四章 垂木水菜は釣りが下手

「お、きたきた。大物よ、これは。」

 川原はたわむ釣り竿を上気した表情で見つめながら、ぐいぐいとリールを巻き上げている。補給島の入り江の端にある、天然の埠頭のように突出した岩場の先で、川原達は食料の現地調達をしていた。

 アデリア海峡の封鎖に失敗した影響は、予想通り、大きなものとなった。敵は豊富な物量を最大限発揮し、無数とも思える大量の駆逐艦、潜水艦を海峡経由で投入してきたのだ。防衛ラインは有名無実化し、物資輸送用の航路はその機能を発揮しなくなっていった。輸送船は、五隻に一隻が通過できればよい方で、残りの大半は拿捕、もしくは撃沈されていった。

 輸送航路の断絶は一般の市民生活へも甚大な影響を及ぼし、食料、その他の生活必需品は配給制により、厳しく供給制限された。軍属である川原達へすら、食料の配給量が目に見えて減っている。あるいは、鯨の研究員という立場を軽視された結果なのかも知れないが、いずれにせよ、足りないタンパク質は、こうして釣りをすることで補っている。

「おほー! ヒラメちゃんね!」

 水の上に姿を現したおおぶりのヒラメを見て、川原は歓声を上げた。川原を見ながら、水菜は渋い顔をしている。

「垂木ちゃん。タモ取って、タモ。」

「・・・はい。」

 ほくほくとヒラメをタモですくい上げ、川原は暴れるそれをクーラーボックスの中に放り込む。ボックスは既に、様々な魚でみっしりと埋まっていた。

 タモを渡してから、自分の釣り竿のところへ戻った水菜は、竿の先がぴくぴくと揺れていることに気づいた。

「あ、私もきた!」

 そう言いながら勢いよく竿を引っぱり上げようとした途端、かくん、と手応えがなくなってしまった。餌だけ取られてしまったみたいだ。水菜のクーラーボックスにはまだ、魚が一匹も入っていなかった。

「いやー、垂木ちゃん。釣り、下手ね。そんなすぐに竿を上げちゃだめよ。もっとじっくり、食いつかせないと。たっぷりじらして、離れられなくなってから一気に引き上げるのよ。男と一緒よ。」

「はぁ・・・。」

 男と一緒だ、と言われても、その当たりの駆け引きの機微が、水菜にはどうにもよく分からない。

「鯨のことなら分かるんですけどね。」

「そうねぇ。垂木ちゃん、鯨の体調管理とか、万全だもんね。セイゲンの傷もどんどん良くなってるみたいだし。でも、鯨だけじゃだめよ。自分の獲物も釣り逃がさないようにすることね。」

「獲物、ですか。」

「そうそう。最近よく見かける、国岡って人。結構、男前じゃない。」

「ぇえ? 別に国岡さんとは何も・・・。」

 ここは規模の上では比較的小さな拠点なものだから、まだ本格的な攻撃を受けてはいない。だが、補給拠点のひとつである以上、目標とされる可能性は高く、鷲水始め、いくつかの艦がこの島の近海を巡回するようになった。その関係で、時折、鷲水も立ち寄るようになっていたのだ。

「ほんとかなー。しょっちゅう喋ってるみたいじゃない。」

「あれは、喋ってるんじゃなくて、喧嘩してるんです。国岡さん、セイゲンのこととか何も分かってないし、杓子定規っていうか、融通がきかないっていうか・・・。エリートはエリートなんでしょうけど、お坊ちゃんって感じの青臭さが残ってるんですよ。もっと、セイゲンみたいに落ち着けばいいのに。」

「ははっ。鯨と比べられちゃ、国岡君も張り合いようがないわね。じゃあ、私がいただこうかしら。いい?」

 川原は、水菜に向かって妖艶な笑みをにやりと浮かべた。

「い、いただくって・・・。別に、私へ許可を求めないでくださいよ。どうぞ、ご勝手に。」

「あはは。冗談よ、冗談。それにしても、この前の戦闘。垂木ちゃんが無事に帰ってこれて、本当によかったわ。」

 川原は、じっと水菜を見つめて言った。

「ええ。ニライの来てくれたおかげです。セイゲンには怪我をさせてしまったけれど・・・。」

「それでも、帰って来たわ。・・・帰還してから、腰水君、何か言ってた?」

「いえ、別に・・・。垂木、戻ったか、って私をちらっと見て言ったきりです。きっと、散歩先で放した犬が帰って来た、ぐらいにしか思ってないんでしょうね。」

「犬、ねぇ。・・・あいつ、表には出さないようにしてたけど、垂木ちゃんとコンタクトが取れなくなったあと、ずっとそわそわしっぱなしだったのよ。」

「そわそわ、ですか? あの腰水さんが?」

 水菜は首を傾げて川原を見た。いま居る島が沈没しても動じなさそうな腰水が、そわそわする様子を水菜はどうしても想像できない。

「きっと、別の理由で落ち着かなかったんですよ。戦闘の状況も途中から悪化しましたし・・・。」

「違うのよ、垂木ちゃん。あいつは戦闘状況の変化なんかで落ち着かなくなる奴じゃないわ。垂木ちゃんが心配だったのよ。」

「私が、ですか? いやいや、ありえないと思いますよ。だって、あの腰水さんですよ。私を心配なんかするわけないじゃないですか。セイゲンならまだ、予算がかかってますけど、私はいわば、セイゲンのおまけとしか映ってないんですよ。腰水さんには。」

「腰水君も、ずいぶんな言われようね。そこまで非情に見られてるとはねぇ・・・。昔から、感情を出すのが不器用なだけなんだから、もう少し分かってあげてもいいと思うわ。」

「昔から・・? 前から思っていたんですけど、川原さんと腰水さんて、お知り合いだったんですか?」

「まぁね。腐れ縁みたいなもんだけど、大学のこうは・・、同級だったのよ、腰水君は。」

「あの、別に言い直さなくても・・。」

「私の歳がばれるじゃあないの。」

「いえ、同級って言ってもばれますけど。腰水さんのこと、君づけで呼ぶし、川原さんの後輩だったんですよね。」

「・・そう。ま、一応ここでは後輩ということにしておくわ。ゼミに腰水君が入って来たときには、変な奴が来たもんだと思ったわ。いきなり教授と議論始めて、喧嘩になるんじゃないかってはらはらするくらい、白熱したわけよ。それがきっかけで、教授には気に入られたみたいだけどさ。」

「腰水さんて、昔からああだったんですか?」

「うーん。昔はもうちょっと血の通った部分もあったんだけど・・・。・・・今から話すこと、私が言ったって腰水君には内緒ね。」

「ええ。それは大丈夫ですけど・・。」

 川原は、釣り竿の先を見つめながら話し始めた。

「当時ね。彼の妹さんが軍需工場で働いていたんだけど、その妹さん、作業中の事故で大怪我したのよ。幸い命に別状はなかったけれど、足を酷く怪我して、歩けなくなったって聞いたわ。」

「歩けなく・・・。」

「垂木ちゃん。腰水君の大学での研究テーマ、何だか知ってる?」

「いえ、知らないです。」

「筋制御に関する神経網の変質と再構成。鯨と人間の筋肉や神経って、驚くほど似ているのよ。人間も鯨も、住む環境や身体的形質は大きく異なるけれど、進化の系統を遡って行くと、同じような種にたどり着くのよ。鯨を知ることは、人間を知ることだって、昔の彼の口癖。きっと、鯨の生理的知見を深めることで、妹さんの足、治す技術につなげられるかもって考えたんでしょうね。それからはもう、研究一辺倒よ。誰も寄せ付けない雰囲気ができあがっちゃったし、なんだか生ける亡者みたいに学内を歩いてたわ。」

「それで、セイゲンの解剖を熱心に進めようと・・。」

「彼の目的からすると、必要なことのひとつに入るわよね、それも。」

「でも、そんな話、ひとことも言いませんよね、腰水さんて。今の研究だって、軍に必要とされるよう、必死になってやっているとしか見えないです。」

「それは垂木ちゃん、照れ隠しってやつじゃないの。恥ずかしいのよ、妹のためだなんてね。」

 川原の横顔を見ながら、水菜は思った。この人、腰水さんのこと好きなんじゃないか。なんだか、そうとしか思えないくらい、腰水のことをよく見ているし、知っている。

「あの、川原さん。」

「何?」

「腰水さんのこと、好きなんですか?」

 ぴく、と川原の持つ竿の先が揺れた。魚が餌をつついたわけではなかった。

「ずいぶんストレートに訊くのねぇ。・・・好きってわけじゃないわ。もちろん、嫌いではないけど、気になる弟分みたいなものよ。腰水君はそういう扱い、嫌がるけれどね。」

「弟分、ですか・・・。」

 この人は、自分の本心のこととなると、途端に不器用になるタイプじゃないか。水菜は、川原を見ながら思った。腰水が見ているのは、常に妹であり、鯨であり、研究であった。自分の入り込む隙間が一分もないと分かると、弟分として思うことで、想いをすり替えた・・・。

 水菜が横から見つめる視線を意識してか分からないが、川原は身体をひねってクーラーボックスの中をのぞくと言った。

「今日、明日分にはこれくらいで十分か。垂木ちゃん。引き上げよ。」

「あ、はい。あの。」

「何?」

「腰水さんのこと話してくださって、ありがとうございます。あの人のこと、ちょっとだけ分かった気がします。」

「そう。よかった。悪い奴じゃないのよ。彼のこと、嫌いにならないであげて。」

 そう言って微笑む川原は、とてもかわいいと水菜は思った。

「しかし、あんさんもよくあない小娘の言うこと、聞きはりますな。」

 ニライは、入り江の奥にゆっくりと漂うセイゲンのそばを、くるくると泳ぎ回っている。

「・・・・。」

「結局、彼女は人間、陸のもんでっしゃろ。あてら、海のもんとは相容れないものなんちゃいますか。利用するだけして利用して、後はぽいされても、それが現実やと言われれば、受け入れざるをえない。そない暗黙の関係の上に成り立っていると、そうは思いませんか、セイゲンはん。」

「ニライ。何が言いたい。」

「だから、あてと逃げよう言うてまんのや。セイゲンはん、あてと違って、外生まれなんでっしゃろ? 逃げ出したいとは思わんのですか? いいように使われて、あんな人間同士の争いに巻き込まれて。奴らにとって、都合良過ぎやないですか。結局、血ぃ流すんは、あてらですもん。セイゲンはんかて、この前、えらい傷を負ったやないですか。」

「・・・・。あいつには借りがある。」

「借りて?」

「仲間に薬を与えてもらった。それで仲間が助かった。その借りを返さなければならない。」

「そない言うたかて、じゃあ、いつになったらその借り、返し終わるんですか。セイゲンはんが死ぬまで、とか言わんとってくださいよ。」

「あいつのために死ぬつもりはないが、まだ借りを返し切ったとは思っていない。」

「かーっ! セイゲンはんも律儀ちゅーか、馬鹿正直ちゅうか。借りは返した、後は知らん、でいいやないですか。恩義の貸し借りなんて、そもそも秤で計れんもんでしょう。ヴェニスの商人かて、肉は切ってもよいが、血は一滴も垂らすな、で担保がちゃらになってしもうたやないですか。」

「・・・それが恩義と関係あるのか。」

「シャイロックの件は恩義じゃありまへんが、恩みたいな計れんもんを返そうとする限り、足下見られて、いつまでもいいように扱われるちゅー、そういう話です。」

「放っておけ。逃げたければ、一人で逃げるがいい。俺は行かない。」

「何でですのん? セイゲンはんには、逃げない理由でもあるんですか。最近では、与えられる餌の魚も減ってきてるし、正直、人間にこき使われる意味ももうないですやん。まさか、セイゲンはん、あの垂木っちゅー人間、気に入っとるとか言わんでくださいよ。」

「・・・・。」

 沈黙するセイゲンの背中に、海面でできた影が落ちた。水菜が手漕ぎボートに乗って、セイゲン達の真上までやって来たのだ。

「セイゲン。傷の具合はどう。あ、ニライも一緒だったんだ。ニライは元気そうね。」

 ニライは水面に顔を出すと、イルカ特有の笑みを浮かべているような表情のまま言った。

「おや、水菜はんやないですか。どないしはったんです? 命令があるなら、何でも言うてくださいね。どんな場所へも、魚雷のように突っ走りますからね。」

「あはは。ありがと、ニライ。何かあれば、お願いするね。」

 水菜がそう言って、セイゲンの上へ飛び乗って背中を見せると、ニライは、けっ、というように口の端をしかめてどこかへ行ってしまった。

 セイゲンの背中の傷の様子を確認しながら、水菜は言った。

「ニライは良い子ね。セイゲンももうちょっと明るくなればいいのに。ニライみたいに。」

「・・・ニライが良いイルカだと思ってるのか。」

「思ってるよ。だってそうでしょ。」

 水菜は、何を言ってるんだ、この鯨は、と言わんばかりに首を傾げている。

「・・・・お前はもう少し、物事の裏を読むべきだな。」

「えー? 裏って? よし。傷、もうだいぶ閉じてきてる。やっぱり、体力あるのね、セイゲンは。野生の生命力ってやつかしら。で? 何が裏なの?」

「もういい。お前は子供だという話だ。」

「子供じゃないよ、大人だよ。」

「そう言い切れる自信が、どこにある。」

「え? ・・・年齢。」

「だから子供だと言うんだ。」

「何でよ? もう二十歳越えてるんだし、子供じゃないわ。」

「年齢の話をしてるんじゃない。目で見たり、耳で聞いたりする世界がすべてじゃないと言っている。直方体で同時に見ることができるのは三面までだ。だが、実際には六面存在する。見えてはいないが、残りの三面が確かに存在するという想像ができない以上、お前はどこまで行っても子供なんだ。」

「ちょ、ずいぶんな言い様じゃない、セイゲン。そんなに私を子供扱いしたいの? 何か今日は変だよ、セイゲン。いつもは、飄々としてそんなこと気にもしないくせに、どうしたっていうのよ。」

「・・・どうもしない。傷を看終わったのなら、さっさと行け。」

「言われなくても行くわよ! セイゲンのバカ!」

 水菜はボートに飛び移ると、オールでやたら水しぶきを上げながら、その場を去って行った。

 セイゲンは、頭の先の鼻から勢いよく息を吹いた。セイゲンは自分の中に妙なイラつきがあることに気づいた。ニライの言うことが、気にかかる。気にかかるし、ニライの態度の表裏にまったく気づかないまま、ニライはいい子だなどと言う、水菜の能天気さにも腹が立った。なぜ腹が立つのか、セイゲン自信にも実はよく分かっていない。あるいは、人と鯨、理解し合っていると感じるのは結局単なる幻想で、利用する者とされる者、その両者しか存在しないのだと、心の奥で認めざるをえないからこそのイラつきなのかも知れなかった。

 水菜は自分のことをどこまで信用しているのか、セイゲンには推測でしか知りえない。ただ、水菜の大人になりきっていない甘さを見るにつけ、水菜が、こちらへ寄せているものと同等の信頼を、こちらからも期待しているし、その期待が裏切られることはない。そう考えていることが手に取るように分かるものだから、セイゲンはいらだつのだ。自分はそこまで、水菜のことを信用はしていない、と。


 水菜達の駐留する補給拠点は、そこが戦場の一端であると、にわかには信じられないくらい、のどかな雰囲気に包まれている。太陽はどこまでも輝いているし、海はエメラルド色の輝きを落とすことはない。

 そんな空気が、にわかにかき乱されたのは、日差しの傾きかけた、ある日の夕方だった。海峡の封鎖に失敗してから、二週間が過ぎていた。

「鷲水が?」

 と、水菜は腰水へ、その襟首につかみかからんばかりの勢いで迫った。

「沈められたって、本当ですか?」

「鷲水の救難信号筒から受信した。間違いはない。」

「そんな・・・。」

「敵、潜水艦、二隻を撃沈したようだが、三隻目にやられたらしい。多勢相手の健闘だが、逃げ切れなかったようだ。」

 淡々と腰水は事実を言っているに過ぎないのだが、水菜はその冷静すぎる態度を見て、平手で殴ってしまいたいほどの衝動に駆られた。飯島や国岡の顔が浮かぶ。腰水とも、何度も顔を合わせている相手だ。その飯島達が死んだというのに、この冷静さはいったいどこから来るのだろう。

 水菜が睨むのに気づいていないのか、無視しているだけなのか、腰水は黙ったまま、テーブルに広げられた海図を見ている。

「何だ?」

 腰水は水菜の視線に気づいたようだ。

「・・・腰水さんは、何とも思ってないんですか。鷲水がやられたこと。」

「この海域を防衛する艦が一隻減った。」

「それだけですか。」

「それだけのことだ。」

「どうして! 腰水さんはいっつもそんなに冷たいんです! 人が大勢死んでるのに。飯島さんや、国岡さんだって・・・。」

「もっと感情的になれば、人が助かり、戦争も終わると、そう言いたいのか、垂木。」

「そうじゃありません! そうじゃありませんけど、もっと、人間らしい反応って、あるじゃないですか・・・。そんな、事務的に言わなくても、いいじゃないですか。」

「・・・お前が気に入ろうが入るまいが、俺は事実を言っているだけだ。俺のことが嫌いだと思うなら、勝手に思っていろ。」

「・・・・・。」

「ひとつ勘違いをしているようだが。」

 腰水は、顔を真っ赤にしてうつむいている水菜を見下すようにして言った。

「鷲水の乗員が全員死んでいるとは限らない。」

「・・・え?」

「鷲水は損傷により浮上できなくなっている可能性が高い。少なくとも、信号筒を射出できるくらいの余裕はあったということだ。現場海域は幸い、水深が百五十メートル程度しかない。これより、救援を送る。」

 水菜の顔が、ぱっ、と明るくなった。

「私とセイゲンに行かせてください! 鷲水には前回の作戦で助けられてもいます。まだ、艦内に残されている人達がいるなら、助けてあげたいんです!」

「・・・いいだろう。もとより、お前達を行かせるつもりだった。」

 セイゲンは、やれやれというように身体をゆさぶった。その背中には、金属製土台上に四角く畳まれたゴムフロートが装備されている。フロートに空気は入っておらず、ぺちゃんこにつぶれた状態だ。

「急いで、セイゲン。」

 ポッドの中から水菜が急かす。セイゲンは黙ったまま、泳ぐ速度を早めた。

 自分はなぜ、水菜の命令を聞いているのだろう。セイゲンは、泳ぎながらそのことを考えてみる。今もまた、人間達を救助するために、潜水艦の沈没した海域へと向かっている。彼らを助ける義理などセイゲンにはなかったし、水菜の命令であるから実行しているにすぎない。相変わらず、ニライの言葉が脳裏に引っ掛かっていた。借りは返した。後は知らない、でいいじゃないか。いつまでその借りを返し続けるつもりだ、と。だが、自分の背中に乗っているこの小さな人間は、自分のことを心底信頼していたし、自分なしには、この深い海を泳ぎ回ることさえできない、無力な存在なのだ。依存、という表現がこの場合、適切であるかセイゲンにはよく分からなかったが、しかし、水菜は確かに、セイゲンの存在に依存している。この青黒い水の中では、だ。依存され、頼りにされているという感覚を、心地よいと思っている自分がいるのも、確かだった。

 だから、

「やれやれ。分かっている。」

 そう言いながら、全力で泳ぐこの状況を、セイゲンは甘んじて受け入れるだけの余裕がその心にはあった。

「救難信号が発信されたのは、この辺りよ。底まで潜ってみよう。」

 水菜に言われるまま、セイゲンは海底に向かって頭を下げた。海上の太陽はすっかり傾き、海中には一足早く夜が訪れている。水菜はポッドのサーチライトを点灯した。海中を浮遊するプランクトンで、視界が白っぽく濁る。深度計は百三十メートルを指していた。

 程なくして、セイゲンは海底にたどり着いた。幸い、辺りは見渡す限り砂で覆われている。これなら、鷲水が海底にぶつかった衝撃で浸水箇所が拡大するという可能性は低い。

「・・・何か聞こえる、セイゲン?」

 水菜は、そうすることに実際意味などないのだが、声をひそめた。

「いや。・・・何も聞こえない。」

 セイゲンは耳を澄ますが、聞こえて来るのは、近くを通るイワシの群れの泳ぐ音と、海流によりゆっくりとさらわれる砂地の音ばかりだ。

「ポイントは確かにこの辺り何だけど・・・。」

 水菜は焦っていた。仮に、鷲水内に生存者がいたとしても、そう長くは持たないだろう。浮上シュノーケリングによる空気交換ができず、浸水が発生しているとなれば、艦内の残存酸素に期待はできない。水菜は目をこらすようにして、暗い海底の砂地を見つめた。

 セイゲンの聴覚は、その時、かすかな金属音を捉えた。かん、かかん、かん、と一定の間隔を置きながら、明らかに人為的な音を立てている者がいる。

「・・・・・。」

 セイゲンは無言のまま、音のする方へと泳ぎ始めた。

「どうしたの、セイゲン。何か見つけた。」

「音がする。」

「音? どんな?」

 水菜は、座席から身を乗り出さんばかりにしている。

「金属音だ。何かを規則的に叩いている。そこへ向かってみる。」

「うん。お願い。」

 水菜は、祈るようにしてライトの照らす前方を見据えた。一瞬、黒い岩のような塊が、視界に隅に入った。最初は気のせいかとも思ったが、そうではない。胴体から上に突出しているのは、岩などではなく、司令塔だ。

「いた! セイゲン、あそこ!」

 水菜の指差す先にあるのは、海底の砂地に艦体の三分の一ほどをうずめ、傾斜したまま沈黙している鷲水だった。ライトで照らすと、舞い散った砂をかぶり、さながら沈没船のようになっていたが、見間違えるものではない。ここから見えるだけでも、艦体の右舷側上部に大きな亀裂が入っている。恐らくそこから外殻内部に水が浸水したようだが、魚雷の直撃は避けられたようだ。内殻部にまで大きな破損が及んでいるようには見えない。

「セイゲン。鷲水の横に並んで。まずは左舷側・・・。」

 水菜は、ポッドに据えられた照準器で鷲水を狙うと、トリガーを引いた。ぼっ、と圧縮空気の弾ける鈍い音がしたかと思うと、セイゲンの背に付けられた土台から、するするとワイヤーが伸び、先端が艦の外殻に付着した。水中でも溶出しない特殊な接着剤は数十秒で固化し、ワイヤーと鷲水を強固に固定する。

 鷲水の左舷、右舷、上方の三方で二カ所ずつ、同じようにワイヤーを設置すると、水菜はセイゲンの背からフロートを切り離し、フロート内部に設置されていたボンベの圧縮空気を、遠隔(リモート)で放出する。

 フロートは見る間にその容積を増加させると、強力な浮力を発生させた。

「・・・だめ?」

 だが、鷲水はフロートが膨らみきったにも関わらず、上昇する気配すらない。

「浮力が足りてない・・。」

 動け、動けと念じながら水菜は鷲水を見つめたが、しかし、鷲水は動き出さない。

「ここまで来たのに、浮かないなんて・・!」

 ぐっ、と水菜が唇を噛んだとき、セイゲンがフロートと鷲水の間に身体を滑り込ませた。

「セイゲン。何を・・?」

 セイゲンが勢いよく尾びれを振ると、鷲水がわずかに動いた。

「そうか! 頑張って、セイゲン!」

 セイゲン自身の浮力と尾びれの動きによって、鷲水はその巨体にかかる砂を振り落とすかの用に震えたかと思うと、ゆっくり浮上を始めた。

 砂地の下は粘土質の地形で、艦体下部がめり込んでいたのだ。一度浮上を始めた鷲水は、セイゲンが力を貸さずとも、ぐんぐん海面に向かって上昇している。

「艦長! 艦が浮上を始めました! 先ほどの音は、やはり浮揚体の設置音だったようです!」

 鷲水の発令室では、ソナー手が興奮した面持ちでいる。ソナー手だけではない。発令室の全員が、そうする行為に何の意味がないと分かりながらも、必死に艦内の天井を、その先にある海面を見つめている。

 浮力を失い、自力で浮き上がれなくなった潜水艦は、海底に横たわる棺桶も同然だった。一人に一つ、永遠の孤独作成器たる埋葬用の棺桶に、入るのとは違う。ここには苦楽を共にした仲間がいるのだから、孤独じゃないという意味では棺桶よりましなのかも知れなかった。しかし、共有された絶望は、孤独に死に行くことよりも、ときにタチが悪い。死を受け入れる覚悟をしてもなお、あくまでも死を拒否しようという試みの失敗が、激しく伝播してくるのだ。それは、暗い波紋のように隣のクルーから、さらに別のクルーへと伝わって行く。

 そんな空気が、実際の酸素欠乏よりもむしろ恐ろしいと感じ始めていた国岡もまた、天井を見つめる者の一人だった。

「ようやく来たか。深度は?」

 飯島は、こうして救援が来ることも、あらかじめ折り込み済みだったのではと思わせるほどの落ち着きぶりだ。

「現在、九十。さらに上昇しています!」

「シュノーケリング用意。艦内循環系はまだ生きているな。」

 飯島は国岡に向かって言った。

「・・・・。」

「国岡!」

 これで助かる。絶望から、死の底から這い上がるような感覚に茫然としていた国岡は、飯島の声で「こちら」へ帰ってきたようだった。

「は。申し訳ありません。・・・大丈夫です。稼働に問題ありません。」

 飯島は、ぽん、と国岡に手を置く。

「諦めてでもいたのか? この艦(ふね)の運は伊達じゃない。そう簡単にくたばってたまるか。」

「はい・・・。」

 飯島は、メインタンクの損傷により浮上できなくなるという最悪の状況下にあっても、まるでいつもと変わりはなかった。ヘタクソな鼻歌すら歌いながら、ポケットに忍ばせていた干し柿をかじるのだ。国岡も、あの状況に及んで、飯島を咎めることはしなかったわけだが、飯島は何を支えとして絶望から身を守っていたのだろう。国岡は、目の前の、海賊みたいな男をまじまじと見つめた。

「艦長。艦長はなぜ、あのように平然としていられたのですか。」

「あん? なぜだって? 妙なことを聞くなぁ、お前は。この艦に乗って出航する瞬間から、覚悟してるんだよ。」

「死ぬ覚悟を、ですか?」

「違う。生き残る覚悟を、だよ。浮上できなくなろうがなんだろうが、俺達はまだこの中で息をして、むさ苦しい汗をたらしていただろうが。だったら、どうやって生き残るか、しか頭にねぇわけだ。国岡。生き残るってのは、例え足の一本失って、泥水をすすらにゃならん状況にあっても、前に向かって進んだ結果としてしか現れない。一メートルでも、二メートルでも這いつくばって進んだ先にしか、生き残る道はないんだよ。しかし、人間は敗北するために創り出されたわけではない、とヘミングウェイも言ってんだろ。まぁ、今の俺達は、どちらかといって釣り上げられたカジキの方だろうがな。」

 水面まで、残り十、という航海長の声が発令所に響く。

 死の縁から生者の世界へ。海は生命の母であると、誰かが言い始めたわけだが、明らかに海中は生身の人間にとって死の世界だ。そこに放り出されれば、数分ともたずに人は死ぬ。何人(なんぴと)にも平等なそこは、Mare Nostrum 「我らの海」ではなく、どこまでも優しい残酷さをもつ Mare Materunus 「母なる海」だ。もし自分が赤子にまで遡ったとしたら、きっと、胎内からの生まれの瞬間、今と同じ気持ちになるのだろうと国岡は思った。羊水から浮かび上がった先にある、光と外気に満ちた世界。

 浮上、という航海長の声で、発令所は歓声に包まれた。涙を浮かべながら、仲間と肩を叩き合っている者もいる。

 飯島と共に司令塔に登り、ハッチを開けた途端流れ込む新鮮な空気と濃密な潮の匂いを、胸中一杯に吸い込みながら、国岡は実感した。人の世界に、人間の生きられる世界にまた戻ってきたのだと。

 鷲水の周囲には、短いワイヤーで固定されたフロートが浮いており、それによって浮力を得られたことがひとめで分かる。

 少し先に浮上した岩礁のような影は、見慣れたセイゲンの背中だった。

「来てくれたのは垂木の嬢ちゃんだったか。こいつはまいったな。こら、頭が上がらなくなるぞ。」

 飯島はセイゲンを視界に捉えて言うのだが、まいっている風にはいっこうに見えない。頭が上がらなくて困るのは、むしろ飯島ではなく国岡だと言いた気な表情すらしている。接近するセイゲンの背中のポッドが開き、ひょこ、と水菜が現れた。

「飯島さん! ご無事でしたか! 良かった・・!」

「垂木少尉! 救助、感謝する! 危うく、馬鹿高い棺桶の中で、むさ苦しい野郎共と運命を共にするところだった!」

 水菜が、海に落ちそうになりながら鷲水の甲板に飛び移った。

「間に合わないかと思ってました。」

「ああ。実際ぎりぎりのところだったがな。救難信号を受信してくれたか。」

「はい。それと、艦内からの音を頼りに、発見することができました。」

「そうか。今さら艦内で音を立てる意味などないなんて言う若造がいたが、」

 飯島は、にや、と笑いながら国岡を見た。

「しかし、効果はあったようだ。鯨は前回の戦闘で怪我をしたと聞いていたが、もう大丈夫なのか。」

「はい。もうすっかり傷も閉じました。」

「そうか。鯨の奴にも、礼を言っといてくれ。機関が損傷して自力航行ができない。垂木のとこの島まで、曳航してもらえるか。」

「もちろんです。」

「すまんな。浮上の面倒見てもらったばかりか、引き船役まで頼むなんざ、心苦しいが。」

「そのために私達が来たんですから。飯島さんが無事でよかったです。ついでに国岡さんも。」

 飯島のおまけみたいに言われて、国岡は、むっ、としながらも返す言葉がない。

「俺は破損箇所と機関室の様子を見てくる。国岡。曳航準備の指揮を頼む。」

「了解しました。」

 飯島が小柄な身体に合わない大股で、のしのしと艦尾の方に行ってしまうと、水菜達の間には気まずい沈黙が降りた。いや、気まずいと感じているのは自分だけなのではないかと思うと、国岡は余計にひけめを感じた。

「・・・礼を言う。」

 ぼそりと国岡が言った。

「え? 何ですか?」

「礼を言う、と言ったんだ。」

「何て?」

 耳に手をかざし、水菜は聞き返すのだが、その顔には、にや、と笑みが浮かんでいる。

「聞こえているんだろう。二度は言わん。」

「いえ、いいんですよ、礼なんて。命を救った恩義を忘れないでくれれば。」

「ぬぅ・・・。」

 これでは、事あるごとに今回のことを持ち出されるだろう。飯島の言うように、国岡は水菜に頭が上がらなくなったわけだが、それをここで認めてしまうわけにはいかなかった。

「鷲水はセイゲンに助けられたんだ。厳密には君にじゃない。今の礼は、セイゲンに伝えておいてくれ、という意味での礼だ。」

 思いがけず正論を持ち出されて、水菜はひるんだ。確かに、セイゲンの力なくして鷲水を救出することはできなかったし、水菜は指示を出しただけだが、これでは国岡に恩を売ることができない。

「それはそうかも知れないですけど、いわばセイゲンと私の共同で作業にあたったんです。」

「だからなんだ。」

「つまり、私にも多分に感謝すべきかと。」

「感謝はしている。セイゲンに対するものの十分の二くらいだがな。」

「少な! もっと感謝してくださいってば。」

「これでも十分すぎるくらいだ。垂木少尉、曳航の準備を始めるぞ。」

「むむ・・。せっかく、国岡さんの頭を上がらなくする、絶好の機会だったのに。」

「やはり、それが本音か。君に頭が上がらなくなる状況だけは、ごめんだからな。曳航用のロープを出す。セイゲンとつないでくれ。」

 水菜は納得しかねる様子だったが、インカムでセイゲンに指示を出し始めた。国岡もクルーに対し、ロープの準備をさせる。艦体の前方部に三十センチ四方の小さな扉がいくつかあり、そこを開けると、ロープを固定するための環状器具が収納されている。

 鷲水の三カ所から伸びるロープをセイゲンに固定する作業が終わると、水菜はそのまま甲板上に残って、インカムからセイゲンに伝えた。

「セイゲン、お願い。ゆっくりと進んでね。」

「よし。」

 セイゲンが背中を海上に浮かべたまま、ゆっくり前進すると、ロープがぴんと伸びきり、やがて鷲水も前に進み出す。鼻歌を歌いながらこぐ自転車ほどの速度しか出ていないが、それでも鷲水は補給島に向かって動き出している。

「この分だと、到着は早暁近くになりそうだな。」

 水菜の隣に立つ国岡が、手元の海図をライトで照らしながらつぶやいた。

 波は穏やかで、月が時々、朧(おぼろ)に霞む。天候が荒れれば、とても海上航走中の潜水艦の上になど立っていられないが、その夜は艦内に入る必要がないくらい、波が低く風もなかった。

 時折、首から下げた双眼鏡で、セイゲンの様子を確認している水菜へ、不意に国岡が言った。

「・・・攻撃を受けて海底に衝突したとき、もう助からないと思った。自分はこの密閉された空間で、水圧に押しつぶされて死ぬんだと、そう思った。生きてまた海上に出られるとは、考えられなかった。この艦に乗って真の恐怖を感じたのは、あれが初めてだ。死ぬのが怖いというより、周りの状況も見えず、水圧という力に押しつぶされるあの感覚そのもが、恐ろしかった。」

「・・・・。」

「さっきはあんなことを言ったが、垂木少尉、やはり君にも礼は言っておく。ありがとう。」

「国岡さん・・・。」

 神妙な顔で聞いていた水菜だが、あんまり国岡が真っすぐ見つめるものだから、場の空気に耐えきれなくなった。

「いや、そこまで真面目に取られても。私だって命令だから来たっていうのもあるんですから。まぁ、素直にお礼を言ってくれると、嬉しいですけど・・・。」

「とは言え、恩義に感じることと頭の上がらないこととは別の話だ。おかしなことを言い出せば、容赦はしない。」

「ぇえ〜。命の恩人に向かって容赦はしないって。ちょっとくらい手心加えてくださいよ。優しくないと、もてないですよ。」

「もてる必要などないだろう。」

「・・・国岡さんって、恋人いたことないでしょ。」

「な、何の話だ。恋人など、各港にひ、一人ずつくらい、いる。」

「またまた。嘘はもっと上手につくべきですよ。」

 なんだか、自分の物の言い方が川原さんに似てきたな、と水菜は思いながら、明らかに動揺する国岡を見るのが面白い。

「どうせ、魚をやったら懐いてきた猫が、あちこちにいるとか、そういう話じゃあないんですか。」

「なぜ、分かっ・・・。いや、猫じゃない。人間だ。」

「じゃあ、名前は?」

「名前?」

「彼女達の名前です。」

「じょ、ジョアンナ、アンドレ・・。」

「アンドレじゃ、男じゃないですか。」

「い、いや、違った。アンドリアナだ。」

「もういいですよ、そんな無理しなくたって。」

「じゃあ、君はどうなんだ。」

「それは、もちろん・・・いますよ。」

「鯨以外でだぞ。」

「・・・・・いや。」

 水菜はその話題を無理矢理さけるように、双眼鏡をのぞいてごまかす。

「何が、いや、なんだ。いないんだろう、君だってどうせ。」

「いないんだろうって、そんな決めつけないでくださいよ、失礼な。今はちょっと、出会いがないだけなんです。戦争が終われば、すぐにいい人が見つかるんです。」

「戦争が終われば、か。・・・終わるんだろうか、この戦争は。」

 国岡は暗闇に紛れて判然としない、水平線の方を見つめながら言った。

「終わりますよ。始まりがあれば、終わりだってあるんですから。お互いの国力をすり減らしながら、壊し合い、殺し合っているんです。いつまでも続けられるわけがないですよ。」

「垂木は楽観的だな。」

「歴史に基づく推論を言ってるだけです。終わらない戦争はなかったってことです。」

「終わらない戦争はない、か。垂木は、戦争が終わった後の自分というものを、想像できるか。」

「そりゃ、できますよ。海が好きですし、動物も好きですからね。獣医としてやっていくか、調査員として研究機関に所属するか、細かい身の振り方はまた考えますけど。国岡さんは、イメージできないんですか? その後の自分、ってやつ。」

「俺は自分の希望で士官学校に入ったし、海軍へも自ら志願して配属された。軍という組織に自分から飛び込んだんだ。だが、戦争が終わってしまえば、この組織の存在意義とは何だ。俺は時々不安になる。戦争が終われば、俺の人生もそこで終わってしまうのではないかって。」

「そんなことないですよ。組織の存在意義が問われようが、国岡さんの人生は続くんです。何かに迷ったら、またそこで考えて、ぶつかり直してみればいいだけじゃないですか。」

 水菜の言うことは単純だったが、それ故、国岡にはとても力強く感じられた。結局、人生は一見、複雑そうに見えても、やれること、やるべきことにそれほど大きな幅はないし、その枠の中で全力を尽くす以外、道を開く方法はないのだ。

 水菜は、ぽん、と国岡の背中を叩きながら言った。

「もう少し、おおらかに捉えたらどうですか。この広い大海原のよーに、です。」

「君はやっぱり、楽観的だよ。悪いことじゃない。そうしてみる。」

「そうしてくださいって。」

 月明かりの下、鯨に引かれる潜水艦、というある意味シュールな情景の中で、生ぬるい熱帯の夜は更けて行った。

 明朝、日が水平線を昇りかける頃には、鷲水とセイゲンが島に到着した。島付きの駆逐艦に乗ってやってきた腰水達が、鷲水の艦上に乗り移る。

「飯島艦長。ご無事でしたか。」

「おお、腰水か。危うく魚礁になるところだったが、垂木に助けられた。」

「間に合ってよかったです。」

「すまんな。助けられたついでに頼みなんだが、島の入り江を使わせてもらいたい。いいか?」

「問題ありません。自力で動けますか?」

「まだだめだ。いったん砂地へ上げてしまいたい。」

「了解です。所員にも手伝わせて、引かせましょう。」

 腰水は、水菜の方を見て軽くうなずくと、言った。

「垂木。ご苦労だった。あとはこちらで作業を続ける。お前はセイゲンと共に休んでいい。」

「まだ、平気です。作業を手伝いたいのですが・・。」

「お前達にやってもらうことは、今のところない。必要なら呼ぶ。休め。」

「分かりました。」

 水菜は腰水に敬礼すると、セイゲンのところへ歩いて行った。

 通常の、ごく事務的なやり取りにすぎなかったのだが、国岡は、水菜と腰水のやり取りを見ていると、胸がざわつくような気分になるのを抑えられなかった。国岡には見せない真剣な眼差しを、水菜は腰水に向けるのだ。それはもちろん、直属の上官、部下、という関係性がなせる表情にすぎないのかも知れないが、緊張感をはらんだ二人の視線は、お互いに対する表に決して現さない好意の裏返しであるような気がして、なんだか落ち着かなかった。

「よーし、引けぇ!」

 飯島が鷲水の艦首上で仁王立ちになり、クルー達に合図を送った。鷲水のクルー、島に駐屯している所員総出で、鷲水につながるロープを引く。早朝の地曳き網のごとく、浜に立った全員が飯島の掛け声に合わせて引くにつれ、少しずつ鷲水が陸に上がって行った。

 ずずず、と砂地にめり込み、鷲水の艦体がそれ以上進まないところまで来ると、再び飯島が合図した。

「そこまでだぁ!」

 艦の上部三分の二近くが海面上に露出している。今は満潮だから、引き潮となれば、ほぼ完全に陸の上となるだろう。

 国岡は鷲水の修理指揮に忙しい。とりわけ、艦体下部の修理は潮が引いている時間帯にしか行えないものだから、昼夜を問わず作業が続けられた。熱帯の酷暑が身体にこたえたが、クルー達は嬉々として作業に当たっていた。狭い艦内での勤務に比べれば、陸の上で新鮮な空気をいくらでも吸い放題という状況はやはり嬉しい。

 照りつける太陽の下、国岡が作業を見守っているところへ、腰水がやって来た。

「修理の進捗はどうです?」

「腰水さん。順調ですよ。この分なら明日には出られるようになるでしょう。」

「そうですか。修理資材は何とかなりましたが、搬入できる糧食が少なく、申し訳ない。」

「いえ。こちらこそ、色々と手を貸していただいて、助かります。・・・やはり、足りてませんか、食料。」

「ええ。不足分は何とか自給してますが、搬送される量は目に見えて減っています。本国の方でも、慢性的な食料不足に陥っているようです。」

「慢性的に・・・・。」

 国岡は顔を曇らせた。通商航路はほぼ壊滅状態にあり、もはや、航路としての機能を失っている。もともと資源、食料に乏しい本国が海外からの輸入を妨げられれば、蛇口を止めたまま風呂の水を抜いているようなものだ。いずれ枯れ尽くす。こうなった要因の一旦が、海峡閉鎖の失敗にあることは自明であったし、そのことは国岡の気分を重く沈めた。果たすべき責任を果たせなかった、と。

「いずれこうなることは目に見えていました。そう長くはもたないでしょう。」

 腰水は、まるで他人事のように淡々と言った。

「もたない、とはどういうことですか。」

「負ける、ということです。」

 飯島と同じことを言う。国岡は反論しかけたが、肝心の言葉が出てこない。客観的に考えれば、腰水の言う通りだった。

「・・・・。しかし、まだチャンスはあります。現在開発中の新兵器があるとも聞いています。それがあれば・・。」

「噂です。それは噂にすぎません。一度崩れ始めた局面をもちなおすには、すでに遅すぎる。兵器一つで、どうにかなる状況ではないのです。」

「しかし、あなたも開発に携わる身ではないですか。局面を変えることこそ、兵器開発の本義ではありませんか。」

「・・鯨のことを言っていますか?」

「そうです。今回の件で我々は助けられましたし、海峡での作戦でも戦果を出しています。」

「局面を変えるほどの力はありません。セイゲンの活躍も、垂木によるところが大きい。」

「垂木少尉の・・?」

「セイゲンはもともと野生です。作戦に協力するよう調教していましたが、その試みはことごとく失敗しました。しかし、垂木の「説得」で、セイゲンは力を貸すようになった。私にはできなかったことだ。」

「彼女の役割は大きい、と?」

「ええ。私とは立脚する視点が違います。私は鯨を利用しようとしている。垂木は鯨に助けを求めようとしている。鯨達、個々の思考を独立した人格とするならば、垂木のようなやり方が必要なのかも知れません。私には欠けているものを、垂木は持っている。」

 国岡は、腰水の横顔を見ながら複雑な気持ちでいた。腰水はあまり感情を表に出さないタイプだが、それでも、腰水の中で水菜が大きな場所を占めていると国岡は感じた。ざわつく気持ちの原因が何なのか、国岡は自分でもよく分からなかったが、何かに急かされるように口を開いた。

「ちょっと変わっていますからね、垂木少尉は。」

 我ながらおかしなことを口走ったと思った国岡だが、腰水は、この男には珍しくにやりと笑い、

「変わっていますよ。」

 と、うなずいた。

 砂浜を水菜が駆けて来る。

「腰水さん! ここにいましたか。川原さん達が呼んでます。司令室です。」

「分かった。今行く。」

 腰水は言ってから、国岡へ軽く会釈し砂浜を歩いて行った。

「国岡さん。作業の方、どうです? 順調?」

 水菜は国岡の隣に立つと、額に手をかざしながら鷲水を見た。

「ああ、順調だよ。垂木少尉。」

「はい?」

 言うべきか、一瞬、国岡は迷った。だが、これを言わずに済ますことは、フェアじゃないと感じる奇妙なバランス感覚が国岡にはある。

「頼られているみたいだな。」

「誰にですか?」

「腰水さんに、だよ。」

「いやぁ、ないないない。それはないですよ。いっつも、垂木、何をしているー、とか、垂木、早くしろー、とか、怒られてばかりですもん。」

「君のようなやり方が、必要かも知れない、と言っていた。」

「・・・・腰水さんが? そんな、嘘・・。」

「嘘じゃない。俺に嘘をついてどうする。」

「・・ぇへぇ? そんなこと言ってたんですか、あの人が?」

 水菜は相好を崩すと、しきりに照れ始めた。目の前にいない人間に対して、ここまで照れることができるのかというくらい赤面して照れまくる水菜を見ながら、やはり言うんじゃなかった、と国岡は思った。

「だったら、せめてそういう素振りくらい、見せてくれてもいいのに。あの人、その辺の表現に起伏がないから、よく分からないんですよ。人に対する評価とか、あの人自身の考えとか。」

 腰水のことをもっとよく知りたい、と言っているようなものだった。水菜の態度に対してイラつく自分がいることを必死に否定しながら、国岡は憮然として続けた。

「少なくとも、必要とされているんだよ、君は。」

「そう、だったらいいですけどね。」

「セイゲンに協力させる。それは自分にできなかったことだとも、腰水さんは言っていた。自分にできないことができる人間を必要とするのは、当然だからな。」

「・・・・・。」

 水菜は、じっ、と国岡の顔を見つめている。

「何だ?」

「国岡さん、実は腰水さんと仲がいいんじゃないですか?」

「何でそういう話になる。君と腰水さんのことを話しているんじゃないか。」

「だって。自分にはできなかったことだ、なんて、あの人絶対言わないし、認めてないと思ってたのに、国岡さんへはいろいろ話してるし・・・。」

 国岡は驚いた。腰水と自分の仲がいい、という視点で腰水との関係を考えたことはなかったし、そもそも、仲がよくなるきっかけに思い当たらない。

「何でですかね?」

 首を傾げながら水菜が言った。

「それはこっちが聞きたいよ。」

「どこか、似た者同士ってところがあるのかも知れないですね。」

「俺と腰水さんが?」

「そうです。ストイックなところとか、言い出したら融通のきかないところとか。」

「融通がきかないということはないだろう。」

「融通がきく、って言うんですか? 国岡さんが?」

「状況に対する柔軟な姿勢は崩していないつもりだが。」

「いやぁ、どうでしょう。」

「いやぁ、とはなんだ、いやぁ、とは。」

「本人がそう思っているところを、私がどうこう言うつもりはないですけどね。」

「言ってるようなものじゃないか。」

「国岡さんのそういうとこ、嫌いじゃないですけどね。」

 嫌いじゃない、と言われて、思わず嬉しくなる自分に、国岡は舌打ちしたくなるような恥ずかしさを覚えた。それに、自分を嫌いじゃないということは、自分と似ている腰水のことも嫌いじゃない、という結論に落胆もするという、ジェットコースターのような感情の上下動に、国岡は足下がおぼつかなくなる気すらした。

「どうしたんです? 変な顔して。」

 国岡の乱気流で揺さぶられる複葉機みたいな内面になど、まったく気づいていない水菜が、その顔をのぞいた。

「いや、何でもない。」

 国岡は手の甲で額の汗を拭う。

「じゃあ、私、ちょっと釣りに行ってきます。」

「釣り?」

「食料の自給作業ですよ。みんなの食事に出てる魚、ほとんどが私達の釣ったものなんですよ。・・まぁ、私達というか、主に川原さんですけど。今、川原さんと勝負してるんです。どっちが多く釣るかで。川原さん、名人並に釣るもんだから、悔しくて・・・。じゃあ、修理、頑張ってください。」

 敬礼したかと思うとすぐに踵を返し、水菜は浜を駆け去ってしまう。

 青く広がる空の白雲(しらくも)を仰ぎ見ながら、国岡は大きく息をついた。

「ほんで、セイゲンはん、決心はつきましたぁ?」

 すい、と軽快な泳ぎで近づいてきたニライが、いつもの軽い口調でセイゲンに話しかけてきた。

「何の決心だ。」

 セイゲンはわざととぼけた。ここのところ、ニライは毎日のようにセイゲンのところへやって来ては、同じことを繰り返す。共に逃げよう、というのだ。

「何のて。こんだけ繰り返してるんですから、言わんでも分かるでしょう。逃げましょ。これ以上、人間に肩入れする必要なんて、あらへんやないですか。」

「何度も言ったはずだ。まだ逃げるつもりはない。」

「まだ、つもりはない、ですか。だったら、いつそのつもりになるんですかいな。明日ですか? 明後日ですか? それとも十年後ですか? そない言うとったら、年くうばかりやないですか。今です、セイゲンはん。今、逃げるんです。やってられますかいな。これ以上、人間のドンパチに付き合うなんて、馬鹿らしくてやってられへんやないですか。」

「逃げたければ、一人で逃げればいいだろう。なぜ俺を誘おうとする。」

「そら、セイゲンはんかて、逃げたいだろぉ思って、親切心で言ってますのや。」

「・・・・嘘だな。」

「嘘なことあらへんて。ほんまですって。」

「怖いのだろう。一人で逃げることが。海原へ一人逃げ出しても、どこへ行き、どう生きたらいいのか、それが分からないから俺を誘う。」

「い、いや、ちゃいますて。」

「俺はまだ逃げるつもりはない。俺の意志を無視して、勝手に巻き込むな。」

「ちゃいます、ちゃいますて。怖いとか、そんなん、あるわけないやないですか。いくら研究所育ちだからというて、海へ一人放り出されて路頭に迷うなんて、ありえまへん。ありえまへんよ。」

 ニライはその場でぐるぐる泳ぎ回って落ち着きがない。

「まったく、セイゲンはんも頑固やな。こんだけ言うて心変わりせぇへんいうんやったら、もういいです。僕、一人で逃げますよって。ほんまですから。やる、言うたらやるイルカですから、あては。後から一緒に逃げたい言うても、連れてきまへんから、後悔せんとってくださいよ。」

「後悔などしない。せいぜい気をつけろ。人間が、お前の逃亡を手をこまねいて見ているとも思えない。」

「あーもう。そない脅しみたいなこと言うても、あてにはききまへん。すらっと泳いで逃げ切って見せますさかい、セイゲンはんはあんじょう見送ってくれなはれ。」

 やる。あては逃げ切って見せる。ニライはぶつぶつと自分自身へ言い聞かせるようにしながら、入り江の反対側の方へと泳いで行ってしまった。

 ニライには、結局、口先で威勢のいいことを言っても、実行に移す勇気はないだろう、とセイゲンは思っていた。口に多さは、自分の不安をごまかすための麻酔みたいなものだ。どんな困難が待ち受けるのか、想像すらできず、逃げたいという衝動のみが焦燥感をかきたてる。不安で不安でしょうがないから、セイゲンを誘ってみたり、願望を言葉に出して無理矢理自分を奮い立たせているだけにすぎない。

 だから、セイゲンはその夜遅く、にわかに司令室の方が慌ただしくなったとき、敵襲でもあるのかと思っていた。短艇に乗った水菜が血相を変えてセイゲンのところへ来た時、セイゲンはその耳を疑った。

「セイゲン! ニライがいないわ。どこかへ行っちゃったみたいなの。」

「・・・・。」

 まさか、本当に逃げるとは。逃げる、逃げると散々セイゲンに吹聴したものだから、その言葉にニライ自身が縛られたのだろう。それ以外の選択肢を取れなくなったような気がしてならず、ニライの行動に、計画もへったくれもないのだろう。少なくともセイゲンにはそう見えている。

「川原さん達も探しに出るって言ってるけど、私達も行こう。今ならまだそう遠くには行ってないはず。」

 多額の費用をかけて育成した軍用イルカがいなくなるというのは確かに大事だったが、水菜の表情には泣き出しそうなほどの焦りが見える。

「セイゲン、早く!」

「待て。まだポッドも載せていないのに、お前はどうやって俺に乗るつもりだ。背中にまたがって海に出るとでも言うのか。」

 補給島に帰還した際には、セイゲンの背中からポッドがいったん取り外される。いくらなんでも、二十四時間ポッドを付けっぱなしでは、皮膚がこすれて出血を起こしたりする。体調管理上の理由で、セイゲンは今ポッドを背中に載せていなかった。

「もうそんな時間なんてないよ。これ、持ってきたから。」

 水菜はそう言って、スキューバータンクを見せる。ロープで乱雑に巻き絞められた数本のタンクと、よく見れば、水菜はウェットスーツを着込んでいた。

「ロープでセイゲンと私を固定するわ。できるだけ、海面を泳いでほしいけど、タンクがあれば百メートルくらいまで潜れると思う。」

 水菜は言いながら、巻いてあるロープを海中に投げ入れた。

「セイゲン。それ、身体に巻き付けて。」

「・・・その程度じゃ、お前が振り落とされかねないぞ。」

「いいから! 時間がないの!」

 何かおかしい。水菜の焦り方には、ニライが逃げたというその事実のみでは計れない、裏の事情が透けて見える。水菜は明らかに、何かに焦っている。ニライが逃げたから、ではない何かに。

 腑には落ちなかったが、セイゲンは水菜の言う通りに身体を回転させると、ロープを器用に胴体へ巻き付かせた。水菜はそのロープへタンクの束を結びつけ、さらに金属ウェイトを固定するための腰のベルトへロープを通した。

「行こう、セイゲン!」

 水菜がセイゲンの背中を勢いよく叩いた。入り江の出口へ差し掛かったとき、背後から拡声器の声がかかる。

「垂木! お前は残れ!」

 腰水だ。猛然と近づいてくる駆逐艦の艦首に、腰水が立っている。

「私にも行かせてください! まだそう遠くには行っていないはずです。それに、セイゲンなら深い場所へも追って行けます。」

「そういう問題じゃない。追跡にお前を参加させることはできない。入り江に戻れ!」

 腰水がそれだけ言い残すと、駆逐艦は見る間に速度を上げて暗い外洋へとその姿を消した。

「なぜだ。」

 入り江に戻るべきか、このまま行くべきか判断をつけかねたまま、セイゲンは水菜へ言った。

「奴はなぜお前を行かせようとしない。この手の探索任務では、人手が多ければ多いほど、有利なんじゃないか。」

「・・・・。」

 言えない。水菜は自分が焦っている理由を、いっそセイゲンに言ってしまおうかと迷ったが、やはり言えることではなかった。ニライにも、セイゲン同様、頭部に爆薬が埋め込まれていた。ニライが説得に応じなかったり、最悪見つからなかった場合、腰水は躊躇なくそれを爆破するだろう。そんな光景が脳裏をよぎったからこそ水菜は焦っていたし、腰水が水菜を捜索に参加させなかった理由もそこにある。ニライを排除する際、水菜が邪魔をする可能性を腰水は見ていたのだ。

 それでも、水菜はニライを放っておくことはできなかったし、できることがあるなら、それに全力を注ぎたかった。

「やっぱり、行こう、セイゲン。命令違反で謹慎とかになるかも知れないけど、それでもニライを放っておけない。お願い、セイゲン。」

「・・・分かった。」

 ニライが逃げ切れるものなら、それはそれでいいと思っていたセイゲンだが、お願い、セイゲン、という水菜の言葉を、セイゲンは拒否することができなかった。

 入り江から外洋に出た水菜達だが、ニライはいったいどこへ向かったのだろう。その夜は、風が強く波が高かった。

「セイゲン。ニライの行きそうな場所、何か思い当たることない?」

「・・・島の南東、二十キロほどの場所に、ハンドウイルカのグループが集まっている。もしかしたら、そこを目指したのかも知れない。」

「確かにそうね。じゃあそこへ行ってみよう。」

 セイゲンの言うように、島の近くには多くのイルカ達のが集まる場所があった。魚の集まる珊瑚が密生した地域だ。珊瑚でできた海中の柱、ボミーと呼ばれるそれには、大小様々な魚が群棲し、多様にして豊かな生態系を築いている。

 水菜はセイゲンの背にいながら、胸の中の不安は大きくなる一方だった。ボミーのある海域は腰水達も把握しているはずだ。腰水もそこへ向かっている可能性が高く、ニライを確保できないと判断すれば、ニライは殺される。

 間に合うだろうか。腰水の乗った駆逐艦は約三十ノット。時速五十五キロ近い速度で航行できる。全力でボミーへ向かわれたら、セイゲンに追いつくすべはない。だが、海中での行動能力という点ではセイゲンが勝っている。先にニライへ接触するためにも、ニライが深みへ潜航を繰り返しながら逃げていることを祈るしかない。

 高波を受けながら、セイゲンは黒くうねる海面を進んだ。打ち付けるように身体へぶつかってくる波が、水菜の体力を想像以上に奪った。ポッドなしで外洋に出るのは、やはり無謀だったかも知れないと水菜は思ったが、ここで引き返すつもりもなかった。

「大丈夫か。」

 セイゲンが、背中の水菜へ言った。

「平気よ。急ごう。腰水さん達より先に、ニライを見つけないと。」

「・・・なぜ奴らより先に、なんだ。奴らが見つけても、俺達が見つけても変わりはないんだろう。」

「それは・・・、そうだけど。腰水さん、乱暴な方法を取ったりしそうだし、ニライが怪我をするかも・・・。」

 ニライが殺されるかも、とは言わなかった。

「・・・そうだな。」

 言葉を濁す水菜の態度が、セイゲンは気になった。やはり水菜は何かを隠している。腰水達より先に、ニライを見つけ出さなければならない本当の理由を、水菜は隠している。

 水菜とセイゲンが島を出てから三十分ほどしたところで、セイゲンが突然、泳ぐのをやめて止まった。

「どうしたの、セイゲン?」

「いや・・・。」

 かすかに聞こえた。海中を高速で伝わる音波が、ニライの声を運んできたような気がしたのだ。

「少し、潜るぞ。」

「うん。」

 水菜はレギュレーターを口に加え、圧縮空気を吸い込めることを確認してからセイゲンの背中を叩く。

 合図と同時に、セイゲンは潜航を始めた。海上では波の作るノイズが邪魔で、周囲の音がよく聞こえないのだ。水菜の手元にある水深計が、二十メートルを指したところで、セイゲンは中性浮力を保ち静止した。暗い海中で動かないセイゲンは、さながら宙空に浮かぶ宇宙船のようだ。

 セイゲンは前方の闇へ意識を集中した。まただ。ニライの声が聞こえる。誰かへ話しかけているというより、ぶつぶつと独り言を言っている風でもあった。セイゲンは、低周波の声でもってニライへ呼びかけてみた。

「ニライ。いるのか。」

「おや、セイゲンはんでっか? 一緒に逃げるつもりになったんですかいの。」

「いや・・。お前を探しに来た。」

「ああ、そないでっか・・・・。」

 ニライの声に、いつもの張りがない。壊れた水道管から水が吹き出したみたいに喋りまくる、勢いがなかった。

「ま、逃げるつもりになったとしても、無駄やちゅうことが分かりましてん。あて、これから島に戻る所でしたわ。今、そっち行きますわ。」

 ニライがそう言って、ほどなくするとセイゲン達の前に姿を現した。心無しか、背びれがしおれたように折れている。

 海上に浮上し、会話ができるようになってから水菜が言った。

「ニライ! 無事? 怪我はない?」

「水菜はん・・・。そら、無事ですがな。無事っちゅーか、あてのステータスは二つに一つや。生きてるか、頭粉々になって、水底に沈んでるか。」

「え・・・?」

 水菜は全身から血の気が引いた。

「どういう意味だ、ニライ。」

 セイゲンがニライに言った。

「どうもこうも、あらへん。あての頭には、爆薬が埋め込まれてるっちゅう話です。研究所生まれのあてですら、そうなんですから、セイゲンはん、あんたにも埋められてるんちゃいまっか。」

「なに・・?」

 ニライとセイゲン、そして水菜の間に、冷たい沈黙が降りた。

「結局あてらは信頼されてへん上に、道具と同じ扱いなんや。逃げて、敵の手に落ちるくらいなら脳みそ吹き飛ばして、なかったことにする。ひどい話やないですか。曲がりなりにも人間達とコミュニケーションとって、同じ戦列に加わった味方やのに、ちょっとでもおかしな行動取ったら頭吹っ飛ばすつもりだったんや。いや、既に吹っ飛ばされた連中もいるかも分からへん。作戦行動中に「戦死」した奴ら三頭がおるんやけど、考えてみたらおかしな話やないですか。三頭全滅て。網にでもかかったなら別やけど、対潜水艦戦で俊敏さに勝る奴らが、三頭ともやられるなんて不自然な話や。逃げ出そうとして、殺された。そう考える方がなんぼか自然やちゅうことです。」

「・・・本当か、水菜。俺の頭にも拿捕防止用の対策が施されている、と。」

「あ、あのね、セイゲン。違うの。何も、腰水さん達だって始めからセイゲンを傷つけるつもりはなくて・・、その、どうしようもなくなって、敵に捕まりそうになったときの最後の手段として・・・。」

 最後の手段として、殺してしまうつもりだった。水菜は、自分が口に出そうとした、自分達のやり方の冷酷さを思うと、言葉が出なくなった。

「・・・ごめん、セイゲン。」

 水菜がそう謝ったことで、すべてが事実なのだということをセイゲンは悟った。人間が自分をいつでも殺せるよう策を講じていたこと。水菜がそれを知っていたということ。そして、その事実を隠していたということ。セイゲンは、自分の心が急速に冷えて固まってゆく感覚を覚えた。水温が特定の水深以降、急に落ち込む温度境界面、サーモクラインを通過したかのごとく、水菜に対する冷たい拒絶をセイゲンは生み出しつつあった。

 セイゲンは何も言わないまま、水菜を乗せニライと共に島への帰途についた。

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