第9話 スカイフォール(4)


   *


 僕は船内に何種類か点在するレストランのひとつ、そのキッチンにいた。包丁や刃物の類はたくさんあったが、ここで直接殺し合いはなかったようで、清潔なままだった。

『人生は常に軽量化を図らないといけない。でないと、地に足がついて飛べなくなってしまうからね』

 トランシーバー越しに、灰川の声が聞こえる。いつでもどこでも誰よりも傲岸不遜な探偵の有り様。

『紙飛行機は、折り方によって大体の見当はつくけれど、投げて手が離れたその先は結局どこまで飛べるかわからない。追って誰かに押してもらえなければ、いずれは揚力を失って落下していく。なあ、由良君。君はどこまで飛べる? 僕の飛距離がわかるかい?』

「わからないな。僕はこの後、緋蜂フェィファンや片桐忌名と闘うつもりだけれど、まあ多分大丈夫だろう」

『大丈夫、大丈夫ね。いい言葉だが、そういうのは大丈夫じゃない奴が言う台詞だぜ』

「まあ、そうだね。でもどっちかっていうと励ましてほしかったな」

『僕は僕で、グレイマンをどうにかしなきゃならないのさ』

「あー、そっちに行こうか?」

『大丈夫さ。僕一人で何とか出来る』

「どっかで聞いた台詞だな」

 灰川の抑えた笑い声。一方通行の通信だから直接は聞こえていないだろうが、僕も同じように笑っていることは灰川にも伝わるはずだ。

『以前、僕は君に対して自分が神だと言ったことがあるね。覚えてるかい?』

「覚えてるよ。忘れない。お前は探偵で、僕はその助手さ」

『それでも、絶対なんてものはこの世には存在しないんだ。神のごとき存在であってもね』

「いつになく弱気だな。どうした?」

『ただ、そういう僕もいるということを君に知っておいてほしかったのさ。見栄を張りたがる僕がいるということもね』

「見栄なら僕だって少しは張りたいさ。役に立つところを見せたいんだ。船を乗っ取るのは失敗しちゃったけど……」

『まるで犬だな。失敗かどうかで言うなら、僕だって失敗さ。不老不死の法は手に入れられそうもない』

「おい、マジで変だぞ? そっちに行くべきならそうと言ってくれ」

『駄目だ。君に生きる理由を与えると言ったが、そのせいで逆に君の行動を縛り付けてしまった。君は君のしたいことをしろ』

「何があったのか言え」

『爆弾の起動を止められそうにない。この船は沈む』

「そっちに行く」

『シェルターがあるから僕は大丈夫だが、こっちの都合で出入りは出来ない。君は安全地帯に行け』

「そのシェルターが大丈夫だって保証はあるのかよ?」

『この世に絶対なんてないさ。僕がどこまで飛べるか、君も知りたいだろ?』

 そして、通信が切れた。

 息を吸って、吐いた。腹の下まで深く、深く。

 信頼と言うのは出来すぎな気がしていた。灰川と僕は友達であり、そうであるからには余分に踏み込むべきでない領域があることをお互いに知っていた。

 灰川のいるシェルターには行かない。どの道、限られた時間の中で部屋にたどり着くのはきっと無理だ。悪魔の力で無理に外からこじ開ければ、シェルターとして機能しなくなる。灰川にも悪魔だと知られる。灰川の命と比べれば何てことはないが、現実的じゃあない。

 僕には僕の、やるべきことがある。僕が灰川は大丈夫だと心の中で決めつけたように、灰川も僕を信じている。言葉がなくても、そのことがわかった。

 息をもう一度吸って吐くと、心が落ち着いた。

 気分転換をしよう。どんな時にでも余裕は必要だ。それこそがユーモアの源泉となる。

 お茶を入れることにした。

 勝手に入って食材を物色する無作法な客を咎める者はいない。みんな死んだり死なせたりしている内にいなくなってしまった。キッチンスタッフも例外ではなかったということだ。ゲームの支配人に雇われていたのなら、その中のいくらかは僕が殺したかもしれない。

 ありとあらゆる歓楽を満たす豪華客船とはいえ、あまりにも普段の生活と異なる環境なのはやはりストレスで、コーヒーや紅茶は少し飲み飽きた。というわけで、今はほうじ茶を蒸らしている。高温のお湯で、短めにするのがコツだ。

 飲んでみると、これが美味しい。

 正直ナメていたが、豊かさとはどんな要求ニーズにも応えられることなのだと思い知らされた。家で飲んでいるやつよりもずっと、香り高い。

 湯気がゆっくりと僕の記憶を解きほぐしていく。

 灰川に言われたことを思い出す――偏った心では、物事が見えなくなってしまう。

 確かにそうだ。ただお茶を飲むだけのことで、どうしてこんなにも隔たりを感じていたんだろう。

 日本に残してきた琴音のことを思い出す――仮面を着けなければ人と話すことも出来ない少女。

 今から考えてみれば最善ではなかったけれど、少し前までの僕には、その隔たりこそが重要だったのだと思う。

 僕は深呼吸する。お茶の香りと、湯気の温度が僕の内面に深く浸透していく。

 魂の本質アートマに意識を向けた。

 卵がある。

 卵の内側には虹色の、硬くて柔らかくて熱くて冷たくて甘くて苦くて、何にでもなれるものがある。回転する液状のそれは、僕の心だ。

 液体は、器の形になる。コップに入れればコップの、花瓶に入れれば花瓶の形。そして、卵は熱によっても変性を起こしてしまう。それは不可逆的なもので、固くなってしまったゆで卵は元のようには機能しない。

 僕の心は弱く、優しくない世界の中では簡単にぐちゃぐちゃになってしまう。隔て、覆うための殻が必要になる。

 不可能性によって規定される可能性と、自らを閉じる殻によって卵が完成する。

 認識によって、僕の本質アートマが定義される。

 ゆっくりと息を吸って、吐いた。余った分の熱が僕から出て行った。

 ほうじ茶を飲み干し、次いで新しくポットに紅茶を入れた。カップと共にお盆に乗せて持っていく。

 レストランのホールには、風と雷と雨が各々好き勝手に吹き込んでいた。雨男レインマンの言う通り、嵐が来ていた。

 朽縄まどかとアバラッドが散布した毒ガスを換気するために、忌名が窓をあちこち割ったせいでホールの中はメチャクチャだったが、当人は気にしていない様子だった。

 頑丈さと美しさを高度な次元で両立したテーブルで食事をする忌名と、その横で水を舐めるように飲む姫香。

 嵐にさらされる前のレストランは、カジノのような過剰な高級感や豪奢な装いを堪能することにも慣れた人間が、金を湯水のように使いながらも心をほどいていくはずの場所だったのだろう。

 雨風の音が、湿ったにおいが、フカフカの絨毯が僕の存在感を曖昧にする。

「よう、元気してる?」

 僕がキッチンにいることを知らなかった姫香は純粋に驚いてくれたが、忌名は意に介した風もなく食事を続けている。粗野だけれども卑しくはない、不思議なテーブルマナーで黙々と食材が消えていく(大量の高級食材に忌名が最低限食べられるよう火を入れた程度の物を料理と言うのがはばかられるほどには、僕もこの数日で美食の何たるかについて学んだつもりだ)。

 言外に「何故もっと早く助けに来なかったのか」と睨む姫香に手を振ると、手の甲が姫香の側に向いていた。自閉症だったレインマン弟の癖が移ってしまっている。慣れないことをしたせいだ。

 ユーモアってやつは本当に難しい。すぐに灰川のようにはなれない。

 少々ばつが悪くなって、誤魔化すように忌名の対面の席に座った。

 湿気を含んだ生ぬるい空気が辺りに立ち込めている。

 僕は残り少ない魂を魔力に変え、風の術式を使った。空気のドームが僕を中心にテーブル一帯に形成され、快適な温度と湿度を保った。

 忌名と闘うつもりだったならこの程度の無駄遣いですらすべきではなかったけれど、僕はそれをしたいという気持ちを優先した。

 本気で信じれば誰でも美意識を持つことは出来るけれど、それだけでは偏屈になってしまうし、思い通りにいかない中で目的を見失ってしまうかもしれない。

 だからユーモアが必要になる。ユーモアは理想を現実に軟着陸させるための緩衝材になるし、時に方角を見失って失墜しかけた心に揚力を再び与えてくれる。

「気の利いたことをするじゃない」

 不機嫌だった姫香の顔に、少しだけ血の気が戻ってきた。僕の心が同じ分だけ軽くなる。軽量化した分だけ、また飛べる。

「喉が渇いたわ」

 姫香の言う通りに紅茶をカップに注ぐ。

 姫香の分と忌名の分、そしてもう一人の分。本当は用意しないでもよかったのだけれど、程度の低い嫌がらせをしていると思われるのは気に食わなかった。

 忌名は口をつけない。自分で用意したもの以外は毒を疑っているのだ。

 まあ、そうするだろうことは最初からわかっていた。僕の納得のためだ。忌名の分のお茶を代わりに飲む。

「いつ不意打ちを仕掛けてくるのかと思っていた」

 ぼそりと忌名が言った。食事を止める様子はない。

「国語教育を受けてないおたくのようなゴリラの親戚にはわからないだろうけど、相手が警戒してたら不意打ちとは言わないんだよ」

「来たら殺してやろうと思っていた」

「だろうね」

 僕は忌名の左手を見た。添え木が当てられ、肘から先の部分がどす黒く腫れあがっているが、それが付け入る隙になるとはちっとも思えなかった。忌名はその全身全霊が闘うために存在しており、片腕が折れた程度では武器としての機能を失うことはないのだった。

「アバラッドは私が殺した」

「朽縄まどかは死んでないけど、もう船を出たと思う」

「そうか。殺したかった」

「おたくじゃあ無理だ」

 ノーモーションでフォークが僕の眼球めがけて突き出される。僕はそれを空になったカップで受けた。

 澄んだ音が響く。

 遅れて、ひりつくような殺気が届いた。カップは割れていない。

 もう一度言う。

「緋蜂なら出来たかもな。でも、おたくじゃあ無理だ」

「……この船の乗客はあらかた殺した。途中から誰も見かけなくなったから、緋蜂も私と同じことをしたんだろう」

「雑魚相手に無双自慢か? 随分とカッコいいことするジャン」

「お前が契約した相手も皆死んだ。これ以上の魂の追加はない」

「……悪魔に詳しいんだな」

 今度は僕が口ごもる番だった。

 死んだ連中の魂は、契約者である僕の懐に入っていない。きっと救命ボートで逃げた人たちに引き続き、船底の触手が途中でガメたのだろう。

 依然、状況は最悪。ピンチに次ぐピンチ。全然笑えないけれど、だからこそユーモアが必要だ。優しくない世界で、圧し潰されずに美意識を保ち続ける術。たとえ負けても、誰にも僕を殺せない。殺させるものか。

「人の命はかけがえのないものだってみんなが言う。僕もそれを腐すつもりはない。でも同時に、数えきれない程たくさんあるから、結果的にいくらでも代替出来るようにもなってしまう。忙しい料理人がひとつかふたつ変わった形のジャガイモを見つけたところで、一々気にすることはない。この矛盾を気にしだすと、人の心は混乱してしまうんだ」

「ならば、私は三ツ星のシェフだ。誰も彼も、私が美味く調理してやる」

 忌名のユーモアは、僕には笑えなかった。笑うためには、真剣になりすぎている。

 ほんの一日で、たくさんの人間が死んだ。レインマン。姫香の父親。僕が一度は助けた黒人の少年。

 戸籍のない人間を扱っているわけでもないのに、こんな大々的な殺し合いを過去にも何度もさせて外で何の問題になっていないというのは、きっとそれだけ船底の“何か”の力が強いということなのだろう。深海魚のように不老不死を餌に、哀れな魂をすすり喰らうもの。

 今日死んだ人たちは皆、誰からもかえりみられることはないのだろう。存在そのものがなかったことになり、思い出す人もいなくなる――僕以外は。

 思えば、随分と遠いところまで来てしまった。

 元はと言えば、虫々院蟲々居士を倒すために組織を乗っ取るつもりでこの豪華客船に乗ったのだ。常に欠食児童じみた栄養状態の僕は、ついでに魂を補給しようとした。灰川は不老不死の法を確かめようとした。

 結果は、惨敗。すべてに失敗した。乗っ取る組織そのものが人間以外の何かに運営されていたせいで篭絡出来ず、ほとんどが毒ガスや忌名の餌食になって死んだ。契約した魂は、僕よりも引力の大きい船底の触手に絡め捕られた。不老不死は罠以外の何物でもない。

 だが、失敗が無駄かというと、そうではないと今でなら思える。結果は終点を意味しない。個々人の短期的かつ狭い視野から見て終わりのように思えるものは、実際には新しい何かの始まりなのだ。

 目的がブレる。心の方位を見失う。結果の正しさが曖昧グレーになる。口にしたものが、毒にも薬にもなる。しかし、予想だにしなかった場所にある何かに、価値がないわけではない。

 不規則に痙攣するレインマン。揺らぎの中に、意志を隠す。ブレてはぐれた先に、自らの本物を探り当てる。抉り出す。

 僕はもう、迷うことを恐れない。いや、違うな。正しく迷うことが出来るし、恐れることが出来る。不安も曖昧さも、全部ひっくるめての僕なのだ。

 弱った心は、簡単に相対的な価値観に振り回されてしまう。自分にとって大切なものを信じられない者は、弱い。だが、弱い僕自身に今は納得することが出来る。

 納得しているから、忌名の稚拙な揺さぶりにも動じない。

「誰も信じられない、何も必要としていないのならば、誰からも傷つけられない。すべてを捨てられる者は、無敵になれる。だが、それも一瞬のことだ。捨てられる者は、勝つための理由すらも捨ててしまうからだ」

「まーたくだらない言葉遊び。アバラッドの真似事か? 流行りのMCバトルやってんじゃないんだからさ。滑ってるぞ、それ」

「使えるものは何でも使う。そして、勝つ。悪魔は強い。お前程度のやつでもな。だから、何だってやる」

「でも、そこには美意識がない。美意識がないなら勝っても意味がない」

「意味が必要なのは、お前が弱いからだ」

「違うね。おたくは息をするように人を殺して見せるが、結局のところ信じているのは命の価値だ。死んだあいつは弱くって、生きている自分の方が強くて偉いっていうチャチな価値観でしかマウンティング出来ない」

「そう言うお前は一々、どこかの誰かに決められた道徳や倫理につまずいては魂をすり減らしている。価値があるというのはそんなことか?」

「僕には美意識があるから、重要なのは行動の過程であり、結果はついでなんだ。勝利条件はそこにはない。勝つために勝つなんてのは、ゲーム覚えたてのルーキーがやることなわけ。おたくは凄腕の殺し屋とか言われてるくせに、その場のノリで雇い主を殺したり、僕の死んだふりを確認もせずにどっか行ったり、ギャグかよ。アマチュアが趣味でやるなら、YouTubeにでも動画アップして小遣い稼ぎしてろよな」

 口ではそう言うが、実のところ、やりたいからやるということはすごいことだ。だが、大事なのは正しい信念を持つことなんかじゃあない。そんなものは勝ち負けの結果とは関係がない。

 言葉で心を乱そうとしているのは僕も一緒だ。その点に関しては、珍しくも僕の方が上手うわてで、少しだけいい気分になる。言葉の恐ろしさを、まだ忌名は充分に理解していない。

 問いかけることは、同じ分だけ自分の心に問いを返されることだ。問いを返されることは、踏み込まれることだ。それも無自覚に。

「お前の大切な人を殺されてもか」

 無造作に忌名は、傍らの姫香の喉元に槍の穂先を突き付けた。姫香は僕を呼び寄せるための誘蛾灯であり、つまり忌名にとってはもう用済みだった。

 白い肌に、血の玉が浮く。姫香は動かない。死を覚悟しているようにも、絶対に死なずにいるための覚悟を決めたようにも見える。

 この世に蔓延するありとあらゆる痛みに耐え、苦しみに抗い続けるための姿勢。僕はそこに、灰川から教わった物語の役目を見出した。

 僕には色んなものが欠けている。これもその一つだ。

 心の中に、例えようもないうろがぽっかりと開いている。何もそれを満たすことは出来ない。その場しのぎで代わりを埋め込んでも、すぐにまた――

「僕が、誰かのためや何かのために頑張るようなカッコいい人間だとでも思ってるのか」

 僕は言った。

「私の目を見ろ。何が映っている?」

 言われるがままに、僕は忌名の目を覗き込んだ。

「何も。何もない」

 そこにも僕の心と同じ、洞があった。光を映さないただの穴が、風に吹かれてびょうびょうと音を立てている。嵐が来ている。

「お前は人を傷つけるのが好きな、この世のクズだ。人が死ぬところを特等席で見たがる、悪業の塊なんだ」

「いいや、違うね。僕は美しい景色を見るのが好き。風の歌や石のにおいを感じていたい」

「そこに他人は存在しない。他者をモノとしてしか必要としていない。だからクズと言ったんだ」

「そうかも。そうだね。で、それがどうした。もうそういうのは僕の中では終わった話なんだけど、おたくはまだ思春期続行中なの?」

 僕には子供の痛みを見過ごすことが出来ない。本当はどうでもいいと思っているから普段は顕在化しないし、募金なんかもしないけれど、目の前でやられると駄目だ。

 人はそれを優しいと言うかもしれないが、僕はそうは思わない。他人と自分を切り離す能力が欠けているのだ。

 僕はもう少年期を過ぎているけれど、大人として扱われるには足りないものが多すぎる。僕の心の中には子供が住んでいる。子供たちの痛みは、僕の痛みだ。忌名のためにそれをわざわざ口にしたりはしない。共感なんていらない。

 最近気づいたことだけれど、どうでもよさと本気は、実は両立するらしい。

「確かに。なら、灰川真澄はどうだ。手強いが、殺せないわけではない」

「僕には記憶がない。解錠師という悪魔に、記憶を封印されている。だから、灰川のためにと捧げたはずの魂も、理由が最初から失われている。まるで殻だけが飾られたイースターエッグだ。じゃあ闘うことに意味がないかというと、それは違う。灰川の存在こそが僕にとってのマスターキーなんだ」

「なくしたなら、さぞや困るだろうな」

「まだわからないのか。開ける必要がなくなるだけのことだ。おたくが僕から奪えるものは、何もない」

 表情を動かさないまま、忌名は槍を取り下げた。

 言葉で僕の魂を失墜させられないと知っても、忌名に失望の色はなかった。目的のための手段の一つに元々何も期待していないし、そこに自分を重ね合わせるような真似はしないのだった。僕とは違う。

 気に食わなくて、少しからかってやる。

「僕からだけじゃない。姫香からもだ。おたくが何かを得ることはない」

「そうか」

 姫香が安堵した一瞬に、再び閃く短槍。

 忌名はいつだって本気だ。だからこそわかりやすい。

 先程と同じように姫香の薄皮一枚を斬りつけるが、今度は力を入れているはずなのにそれ以上、刃が先に進まない。

 魂の力が見える僕の目には、不可思議な膜に覆われた姫香が見える。青白いヴェールが、短槍の切っ先を阻んでいる。

「僕に言わせれば、似ていることは異なることの証明でしかないのだけれど、ことが呪術となれば違ってくる。類感の法則は藁人形に釘を打ち込むのと同じように、似たもの同士の性質を共有させるんだ」

 姫香は、目の前で起きていることが理解出来ずに、目を白黒させた。僕は再会してから姫香に触れていない。いつ、守りの術式を施したのか、忌名にもわかっていないだろう。

「涙は血液と成分を共有する。血は呪術の効果を高めるのに欠かせない媒体だ」

 僕は姫香の涙を口にした。姫香の父、禍月剛造の血に触れた。それで充分だった。

「お前程度がかけた術を破れないはずがない」

 忌名は姫香を見ている。正しくは、彼女にかけられた守りの術式を浄眼で打ち消そうとしているのだ。腕には荒縄のような筋肉が浮き上がっているが、槍はピクリとも動かない。

「僕は媒介しただけだ。守っているのは、親娘の愛情だ。それを血の繋がりを利用して強化した」

「愛?」

 忌名の声は、言葉ではなくただの音の連なりだった。まるで理解出来ないとでも言うようであった。

「愛だよ」

「馬鹿にしているのか。そんなものに何の価値がある? 愛なんてものに、何の力があると言うんだ」

「そういうのを信じている人もいる。おたくが横からしゃしゃり出て、どうこう言うことじゃあない。彼女らはそれを信じているし、信じることは力だ」

 忌名の顔が初めて歪んだ。自分の知らない価値観に、予想もしない角度から傷つけられた表情。

 姫香が、自分の手を握りしめた。胸の中にある何かを確かめるような仕草。

 荒々しく忌名が床に短槍を突き立てた。絨毯の下の硬いものを砕き割る音。

 自分の意見や考えを否定されると、大抵の人間は自分自身を否定されたと考えてしまう。もっとも、僕はわざとそれを狙ったのだが。

 いら立ちをあらわにする忌名を更に否定するように、僕は気のない素振りで言葉を重ねる。

「緋蜂はいつ来るんだ? お茶が冷めてしまう」

 僕は知っている。忌名だって感じているだろう。先程から近づいてきている、嵐に散らされてもなおにおう血臭の塊を。

 二回、立て続けに銃声がした。

 殺気と視線を既に読んでいた忌名は短槍で弾丸を弾き、僕は姫香の陰に隠れた。ライフルの弾は姫香を覆うヴェールの守りに受け流され、あらぬ方向に飛んで行った。親が子を守ろうとする愛情は極々のものなので、忌名も打ち消すことが出来ない。姫香の非難するような視線が僕を刺す。ユーモアだよ、ユーモア。

結束了ジエシューラ

 中二階からした声の方を見ると、そこには真っ赤なチャイナドレス。天鵞絨ビロードを何重にも上書きする血の色が、酷く重たい。

 緋蜂が狙撃手の心臓を釘でえぐり、まるで軽い綿が詰まった袋のように掲げる姿だった。きっと、姫香以外に残った最後の普通の人間。断末魔を上げることも許されなかった。

 軽々と穴だらけになった死体を放り捨てる緋蜂。その表情は、相変わらず満ち足りた歳月を重ねた老婆そのものだが、言葉の発音は常に怒った蜂めいて刺々しい。ブンブン飛び回る。人を刺し、傷つける。

 体重を感じさせない動きで緋蜂は跳躍し、テーブルの上、僕が用意した紅茶のカップの取っ手に降り立った。

『薄汚い悪業の申し子共め。殺してやる』

 ドレスから血の雫が垂れ、紅茶に落ちる。椅子に座り直した緋蜂は、それを平然と飲んだ。

『誰かの不幸を糧に肥え太った、クソ共の味だよ。私が捨てられて餓えていた頃にすすった泥よりもずっとずっと臭い』

「中国語はわかんないよ」

 僕以外はわかるようだけれど。

『貧乏な日本人、お前は後で殺してやる』

 一瞬だけ僕を見た緋蜂は、すぐに視線を忌名と姫香の方に戻した。忌名はわかるけれど、どうして姫香に? 憎悪のにおいを隠そうともしていない。

『あなたに聞きたいことがあった』

 姫香が中国語で言った。緋蜂はそれに応じて笑みを深めたが、表情とは裏腹に殺気が濃くなった。僕の頭の中で、蜂の羽音がどんどん大きくなる。ブンブンブンブン。

『父を殺すように依頼したのは誰?』

『いいや、アタシがついでで殺したまでさ』

『何故?』

『何故ェ? それはアンタが一番知ってるはずさ。麻薬を子供に売らせて、その上前をはねた金で豪遊するようなこの世のクズは、死んだ方が良いに決まってる。アンタのその綺麗な顔も、薬中から搾り上げた金で作られてるんだから』

『……そうね。お父様はいつかそうなってもおかしくなかった。でも、私が聞きたいのは、何故あなたが直接それをしたのかってことよ。あなたが貧しい生まれだってのは聞いたわ。でも、金持ちを殺したからってあなたの心が満たされるわけじゃあない。そもそも、黒孩子の元になる一人っ子政策が施行されてたのって、古くても三十年ほど前からでしょ? あなた、本当は何歳なのよ?』

『アタシの歳は、アンタとそんなに変わらないさ。アンタの綺麗な顔が薄汚い金で作られたように、私の醜い顔も悪業に磨かれて作られた。私が老婆に見えるのなら、それはアンタらのせいだ。金持ち共はみんな自分が安全な場所にいると思っている。自分だけは特別で、誰かから搾取するのが当然のように許されると。そういう奴を見ると、何だか釘を刺してみたくなる。すると不思議なことに、みんな同じように『えっ? どうして?』って顔をするのさ! 心の底から理解出来ないって顔をねェ。それを見るのが好きなんだ。私の釘で、どいつもこいつも真っ平らになる。カルマの再分配ってやつさ』

『あなた、すごく幼稚なことを言ってるけれど、自分でそれをわかってる? 不幸な目に遭わされたからって、他人を巻き込んで同じ悪運を振りまくなんて、アンタのどこにそんな権利があると思ってるの!?』

「無駄だよ、姫香」

 僕は言った。

 中国語はわからないけれど、姫香の感情の流れは感じ取れる。鏡越しにうかがうように、僕は緋蜂の内面をトレースした。あまりにも繊細で傷ついていて、その結果、大雑把で暴力的な結論を出してしまった魂の腐臭を嗅いだ。

「そいつが信じてることはきっとクソくだらないことなんだろうけど、くだらないことをどこまでも信じている。普通の人は醒めてしまうような夢でも、とことん信じてしまったのならそれは力になる。そんな奴に、言葉でわからせようとしても何の意味もないよ」

「言葉以外でわからせようとしたら、何が必要になるっていうのよ!?」

 姫香の傷ついた声。納得したとは言っても、まだ父の死に何か意味を見出そうとしている。それは彼女が人間だからで、同時に人間の限界でもある。

「それが難しいんだ。暴力で一時的に屈服させることは出来ても、信じることには繋がらない。本当の意味でわからせることは出来ない」

 僕はまだわずかに温度の残る紅茶のカップを手に取った。

 今度は緋蜂が忌名に向けて口を開く。

『貧乏人、金をやるよ。癪だがアンタは殺しにくいからねェ。アンタ程度じゃあ一生手には出来ないような金さね。だから手を引いて船から降りな。アタシは残りを殺して、この船のイカ野郎を喰う。それで全部終わりってワケ』

 緋蜂がテーブルの上に置いたビニール袋は血でべとべとだったが、中からは小分けにされた金と宝石のきらめきがわずかに見えた。換金しやすいアクセサリーの類を回収していたのだろう。

 袋を滑らせて忌名の方に渡す。テーブルクロスに、固まりかけた血のどす黒い線が引かれる。

『それだけで、二億は下らんよ。もう半分は返事を聞いたら渡してやる』

 卑しい笑いを緋蜂は投げかけた。他人を勝手に共犯者に仕立て上げるような、悪意に濡れた表情。

『そうだな。金はあればあるだけ便利だ』ぶつ切りの中国語。ふと、僕は忌名はどこの生まれなのかと思った。命名は日本風だが、純粋な日本人ではないように思える。

『だろ? 悪い取引じゃあな――』

 緋蜂の言葉の途中で、忌名がテーブルを蹴り上げた。

 陶器と木材と金属器が飛び散り、砕ける音。無事だったのは僕の手元のカップだけ。姫香は呆然と事の成り行きを見ていることしか出来ない。

『お前は何でテーブルを蹴られたのかわからない。二億もあげたのにな。そういう風におめでたい考えをしているから、これから死ぬことになる。お前が今まで殺してきた奴らと同じように』

 遠近感が狂ったコイントスのように、緋蜂に向かってぶつけられたテーブルが床に落ちて回転し、そしてめりめりと裂けて割れた。

『舐めやがってクソアマ。お前は蜂の巣にしてやる』

 緋蜂の顔のしわが、ひび割れのようになった。

 つまるところ、この幼い老婆はどこまでも貧しいのだ。それは通貨を手に入れたところでは埋まらない、心の貧しさだ。だから、過去の自分と同じ方法で他人も支配出来ると考えたがる。

『お前は自分が死ぬことを想像したことがないだろう。悪魔になって、自分は無敵だと思っている。それが間違いだとわからせてやる』

『アンタにゃ無理さ』

『知らなかったのか』

 忌名が短槍を無造作に手元で反転させた。どこまでも凶器としての機能に忠実な有り様だった。

『――私は諦めたことがない』

 そろそろかな。

 僕は紅茶を飲み干した。熱くもなくぬるくもない、適切な温度が僕を満たした。

「最上階に行け。底が抜けたプールの下、空洞化した天井の中に爆弾がある。一つでも爆弾を止めれば、空白地帯が出来る。他の場所よりは安全だ。何かにつかまっていろ」

 姫香に言った。

「爆弾の止め方なんて知らないわよ」

「毒を使う奴は必ず、自分が刺された時のために解毒剤を用意する。それと同じだ。短時間で大量の爆弾を設置しなきゃいけなかったんだから、誤作動の可能性も高い。緊急停止が出来るようなスイッチが必ずある」

 姫香の心が難行を前にすくみかけるのがわかった。正しい選択肢を目の前に用意されても、失敗した時のことを考えてしまう。どんなに強くあることを決意しても、人の心は揺れてしまうものだ。それを咎める気はない。

「君が死にたいと思ってるって言ったこと、撤回するよ。僕が間違っていた。君の父親は悪い奴だったからな。今ならわかるよ。自ら望んで難行に挑むに際して、受け継ぐべき愛情を父親からもらっていたのか、君は知りたかったんだ」

「私は、誰にも殺されないわ」

「今からそれが、試される」

 姫香は振り返らなかった。

 僕はにらみ合う二人の殺し屋の間にカップを放り投げた。精緻なデザインと金の細工が施された陶器がいともたやすく割れ、与えられていた価値を粉々にした。

「楽しそうだな。混ぜてよ」

「わからないな。何故、そんなに死に急ぐ?」

 忌名の問い。想像力のなさにかけては、緋蜂とどっこいだな。

「今更おたくが理由を求めるのか? しいて言うなら、おたくとそこの婆さんの顔が気に食わないからかな」

 理由がなければ闘えない、そういう段階はとっくに過ぎている。何だって何かの理由になり得るのだ。逆転する因果。暴力の螺旋。そこに僕は望んで立つ。

「なるほど。ならばお前は私の敵だ」

 僕たち三人の間に、生ぬるい死臭を孕んだ風が吹いた。それは嵐のひとかけらだった。

 最大限に広がった僕の魂の触手は、船の周りに大量の魚が腹を見せて浮かび上がったのを感覚した。中には、今までに誰にも知られたことのないような深海魚もいた。

 それは、僕たちの殺気にあてられて絶命したものたちであった。

 緋蜂が袖の内側から釘を抜き出し、両手に構えた。深紅の死神の威容。

 蜂の羽音は最高潮に達した。ブンブン振動する。熱を孕む。真っ赤になる。

『アタシのいみなは〈駆り立てる炎/リヴァイアサン〉。悪業の先触れ、すべての命にひとしく訪れる猛毒さァ』

 忌名はが自分の頬をなでると、氷を金属で以て彫刻するような音が聞こえた気がした。

 彼女の持つ短槍は常に、振るわれる瞬間のために自らを研ぎ澄ましている。忌名の仕草の一つ一つが、常に攻撃の予備動作であり、あるいはもう始まっている攻撃そのものだった。

「片桐忌名――立ち合いが望みだ」

 僕は全身を昆虫の黒い甲殻で覆った。

 正しく周囲を感覚し、内側にある温度は外からの刺激や圧力にも影響されることはなかった。

「僕は〈夢想家/ムーン・パレス〉。変形変化キンダーサプライズなんて呼ぶやつもいるかな。まあ、つまりは可能性の卵だよ」

 僕は死の影のにおいを嗅いだ。それは、他の二人も同じだったかもしれない。

『どいつもこいつも、死ぬがよい』

「どれだけ強いか、確かめさせろ」

「今宵――、月下の騎士となる!」


   *

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