ケイマ ー医師で魔術師な教授の研究ー

千住

1幕 魔法使いは白衣を羽織り

1章 アレと科学と魔法使い

第1話 魔法使いは白衣を羽織り

 朱色に蒸す夕暮れ。気怠い蝉時雨の向こう側、街路樹の上から覗く白亜の巨塔、大学病院。ここでは今日も人が生まれては死に、死んでは死に死に死んでいく。

 そんな場所の前だから仕方ないのだけれど。

 私は高三数学の参考書を読むふりしながら、そっと視線だけ上げる。

 目の前の交差点、横断歩道、その真ん中に立っている黒い影。

 黒い影はもやもや揺れているが、百八十センチくらいの人型だ。曖昧な輪郭に反して爛々と光る眼玉が道路の一点をじっと見詰めている。何かを見逃すまいとするような、殺気さえ孕む凝視。

 誰が見ても、どう見ても、あの眼がこっちを見たらヤヴァイ。

 誰が見てもと言ったけれど。

 歩行者用信号が青に変わる。

 道路標識にもたれた私を追い抜き、ジャージ姿の女性が走って行く。女性は黒い影のすぐ脇を掠めるように、何事も無く横断歩道を渡った。

 そう、アレは誰にも見えていない。聞こえない。感じない。

 私以外には。

 私は溜め息を吐いて鎖を掴み、胸の谷間からロザリオを引き抜いた。シルバーの十字架の中央には夜より深い紫色のアメジスト。

 所々錆びついたそれを握りしめ目を閉じる。

 お祖父ちゃん。神様。誰か助けてー……。

「どうしたの? 青だよ。渡らないの?」

 不意に声が降ってきた。磨かれた革靴が夕陽に光っている。

 私は顔を上げてみた。

 若い男性だった。

 しかし身にまとうスーツは上質でたおやかに肩に沿い、ネクタイはしなやか。ワイシャツの襟もカフスもピンとしている。眼鏡のメタリックフレームにはブランドのロゴ。

 年齢の割に萎びた雰囲気からも、彼が知的生産階級の人間だとすぐに分かった。なにぶん目の前が大学病院だし。ちょうど退勤ラッシュ前だし。

「ここの信号長いし、渡っちゃった方がいいよ。ほら」

 余計なお世話である。

 私は横目で黒い影を見やる。

 影は相変わらず道路を睨んだまま夕焼けの下揺れている。真っ赤に染まった世界の中で、異様なまでに黒い。暗い。

 返答に困っている間に青信号は瞬き、赤に変わった。

「あーあ。変わっちゃった」

 私はいい加減迷惑に思い、数学の参考書を読み耽るふりを始めた。

 そんな私に向かい、男性は横断歩道の方を見ながら、小声で問うた。

「あれが怖いのかい?」

 ――?!

 私は思わず男性を見上げる。

 男性の顔は、間違いない、横断歩道のあの影に向けられていた。

「見えるの?」

「ああ、やっぱりそうか。成程・成程」

 私の質問を余所に満足げな男性。

 私は重ねて尋ねた。

「ねぇ、あの影が見えてるの?」

「キミ、ああいうの見えるようになったのはいつ頃から?」

 ……質問に答えろよ。

 私は会話のキャッチボールを諦め、返答に専念する。

「物心ついた時から見えてるわよ」

「そうかい。ご家族も見えるのかい?」

「いいえ。私と、お祖父ちゃんだけ。お祖父ちゃんはエクソシストだったの」

「エクソシストか。素晴らしいね。何処の国の?」

「イギリスだけど……」

「そしたらキミもイギリス人か」

「違うわ。私はハーフ。お母さんが日本人よ」

「そうは見えないな」

 こうも失礼な事を次々と。

 私は肩のブロンドを払い、紫の目と眉をしかめた。

 父方の血が濃く出た私の外見は完全にイギリス人、それは認める。背が小さい、とはいえ160程度あるが、それだけが日本人らしさだろう。

「あれらに襲われた事はあるかい?」

「しょっちゅうよ」

「成程・成程」

 なんで嬉しそうなんだよ。

 苛立ちが私を狂わせ、思わず口が滑る。

「お祖父ちゃんはエクソシストの仕事中に呪いを受けて、何処でもあいつらに襲われるようになったの。イギリスから逃げて日本に来たんだけど呪いは治まらなくて、被害は家族にも及んだ。叔母さんもお父さんも変なのに引っ付かれて病気で死んだよ。私もあいつらに狙われてる」

「Excellent」

 なーにがExcellentじゃ、こちとら既にExhaustedよ。

 溜め息を吐く私の手元にスッと紙片が差し出された。

 思わず受け取る。名刺だ。

『筑西大学 医学医療系 先端認知学研究室 准教授 桂馬けいま真斗まと

 教授? 

 名刺の隅には大学のロゴと学長印が光っている。確かに本物のようだ。

「ああ、先端認知学ってのは体の良い俗称だ。僕の専門は魔法・超能力・呪術・祈祷・そして心霊現象の謎を医学的に解き明かす学問。――言うなれば、僕は現代の魔術師なんだよ」

 疑問はそこじゃないし、その喩えは分かりづらい。

「キミ、僕の研究に協力してくれないか? あれらが見える子はなかなか居なくてね」

「……」

「キミ、名前は?」

 まるで承諾したかのように会話は進む。

 気乗りしないが名刺を渡された以上、だんまりも無礼だろう。

「マグノリアよ。マグノリア・ウィッティントン。この近所にある県立高校の三年」

「木蓮か。良い名前だね」

「木蓮じゃないわ。マグノリアよ」

「マグノリアは木蓮という意味だろう? 紫の方かい・白い方かい?」

「お祖父ちゃんは紫の木蓮が好きだったけれど……」

「じゃあ紫蓮しれんだ」

 眉根を寄せて反論しようとすると、教授は踵を返した。

「講演会の時間が迫っているので失礼。じゃあまたね、紫蓮しれん君」

 猫背ぎみの後ろ姿が遠ざかる。

 拍子抜けした私は白髪混じりの後頭部を唖然と見送っていた。

「……で、私、どうやって帰ればいいのよ」

 黒い影は相変わらず道路を見詰めていた。

 あの男、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して何も解決していない。

 太陽は落ちた。宵闇が迫る。世界とアレのコントラストが薄まって輪郭も溶けていく。 溶けて流れてこちらに迫ってきそうにすら感じ、私は身震いした。



◇◇◇------



「それで、その後どうやってお帰りになりましたの?」

 隣の席で、のんびりと話す甘い声。小さな手がクッキーを摘まみ、ふっくらとした唇に運んだ。咀嚼に合わせ、きちんと手入れされた黒いおさげと青いリボンが揺れる。

 私はそれを見るともなく見ながら答えた。

「走り抜けて、そのまま家まで走った。汗と冷や汗で死ぬかと思ったわ」

 そして溜め息を吐いて机に突っ伏す。

 アレが寝込みを襲ってくるんじゃないかと不安でよく眠れなかった。

 幸い朝は見掛けなかったけれど。

 今日も今日とて陽が暮れる。放課後の教室で駄弁る二人を午後七時が染める。西側の窓からこっちを見ている熟柿色の太陽。

 目を細め、私はボヤいた。

「帰りたくないなぁ……」

「うちに泊まっていかれます?」

「いやいや。やめておくよ」

 二木家の豪邸になんか泊まったらそれこそ冷や汗が止まらなくなってしまう。

 彼女、二木 硝子の実家は代々お医者さんだ。

 育ちの良さからか、外人の少ないこの田舎の生まれなのに、私を怖がらず友達になってくれた。

 うん、そうなのよ。外人っぽい見た目というだけで敬遠されてきた。

 普通に日本語で話しかけても「アイキャントスピークイングリッシュ!」って逃げられたりするし。

 逆に「その年齢で染髪カラコンとは何事だ!」って叱ってくる大人もいるし。

 とかく田舎というものは生き辛い。

 友達になってくれただけじゃない。硝子は、私の話、全部信じてくれるし……。

 そうだ。お医者さんと言えば。

「ねぇねぇ、さっき話した変な医学教授、本物かな?」

「そうですわねー……本物ならネットで調べれば出てくると思いますわ」

 私は昨日の名刺をポケットから出し、机に置く。

 硝子はスマートフォンをお上品に操作。

「いましたわ」

 液晶画面には筑西大学の教員一覧。確かに『准教授:桂馬けいま真斗まと』の文字がある。顔写真も昨日の彼っぽい。

「マジで本物かよ……魔術師とか名乗ってたから全然信用できない」

 改めて顔写真を眺める。

 昨日は奇行が目立って気づかなかったが、なかなかのイケメンである。赤い眼鏡がよく似合う。

「でも研究室のホームページがありませんわね」

 他のほとんどの研究室は研究成果やメンバーの載ったウェブサイトを持っている。しかし彼のラボはいくら検索をかけても出てこなかった。

 ……やっぱり怪しい。

「それよりマグノリアさん、早く帰らないと危なくなくて?」

「うー。やっぱそうだよね。仕方ない。帰るかぁ」

 うなだれた私に硝子が問う。

「途中まで一緒に参りましょうか?」

「ううん、硝子はいつも通り帰って。……ありがとね」

 お礼を言うと硝子は穏やかに微笑んだ。ガラスのように清らかで澄んだ笑顔。この微笑みが夕焼け以外の穢れた赤に染まらぬよう。

 巻き込むわけには、いかない。



◇◇◇------



 一番星が独り、宵の空に張り付いている。やけに明るく見えるのは新月のせいかもしれない。この三十分で急速に闇が深まっていた。

 そして。

 今日も黒い影は横断歩道に立っていた。

 赤信号に妖しく照らされアスファルトを睨んでいる。心なしか昨日よりずっと輪郭が明確で、鼻筋や半開きの唇まで見えるようだ。

 じっと見ていたら黒い唇が動いた。

 何を言ったかまでは分からなかったが、背筋が凍った。

 これはヤヴァイ。

 なかなか走り抜ける勇気が出てこないが、このままではとにかくヤヴァイ。早く、早く通り過ぎなければ。

 私は胸の十字架を握りしめ、ようとして、指先が何もない肌を掻いた。

「嘘、今日に限ってお祖父ちゃんのロザリオ忘れ……」

 思わず口走る。

 すると。ゆっくり、非常にゆぅるりと、黒い影がこちらを振り向いた。光もない、瞬きもしない、血の気もない、しかし殺気だけが強烈に私を射抜く。

「あ……嘘……」

 黒い影がこちらに迫る。

 音も無くするすると近付いてくる。

 怖くて怖くて怖すぎて、膝が笑って逃げられない。

 私はスクールバッグの中に手を入れた。こういう日に限ってお祖父ちゃんの聖書はなく、宗教勧誘で貰ったポケット聖書しかない。

「来るなぁ!」

 一か八か投げつける。

 しかし聖書は易々と影を突き抜け道路に落ちた。

 神の御名がひしゃげて転がる。

 正直なところ万策尽きた。

 脚よ動けと祈る間にも、影はじわじわこちらに近付き。

 そして大きな手が私の肩を掴んだ。

「ヒィッ!」

「大丈夫。落ち着きなさい」

 テノールボイスが降ってくる。

 私をぐいと押しのけるよう前に出たのは。

「昨日の教授……?」

「准教授だけどね」

 振り向き悪戯っぽく笑う。黒い半縁眼鏡が光り、青信号を反射した。

 進め印に照らし出されるは白衣。肩に大学病院のロゴが刺繍されている。

紫蓮しれん君はこういう時どうしてるの?」

「い、いつもはお祖父ちゃんの遺品の聖書か聖水をぶつけて……」

「成程。で・今日のあの聖書は効かなかったと」

 教授は白衣のポケットに手を入れる。

「何処の宗教でもそうだ。悪いモノと戦うには、新人の新品教典より熟練者や聖堂に長く保存された教典の方が良い武器となる。何故か? 何故『どこでも』そうなのか? 僕は考えた。それは、ほとんどの聖典が紙である事に関係しているのでは、と。力を持つ経典たちのサンプルを集め、共通の性質として、僕が見付けたのはこれ」

 ポケットから引き出された手には、丸く薄く透明な器。中はびっしりと苔色の何かがへばりついている。

 教授は器、培養用シャーレの蓋を開けて影に放った。

Aspergillusアスペルギルス restrictusレストリクタス ―― 乾燥した食品や紙を好む真菌、つまりはカビだ」

 大きな手を離れ、シャーレが宙を舞う。

 光の無い目が恐怖に見開かれるのが分かった。薙ぎ払う腕もステップする脚も持たない元ヒトは為す術もない。

『キィィィィ!』

 シャーレがぶつかると、影は金切声とも何とも言えぬ高音を撒き散らした。

 怯む私の前で霧散し闇に消えていく。

 ……いなくなった。

 数分と待たず、そこには地面に飛び散った寒天培地とシャーレ、聖書だけが残った。静寂が訪れ、遠くの道路で走る車の音が鈍く響いている。

「あのカビ、人間には全くの無毒なんだけどねぇ」

 教授はのんびりと言いながらシャーレを拾い上げ、寒天は革靴で潰し歩道に刷り込んだ。そして道路から聖書を拾い上げる。

「はい」

「あ、はい、どうも」

 ぐしゃぐしゃの聖書を受け取る。

「疲れたでしょ。うちのラボに寄って何か飲んでいかない?」

「あの」

 まだ動悸が治まらない。

「あの」

「何だい」

「どうして昨日と眼鏡違うんですか」

「眼鏡集めが趣味なんだ」



◇◇◇------



 大学病院の中を通り抜け、大学の一角に案内された。

 擦れ違う人が丁寧に挨拶していく。ここの先生というのは、いよいよ本当のようだ。

 嗅ぎ慣れない薬品の匂いに満たされた廊下。行く先々に自動で灯るライト。唸るような機械の稼働音。陰気と清潔をない交ぜにしたような、異様な雰囲気である。

 教授が急に立ち止り、私はぶつかりそうになった。舌打ちをおさえて見れば、教授は白衣のポケットをごそごそ探っている。

「あれ、おかしいな。ラボの鍵が……ああ、背広の方か」

 白衣の胸元から手を入れ、小さな銀の鍵を引きだした。無骨なデザインに『医A24』と刻まれている。

 A24室が開いた。扉を開け放ちながら教授は言う。

「はい。どうぞ座って」

 座れって何処に。

 目の前にはパーテーション。左手には実験機材や器具、机が所狭しと並んだ空間が。右手には冷蔵庫やレンジなどの置かれた生活感溢れるスペースが。

 ちょっと迷い、私は右手に進んだ。

 教授はのんきに入口の伝言板を確認している。

 適当な椅子に腰掛けていると、教授は白衣のまま電気ポットのスイッチを入れた。

「飲み物はそこの棚にあるから好きなのどうぞ」

 出してくれないんかい。

 私は棚を勝手に漁り、紙コップとスプーンとインスタントココアを取り出した。

 カチリ。ポットがお湯の沸騰を告げる。

 私の指先で大きな手がポットを攫った。

 教授は何事もなかったかのように自分のマグにお湯を入れる。ジト目で睨む私には気付く様子すらない。

 教授はポットを戻し、ティーパックを三つ程カップに浮かべると、席に着いた。

「さて紫蓮君」

「何度も言うけどマグノリアよ」

「研究に協力してもらうに当たっては、一応契約書が要るからサインお願いしていいかな」

 言いながら何処からか紙とボールペンを出してきて、私の前に滑らす。

 私はまずポットを取りココアを淹れた。早くも彼のシカトに慣れてきた自分が少し悲しい。

 ココアが冷めるまでと思い契約書に目を通す。

 難しくてよく分からない。

「ねぇ、この連結可能匿名化って」

「大丈夫、侵襲しんしゅう性のある実験は極力しないよ。最悪でも採血やfMRI《ファンクショナル》くらいはお願いするかもしれないけど」

 全く噛みあわない。

 私は契約の内容を理解する事を諦め、改めて答えてくれそうな問いを投げかける。

「教授なのにどうして魔術師なんて胡散臭い名乗り方したの?」

「准教授だけどね」

 教授は三つのティーパックを撚り合わせ、湯の中でぐるぐる回しながら続ける。

「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない、って言葉は知ってるかい?」

 私はココアを啜りながら頷く。

 ぐるぐるぐるぐる、教授のカップで紅茶が渦を巻く。浸りそうで浸らない白衣の袖口。

「逆に言えば、未熟で発達過程の科学は魔法に見えない訳だ。僕はね、医学の力で、超常現象を魔法から科学にして、そしてまた魔法にしたいんだよ」

「……?」

「かつて医術は魔法の分野だった。それが今はどうだい。素人までもがまるで医療を修めたかのような振る舞いをして…………僕の…………信……だからあれほど…………治療……」

 教授は手を止める。

 中の液体はもはや茶よりも黒に近い。

 濃縮された知恵が経験が、私には深すぎて苦すぎて、まだ飲み込めない。彼の言葉は理解できない。

 ただ、ひとつだけ。

「教授は、私を救ってくれるんでしょ」

 教授が顔を上げる。きょとんと、心から驚いたように。

「あー。まぁ、キミが望むなら、そうなるかもしれないけれど」

「じゃあ研究に協力してあげる。私のこと調べて、呪いを解く方法を見付けて。医学と魔法の力で。お願いよ魔法使いの教授さん。私、なんでもするわ」

 私の呪いを解けるのは、この人しか居ない。確信した。

 ちょっとズレてて変な人だけれど、だからこそきっと、三代続いた怨恨を断ち切ってくれる。

 教授はまだきょとんとした顔でカップを取り、ぐいと一気に飲み干す。

 数度喉仏が波打ち、飲み口が唇から離れる頃には、元の何も考えてなさそうなイケメンに戻っていた。

 カップを机に戻しながら、教授は言う。

「准教授だけどね」

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