第7話 眩暈を支える人たち


   *


 僕が人間じゃなくなってもどんな冒険を潜り抜けてきたとしても、日は暮れるし家には帰らなければいけない。

 そのことを煩わしくは思わず、むしろ日常が続いてくれることを一種の救いのように思う。

 本格的に探偵助手になってしまったり、また悪魔としてやっていく上で人を殺すことがあったら、僕にも本当の意味で敵が出来るだろうし、そういう輩はきっと僕の家族を狙うだろう。

 だからここで安らぎを得ることが良いことなのか悪いことなのか、と複雑な気分になる。

 二階の僕の部屋に向かう途中、階段の手前にある父の部屋の前を通る。

「おかえり、俊公」

「ん、ただいま父さん」

 父は時々いるのかいないのかわからなくなるくらい物静かだ。それでも向こうからは確実に僕や弟がいることを察知して、こんな風にふすま越しに声をかけてくる。

「最近……、その、頑張ってるみたいだね」

「……うん」

 んでもってそれはいつも大事な話なんだけど、父自身が父らしさみたいな態度を毎回決めかねて、親子としての距離感が曖昧になるせいで、僕らとしても対応が難しくなるのだ。

「君が何を頑張っているのかはわからないけどね、君が本気になれるものを見つけてくれたことを、父さんは嬉しく思うよ」

「うん、ありがとう」

 僕が夢中になってる覗き込んでいるのは人殺しのことで、僕自身遠からず人を殺すことになるだろうと言ったら、父はどんな顔をするだろう?

 恐ろしい気持ちと同じくらい、試してみたくなる。

「父さん、僕がもしかしたら期待はずれの人だって考えたことはない? みんなが普通に出来ることの半分も仕事が出来ず、悪いことをしようとしていたら、なんて」

「うーん……」

 それから、しばらくの沈黙があった。僕から父の表情を見ることは出来ないせいで、自分の心臓が張り裂けそうになっていることだけが感じられた。

「父さんがこれから言うことは、社会的な価値観からは逸脱することかもしれない。でも、聞いてほしい」

「うん」

「人と人の間には、距離が必要だ。どんなに親しい間柄でもね。誰にだって自分の都合というものがある。人の都合ばかり聞いていては、生きられない。少し問題かもしれんが、大多数の都合を侵害してしまうものが一般的に『悪』と呼ばれるものなのかもな。しかし、それが自分にとってはどうしても必要となるときがある。ならば、やりなさい」

「僕は、父さん、僕は」

「父さんはね、そして母さんも、君とアキが幸せになってくれることを心から願っているよ。本当ならね、父さんは君たちが触れるものすべてから棘を抜いてやりたいし、君たちが口にするものすべてに甘い味付けをしてあげたいんだよ。でも、そんなことは不可能だし、君という一個の人間の尊厳を認めないことになるだろう? だから、君の好きなように幸せになりなさい。そのために必要なことがあるのなら、ためらわず行動しなさい」

 かろうじて「……ありがとう」とだけ言えたことは覚えてる。

 それから僕は階段を上って自分の部屋に戻り、少しだけ泣いた。


   *


 僕には友達がいない。

 そのことをまったく寂しいと思わないわけではないけれど、それ以上に友達になりたいと思える人に会えないのだから、仕方のないこととして生きてきた。

 でも、それは間違っていたのかな? 思い出すのは皇に言われたことばかり。馬鹿げた話だけどね、うふふ、僕は傷ついているらしいぜ。あはは。

 灰川は気分次第で勝手に姿を消すことがあるので、わざわざそれに関して僕は気にしないようになっていた。授業が終わって休み時間が始まった瞬間にはもういなかったので、きっとトイレにでも行ったのだろう。

 学校にいる間中、彼女のマシンガントークに煩わされないことがこんなに珍しいことだと感じるほどに、僕は毒されている。

 隣でお喋りする相手がいないせいで、やけに教室中の声が頭に響くような気がした。

 ──あなたはこの世を愛しいと思える何物をも持たずに生きてきたのよ。

 母にも、僕は減点方式で世の中を見ているって怒られたっけ。

 悪い所ばかりを取り上げて、勝手に幻滅して嫌いになっていくのは確かに馬鹿みたいだ。だけれど、僕は他にやりようを知らない。

 母は僕以上に僕のことをわかっていて、“最も近くにいる他人”としての領分をはみ出さない程度に何度か忠告をしてくれた。

 曰く「お前は人を選ぶ癖がある。その思考は酷く傲慢なことだ。人はそれをお前を嫌う理由にするだろう」。

 酷くこたえた。本当のことだったからだ。でも、僕の根っこの部分にある黒いものを洗い流すには至らなかった。

「この世には悪い奴がたくさんいて、僕は弱っちいから。殺されるわけにはいかないから」

 そう言った。

 母は悼むような目をしていた。

「この世には悪い人ばかりではない」そういうことを言う人がいる。それはそれで正しいことだけれど、同時に悪い奴がいなくならないってことをも肯定していて、この世の悲しさを全然和らげてはいないのだ。母は悲しみの意味をよく知っている人だった。

「私はお前よりずっと先に死ぬ。だからお前の人生に全然責任を取ってやれない。だから今、聞くぞ。本当にお前はそれでいいんだな? 悲しくて悲しくて仕方ないけど、それでも生きていくんだな? 途中で折れたりなんかしたら母さんは悲しいからな。絶対に許さないからな」

 こんな時の母は本当にずるい。涙ぐんだりなんかするんだもの、僕はまったく逆らえないし、父が頭の上がらないのも道理だと思った。

「僕は一人でも夢を描けるから。誰のことを好きになれなくてもいいから」

 何で僕はこんな答えをしたんだろう?

 どうして「誰にも好きになってもらえなくてもいいから」と言わなかったんだろう? わからないけれど、同じ質問をされたらまた同じように答えるだろうという確信がある。

 ならばつまり、僕はそういう人間なのだな。決め付けるとわずかに気分がよくなった。

「やっぱりあんな先輩と付き合うのやめた方が良いって~」「新劇のエヴァはさー作画は良いんだけどー何か違うんだよなー」「お腹減った」「ガム食ってんじゃん」「ガムは食わねえよ」「飲めば?」「飲まねえって」「ヤバくない?」「ヤバい」「誘拐事件怖い~」「給食のソフト麺が俺嫌いでさ、食べられなかったんだよね」「新しい靴欲しい」「DVD買った?」「嘘」「クソゲーだって、それ」「僕は村上春樹は嫌いだな」「ライブバージョンだと、間奏が違うんだって」「体育のヤマタカが、この前休んだ分レポート書けって」「馬鹿じゃん」「この前貸した500円返せよ」


「……うるさい!」


 しん、と静まり返った教室と、みなの目線が僕に集まるのを見て、僕がすごく馬鹿なことをしでかしたのに気付いた。僕は無意識に立ち上がり、叫んでいたのだった。

「何、あれ?」「うるさいって誰が?」「ってかお前の方がうるせーし」「言えてる」「あいつ最近調子乗ってるよな」「灰川さんに何かやらされたのかな?」「陰(いん)キャラのくせに」「意味わかんない」「あんなデカい声出せたんだ、あの人」「どうかしたの?」

 僕は馬鹿だ、僕は馬鹿だ、僕は馬鹿だ僕は馬鹿だ僕は馬鹿だ!

 誰に言い訳をすることも出来ず、顔を真っ赤にして立った勢いのままに教室を飛び出した。

 惨めだった。

 雨に濡れた段ボールにでもなったような気分だった。廊下をただふらふらと歩いて、水道を見つけたので意味もなく手を洗った。

 落ち着くんだ。とりあえず、次の授業にはちゃんと出るんだ。変に傷口を広げる必要はない。ただ普通にしていれば、みんなすぐに飽きて忘れる。大丈夫大丈夫大丈夫……。

 俯いていると、手を切るような冷たい水に赤い色が混ざっているのに気付いた。僕は空いてる左手の爪を噛んでいて、割れた爪から滲んだ血が垂れていたのだった。

「う、うぐうふうふう……」

 嗚咽が漏れたけれど、眼はビックリするほど乾いていた。僕は泣くことも上手く出来ない。

「由良、由良」

 声をかけたきたのは男子生徒だった。

「この前の焼き肉パーティのことさ、考えてくれた?」

 この前の焼き肉パーティ?

 ……少し考えて、灰川が事件について聞くために接触してきたときのことを思い出した。そんなのもあったね。じゃあ、こいつはクラスメイトか。そんなのもあったね。

「えっと、悪いけど……」

「みんなさ、お前が来ると喜ぶと思うよ。お前が来れば、灰川さんも来るだろうし」

 僕が来ても喜ぶ人なんかいない。適当なことを言いやがって。

 相手を観察しろ。

 うっすらと口元にヒゲが生えていて、制服のズボンもほこりが付いていて汚い。しかし、髪の毛からは安物だがヘアワックスの青リンゴのにおいがするし、Yシャツもその胸元から見える柄シャツも洗濯が行き届いていて、その崩し方がファッションの一環だということがわかる。つまり、僕とは相容れない人種。体毛が薄い。眉毛を整えるのに一度失敗したが、中々新しく生えてこないから前髪を下ろしている。

 見下した半笑い/腰が引けていて、僕との間に微妙な距離を置いている=膨らんだ風船を突っついて度胸試しをするような態度。

 僕が誘いに乗っても大爆笑、ここでキレても安全圏から大笑い。そんなところか?

「おたく、ジャンケンが弱いんだな」

「は?」

「誘いに来るのはおたくじゃなくても良かったはずだろ。ジャンケンで負けたから来たんだ」

「な、何を……」

「あみだかとも思ったけど、僕がいる所まで来るのには、くじを作る時間はなかった。だからジャンケンだ」

 おい、まさかそれ以外の人間関係のベタつきまで僕に解説しろなんて言わないよな?

 薄めようとしても、滲む性欲。薄く暴力をチラつかせて、本来なら手の届かないものを台無しにしたいという、いやらしい気持ち。僕には全部伝わってくる。

 僕が惨めなのは、僕が僕だからだ。それはもういい。諦めた。けれど、灰川を汚すためのダシに使われるのには、我慢ならない。

「ま、まあ、みんな友達もいっぱい来るし、由良も来るだけ来てみれば楽しいかもしれないじゃん?」

「僕に! 友達なんて、ムグッ」

 急に後ろから口をふさがれて、僕は盛大に舌を噛んだ。鉄の味がする。

「その話、乗ったよ。僕も由良君も参加予約だ」

 強引にあごをつかむのは、白くて柔らかい六本指。

 ──灰川だ。

「そっかそっか、来てくれるのか。サンキュー。みんなにも言っとくよ」

 それじゃ、と言って足早に男子生徒は去って行った。馬鹿にする気持ちと、何をされるかわからないという怯えが混ざっているせいで、中途半端な態度になっている。

 本人はただ僕のことを見下しているだけのつもりなんだろうけど。

 水道に唾を吐くと、血がたっぷり混ざって赤黒いマーブル模様になっていた。つまり、依然として最悪の気分ってこと。

「由良君、爪。割れてるよ」

「うん」

 灰川は手早くポケットから絆創膏を取り出すと、僕の親指に巻いてくれた。

「それからネクタイ。きつく締めすぎだ。襟も曲がってる」

「うん」

 僕はされるがままだった。

「それから!」

「うん」

「君、『僕に友達なんていない』と言おうとしてただろう」

「うん」

「認識を改めたまえ。僕がいる」

「……ごめん」

「わかれば、いいさ」

 うがいをすると、口の中の血は止まっていた。

 鉄の味はもうしない。


   *


 コンコン、ココン。


 硬いノックの音で目が覚めた。

 時計を見ると、夜の11時近くだった。晩御飯も食べずに寝てしまっていたらしい。母には悪いことをした。

 口の中がやたらと乾いている。

 着替えもせずにダラダラしていたせいでしわくちゃになった制服を見て、ウンザリする。

 また正しく眠れなかった。気分が悪い。


 コン、コンコン。


 急かすようなノックの音は依然として続いている。窓の方だ。電気をつけてから歩み寄る。シチュエーション的にはちょっとしたホラーだ。

 雨戸も閉めていなかったベランダに、誰かがいるらしい。タメても仕方ないので、チャッチャと障子を開けることにする。

 果たして、そこにいたのは灰川だった。

「今から」「出かけるぞ」「玄関で待つ」「一分後」

 窓越しに口パクで一方的に用件を伝えると、灰川はまるで猿のような身のこなしで、ベランダから雨どいを伝って下に降りて行った。


 ──階段を降りる。

 僕は時間の概念に疎い。

 母に時計の読み方を教えてもらわなかったせいだ。僕と弟を主に教育したのは母で、彼女の教育は常に僕たちを一個の人間として突き放したものでありながらも、僕達が生きていく上で必要な技術を身につけさせようとする、ある種のストイックさがあった。

 ──台所でコップに水を注ぐ。

「長所を伸ばすか、短所を補うか。お前はどんな人生を選ぶ?」

「うーん……、良い所を、伸ばしたい」

「そうか。お前の長所は感受性が強いということだ。あとは誠実だったり分をわきまえていたり優しくあろうとしたりするが、他人からしてみればそんなことは関係ないからな。ただ能力を磨きなさい。生きていくためにはそれが必要だ」

 ──口を湿らせる。それだけで随分気分が良くなった。

 時計の読み方を知ったのは小学校に入ってからだった。母が言うには、「お前は時間を気にしていては、良い仕事が出来ない」とのことだった。一般的には良くないことなのかもしれないが、僕は母のことを正しかったと現在進行形で思っている。

 愚かさは弱さであり悪にもなるけれど、ある種の無知さは逆に力にもなることを僕は学んだ。

 ──ポケットを探る。家と自転車の鍵、携帯、財布。問題なし。

 僕は腕時計を持たない。携帯を見ない。人と約束をしない。社会的な価値観からは離れていく一方だけれど、僕には僕の幸せがある。それでいい。

 ──家族を起こさないように、そっと玄関を開ける。すっかり暗い闇の中でも、灰川の眼は爛々と輝いていた。

 そんな僕にでも、ここに立つまでに一分かかってないのはわかる。我ながら手際の良い対応だ。

「ジャスト40秒だ」

「たまには、僕もやるだろ?」

「ああ。だがね、寝癖は良くないな。制服のまま寝るのも」

 指摘されて僕は顔が熱くなるのを感じた。今が夜でなければ、更に灰川にからかわれるネタが増えただろう。

 これまで僕は髭を剃るとき以外あまり鏡を見る習慣がなかったが、それも改めようと思った。


 少し遠くまで行くから、という灰川の要請で、自転車を出すことになった。しかし……。

「君ね、二人乗り出来ないって本気かよ!」

「言うな」

「本当マジで友達いないんだな! 乗って二秒でコケるって三半規管腐ってるんじゃないのか!?」

「うるさい! 声が大きい!」

 最後の僕の怒鳴り声が決め手となったのか、辺りの家の窓が次々と明るくなりだした。

「不味い不味い!」

「走れ、早く!」

 とにかく急いでその場を離れることばかり考えていた。背後に睡眠を侵害された人の罵声が聞こえる。なのにいつの間にか、僕たち二人は笑っていた。

「由良君、気付いているかい?」

「何をさ?」

「二人乗りさ。出来るようになってるじゃないか」

 冷たい夜気を切り裂いて進むので夢中だったけれど、背中には灰川の熱い息遣いがあった。

「うわ、本当だ!」

「君は自分で自分の限界を決めてしまっているようだけどね、それよりもっとずっと、本当は飛べるのさ!」

 僕たちの笑い声はより大きくなった。周りに悪いとは思っていても、やめる気にはなれなかった。

 夜は今だけ、僕たちのものだった。


「で、皇に何と言われたんだね?」

「何?」

「君はここしばらく塞ぎ込んでいた。君がまともに話を聞く相手なんて限られているし、積極的に君を傷つけようとする相手なんて、そうはいないだろう」

 簡単な推理だ、と灰川は言った。

「僕はそんなに顔に出やすい?」

「ふふん、君は可愛いな」

「え?」

「真に受けるな、バカオロカ。女が可愛いって言う時は、その対象を下に見ているんだ。また新しい知識を得て賢くなったね、おめでとう!」

「へえ、なら賢いお前は、皇が何て言ったのか当ててみろよ」

 試されているはずなのに、灰川はむしろ嬉しそうに破顔した。自分の能力を発揮する場所を常に探しているのだった。

「君は疑り深いくせに騙されやすい。自分で思っているよりもずっと素直で、気持ちが行動に表れる。妙に自己否定の念が強いせいで、そういう部分に気が回らないようだが」

 間を外すのが上手い。灰川にとっては、僕は至極あしらいやすい手合いなのだろう。

 そうこうする内に着いたのは、田舎者が精々頑張ってこしらえた、という趣のある住宅街だった。お金はかかっているのだろうが、センスがないせいで成金くさい。だだっ広い畑を抜けて来た先が漂白されたような建物の密集地帯なのだから、イマイチ締まらないのだ。

 灰川はいつもの迷いの欠片もない足取りで、その中の一つの建物に向かった。

「自転車はそこに停めておけ」と言われたので、そうする。念のため鍵はかけない。灰川がこんな時間に僕を連れてくる場所ってことは、いつ急いで逃げなきゃいけなくなるかもわからないということだ。ホラー映画の基本=鍵を失くしてテンパる奴は死ぬ。

「おい、勝手に入っていいのかよ」

 インターホンも鳴らさずに、灰川は敷地内にズケズケと入り込む。僕は口では止めるけど、おっかなびっくりついて行くしかない。

「――善悪の問題だ」

 返答は、まるで関係ないものだった。しかし灰川の言うことだ、無視は出来ない。

「皇が君に押し付けたのは善悪の問題だろう。間違っているか?」

「いや、正解だ。何でわかった?」

「君は僕との冒険を楽しんでいる。それは間違いないな。だが、同時に法を犯すことを何とも思わない僕を、咎める必要性も感じている」

 ああ、そうだ。ついでに言うと、僕たちが向かっている家に明かりがついているのはメチャクチャ不味いと思ってる。わかってるなら勘弁してくれ。

「探偵がモラルについて語ってしまっては興醒めだから、これはただの独り言さ。善悪なんて、ただの言葉に過ぎない。時と場所によっていくらでも変わる程度のものだし、同じ共同体に属していても共有出来るとは限らない。例えば……君は中学校の時分、学校でよく傘を盗まれただろう?」

 当たってる。ただ、僕は盗み返そうとは思わなかった。濡れて帰って悔しい思いをしたものだけれど、そんなことは盗んだ奴らにとっては関係のないことだっただろう。つまりはそういうことだ。

 灰川は、僕の表情から納得の色を読み取った。

「そう、倫理に互換性はないんだ。一見噛み合うようでも実は大きさの違うパズルのピースを、無理やり一つの枠に閉じ込めたものが社会と呼ばれるものなんだ」

 皇と似たような例えを言うんだな、と思った。そして、似ているということは致命的に違うということでもあるのだとも。

 灰川と皇は似ている。そして、だからこそ、決定的に違う。

「僕たちは特別なパズルのピースだ。言ってしまえば、辺が直線だけで出来ているようなものだ。たった一人でも絵になるし、同じように誰とも組めない者同士なら、かえってハマるのさ。つまり、君に悩む必要はこれっぽっちもない」

 灰川はノックもせずに、扉に手をかけた。こんな時間にもかかわらず、鍵はかかっていないようで、すんなりと中に入ることが出来た。

「ま、待っていました」

 玄関先には男が直立不動の姿勢で待機していた。灰川の根回しであることには、間違いない。男の髪からは安っぽい青リンゴのヘアワックスのにおいがした。

「ご苦労」

 軽く手を挙げて、灰川は当然のように靴を脱がずに床に上がる。わざとらしく、カーペットを踏みにじった。さすがに僕は脱ぐが、玄関に置いたままにはしないで持っていくことにした。「靴は良いが、手袋は脱ぐなよ」と言われたので、またぞろ嫌な予感がする。

 男は恐縮しきったような様子で、最初の一言以降、口を開こうとしない。まるで許可されていないようだ。

「あいつ、こんな時間なのに、まだ髪の毛セットしたまんまなの?」

「君が聞きたいことはそんなことじゃない。誤魔化すなよ」

「……何で、どうやってだ」

「ふむ、前者はこれからやることを見ていればわかる。後者はもっと簡単だ。大抵の人間は、感情と利益と暴力のどれかを握れば簡単に操作出来る、その証明だな」

「どれを使ったんだ?」

「全部だ」

 黒豹の足取りで二階に向かう灰川。硬い革靴を履いているのに、まるで音がしない。靴下だけの僕の方がかえって階段を軋ませているみたいだ。

 躊躇いなく奥へと進み、部屋へと入る。どうやら初めてではないのか、それとも事前に話を聞いていたのか、灰川は間取りを完璧に頭に入れているようだった。

 灰川は部屋に入っても電気を点けなかった。仕方なく暗い中を見回してみると、どうやら女性の部屋のようだった。特別な意匠があるわけではないけれど、柔らかい雰囲気。

「ここが被害者の部屋なのか?」

「まさか。玄関の彼の妹の部屋だ」

 あまりにも堂々と侵入したせいで、ベッドで丸まった少女に意識が向かなかった。とっさに声を潜めて抗議する。

「お前! 何してんだよ! 早く出ないとバレるだろ!」

「少しくらい声を出しても大丈夫だよ。睡眠薬を盛るよう言いつけておいたからな」

 まるで悪びれる様子もなく、灰川は言った。確かに、鋭い人ならこの程度の声でも既に起きているはずだ。少女の息は深く、乱れる様子がない。きっと彼女も灰川が握っている感情と利益と暴力のどれかに紐付けされているのだろう。

 だが、やっていいことと悪いことがある。

「さっきも言っただろう。くだらない善悪の基準に縛られて飛べないのはつまらないぞ」

 灰川は詰め寄ろうとする僕を無視して、隣の家に面した窓を開けた。吹き込む冷たい夜気をものともせず、灰川はベランダにそのまま歩を進める。割り切れない思いを抱えつつも、僕はやはり灰川について行くしかない。

「ほら、飛べ!」

 一歩でベランダの手すりに飛び乗り、二歩で隣の家のベランダに灰川は飛び移った。二重回しがひるがえる音だけが、夜に聞こえた。

「……マジかよ」

 変な真似はしないで普通に手すりによじ登ると、思っていたより視界が高い。

 向こうのベランダへの距離は実際、健康な男子高校生なら飛び移れない距離じゃないが、健康な男子高校生が飛び移るのを躊躇うのには充分な距離でもある。下の庭に生えている植木に落ちたら痛そうだ。でも僕は知っている、僕なら飛べるってことを行け行けジャンプ!

「とぁ!」

 華麗な着地とまではいかないが、ベランダが中々広くて頑丈な作りだったおかげで、飛び乗った衝撃で酷い音がしたり、足場がぶっ壊れたりすることはなかった。高級住宅様々だ。

 先にベランダに到達していた灰川は、僕が割と覚悟を決めて飛んできたのには何の興味もないようだった。

 しれっとした顔でマイナスドライバーを窓枠に差し込み、何か作業を続けている。

 パキン、と思ったより小さな音がして、窓ガラスに穴が開いた。

 灰川が使ったのは三角割りと言う、空き巣の中では簡単なテクニックだ。時間はかからないし音はしないが、まあ当然証拠が残りまくるからもうぶっちゃけ論外だ。

「お前!」

 今夜だけで何度目かになる抗議。もちろん灰川に届くはずもない。本人は何食わぬ顔で鍵を開け、中に入る。

「この家は本来なら三人暮らしのはずだが、世帯主の夫婦は仕事の都合であまり帰ってこない。娘は今夜出かけてる。完全な留守だ」

「そういう問題じゃない!」

「君が気にしているのは法律だ。バレたら困るってだけ。バレないという確信があれば、君は僕を咎めもしない」

「ああ、そうかもな。でも、いくらなんでもこれは不味い!」

「ならば安心したまえ。この部屋の住人には、警察を呼べない事情がある。割れたガラスを見ても、自分でコッソリ張り替えて終わり。泣き寝入りさ」

「もう一度言うぞ。そういう、問題じゃ、ない」

 窓の錠を半回転させて開けた灰川は、僕に向き直った。そして、聞き分けのない子を諭すように言葉を繋ぐ。

「君は良い人間ではないが、良い人間でありたいという気持ちがあるな。その気持ちを持ち続けることは、そうあることより難しいことだ。僕は君をその一点において尊敬するよ。ただし、さっきも言った通り、そうやって自分を規定してしまうことが、かえって君自身を悩ませるのだ。『良い人間』という漠然とした社会からの評価を期待することで、君の行動に迷いが生まれる。繰り返すぞ。倫理に互換性はないんだ、他人の倫理を当てにするな。自分の頭で考えたまえ」

「僕は僕の良心を持っている、自分の倫理で動いてる。ちゃんと説明しろよ! この部屋は誰の部屋だ、何故警察を呼べない?」

 灰川はため息をついた。「あーあ、いきなり見せて驚かせたかったのにな……」などと愚痴っている。

「ここの住人が留守なのは、次の被害者を攫いに出かけているから。警察を呼べないのは、部屋を捜索されたら殺人の証拠が見つかるかもしれないから」

「それって……」

「そうだ、僕たちが立っているのは助野透の家のベランダなのだよ」

 灰川は割れた窓を開けて、僕に入るようにうながした。

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