り備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。中に入っていた水を飲みながら、壁掛けのモニターのスイッチを入れる(このモニターでは契約されているいくつかのチャンネルの番組を見ることができる。わいせつな番組も用意されているが、それを見るためには別途有料となる)。いくつかチャンネルをザッピングしたが、あまり面白そうな番組はやっていなかった。適当にボタンを押す手を止めると、ニュース専門番組で止まった。


「……とのことで、今後の隕石相場の行方に注目が集まります。次のニュースです。反脱税組織『公平・中立な徴税委員会』からの要求に対して沈黙を貫いていたメロンスター社ですが、先ほど文書と映像でプレスリリースを発表しました。これによりますと、メロンスター社は『公平・中立な徴税委員会』の主張を全面的に退け、自社の納税は正当に行われているとしています。また、『公平・中立な徴税委員会』の行動は明確なテロ行為であり、毅然としてこれに対抗するとのことです」


 センはベッドに腰掛けてニュース番組を見ていたが、いきなりブブブブと振動音が鳴り始めたのに驚き飛び上がった。探ると、音は床に転がしてあるスーツケースの中からしている。急いでスーツケースの蓋を開け、中身を床にぶちまけた。


 振動音を発していたのは、スーツケースの奥深くしまいこまれていたメロンスター社の社章――環のあるマスクメロンの形のバッヂ――だった。この社章が振動するということはとても重大なことが起きているという知らせだと、社員研修のときに教わった記憶があった。そしてその後どうすればよいかということについても教わったのだが、その部分の記憶はセンの頭からひっそりと消滅していた。なんとか呼び戻そうと努力してみたが、もう記憶はセンの元から離れて広大な宇宙をさまようのを至上の喜びとしているらしく、帰ってくる気配はかけらも無かった。

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