第10話 Call of Dirty(3)

   *


『鏡』

 八角館はその名の通り、真上から見ると等しい長さの辺から成る正八角形の館である。

 入口がある部分を除いた各辺に、台形になった部屋が配置され、中心に大広間があるという特異な間取りだった。

 一階建てで、厨房や倉庫など、生活に必要なものを用意するため、自由に使える部屋は四つ。客間になっているが、どれも充分すぎるほどに広い。

 建てられた場所も特殊で、獣道すら曖昧な山の中に、ぽつんと独立したように存在している。

 社会や常識の観念から切り離されたような、奇妙な場所だった。

「ここが世界の中心、特異点……」

 鏡は招待状に書かれていたことを思い出した。

 歩きながら、虫々院蟲々居士からの手紙と、それに添付されていた地図と館の見取り図を見返す。

 彼女の黒い髪の根元からは、金色がのぞいていた。染め直すかどうかは、まだ考えていない。

「虫々院の言うことを、あんまり真に受けるなよ。あいつはその場が盛り上がりそうなことしか言ってないんだから。インチキな奴さ」

 隣の由良は、虫を素足で踏み殺しながら歩くような不愉快を、隠そうともしない。

 以前に、灰川が解決した事件に『八角塔四重密室殺人事件』というものがある。そのことを思い出しているのだ。なまじ愛情が深かっただけに、反転した気持ちを持て余しているのだろう。

「そうじゃない。これは八角塔の殺人を、わざと思い出すようにさせられてるんだ」

 と、由良は言う。

「これはだ。琴音の進退がかかってる僕らは紙切れ一枚で来るように仕向けられるけど、灰川はそうもいかない。おびき寄せて一網打尽にするつもりなんだろうな」

 由良を切ったあの電話以降、灰川の行方はようとして知れない。

 最も親しい間柄であったはずの由良ですらわからないのだから、下手に調べるよりも向こうから来るように餌をまく方が効率的と見たのか。

「本当に来るんですか? 灰川さんなら罠だって見破りそうですけど」

「絶対に来る。罠を見つけたら、正面から踏み破って勝ち誇るのが趣味みたいな奴だぞ」

「あー、そういうの好きそうですよねえ……」

 鏡は納得せざるを得なかった。

 道幅が狭くなったために車を降りて、歩くこと一時間。大きく道を外れたようには思えないが、そもそも道があってないようなものなので、気付かぬ内に遭難していたとしてもおかしくない。

 鏡も、後ろに続く一行も酷く疲れた様子だった。

 由良と鏡と琴音、そして津田と風間の五人組である。

 ──先日、虫々院から招待状が届き、舞台となることが定められた八角館を目指すことが決まった。

 その時は元々、津田と風間は同行する予定はなかったが、勝手に聞きつけ、ついて来ることになった。

 鏡はその時の津田の眼に、良くないものを見た。が、由良が何も言わなかったので、任せることにした。

 自分の性能だけに頼みを置くと、他人の性能が見えなくなる。

 誰にでも理由があり、それが彼らを動かしている。

 由良にも理由があるのだろうか──鏡は考える。

 彼は狂っている。それは間違いない。

 価値観を社会と共有出来ない人間は、社会の内側にいる人間からは狂気の虜にしか見えない。由良は鏡たちとは別のものを見て、別のものを大切にしている。

 由良に理由があるとするならば、それは灰川以外にはありえないと鏡は推測している。しかし、この一年で灰川との絆は失われた。

 ならば、何が今の彼を動かすのか。

 琴音を助けることが由良の魂を生かすことに繋がる、という話は聞いた。しかし、突き詰めてしまえば、今の由良には

 鏡は、由良を信じている。同時に、急にどうでもよくなって見捨てられることを恐れている。

 歩き疲れておぶられている琴音が、由良の背中で猫のミケランジェロとじゃれている。彼女の美しさは由良や虫々院が言う通り、日を追うごとに増大し、分厚いガスマスクの上からでも妖しくも無垢な艶めかしさを予感させていた。

 ミケランジェロは琴音と由良の身体でサンドイッチされて苦しそうだが、鳴き声一つ上げない従順さを見せていた。

 三毛猫は本来なら、オスは生まれないらしい。猫に触れるのも嫌がりながら、由良が以前言っていた。

 ふと思う──琴音のは何かと。

 琴音がわがままらしいわがままを言うことは、ついぞなかった。

 頼りにされない自分であることに、ふがいなさと寂しさを感じる。

 ──いいさ、これが終わってから聞いてみよう。

 つまり、それが鏡の理由だった。


「血のにおいがする」

 ようやくたどり着いた八角館のドアに手をかけようとしたその時、由良がぼそりと言った。

 顔色が白い。

 すぐに鏡は琴音に離れるよう、指示した。

 風間は車を降りてからここまでの歩数を忘れないように書きとめ、拳を握った。

 津田は上着の内ポケットの辺りをまさぐるようにした。

 誰もが示し合わせたわけでもないのに、己の性能が許す範囲での最善手を選び、構えた。

「開けるぞ」

 由良が再びドアに手をかけようとしたがしかし、急にドアが内側から開いた。

「助けて、助けてくれ!」

 酷く取り乱した様子で現れた男。ほとんど転がるように由良に抱きついた。

「ひっ、人が死んでる!」

 男──八幡修一郎。

 何故ここに、と驚く鏡のことすら眼中になく、ひたすらに由良にすがりつく。

!!」

「畜生、やられた」

 修一郎に揺さぶられるままに、由良は苦虫を頬張ったような顔をした。


 八角館には、自由に使える客間が四つある。

 大広間を中心に、東西南北の方位に各一つずつ。

 東──鼻を削がれ、口腔から延髄を貫通された男の死体が二つ/よく見ると似通った体格+人相=双子。

 西──部屋の中心に置かれたトランク/床におびただしい血痕/開けるのもおぞましい箱詰めの死/しかし、トランクの表面には汚れ一つなし。

 南──凄まじい数に分割されたバラバラ死体/指と爪さえ別々に/パーツごとに、部屋中の至る所に隠すように配置=悪意に満ちた宝探しゲーム/西の部屋とは真逆に、一切の血痕もにおいもせず。

 北──椅子に座ったままの女性/持ち上げたカップの紅茶からは、湯気が立っている/しかし、脈はない=生きた蝋人形の趣き/外傷や毒物の痕跡は見つからず、触れなければ死んでいることにすら気付けない。

 いずれも密室=

 彼らが部屋から出てこないままに死んでいたことを保証する生存者=目撃者=容疑者は何と、生き残った八幡家の三人である。

 八幡修一郎曰く、「それぞれ別々の要件で呼び出された。用件がでっち上げだと知り、帰ろうと思った時にはどこも鍵がかかっており、電波も通じなかった。お前らが来て、ようやくドアが開いた」

 八幡睦美曰く、「死んだ人たちとは、全員初対面だった。私たちとだけではなく、お互いがお互いに。私たちは家族だったから、大広間でまとめて寝ることになって、彼らとは別れたんだけど、一時間ほどで西の部屋から物凄い悲鳴が聞こえた。鍵を壊して開けてみると血まみれで、他の部屋の人たちにも声をかけに行ったら、みんな死んでるってわかった」

 八幡修二曰く、「俺は北の扉を開けてしまった。他の皆が死んでいるのがわかった後だったから、唯一の生き残りを見つけられたかと思って嬉しかった。だから、呼びかけても反応がなくて、彼女の身体に触れた時の絶望感は例えようもなかった。次に、どんな怪物がどんな手段を使えば、こんなに恐ろしい殺し方が出来るのかと、心底恐ろしくなった。バラバラの死体よりも、ずっと近くにおぞましい死を感じた」

 一様に怯えきった様子。

 鏡は自分を売った修一郎に対して思うところがないわけではなかったが、周囲のわずかな物音にも過剰に反応し、歯の音が噛み合わない男を問い詰める気にもなれなかった。

 話を一通り聞いた後、客間に居続けるわけにもいかず、八幡家と鏡たちは全員大広間に集まっている。

 八人が遠巻きにうろついても、まだ余裕があるほどに大広間はスペースがある。

 中でも、八幡家と琴音は接触するわけにもいかない。お互いに恐怖と嫌悪と気まずさが混ざったものを相手に抱いている。八幡家は自分たちしかいない状態で殺人が起きたため、家族間で犯人捜しを行い、猜疑心に囚われ、互いに距離を取っている。

「風間、琴音と猫を見ておいてくれ。僕は鏡と話がある」

 由良の指示に、風間は無言でうなずく。理由を深く考えない、賢い兵隊の姿勢。

 津田には声をかけない。熊谷が指摘した通り、由良にしては珍しい嫌悪の表出である。津田もそれがわかっているため、一人でソファを占領している。

 表の扉をふさぐように立つ由良に、鏡は歩み寄った。

 大広間の端から端までは遠く、ここで話せば向こうが聞き耳を立てていない限り、こちらの会話の内容は漏れないだろう。

「不味い」

 由良の不機嫌な表情はとどまるところを知らず、どんどん加速していく。

「ええ、確かに。由良さんはこの謎を解くことが出来ますか? 灰川さんが来たら次の罠が発動してしまうだろうし、なるべく早く虫々院を見つけ出して倒してしまわないと。彼は目立ちたがり屋だから、この殺人の中にヒントを仕掛けているはず」

 鏡の推論に、由良は首を横に振った。

「不味いと言ったのは、お前がそういう風に思考を誘導されているってことに、だ。そもそもこの謎は解く必要がないんだ」

「どういう意味ですか」

「修一郎が何て言ったか、思い出せ。事件の直前、この館のすべての出入り口には鍵がかかっていて、逃げられなかった。だが、僕たちが来て鍵は開いている。勝手にここから出て、警察に駆け込めばいいだけの話なのに、何故誰もそれをしようとしないと思う?」

 何ということだろうか。信じられないことに、鏡は由良に指摘されるまで、そのことを

「虫々院に、思考を操作されている?」

「玄関に繋がる唯一の出入り口を僕が抑えているのに、誰も何も言ってこないのが証拠だ。僕たちは解かなくてもいい謎を、解かなくてはならない流れに乗せられている」

「解かなくてもいい謎ってことは、あの人たちは何のために死んだんですか?」

「まず、僕らの目的を整理しよう。僕とお前は琴音を助けることが目的だ。そのためには、虫々院蟲々居士を倒さなければならないため、この館に来た。だが、倒すと言っても奴は魂の在りかが常に分散しているため、殺しきることは難しい。だから今日という琴音の美しさが最高潮に達する瞬間を守りきるか、奴とゲームをして負けたと思わせる必要がある」

「そうですね、前提条件では謎を解く必要は一切生じていない」

「だが、何のゲームをやるかを、向こうに勝手に決められた。ハメられたんだ。舞台もルールもプレイヤーも、全部向こうの都合で設定されてしまった。僕とお前の二人きりだったらそれでも良かったんだが、目撃者も複数配置されてしまった。いくら僕らが謎を無視しようとしても、無理やり解くにされる。それに、琴音だ」

「琴音ちゃんがどうかしたんですか?」

 ちらと琴音の方を見る。ガスマスクのために表情は見えないが、風間と一緒にソファに座り、ミケランジェロの毛づくろいをしている。ぶすっとした表情でされるがままになっている猫は、どうにも可愛げがないのだが、琴音は気に入っているようだった。

 風間はミケランジェロの動作のどれかを数えようとしていたようだったが、あまりにも不精な態度で反応があまりないため、すぐにやめてしまった。今は部屋に配置された観葉植物の葉の枚数を数えている。

「あの双子を見て気付かないのか? 獅子村兄弟を思い出せ。ここで起きた殺人事件は全部、

「……琴音ちゃんは、そのことに気付いているんですか」

「気付いていないフリをしているが、罪悪感のにおいがする。あのにおいを消すために、僕たちは謎を解かなくてはならない。好き勝手はしゃいだ馬鹿共に、君まで付き合わなくてもいいんだと言ってやらなくてはならない。例えそれが、自分から罠にかかりに行くことだとしても」

「もう一度、聞きます。解けるんですか?」

「わからん。虫々院は人の意識を乗っ取れる。だから、鍵を閉めて自殺するなり、協力して死体をバラ撒くなりすればいい。最初っから謎なんてないんだ。だが、それを知らない奴らには別の理由がいる。灰川なら上手くやれるんだろうが──」

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 その時、鏡はいつかと同じ、意識の空白を感じた。

「由良さん、今、何が──」

 目の前にいたはずの由良がいない。

 何か、取り返しのつかないことが起こる気がする。

「ぬうぅ……」

 低いうめき声が足元から聞こえ、視線を落とすと、そこにはうずくまった由良がいた。頭を抱え込み、表情は苦悶に歪んでいる。

「野郎……、僕の、意識を乗っ取れないから……妨害を……」

 由良は声を出すことも辛そうにしている。

 鏡の中で、嫌な予感がふくれ上がっていく。

「シーモア、シーモア! 私が意識を失っている間に何があったの!?」

 取り出したのは黒い手帳。

 鏡は急ぎページをめくるが、果たして、今まで文字が書かれていたはずの、すべてのページが白紙になっていた。

 頭の酷く冷めた部分が、自分がパニックになりかけていることを告げている。

 鏡は、自分の記憶や意識が飛ぶことには、慣れたつもりでいた。しかし、考え直してみれば、自分がどこから来て、どこに行くべきかわからないということは、どんなにか恐ろしいことだろうか。

 由良の言う、人の気持ちをにおいとして嗅ぎ取る感覚は、鏡には理解出来ない。だが、そんな彼女にも、押し寄せる悪意の予兆はひしひしと感じ取れた。

 そして、致命的な言葉が聞こえる。

「いない! 琴音が消えた!」

 鏡の目の前は、真っ暗になった。


   *


『津田』

 琴音が消えてからしばらく、大広間の中はちょっとした混沌の坩堝と化していた。

 由良は体調を崩し、ソファに寝たまま起き上がれず、風間は見張っていたはずの琴音がいなくなったことで、罪悪感に駆られた様子だった。

 八幡家の面々は、琴音が急に姿を消したことを、前の被害者と同じ道を辿る予兆ととらえ、次は自分が人知れずさらわれるのではないかと一層恐慌の念を強くした。

 しかし、最も乱れたのは鏡である。

 修一郎につかみかかり、お前がさらったのか、と迫った。

 隣に座っていたのにどうやって見失うのだ、と風間を殴りながら叫んだ。

 そして最後に、眼鏡を打ち壊さんばかりの勢いで顔を覆い、自分自身を責めた。

 津田はと言うと、その一連の流れを遠巻きに傍観していた。

 当事者ではないからだ。

 この時の彼は、一歩引いた目線から冷静ぶって、混乱の渦中にある人間を見下すことを楽しんでいる節さえあった。

 津田にとって大事なのは、持ち込んだ拳銃の引き金に指をかけるタイミングだけだった。

 灰川に良いように使われた経験から、事件が起こればアリバイや安全の確保のため、二人か三人の組になって活動することを要請されると、津田は知っていた。事件に際して由良は、捜査のために動くだろう。一人にはさせられないという名目で、自分が付くことも充分ありえる。撃つとしたらその時だ。場合によっては、目撃者全員を撃っても構わない。

 多くの人間は、殺人は絶対のタブーであると信じている。

 社会がその道徳を要請するし、実際に直面することが稀であるために。しかし、試されていないだけの人間もいる。本当は殺人など何とも思わない、むしろ殺戮に淫する才能を持つ人間も、実際に触れることがなければ、死ぬまでそのことに気付かない場合もあるのだ。

 津田は違った。幸か不幸か、彼は殺人事件に巻き込まれ、自分はそれを許容できる人間だと知ってしまった。

 初めてであるため、異様な興奮があった。彼のつたない倫理観は、それすら由良への憎しみを加速させる燃料にした。

 卑しさの本質は、己の醜さにすら興味を失わせる、究極の麻痺にある。

 心の在り様が肉体に反映された甘い痺れを、津田は快感に思っていた。

 もうすぐきっと、捜査が始まる。

 鏡と風間は、琴音を探しに行くだろう。

 疑心暗鬼に陥った八幡家の奴らなんかは、別々の倉庫や台所なんかの余り部屋に引きこもりたがるだろう。

 残った由良を介抱するのは、俺の仕事に決まってる。

 その瞬間を思うと、津田の人差し指はピクピクと痙攣した。

 きっと、上手くいく。

 由良を殺すことだけじゃない。今までずっと感じていた、行き場のない欲求、どうにも上手くいかない社会とのずれ。それらが全部消えてなくなるはず。

 そう思っていた。


 ──だのに、何だこのザマは?

 津田は拘束された自分の身体を呆然と持て余して、考える。

 困難に直面してもクールな頭と小粋なジョークで切り抜ける──そんな自分であるつもりだったが、彼は既に冷静さを失っている。

 誰もがいつか、試される時が来る。その時に何が出来るか。

 回答=お前は何者にもなれず、まがいもののまま死ぬ。悲しいと思う間もなく、通りすがりの誰かが残った死体を見て、惨めさの残滓を嗅ぎ取るだろう。

 津田には自分が既に詰んでいることが理解出来ない。

 目の前にいる自分の手首を結束バンドで縛った張本人、八幡修一郎が、上着から勝手に抜き取った拳銃を弄んでいる姿を見ても、まだ何とかなるはずだと思っている。彼には想像力がなかった。彼が勇気だと思っていたものがただの無自覚に過ぎないということが、露呈しつつあった。

「持っていきなよ」

 修一郎は、津田をこの部屋に運び込んだ後はのように突っ立っていた修二に、津田の拳銃を渡した。

 虚ろな眼で一度だけ頷くと、修二は曖昧さとロボットのような精密さが入り混じった奇妙な足取りで、部屋を出て行った。

 津田がいる部屋は、北の部屋の間取りだった。しかし、あるはずの死体はない。

「君は、テレビの心霊番組とかを楽しむ口かい。信じるかどうかは別としてもさ」

 修一郎は上着の胸ポケットのハンケチを弄りながら、言った。先ほどまでの恐慌の痕跡を微塵も見せない、伊達男の態度。

 津田はうなずきすら返さなかった。反抗心はあったが、それ以上に戸惑いが彼のすべてを支配していた。

 それをどう受け取ったのかはわからないが、修一郎は別段気にした風もなく続けた。そもそも、津田の意思など関係なかったのかもしれない。

「興味がないのなら、少し退屈な話になるかもな。世界の在り方は一通りではなく、常に形を変えている。その形を変える要因になるものが、人の持つ認識だ。クオリアの例を出すまでもなく、まず剥き出しのままの世界があり、俺たちは自分なりの認識を通じて世界に干渉する。これは原典と翻訳者の関係に似ているかもしれないな。あるがままの世界が原典、それをわかりやすく、そして、ある程度自由に書き換えて寄越す認識そのものが翻訳者。俺たちの心は、渡された本を更に自分のバイアスをかけて読みふける、無教養な読者だ。だが、この世には認識を捻じ曲げることで、逆説的に原典である世界のことわりを曲げてしまう奴らが存在する。それが悪魔だ。彼らは魂の力で世界をずらし、時空をも歪めてみせる。俺たちが立っているこの場所は、元の八角館からは位相が異なる場所に存在するのさ。だから、ここには死体がない」

「お前、頭おかしいのか?」

 津田には理解出来ない。歩み寄る気がないからだ。

 そして、それは修一郎も同じことである。彼の眼は六億光年先の何かを見ている。

 言葉が心の通貨だというのなら、彼らはお互いに不渡りを出していた。もはや会話が意味を持つ段階ではなく、自分自身の心の慰めのためだけに一方的に消費される音の連なりがあった。

 修一郎は言う。

「極めて正常だ。自分の知らない世界が存在しないと確信している奴らこそ、狂気の虜だ。常識という名の狂気! 俺は世界でたった一人のまともな人間だ。お前は想像出来るか、人の意識を乗っ取り、ありとあらゆる場所に偏在する化け物を。俺はその化け物とも良好な関係を築いている。お前を拉致った修二の眼を見たか? 何も映してないガラス玉みたいな眼だったろう。琴音をさらう時も、お前をさらう時も簡単だった。ずれた先の世界じゃあ、誰も邪魔できないし、虫々院の手引きでどいつもこいつも俺の下僕になってくれるんだからなあ。俺はただの人間だが、悪魔の奴らと同等に振る舞うことが許されているんだ。虫々院は言ってたぜ、『キミのように自らの卑しさにどこまでも忠実になれる人間は貴重だ。その魂はさながら、どす黒い結晶だ』と。お前も俺と同じだ。生粋のクズ野郎だ。これからこの館にいる奴らは、ことごとく絶殺されることになるだろうが、お前だけは助けるように、口を利いてやっても良いぜ」

「何を言ってるのかさっぱりだわ。やっぱりお前、狂ってるよ」

「結構。それならそれでいい。お前は引き続き、由良をおびき寄せるための餌になる」

 津田は顔をしかめた。

「あいつが俺を助けに来るわけがない」

「そうかな。そうかもな。本当は全部どうでもいいのかも。俺にはわからん。俺に出来るのは、退屈しのぎにコインを投げ続けることだけだ。きっと、表が出ようと裏が出ようと、知ったことじゃない。投げること自体に意味があるんだ」

 津田には目の前の男が言っていることの意味がわからない。恐らく本人にすらわかっていないのだろう。

 彼にわかるのは、八幡家がみんなグルで、奴らは何らかのトリックで人の意識の裏を突き、人さらいが出来るということ。自分は罠にハメられて、助かる見込みも薄いということ。他にももっと、知るべきことがあるのかもしれないが、思い至ることはなかった。授業中に居眠りをする学生の怠惰さで、己の性能の限界を放置したのである。

 不意に、いくつもの壁越しに、くぐもった銃声が聞こえた。

「俺の銃だ!」

「だろうな。誰に当たったのか、賭けてみるか?」

 修一郎は突然の発砲音にも動じた様子がない。

 屈辱だった。

 その銃は、俺が撃つはずだったのに。

 津田にもわかることがある。

 それは、今撃たれたのはきっと、由良に他ならぬということである。


   *


『由良/??』

 ジャミングめいた魔力の奔流による苦痛も癒えきらぬまま、男は世界がずれる感覚を察知した。

 いよいよ虫々院蟲々居士が動き始めるということである。

 ソファに寝転がったまま辺りを見回すと、元々山奥には不相応なほど広かった部屋が更に拡張され、グネグネと入り組んでいた。器から漏れ出した魂が、時空を歪めているのだった。

 しかし、彼はそれに際して、奇妙なほど心が動かなかった。

 身体がだるく、少しも動く気にならない。まばらに生えた髭が、ソファの革とこすれて不愉快だった。

 不思議だ、と思う。

 琴音を助けたい。

 鏡が困ってるから、味方になってやらないと。

 僕は探偵助手だから、事件を解決しないと。

 えーっと、それと、あー、なんだっけ。自分がまがいものじゃないって証明したかった気がする。

 それらの思いが、急速に遠ざかっていくのを感じる。大切だったはずのものが、全部どうでもよくなってしまう。

 怖い。

 大切なものがゴミになってしまうのが、ではない。もうそれは、既に大切ではないからだ。次に得るものもいつか飽きてしまうのだろうか、という先行きの不安さから来るものだった。

 そして、それは未来への絶望と同義だった。

 何をしても、すべて無駄になってしまうことが、あまりにも露骨に見え透いてしまった。

 普段なら、気の迷いと断じられる思いが、この時ばかりはどうしようもないほどの重さで彼の背にのしかかってきた。そのせいで、ソファーから起き上がる気にもなれない。

 眼だけをグルグルと動かして見ると、大広間には人っ子一人いない。さっきまで、八幡家の面々や鏡や風間がいたのに。彼らはずれる前の世界に置いてけぼりにされたのか。

 ふう、と細い息をつく。ため息すら景気が悪い。どうにかしたいが、その思いすら頭に浮かぶ先から霧散して、どうにもならなくなっていく。

 不意に、大広間のドアの一つが開いた。

 とっさに誰か確認しようとするも、本来あるはずの位置に影も形もない。

 彼は歪曲した時間と空間の狭間で、多元的な視界を得た。男が寝そべるソファからは観葉植物が邪魔になって見えない扉の下に、猫がいるのを感覚した。

 猫は、琴音と一緒に消えたはずのミケランジェロだった。

 ミケランジェロは扉を開けるだけではなく、丁寧に前脚で閉めた。

 その様子を見て、男は急速に頭の中の霧が晴れていくような気がした。

 そして、自分が何者なのかを思い出した。

「魂の力で完全に複製された人間は、オリジナルと区別がつかない」

 猫は言った。

 男は当然のようにそれを受け入れた。

 何故なら、彼は猫がもう一人の自分あることを、理解していたからである。

 男の身体は急速に崩れつつあった。

 ミケランジェロはもう一人の彼であり、同時に彼のドッペルゲンガーだった。

「僕の話を聞いてくれ。本当はもう、お互いに言わなくてもわかってることなんだろうけど、犯人が自分の仕出かしたことを独白するのは、お約束だろう。僕も、お前も、そういう流れからは逃れられない状況になってるんだ」

「ああ、わかるよ。好きなだけ言えばいいさ。ここで聞いていてやるから」

 猫は首肯した。

 喋るだけでも面妖だというのに、猫と彼の声はまったく同じだった。しかし、それを奇妙に思う第三者はここには存在しない。

「そうだな……どこから話そう。やっぱり、最初の入れ替わりの時からか?」

「あの時、僕は八幡修平に負けた。我ながら、弱くて弱くて嫌になる」

「うん。そして、拘束されて意識を失った。その時に、修一郎の身体の中から現れた虫々院に魂のを取られ、複製を作られた」

「修平を倒したのも、僕を解放してくれたのも、本当は皇だ」

「じゃあ、車の中で僕が話した虫々院との会話は、植えつけられた偽装記憶か」

 二人の会話は、定められた一本の線をなぞるかのごときスムーズさで進められた。彼らは一種の共犯関係にあった。

「オリジナルの僕は灰川と海外へ。まがいものの僕は琴音の世話をしていた」

「海外に行ったと言っても、行きっぱなしじゃあないだろう。知っているぞ、ツバメは一日に300kmものをすることを。オリジナルは隙を見ては琴音を守りに来ていたんだ」

「環境と経験によって個性に差が出ないように、虫々院のネットワークで同期を図っていたようだが、さすがに一年も経てば限界か」

 猫の言葉に、ソファの男は無理に手を上げて応えた。指がもろくも落下し、砕けて白っぽい粒子と化した。

「でも、どうなんだろうな。灰川はまがいものの僕に、一度も『由良君』とは呼びかけなかった。あいつにだけは、僕たちの区別がついていたのかもしれない」

「鏡の手帳にまがいものの内心が表示されたのは、虫々院のネットワークに繋がれていたから。同じようにネットワーク内にあるシーモアには傍受出来たわけだ」

「虫々院に琴音の情報が入るが、まがいものの僕を消したところで、大した違いにはならなかっただろう。僕は琴音を助けるために、それすら利用した。実際よくやったと思うよ、本当にね」

 自然と、彼らは自分たちの人称を統一していった。区別をつける必要がないことに気付いたのだ。

「そろそろじゃないか、僕」猫が、男の崩壊度合いを見越して声をかけた。

「そうかもな、僕よ。これが死ぬって感覚なのかどうかは、正直わからない。まったく同じ僕がこれからも生きていくのなら、僕がなくなるようには思えない」

「今は生きてるが、虫々院に負けないとも限らん。あいつは適当な奴だけど、この期に及んで負けた僕を見逃すとも思えないしなあ」

「僕が負けようと僕の勝手だが、琴音だけは助けていけよ」

 もはや口を動かすごとに、ぼろぼろと身体がほころびていったが、男は必死に言いすがった。

「頑張るけど、助かったと思うかどうかは結局、あの子次第だぜ」

 猫の言葉に、男はもう返事をしなかった。口も声帯も、そこにはもうなかったからだ。

 ソファの男──この一年間、鏡たちが由良と呼んでいた人間は、わずかな痕跡すら残さず魔力の霧と消えた。

 猫は来た時と同じように、前脚で器用にドアを開け、そして閉めた。


   *


『鏡』

 鏡は狂っていた。

 八角館には広さはあるが、部屋数がそこまで多いというわけではない。だが、どこを探しても琴音を見つけられない。

 焦燥、罪悪感。愛しさ故の苦痛が鏡を責め、苛んだ。

 狂わずにはいられなかった。

 死体が残る客間に押し入り、服が血で汚れるのも意に介せず、物をあさりまくった。現場の保存など、知ったことではなかった。

 文字通り館の中を東奔西走し、わけのわからぬことを口にしながら琴音の痕跡を追った。

 口角には血混じりの不気味な泡が浮き、完全に我を見失っているのが明白であった。

 風間はそんな鏡に、忠実な影のように付き従った。彼なりに、己の失態を悔いていたのだった。鏡と一緒に走り回り、その歩数を数えることもしなかった。

「ねえ、あんた。少し落ち着きなって」

 鏡にやや腰の引けた声を投げかけるのは、八幡睦美。

 汚れがまるでない北の客間の死体をベッドに隠し、一時休憩場所として彼女らが使っていたところに、鏡が殴りこんだのだ。

「落ち着け? よくもまあ、そんなことが言えますね。落ち着けば、琴音ちゃんが戻ってくるんですか」

 今の鏡は、眼は血走り、爪の間には乾きかけの血がこびりついている。そんな彼女の獰悪な視線を受けて、平静ではいられず、睦美は酷く気まずそうにした。

 しかし、意見を撤回することはない。

「バタバタされると、こっちまで落ち着かなくなるじゃないのさ」

「のんきなものですね。修一郎さんと修二さんまでいなくなったというのに。あの人が琴音ちゃんをさらったんじゃないですか。私を拉致したように。家族のあなたたちを抱き込んで」

 津田もその姿を消していたが、鏡はそのことに言及しなかった。彼が銃を持ち込んでいたことを鏡はとうに見抜いていたし、撃つべき対象が由良であること、由良がその程度で死なないことを確信していたのである。

 鏡の煽るような言葉に気色ばんだ睦美が、やや丸い顔を赤く染めた。

「私らを疑うってのかい?」

「そう聞こえませんでしたか」

 女ながらに今にも手を上げかねない睦美の様子を見て、風間が鏡の前に一歩進み出た。

 一触即発の空気が、辺りに満ちる。


 ──均衡を崩したのは、外部からのものだった。

 外から遠く、破壊音がした。

 狭い獣道を、何かが無理やり押し広げながら通るような、樹がひしゃげる音。

 強引なエンジンと、それに混じった何かの音である。

「……ックック……ク…………」

「何か聞こえません?」

「フッフ……ッフッフッフ…………」

「外か? 何かが近づいてきてる」

「……ハーーーーーーーーッハッハッハッハッハ!!!!!!!」

 勁烈けいれつなまでの自負心に満ちた、哄笑であった。

 直後、鏡たちがいた部屋の外壁が轟音と共に砕け散った。

 こげ茶色の鋼の塊が、泥や木々の破片と一緒に室内に突入、蹂躙していた。

 それは装甲車であった。

 火器こそ積まれていないが、一般の乗用車とは一線を画す、ひたすらに実用的かつ威圧的なフォルム。

 そのドアが開き、笑い声の主が姿を現す。

 もうもうたる土煙の向こうに、睦美は声を荒げた。

「誰!?」

 返答はさらなる暴力だった。

「僕だ!」

 言葉が相手の鼓膜にたどり着くより早く、襲撃者の蹴りが睦美を上へと吹き飛ばしていた。

 何たる恐るべき脚力か。彼女は天井にぶつかって跳ね、床に叩きつけられてもう一度軽くバウンドした。死んでもおかしくないほどだが、奇跡か技術の賜物か、睦美はうめき声を上げる余力を残している。

「僕は探偵、灰川真澄! 悪党どもに終わりを告げる雄鶏の鳴き声!! 止まぬ雨、明けぬ夜を粉砕する天の炎よ!!! 者ども見よ、そして称え、喝采せよ!!!! 神の凱旋に歓喜したまえ!!!!!」

 三つ揃いのスーツに二重回し。鹿打ち帽を目深にかぶり、不敵な笑みを浮かべる。

 どうしようもないほどに、灰川真澄だった。

 いっそエンジンや館の壁をぶち抜くよりも大きな声で笑う灰川に、周囲は圧倒されるばかりである。

 それに水を差したのは、鏡たちの背後からの声だった。

「灰川。こっちはもういいよ」

「ご苦労だったね、由良君」

 振り向いた先にいたのは、鏡の知る由良ではなかった。

 さっきまでとは服が微妙に違う。しかし、それだけではない。

 あおぐろい静脈が透けて見える手のひらは、わずかに震えている。

 元々病的な色であった顔からは血の気が完全に失せ、落ち窪んだ眼の下にはどす黒いが浮いている。一本も髭がないのが、かえって不気味だった。

 凶相である。

 まるでいくつもの夜を、理不尽への怒りに身を焦がし、眠ることさえ許されずに過ごしてきたかのようなかおであった。

「あ、あんた、いきなりやってきて何を」

 床からの睦美による当然の抗議は、灰川のトーキックで遮られた。

「ふふん、馬鹿め。探偵の邪魔を出来ると思うな」

 ぐったりした様子の彼女を踏みつけ、灰川は鏡たちに歩み寄る。

 魔王──という言葉が鏡の脳裏をよぎった。

「さてさて、僕が来たならばすべてお開き、みぃんなご破算だ。後は楽しい謎解きの時間と行こうじゃないか」

「はっ、灰川さん! 琴音ちゃんがいないんです。先に探してください!」

「えー」

 不満げな表情の灰川。

 あくまで自分の欲望にしか興味を持たない、傲慢な探偵だった。

「灰川、この館や事件は、全部見立てになっている」

「だそうだ。あとは自分で考えたまえ」

 由良の言葉をそのまま横流しし、次の部屋に行こうとする灰川。

「待ってください、それじゃあわかりませんよ!」

「君の眼は一年前から変わらず、ただのガラス玉だな。いいかい、見立て殺人というものは、それが見立てであると観測するものによって初めて完成するものだ。八角形の館を用意したのは僕に対するアピール、ならば殺人は誰のためにされたのか?」

 鏡は一瞬それは自分であると思いかけるが、すぐに間違いだと改める。

 このゲームは、虫々院が由良と鏡を相手にするために設定されたが、あくまで目的は琴音を手に入れるためのもの。

 ならば──

「琴音ちゃんが対象ということですか」

「地下室だよ」

 聞くが早いか、鏡は飛ぶようにして走った。風間すら、ついて来ることが出来なかった。

 すべてが頭の中で繋がっていた。

 鏡が向かったのは、南の部屋である。

 執拗に分解された人体のジグソーパズルが、眼前に広がる。

 部屋の隅やベッドの下、カーテンレールの上など、至る所に配置された血の気のない死体のピースを集めても、何故か見つからないものがある。

 鏡には、それがどこにあるのかわかっていた。

 直感に突き動かされ、鏡は本棚に手をかけた。

 本をすべて床にぶちまける。

 一冊だけ、やけに固い手応えで、動かない本がある。それは偽装されたレバーだ。ためらうことなく、鏡は本を引いた。

 引きずるような音を伴い、本棚がずれた。

 剥き出しになったはしごは、地下室へと続いている。

 携帯のバックライトを点けて照らして見ると、暗い穴の底にある、二つの眼球と視線が合った。

 悪趣味なパロディ。

 狂気の戯画化。

 暗がりからはどす黒い風が吹いていたが、鏡の心には一片の恐れもなかった。

「殺す」

 鏡は、闇に身を投じた。


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