閑話、あるいは幕間

【017】「ど、どうしよう……!」

 荷支度を済ませたイーワンを不意に危機が襲った。

 かつてサーバー屈指の守りを誇ったイーワンでさえ、この危機を防ぐことはできなかった。どれほど力を尽くそうと辛うじて抗うので精一杯。それも長くは持たないのは明白だった。

 打開策はない。このまま限界を迎えるのを待てば、遠からずイーワンは心折れるだろう。イーワン自身にもそれが理解出来ていた。理解出来ていてなお、イーワンにはどうすることもできない。

 無力感をここまで痛感したのは初めてのことかもしれない。あるいは慢心していたか。


 ゲームだった頃、イーワンは確かに強かった。

 AWOのプレイ人口は約6000万人と言われている。環境汚染が広がり『アウトドア』という概念が廃れて久しい。既存のアウトドアは極一部の例外を除き、今ではもうVR技術の中でのみ遊べるものだ。大手と形容していいAWOは星の数ほどあるVRゲームの中でも五指に入る人口を誇っていた。

 だがその中でもレベルが4ケタ――1000を超えるのは一握りのプレイヤー。その膨大な人口に比べ、8000人程度しかいないと言われている。さらにレベル5000を超え、俗に『ランカー』と呼ばれるのは86人。

 そんな中でイーワンはサーバーランク第十位だ。強くない筈がない。守りに限ればイーワンはサーバー最強と言ってもいい。


 だが、そんなイーワンでさえ抗えない理が存在する。こんなところで、負けるのか。


「なに、もじもじしてるんだい。ほら、出発するよ。小便ならとっとと済ませてきな」

「……はい」


――◆――


 うだうだと迂遠な言い回しをしたが何のことはない。危機とは単なる尿意である。


「とは言ったものの……」


 ファイから見えないようによくよく注意を払い、イーワンは周囲を木々に囲まれた木立の中にいた。

 ここならば誰かに見られることはないだろう。無いだろうが問題はそこではない。


 イーワンは『ネナベ』である。つまり元々は女性だ。

 AWOで最強の一角であったイーワンにまともな社交性などない。記憶の大半が失われていても、とてもではないが自分に男性経験があるとはイーワン自身思えなかった。

 始めて見るナニが、まさか自分のモノになるなんて夢にも思わなかったが。

 だいたい男性経験もないイーワンが異性がどのような始末の仕方をしているかなど知るはずもない。

 しかし、差し迫った問題の前にはそのような言い訳は何の役にも立たない。

 事態は刻一刻を争う。

 ともかく事を済ませなければ、あまりに悲惨な未来が待ち受けるのは明白だった。

 サーバーランク第十位とか『銀盾ぎんじゅん』がどうこう以前に人としての尊厳が失われかねない。

 さすがのイーワンも超えてはならない一線が存在する。

 イーワンが使えるありとあらゆる魔術を使っても、尿意を抑えることなど出来るはずもない。ゲームだったAWOに当然ながら排泄を含む生理的欲求はない。戦闘に有用な魔術は多く身に着けていても、こう言った場面で役に立つ魔術やスキルはイーワンの埒外だ。そもそもただの生理現象に対策もなにもあるわけがない。


――というか、さすがにこの年で漏らしたくない!


 それはバカバカしいと笑って済ませるにはあまりに切実な願いだった。


 とはいえ、現実問題としてやり方が分からない。当然ながらインターネットを立ち上げて検索するという方法も使えない。というか検索できてもしたくない。

 だがこのままであれば、堤防が決壊するのは火を見るよりも明らかである。


「ど、どうしよう……!」


 限界は近い。

 もはや選り好みができる状況ではないことは分かっている。

 しかし、いかにイーワンが女子力どころか、人間らしい生活からは縁遠い廃人ゲーマーと言えどさすがに欠片ほどの羞恥心は残っている。

 精神的にはともかく、イーワンとて女性らしい感性を全て捨て去ったわけではないのだ。

 イーワンがそんな葛藤に苦しむ間もタイムリミットは刻一刻と迫っている。

 男性が『』ことはイーワンも知識として知ってはいる。知ってはいるが、それを実行するのは雀の涙ほどの女子力を投げ捨てることと等しい。

 我慢の限界だ。

 まなじりに僅かに涙を浮かべ、イーワンは決断した。


「ええい、ままよ!」


 意を決してイーワンは勢いよくズボンに手をかけた。


――◆――


「遅かったね。小便ひとつに何時間かけてんだい」

「いやぁ、ははは……」


 イーワンは勝った。

 困難な闘いではあったが、なんとかイーワンは勝利したのだ――失った代償はあまりに大きかったが。

 荷猪車にちょしゃに揺られながらイーワンは乾いた笑みを浮かべ、曖昧に言葉を濁す。

 イーワンにとってもあまり思い出したくはない出来事ではあるが、思い出にするにはあまりに身近過ぎる。このである限り、付き合っていく必要があることだろう。

 イーワンであることを受け入れはしたが、それに馴染むにはまだまだ時間がかかりそうだった。


「ほら、見えてきたよ」

「ん? すげ……!」


 ファイに声をかけられ、顔をあげたイーワンは目の前の風景に思わず感嘆の声を漏らす。

 なだらかな丘と森が延々と続くような退屈な風景が不意に終わる。それは遠くに見える山脈だ。

 黒々とした岩肌が森や丘の緑色を断ち、空の青色との境界を明瞭にしていた。目を引くのは右から左へ続く山脈をぽつりと削ったような切れ間だ。

 谷のようになったそこには都市があった。

 まだ遠いながらもその都市の特徴は明らかだ。山肌に沿うように建物が階段状に立ち並んでいるのが分かる。都市を貫くように石畳で舗装された街道が真っ直ぐに伸びていた。


「ふふん。驚いたかい?」


 目を奪われたイーワンの様子に満足げに笑みを浮かべる。


「これが階段都市『クーメル』だ」


 物語は続く。

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