第二話「まほうつかい」

 少女のあとからやってきたのは、武装した屈強な男たちだった。


 少女――ナーシアといった――によれば、彼女は村に逃げ帰ったあと、青年が彼女を盗賊から助けてくれたこと、青年が危機にあることを村の男たちに訴え、彼らを連れて戻る途中で、青年と再会したとのことであった。


 村の男たちは、はじめこそ、青年の白い瞳や体に驚きを隠せない様子だったが、すぐに青年の勇気を讃え、村に歓迎した。そして挨拶もそこそこに、宿屋を兼ねた村で最も大きな家で、ささやかな酒宴が開かれることになったのである。


 宿屋の食堂は満員だった。

 女たちが宴の準備のため、食堂と厨房を行き来する一方で、男たちは立ったまま、宴の始まりを待っている。酒杯を片手に押しあいへしあいをして、長方形のテーブルの短辺を覗き込もうとしながら。テーブルの短辺には、白髪の青年と、黒髪の少女――ナーシアが座らされていた。


「ごめんなさい、なんだか見世物みたいで……娯楽の少ない村だから……」


 ナーシアが、青年に申し訳なさそうにささやきかける。青年は逆に申し訳なく思った。ナーシアにとって青年は恩人かもしれないが、それは青年にしても同じことである。彼女がいなかったら、こうして村に迎え入れてもらえはしなかっただろう。

 そこで青年は、自分が今の境遇を露ほども不快に思っていないことをあらわすべく、冗談を言うことにした。


「気にしないで。きみには、感謝してるんだ……それに、今後、見世物として生きていくのも悪くないかもしれない、と思えたよ」

「どうして?」

「見世物として世界中を連れ回されたら、いずれ、ぼくのことを知っている人と出会えるかもしれないからね」

「あっ……ごめんなさい、私、嫌なことを思い出させちゃって……」


 しかし、ナーシアは冗談を深刻に受け止め、俯いてしまった。青年も、ばつの悪さを覚えて俯いた。


 するうち、ざわめきが静まっていったので顔を上げると、熊めいた巨漢が酒杯を高々と掲げ、乾杯の音頭をとるところだった。テーブルの上には、いつのまにか、肉と野菜の煮込みが盛られた皿や、イノシシの丸焼きの乗った大皿が置かれている。


 熊めいた巨漢が言った。


「今日はよき日だ。我がタンムースの村が誇る美姫びき、ナーシアは、賊徒の魔の手より救われ――」

「そもそも、盗賊と遭わねー日のほうが『よき日』なんじゃねーの?」


 黒髪の少年が口を挟む。


「続きを聞こうよ。きっと、宴を開く口実ができたから『よき日』だ、っていう話さ」


 狐目の男が少年をたしなめる。


「黙れ! とにかく、ナーシアは救われた! 誰によってか? ――彼だ!」


熊めいた巨漢は青年を指差し――しばらく沈黙してから、苦笑まじりに言った。


「……あー、お前さん、名はなんと言ったかね?」


 村人たちは爆笑した。


「まだ聞いてねーの!?」

「きっと、何度も自己紹介をさせるのも申し訳ないと思ったのさ」

「黙れ! ああ、お前さんは黙らなくていいんだぞ。さあ、名を」


 笑っていないのは、青年とナーシアだけだった。青年は、ナーシアの気遣わしげな視線に白い瞳で頷くと、言った。


「わからないんです」

「ワカラナイン? 変な名だな。偽名かね?」

「そうじゃなくて……憶えてないんです」


 笑い声は、雨のやんでいくように小さくなっていき、たちまち聞こえなくなった。青年とナーシアを除く誰もが、互いの顔を見合わせた。


「あー……それは、その……つまり……記憶がないということかね?」


 熊めいた巨漢が、言葉を選ぼうとして失敗したかのような、途切れ途切れの質問をした。青年は頷いた。


 食堂は静まり返り、気まずさで満たされた。動くものは、料理から立ち昇る湯気だけだ。やがて、熊めいた巨漢が咳払いをしながら話しはじめた。


「あー……そういうことはだな、もっと早く――」

「なに言ってるのよ! みんなが聞かなかっただけじゃない! 私が説明しようとしても、酒の席で聞く、とか言って! ひどいわ!」


 が、その言葉は、途中でナーシアの怒声によってさえぎられた。


「そうだそうだ!」

「あなたもでしょ!」

「はい……」


 黒髪の少年は、ナーシアに便乗して熊めいた巨漢を責め、自身への追及を逸らそうとしたが、すぐに彼女にその目論見を看破され、両手を挙げた。


 このあいだ、青年はナーシアの横顔を見つめ続けていた。彼女が、出会ったばかりで、しかも素性のまったく知れない自分のために怒ってくれていることに感動を覚えたせいでもある。

 しかしそれ以上に、彼女の毅然とした表情や、有無を言わさぬ迫力が大人びて見える一方、揺れる黒瞳こくどうや、ほのかに上気した果実のような頬が少女性を訴えている点――即ち、青春の美に見とれていたのだった。


「君、すまないね」


 青年は、はっとして、声の聞こえたほうを向いた。声の主は、狐目の男だった。


「私はフォッツというが……君たち二人を、ないがしろにしてしまった。みんな、浮かれすぎていたみたいだ。こんな吉事でもないと、宴なんて開けないものだから」

「いえ……」


 青年は食堂を見渡した。

 村人たちのほとんどは、気まずげに俯き、木杯の中の酒を見つめていた。青年は、最後に隣の少女を見た。少女もまた、俯き、衣服の裾を硬く握りしめていたが、青年の視線に気が付くと、青年を見上げた。すがるような目で。


 青年はフォッツと名乗った男を見ると、酒杯を掲げて言った。


「……ぼくの最初の記憶となる出来事が、みなさんにとっての吉事でよかったです。乾杯しましょう」


 そして、笑ってみせた。


「――そうこなくっちゃ! あ、俺はリンド! よろしくな!」


 黒髪の少年が肘で熊めいた巨漢をつつきながら名乗ると、それまで呆けたように突っ立っていた熊めいた巨漢は、思い出したように、


「で、では、僭越せんえつながら、このベイマンが……おほん! 今日もまた、我らの願いを聞き届けられたる神々と――勇敢なる若者に! 乾杯!」


 と、乾杯の音頭をとった。そして、なにごともなかったかのように、宴がはじまった。


「あの……ありがとうございます。私が勝手に怒って、雰囲気を悪くしちゃったのに……」


 ナーシアが、両手で包み込むようにして持った木杯を、青年の木杯に近付けながら言った。


「礼を言うのは、ぼくのほうだよ。ありがとう、ぼくのために怒ってくれて」


 青年が、自らの木杯を軽くナーシアの木杯に打ちつけると、ナーシアは安心したように微笑んだ。青年も笑った。


「なあ、兄ちゃん! 記憶がねーってのは、本当かよ!?」


 そんな二人のもとへ、リンドを先駆けとして、村人たちが雪崩れ込んだ。たちまち、青年は村人たちから質問攻めにされた。


「生まれたところは?」

「憶えてないです」

「年齢は?」

「憶えてないです」

「なんで森に?」

「憶えてないです」

「女の好みは?」

「憶えてないです」

「バカだなあ、そこは『ナーシア』って言っておけよ」

「ちょっとやめてよ、リンド……困ってるじゃない」

「好きな食べ物は?」

「憶えてないです」

「得意なことは?」

「憶えてないです」

「あっ、でも、すごい身のこなしでしたよね。なにか、訓練を受けていたとか……」

「憶えてないです」

「酒は飲めるほうかね?」

「憶えてないですけど、美味しいですよ」

「おお、ではもっと飲みたまえ。……さっきは悪かった」

「さっき……? もう、憶えてないです」

「はははは! うまいことを言うね」

「彼女の名は?」

「ナーシア」

「憶えてることもあるじゃんか! よかったな、姉ちゃん!」

「憶えてて当然でしょ!?」

「家族は?」

「憶えてないです」

「恋人は?」

「憶えてないです」

「そこはいないって言っておいたほうがよかったよ。ね、ナーシア?」

「どうして私に聞くんですか!?」

「狩りをしたことは?」

「憶えてないです」

「その髪と目はどうしたんだね? 見たことのない色をしているが……」

「憶えてないです」


 終始こんな調子であったので、いつのまにかはじまっていた、「最初に青年が憶えていることを言い当てた者が勝ち」というゲームも、そもそもゲームとして成立しないのではないか、という疑いが濃くなってきた。


「ない、ない、ばっかりじゃんか! なんかねーのかよ、『ある』ことはよ!」


 リンドが、よくわからない言い回しで青年に問うた。すると青年は、少し考えてから、


「……ある」


 と言った。


「ほ、本当かね? それは一体?」


 ベイマンが身を乗りだした。彼のみならず、ナーシアも、他の全ての村人も、固唾かたずを呑んで青年の次の言葉を待った。


 しかし、青年はなにも言わず、ただ指差した――自分の股間を。


 男たちは大いに笑った。ナーシアは両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏してしまった。


「あ、ある! たしかに!」

「待てよ、本当にあんのか!? なあ、ナーシアの姉ちゃん! 姉ちゃん、兄ちゃんの裸を見たとか言ってなかったっけ!? あったのかよ、なあなあ! あっはっは!」

「やめないか、どう見てもあるさ――はははは!」


 青年はほっとしたが、それは一瞬のことだった。ナーシアが両手で顔を覆ったままなのを見て、彼女には受け入れがたい下品な冗談だったか、という不安に襲われたのである。


 しかし、よく見ると、彼女の細い肩は小刻みに揺れていたので、青年はふたたびほっとすることができた。


「いやー、アルの兄ちゃんは面白いなあ!」


 リンドが酒のためか、それとも笑いすぎのためか、顔を真っ赤にしながら青年の肩を叩いた。


「いや、それほどでも……あの」

「それほどでもあるさ、アル君。どうだい、記憶が戻るまで、この村に腰を落ち着けては」


 フォッツが青年の木杯に酒を注ぎながら言った。


「は、はあ……それより、って……い、いいんですか!?」


 青年は、自分が飢えていたもの――食べ物と会話にありつけたばかりか、仮宿とはいえ、帰るべき場所が用意されると聞いて、思わず身を乗り出し、声をあげていた。足が地につく感じが、自分を取り巻く世界の輪郭がくっきりしていく感じがした。


 信じられない、という思いであたりを見回すと、いつのまにか顔を上げていたらしい、隣のナーシアと目が合った。ナーシアは酒のためか、濡れた目と色づいた頬をたわませて、嬉しそうに頷いた。

 すると、ベイマンが自分の木杯を荒っぽく青年の木杯にぶつけながら、釘を刺すように、


「勿論、働いてはもらうがね。今日の宴で、肉の備蓄も底をついてしまった。明日から、狩りを手伝ってもらうぞ、アル」


 と言った。当然、多少の酒がこぼれたが、彼は気にしない。酔っているからだ。


「は、はい! ありがとうございます……!」


 青年に断る理由はなかった。思わず立ち上がりながら返事をすると、ベイマンは笑いながら、ふたたび木杯を高く掲げた。


「そうと決まれば、早速乾杯だ。新たなる仲間、アルとの出会いに!」


 人々が木杯に酒を足したり、掲げたりする中で、青年はふと、先程から覚えていた疑問を思い出して、誰にともなく聞いた。


「……ところで、さっきから、アルって誰のことですか?」


 青年の問いに、村人たちは顔を見合わせると、テーブルを叩いたり、青年の背中を叩いたりして、笑い転げた。そして誰からともなく、口を揃えて言った。


「お前の名前だよ、お前の! 憶えてないなら、これしかない……いや、『アル』か!」



 その後、準備を終えた村の女たちも宴に混ざり、みんなの酒が進んでくると、村人たちは示し合わせたように、青年――アルが盗賊たちからナーシアを救った際の話をせがんだ。


 アルは、ナーシアを逃がすところまでは事実を話したが、それから先については、自分も盗賊たちから逃げた、と嘘をついた。後頭部を殴打されたことを伝えて、村人たちを心配させることはないと思ったし、なにより、めでたい席で盗賊たちの末路を語る気にはなれなかった。


 男たちは、相手は三人なのに逃げられるものだろうか、と疑っていたが、アルには、この嘘を貫き通せる自信があった。


 ナーシアは、アルの非凡な――彼自身、驚くほどの――身のこなしを目撃している。彼女が「アルさんなら逃げられそう」と言ってさえくれれば、この話はこれで終わりだ。いささか盛り上がりには欠けるから、みんなには申し訳ないが、仕方ない――アルは、こんなことを思いながら、ナーシアに救いを求める視線を向けた。


 しかし、ナーシアはまったく別のことを言った。


「でも、アルさん……その服って、あの盗賊たちのですよね?」

「……え?」


 反射的に、アルは自分の体を見おろした。その体を包んでいるのは、まぎれもなく、彼が盗賊の死体から剥ぎ取ったイノシシの毛皮の服だった。


 アルは、そのけがらわしい服を見おろしたまま、戸惑った。この少女は、一体なにを言いだすのか? ぼくの視線の意味に気が付かなかったのか? いや、気が付いてくれ、というほうが無茶か?


「アルさん?」


 ナーシアの声に顔を上げれば、彼女は無邪気に、なにかを期待しているかのように、黒い瞳を輝かせていた。それでアルは承知した。この少女は、自分が盗賊たちを倒したと思っているのだろう、と。その武勇伝を聞きたがっているのだろう、と。

 それにしても、先程、彼女が怒っていた時に見せた表情と比べると、今の彼女の、子供じみた英雄譚に憧れる表情は、なんと年頃の娘らしく、活き活きとしたことか。アルは一瞬、戸惑いを忘れて微笑んでしまった。


「やはり、逃げたというのは嘘なのかね?」

「するってーと、アルの兄ちゃん、盗賊たちをぶちのめしたのか? 一人で三人を? やるじゃんか!」

「人は見かけによらないものだね。全身で白旗を掲げているようなものなのにさ」


 村人たちが、ヒロイックな推測を口にする。たちまち、波紋の広がるように、ああでもない、こうでもない、と話が大きくなっていく。


「いや! 違うんです!」


 アルは両腕を振りつつ、大声で否定した。村人たちの視線が集まる。アルは、少しのあいだ、黙ってから――逡巡しゅんじゅんしてから、話しはじめた。後頭部を殴られ、気を失っているあいだに、誰かが盗賊たちを殺したのだと。


 アルは、嘘の上塗りをして変に疑われたりするよりは、顰蹙ひんしゅくを買うかもしれなくても、正直に話すことを選んだのだった。もっとも、さすがに「ぼくがやったのかもしれない」とは言えなかったが。


 隣のナーシアを見てみると、案の定、「余計なことを言ってしまった」とでもいうように、口元を押さえていたので、アルは笑いながら言った。


「いいんだ」

「え?」

「ぼくには失うものはないからね。必要以上に嘘をつくこともないなって、思えたよ。きみのおかげだ」


 アルの言葉に、ナーシアの表情が曇った。


「そんな……そんな寂しいこと、言わないでください。これからは、私が……」

「それにしても、一体誰なんだろ? 盗賊たちを殺した奴ってのは」


 ナーシアが言いかけた言葉は、リンドの言葉に上書きされた。


「今や村の一員たる、アルの命の恩人になるわけだからな。礼の一つも言いたいところではあるが」

「アル、その人は名乗ったりはしていなかったのかい」


 ベイマンが唸りながら言い、フォッツがアルに問いかける。


「名乗ってはいませんでしたが……」


 アルは、濁った水底のように曖昧な記憶を探り、回答となりうる単語をさらって、口にした。


「誰かが、言っていました。『まほうつかい』と……」


 その瞬間、食堂は水を打ったように静まり返り、村人たちは水を打たれたように青ざめ、汗ばみ、震えはじめた。


 「まほうつかい」――このたった六文字からなる単語が、なんだというのか? アルは、隣のナーシアに聞いてみようと思い、彼女を見た。彼女もまた、吐き気を堪えるかのように、口を塞いでいた。


「魔法使いって……噂の? う、嘘だろ? なんでこんなところに?」

「狂人――いや、化け物の考えなど、わかるはずもあるまい!」

「……まだ、魔法使いと決まったわけではないさ。もしそうなら、沙汰さたがあるはずだしね。……アル、盗賊たちの死体はどんなものだったんだい?」


 リンドがそれまでの調子のよさを失ってうろたえ、ベイマンがそれまでの豪快さが嘘であるかのように毒づく中、フォッツがアルに質問した。フォッツ自身は、努めて冷静にしているつもりであるようだったが、質問の内容が、ナーシアをはじめとする女たちの前でするものではないことからすると、彼もいささか動揺しているようだった。


 アルは、女たちに聞こえないよう声を潜めて、盗賊たちの死に様について一つずつ語った。ばらばらの死体、穴だらけの死体、首を潰された上に、陰茎いんけいをねじ切られた死体――一つ語るたびに、村の男たちの顔は、酒精が抜けていくかのように、白くなっていった。アルがすべて語り終える頃には、彼らは額を突き合わせ、なにやらひそひそと相談をはじめた。


 アルは手持ち無沙汰になってしまったので、気になっていたことをナーシアに尋ねてみようと思った。


「ねえ、ナーシア。魔法使いって、一体――」

「……ごめんなさい!」


 すると、ナーシアは口を塞いだまま、音を立てて席を立ち、宿屋の奥へ駆けていってしまった。その音で、村の男たちはナーシアの存在を思い出したと見えて、誰かが、


「……しまった。ナーシアの前で話すことではなかったな」


 と、呟いた。次いで彼らは、不思議そうな顔をしているアルに気が付き、こう語った。


 魔法使いは、狂っている。

 魔法使いは、人間ではない。

 魔法使いは、化け物である。

 魔法使いは、鷹の目を持ち、蝙蝠こうもりの耳を持ち、犬の鼻を持ち、熊の腕を持ち、馬の足を持つ。

 魔法使いは、死なない。

 魔法使いは、魔法を使う。


「……えっ? それだけですか? その……わかっていることは」


 アルは、思わず聞き返していた。するとベイマンが、額に当てていた手を左右に振りながら答えた。


「魔法使いと実際に遭ったことのある者は少ないのだよ。特に、『噂の魔法使い』の場合は……」

「それって、どういう……」

「遭った者は、ほとんど殺されているということさ。死体の状態が、あまりにも酷くて――ちょうど、君が目にした盗賊たちの死体のように――物盗り目当てでもなく、動機がわからないから、狂った魔法使いのしわざかもしれない、と噂されているのさ」


 フォッツが言った。


「だ、だからさ、アルの兄ちゃんが見た奴は、その魔法使いじゃねーかもな! だってよ、兄ちゃんはこうして生きてるじゃんか!」

「それを言うなら、ナーシアだって生きているじゃあないかね」


 リンドとベイマンの会話で、アルにも「ナーシアの前で話すことではなかった」という言葉の意味や、ナーシアの様子が一際おかしかった理由が推察された。


「……とにかく、沙汰があるまでは、魔法使いと決まったわけじゃあないんだ。必要以上に気にする必要もないさ」


 フォッツの言葉で、話は終わった。宴も、誰がそうと言うまでもなく、お開きとなった。



 アルは外に出てみた。


 深夜の空には、瘴気のような黒雲が入れ子めいてわだかまっている。月はその奥に閉じ込められていて、自らが囚われている場所を知らせるかのように、黒雲のごく一部だけを仄白ほのじろく染めていた。


 そして、地上に存在する明かりは、アルが後にした宿屋から漏れ出る、弱々しい光のみだった。村内の他の家の者たちは、すでに眠っているのだろう。村のなにもかもの輪郭が溶け込むほど暗く、物音一つしない、死んだような夜だった。


 しかし、アルは構わずに歩き出した。明かりも持たないまま、俯き加減で。彼はなにかを見るためや、調べるためではなく、頭の中を整理するために歩いているのだった。


 どうやら自分は、一般的な事柄は憶えているらしい。

 さっき、誰かが「沙汰」と言っていたけれど、あれはきっと王命のことだろう。

 そうだ。この島は、王によって統治されているんだった。

 島? そうだ、ここは島国――ミクトランドだ! なんだ、結構憶えているじゃあないか!


 アルはうろうろと歩きながら、連想ゲームのように記憶を掘り起こしていたが、不意に立ち止まった。そして、呟いた。


「……じゃあ、なんでぼくは、魔法使いのことは憶えてないんだ?」

「魔法使い?」


 その独白に、返る声があった。


 見上げると、まず馬の足が目に入った。さらに見上げると、馬の頭と、その向こうの馬上の人が目に入った。胸部に五芒星の刺繍ししゅうがなされた外套の下には、鎖帷子くさりかたびらが覗いている。ベルトの左腰部分には、鞘に包まれた剣が差されている。

 そして、羽飾りのついた兜――その奥の瞳が、一筆書きでもするかのように、一瞬でアルの全身をなぞった。


「容易ならぬ時、容易ならぬ場所、容易ならぬ機に、よくも口に出してくれたものよ」


 騎士であった。


 アルは、あたりを見回した。すると、どうやら自分が村の外れまで歩いてきてしまったことと、いつのまにか、三人の騎士――うち、二人の兜には羽飾りはついていなかった――に囲まれていることがわかった。


「おまけに、見ない顔ときた。おい、きさま。名を申せ」

「アルです」


 羽飾りの騎士の誰何すいかに対し、アルは丁寧に名乗った。名乗るべき名があることを実感して、ささやかな喜びから自然と顔がほころびそうであったが、怪しまれると思い、耐えた。しかし、かえって顔面が引きつってしまったので、羽飾りの騎士の首をかしげさせる結果となった。


「おまけに、聞かない名ときている。どうだ?」

「関所の通行記録には認められません」


 羽飾りの騎士が、部下とおぼしき騎士に問う。問われた騎士は、広げた羊皮紙に顔を近付けながら答えた。

 アルは、その問答に不合理なものを感じて、反射的に口を挟んだ。


「そりゃそうですよ、アルって名前がついたのはさっきのことで……」

「ほう? それは偽名だということか?」


 しかし、新たな疑惑が生まれただけだった。アルは心中、己の迂闊うかつを呪いながら、


「い、いえ、その、偽名には違いないんですが……本当の名前がわからないと言いますか……記憶がなくて……」


 と、たどたどしく弁明をはじめたが、それは羽飾りの騎士の嘲笑ちょうしょうによって遮られた。二人の部下も笑った。彼らの着込んでいる鎖帷子が、相槌を打つように、金属の擦れる冷たい音を立てる。

 やがて、羽飾りの騎士は首を振りながら言った。


「きさまのように、髪も目も肌も白く生まれつくと、態度まで白々しくなるものか?」

「……は?」


 自分の手を――爪の内側までも白い――見て、自分の身体的特徴のことを言われているのだ、とアルが気が付くまでに、少しの時間を要した。そのあいだにも、羽飾りの騎士の追及は続いている。


「このタンムースにはまだ、沙汰は下っておらぬ。我らが下しにきたのだ……それなのに、きさまは沙汰に先立って、『魔法使い』と口にした。これはいかなる仕儀しぎか?」

「そ、それは、盗賊たちがそう言っていたからで……」


 三人の騎士は顔を見合わせた。そして、視線をアルに戻すと同時、各々が帯びた剣の柄に手を伸ばした。三本の鞘が不吉に合唱した。


「盗賊? あの死体のことか?」


 羽飾りの騎士が、兜の奥から油断のない目を光らせながら言った。


「獣どもに喰い荒らされて尚、人智を超えた殺人の妙技をほのめかす、あの死体のことを知っているのか? まさしく、魔法使いの手並みであったことよ……いや、きさまのか?」


 ことここに至って、アルは自分に魔法使いの嫌疑がかかっていることに気が付いた。慌てて両手を振り、


「ち、違いますよ!」


 と否定したが、


「そうかな? かの魔法使いと遭って、なぜ生きている? 盗賊どもの末期まつごの声を聞きながら、なぜ生きている? それは、きさまが魔法使いその人だからではないのか?」

「そ、それは…………でも、違うんですって!?」


 羽飾りの騎士には通用しなかった。それどころか、新たな疑問点を指摘してくる始末だ。しかも、それが合理的な疑いなのである。


 アルは、騎士に追及されるにつれ、「憶えていないだけで、本当はぼくがやったのかもしれない」――と、努めて忘れようとしていた疑いの芽が、水を撒かれて育ち、心に根を張っていくような思いがした。目覚める前のことをなに一つ思い出せない身でありながら、こんなことは容易に思い出されるとは、なんたる皮肉か……


 アルは困り果て、俯いてしまった。すると、それを察したか、羽飾りの騎士は助け舟めいた言葉を発した。


「論より証拠」

「え?」


 顔をあげたアルの視界に、銀灰色ぎんかいしょくの弧がほとばしった。羽飾りの騎士が、剣を抜いたのだ。そして、騎士は宣告した。


「まこと魔法使いではないと申すなら、一つ我が剣を受けてみよ」


 アルは後ずさった。後方にも騎士がいると知っていても、恐るべき予感から、後ずさらずにはいられなかった。しばしの沈黙のあと、アルはおずおずと確認した。


「……それって、もしかして……剣を受けて死ねば、魔法使いではない、っていう?」


 三人の騎士は、気の利いた冗談が飛ばされた時のように、なごやかに笑いあった。アルも引きつった愛想笑いを浮かべた。

 笑声は唐突に途絶えた。羽飾りのついた兜の奥の目が、ぎらりと光った。


「よくわかっておるではないか。魔法使いであろうとなかろうと、きさまの不審に違いはない。生かしておく理由はないわ。それっ!」


 羽飾りの騎士が馬の腹を蹴る。馬が駆けざま、騎士はアルのほうへ身を乗り出すようにしながら、剣を振り上げる。馬の蹄が地面を砕き、土を散らす。


 アルの白い瞳は、その一連の動作をとらえている。あたかも、微妙にポーズの異なる絵画を一枚ずつ、順番に見せられたかのように。盗賊に襲われた時と同じだった。

 違うのは、アルの体がついてこれていない点だった。盗賊の一刀を羽虫だとするなら、羽飾りの騎士の一刀は、狩りのために訓練された猛禽もうきんだった。


 アルの白い虹彩こうさいに、縦長の瞳孔めいて、曇天を突く鉄の剣が映り込み――銀灰色の突風となって、雪崩落ちてくる――アルの体は動かない。動かせない。


「ダメ!」


 次の瞬間、アルの視界はぐるぐると回転した。続いて、全身に衝撃が訪れた。そして、土の匂いと味――柔らかく、しっとりとした感触――花めいた香……


「きさま……ナーシアか?」


 アルは数度のまばたきの末、細い肩越しに、手綱を引いて馬を旋回させる羽飾りの騎士の姿が聳えているのを見た。細い肩? そう、アルの目の前には細い肩があった。横を向くと、そこには目をきつくつぶった少女の横顔……


「ナーシア!?」


 ナーシアであった。アルは彼女に抱きつかれるようにして突き飛ばされ、地面に押し倒されたのだった。羽飾りの騎士の剛剣が、彼の脳天を割る寸前に。


「アルさん……無事で、よかった」


 ナーシアが、弱々しく微笑みながら言う。直後、アルの体にかかる重みが増す。


「き、きみのほうこそ!?」


 アルは慌てて上半身を起こすと、ナーシアの背中を見た。服は斬り裂かれてはいたが、闇に仄白ほのじろく浮かぶ肌には、傷はなかった。どうやら、ナーシアは安堵、あるいは疲労のあまり、虚脱きょだつしただけのようであった。


「……どうやら、村の者に話を聞く必要がありそうだな」


 羽飾りの騎士は、剣を納めながらどこか不服げに呟くと、村の中心部のほうを見た。


「今の声は!? 一体、なにごとだね!?」

「げっ、グランディエ……」

「……さま! なにかあったのですか?」


 ベイマンとリンドとフォッツが、羽飾りの騎士の名を呼びながら、ランタンを片手に駆けつけたからだった。

 これは、魔法使いの嫌疑をかけられていたアルにとって救いであったが、彼自身はそのようなことはすでに忘れていた。記憶喪失の再発ではない。


「ナーシア、大丈夫かい!?」


 ナーシアが心配だったからだ。彼女は未だアルの腕の中にあり、肩に顔を乗せ、荒い息をついていた。


「大丈夫です……ごめんなさい。でも、間に合って、本当によかった」


 強いて笑顔を浮かべようとしながら、今にも泣きそうな声でそう言うナーシアを見ていると、アルの心中に戸惑いが生じた。


「どうして……」


 アルは、ナーシアのすべすべとした背をさすりながら、半ばうわ言のように呟いた。


 どうして、身を挺して助けてくれたのか? 命を落とすかもしれなかったというのに――数時間前に出会ったばかりの、記憶のない謎めいた男を。

 どうして、そんな男の無事を涙ぐむほどに喜んでくれるのか?


「同じだから」


 すると、意外にもはっきりとした、しかしどこか甘えるような声が返ってきた。


「え……?」


 アルは腕の中のナーシアの顔を見た。白い瞳と、黒い瞳が合った。ナーシアは頬をアルの肩に乗せて、物憂ものうげに細めた目で、彼の顔を見ていた。


「私も、大切なものを失くしたから……」


 その言葉を聞いたアルの脳裏によぎったのは、宴で村人が婉曲的に口にした、「ナーシアは噂の魔法使いと遭ったが、生き残った」という事実だった。


 そして、アルにとっては、羽飾りの騎士――グランディエとの会話から、薄々予感されていたことであったが、まさにこの時、グランディエが運命的にも、羊皮紙をランタンの灯に翳し、朗々と沙汰を下したのである。


「昨夜、月の昇りはじめる頃、このタンムースの東のテオンが、何者かによって滅ぼされた。村人たちは皆殺しにされておったが、財産は無事であった……これを受け、陛下は、この事件を含めた一連の殺人事件を魔法使いの所業と断定なされた! ついては、封印騎士団が彼奴きゃつを封ずるまで、十分な武装、及び、魔法使いの疑いある者の密告を命ず」

「う、嘘だろ? テオンにゃ、昨日、姉ちゃんが物々交換に……」

「無礼者! なんで流星騎士が陛下の御名みなをお借りして虚言あろうか」


 この時、アルははじめて、目の前の騎士道ならぬ非道を行く騎士たちに感謝した。昨夜の月の昇りはじめる頃といえば、自分が目覚めた頃ではないか。少なくとも、自分はテオンという村を滅ぼした魔法使いではないのだ! ――アルにはそう思えた。


 しかし、アルはすぐにまた、目の前の騎士たちに嫌悪感を抱き直すこととなった。


「……それにしても、ナーシア。魔法使いと行き違いになったのか? 運がよかったな? またしても……」


 グランディエが振り返りながら言うと、ナーシアがびくりとして、顔をアルの首筋にうずめた。騎士たちの表情は、兜の隙間からもはっきりとわかるほど、嗜虐的しぎゃくてきな笑みに歪んでいた。


「そうよ、ナーシア。テオンを滅ぼしたのは、きさまの故郷を滅ぼした魔法使いだとよ」


 グランディエの声が冷風のように吹きつけて、ナーシアの体を震わせた。アルは、震えるはしから崩れ、霧散しそうにすら思える、彼女の華奢きゃしゃな体を強く抱きしめた。そして、言った。


「……大丈夫だ。きみは、ぼくが守る」


 ナーシアは顔を伏せたまま、凍えているかのようにガタガタと震えていたが、たしかに頷いた。

 

 自分の無事を喜んでくれて、自分のために怒ってくれて、自分が村に迎えられたことを嬉しがってくれて、自分を命賭けで助けてくれて――自分の喪失感をしんに理解してくれた、はじめてのひと

 

 今やアルにとって、失われた記憶と同じくらい、ナーシアが大事に思えるのだった。

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