6-2

 何から何まで変わり果てたMR2を発進させ、これまで幾度もそうしてきたようにガレージから真っ直ぐテストコースへと向かう。

 その最中、一般道を車の流れに乗って走りながら、いかにこのマシンが変貌を遂げたのかを実感していた。

 本来ならば、いきすぎた軽量化によって軽くなりすぎたボディは、道路のちょっとしたギャップを簡単に拾ってしまい、安定感を欠いてしまいがちだ。しかし、そういう安っぽさがこのMR2にはない。


「すごいね、この車。音はこんなに元気なのに、前より全然跳ねてないのがわたしにもわかるよ」

「ああ、やっぱり山さんの腕は本物だったな」


 俺はステアリングを握りながら、賛辞の念をしみじみと噛みしめる。

 市街地から離れ、山道へ。ガードレールの向こう側に生い茂る木々の色は、俺たちのMR2と同じ朱に変わっていた。

 すっかり見慣れた養鶏場の門をくぐり、草原を貫くお馴染みの一本道に辿り着く。


「いつ来ても、ここの景色は変わらないね」


 カナと一緒に車から降りて、他の仲間たちの到着を待つ。たしかに眼前に広がる草原は、まだ緑色のままで季節感をあまり反映していない。


「だけど、吹く風はもうすっかり秋の風だ。空だってあんなに高い」


 俺はMR2に寄りかかりながら、ほとんど青一色で構成された蒼穹のキャンバス目がけて手を伸ばす。どうしようもない季節の移ろいを感じていた。春のまどろみのような日だまりも、夏の駆り立てるような強い日差しも後ろに遠のいてしまった。


「どうやら、みんな来たみたいだ。じゃあ、はじめようか。この仕様で、車いじりのほうは一段落だ」


 門の方角から、山さんのミニバンがこちらに向かってくるのが見えた。俺は弾みをつけて体を起こし、再びMR2の運転席に乗り込んだ。

 再度キーを捻ってエンジンに火を入れる。回転計に目をやると、極限までチューンナップされたマシンとは思えないぐらいアイドリングが安定していた。

 カナも助手席に収まる。テスト走行にも付き合うつもりらしい。

 ほどなくして、ミニバンから降りてきた他の面々が、真剣な表情を携えて、それぞれの持ち場に散る。ピーンと張り詰めた空気が周囲に立ちこめる。


「現状でMR2の出力は八割ってとこだ。それぐらいが一般道の路面で使い切れるギリギリだろう。それでも700PSは出ているから絶対に気を抜くなよ」


 運転席の真横に立った山さんは、「ヤバイと思ったら躊躇わずにアクセルを抜けよ」と何度も執拗に念を押した。 


「700PSね」


 俺がドラッグレーシングスクールで教習車として乗ったJZA80スープラが、たしかそれぐらいの出力だった。重量級マシンならではの安定感のある良い車だったが、戦闘力的にはMR2の以前の仕様と同じぐらいだろう。極限まで贅肉をそぎ落としたこのMR2には、スープラにはない圧倒的な軽さがある。


「じゃあ、ちょっくら試してきます。とりあえず最初はアイドリングからのスタートで」


 俺は、山さんがMR2のそばから離れるのを確認して、素材をアクリルに変更したウィンドウを手動で閉める。それぞれ、スタート地点とゴール地点から見守る正樹と信に手を上げ合図しながら、俺はスタート位置に着いた。


「カナ、念のために足を踏ん張ってろよ」


 俺は前を向いたまま警告するように告げる。カナが黙ってうなずいたのがわかった。

 いったんギヤをニュートラルに戻す。いざとなればクラッチを切らずにシフトチェンジが可能なドグミッションは、車を動かすたびに猫の鳴き声のような独特の駆動音を放っていた。


「こいつを上手く使ってやれば、シフトチェンジによるタイムロスを大幅に削れる」


 カナに説明してやりながら、ガンッ! という硬質な金属音を伴ってギヤを一速にいれる。そして、ゆっくり慎重にクラッチを繋ぎ、そろそろとMR2を発進させた。

 道路脇に設置された100m地点の看板の手前までは、ゆっくり40km/hを維持する。

 どう猛な野獣の手綱を握っているかのようなスリリングさが、口の中をカラカラにさせていた。獣の本能を開放してやる瞬間はもうそろそろだ。

 100mと書かれた文字が確認できる距離まで到達。


 ――さぁ、吠えてみせろッ!


 気合一閃。俺はアクセルペダルを床まで力一杯踏む。

 

 それは――――いきなりやってきた。

 

 一瞬、自分が目まいを起こしたように思えた。穏やかだった清流が突如として激流に変わる。巨人に思い切り蹴飛ばされたような、暴力的という言葉が生ぬるいほどの猛烈な加速感に襲われた。

 全身にかかる加速Gによって首が後ろにのけぞる。脳が揺れ、体が瞬間移動したのかと錯覚する。左右の景色は狭くなった視界の端を流れてゆくだけ。正面の一点以外をまともに認識することは敵わなかった。

 網膜が捉えたシフトランプの点滅に従い、反射的にとしか形容できない無自覚の動作でシフトチェンジを行う。

 何かを考える余裕など、塵ほども存在しなかった。


「――――ぐぅッ!」


 呻きにも似た声が腹から絞り出される。かろうじて、目線の先に400mの看板らしきものがあるのに気づく。

 そこでいきなり――、


「リュウちゃん危ない!!」


 カナが悲鳴のような声を上げた。エンジン音でかき消され、はっきりと聞き取ることは出来なかったが、意図だけは瞬時に理解した。頭ではなく感覚で。

 看板に気を取られた瞬間、ふっ、とマシンの鼻先がコースの外を向いたのだ。

 とっさにアクセルをオフ。慌てて修正舵を当てながらマシンを減速させる。

 速度計に視線を落とすと、デジタル式に変更されたメーターには先ほどの走行で記録した最高速度が表示されていた。


「ハハッ、ハハハハッ、こいつはスゲエ! あの位置からの加速で240km/hとはたまげたぜ!」


 過剰に分泌されたアドレナリンのせいだろうか、MR2を減速させながら、俺はこみ上げてくる笑いを抑えることが出来なかった。

 青ざめた顔で震えているカナには悪いが、このマシンは最高だ。最高にイカレている。バケモノという比喩すら生やさしい。

 たった数百メートルを走らせただけなのに、全身が脂汗でびっしょりだった。ステアリングを握る手もアクセルペダルに乗せた足もブルブル震えていた。なのに、心だけは激しく歓喜を訴えていた。

 俺は道の途中でMR2をUターンさせ、正樹の突っ立っているゴール地点でいったん停車させた。


「カナ、大丈夫か?」


 運転席から降りて、腰が抜けたのか、一人では降りられないカナに手を貸してやる。


「あはは、ごめん、ちょっとダメかも……」


 カナの表情は引きつっていた。俺は寄り添って、過呼吸みたいに上下する背中ををさすってやる。


「……リュウ、お前真っ直ぐ走れてなかったぞ」


 駆け寄ってきた正樹の顔からも血の気が引いていた。


「そんなにやばかったか?」

「ああ、あれはやべえよ。しゃれになんねえ。正直、見ててゾッとした」


 正樹の顔つきは険しく、怯えているようにすら見える。


(ラフな操作をすれば簡単に死ねるぜ)


 山さんの言葉がよみがえってくる。どうやら、脅しではない。

 一度味わったら忘れられない全開加速のあの感覚。余計なものが加速Gですべて吹き飛んで、頭の中が真っ白になる。


 ――これだ。


 この真っ白になる感覚こそ、俺が心の底から求めてやまなかったものだ。

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