決闘士と孤児(みなしご)の少女

陸奥誉

序曲

 今日からここが、君の家だ。


 手を引いてくれていた僧侶の言葉に、とぼとぼ歩きのワシリッサは視線を上げた。その目に飛び込んできた色は、薄茶けた白だった。


 傾いた陽に染められた土壁がぐるりと巡らされたその家は、少女にはとても大きく見えた。

 実際のところ、案内されたその家は共同貸家である。複数の家族が共同して生活するこの共同貸家はこの街では然程大きなものではないし、むしろ古屋の部類に入る。

 よく見れば土塀の白い飾り土が所々剥げ落ちたまま、塗り直されもせずに放って置かれているのだ。壁を風雨から守るはずのひさしも、瓦製ではなく古びて黒ずんだ木でできていて、しかも幾らか欠けているところさえある。

 

 しかしワシリッサにとって、自分が住む家といえば粗末な幕屋であった。

 女が七歳を過ぎたならば身につけなければならない被り物にしても、街で暮らす同じ年頃の子供が被るような、染め布に色糸で刺繍された品さえ用意することができなかった。

 代わりに生成りの布で頭を包むようにして、その上から洗い晒して元の色が判らなくなったような幅広布を鉢に巻いて済ませるような生活だったのだ。

 これからは曲がりなりにも土塀に囲まれた家に住むのだよと言われても、嬉しさよりも先に、気後れの方が勝ってしまう。

 

 現にまだ陽が沈んだわけでもないというのに、鉄板が打たれた重々しい木の門扉はしっかりと閉ざされていた。この家の人間が自分を迎えることを拒んでいる証なのではないか。感じ易い子供の常でワシリッサの心はひどく沈んだ。

 そう思えば、庇が門扉に落とす影さえも、自分の先行きを閉ざしているようにも見えてくる。


「そんな顔をしていたら、此方さんに心配をかけてしまうよ」


 そんなワシリッサの心情を知ってか知らずか、僧侶は彼女の顔を覗き込んできた。

 禿頭に四角い顎の団子鼻、そしてぐりぐりとよく動く白髪交じりの太い眉と金壺眼の表情が妙な安心感を与える男だったが、それでもワシリッサの気持ちは晴れない。

 僧侶の言うように今のワシリッサは、カサついた唇をきつく結び、藍色の眼は伏しがちである。子供らしい丸みを帯びた頬は色を失って、いっそ痛々しかった。

 両親を亡くしてから、まだ半月と経っていないのだから無理なきことである。実際、頻々に吹き荒れる悲しみや寂しさをやり過ごすだけで精一杯の少女には、外面を取り繕うだけの余裕はなかった。


「これからのお前の面倒を見てくださるのだから、もう少し愛想よくしなさい」


 僧侶の声色は優しかった。

 だが、それはとても無理な注文だ、とワシリッサは思う。

 嫌々と首を横に振ると、控えめな耳飾りがチリチリと音を立てた。先日亡くなった母の形見が味方してくれたように思えて、その音に背を押されたワシリッサは口を開いた。


「あが、やっぱり元のおうちへは帰らえんの? ここへあらなあかん?」


 この家に居なければならないのかと、そう尋ねる言葉には、南西の訛りが色濃かった。更にワシリッサの訛りには強めの抑揚を伴うこともあって、馴れない者には聞き取りにくい。

 だが、ここしばらくを共に過ごして、さすがに僧侶は過たず意味を捉えてくれた。膝を折り、しゃがみ込んで目線を合わせると、ワシリッサの両肩に分厚い掌を置いた。


「気持ちはよく解るが、それは無理というものだよ。ワシリッサ」


 諭すような声色で言われてなお、ワシリッサは聞かなかった。嫌や。

「ほたら、お坊さんトコにおる! あが、ちゃんとお手伝いするやしよー」


 ここに置いてかんとって、と、肝心の最後の言葉は言えなかった。幾ら幼いとはいえ、自分が言わんとすることが無理難題だということは理解しているのだ。

 それでも、そんな半端な分別で口を噤んでしまう自分が嫌になって、またも視線を足元へ落としてしまう。

 母の形見も、今度は勇気をくれなかった。


 そんなワシリッサの内心などお見通しとばかりに、僧侶はこれ以上、その話題に触れる心算はないようだった。代わりに肩に置いていた手を動かし、被り物越しにワシリッサの頭を撫でる。

 重たい感触に父の掌を思い出して、それがまたワシリッサの目頭を潤ませた。


「お前はこの歳で辛い目に遭っているが、そのことを恨んではいけないよ。泣きたい時は泣けば良いし、鬱ぎたいときには鬱いでも構わない。それでも、起こってしまったことを恨むことだけは、してはいけないよ」


 真っ直ぐに生きなさい。


 身の芯に深く染み入るような声色で僧侶はそう言ったが、今のワシリッサは素直に聞くことができなかった。


(恨んだらあかんて、お坊さんもむごかこといような) 


 だんだん爪先の景色が滲んでくる。堪えなきゃと瞬きをした弾みで、滲みが雫となって落ちた。


 それを見てしまうともう、駄目だった。


 次から次へと溢れてきて、地面を濡らしていく。

 喉の奥から込み上げるような声も出てきて、きっと大層、人目を引く光景になっているに違いない。それでも僧侶は何も言わず、ワシリッサが泣くに任せていた。

 壁と僧侶の巨躯が作る影の中で、少女は一頻り泣き続ける。分厚い掌の動きはその間、止まることはなかった。

 

 薄紫の空に、澄んだ声をさせて暮鳴鳥が飛び始める。家路に向かう人々で、だんだんと往来も賑わってきた。

 どれくらいそうしていたものだろうか。鼻を鳴らしながら手の甲で涙を拭い、ワシリッサの気持ちも、ようよう落ち着いてきた頃だった。


「御坊。もう、いらしていたのですね」


 お待たせして申し訳ありませんと、若い男の声がかけられた。きっとこの家の人だろう。

 つまり、自分のこれからの養い親だ。

 そう察したワシリッサは慌てて袖で目を擦って、水気を鼻の奥へ追いやった。初顔合わせだというのに泣いていると知れたら、印象も良くないだろう。


「やぁ、ファサーム殿。ちょうど良い時に参られた。この子もたった今、落ち着いたところでなぁ」


 莞爾として笑い、僧侶が立ち上がって挨拶をする。さらりと今の今まで泣いていたことをばらされてしまったワシリッサは、気恥ずかしさと共に青年へ顔を向けた。


 怖か人や。


 それがワシリッサの第一印象だった。自分を引き取ってくれるというのだから、そんな印象を抱いたら失礼だ。良識が頭を過るが、それでも感じたものは誤魔化せなかった。


 歳は亡き父よりも幾らか下であろう男の声は、丁寧な言葉遣いとは裏腹に、平板で冷たかった。

 上背のある体躯も、その腰にかれた剣も怖かったが、何より、腕を組んで長身からこちらを見下ろす三白眼が怖かった。

 頭の先から爪先まで視線を這わされ、値踏みをするような男の表情が影になってよく見えないことも、初印象に影響したのかもしれない。

 

 やや怯えたところを、僧侶の手で肩を押されて、ワシリッサはその影から押し出されてしまった。ほら、ご挨拶をなさい。


「え、えぇと。〈狗猫〉氏族、イズーリ一門、カルーリア・アマンニの娘、ワシリッサいます」


 僧侶に促されるまま、両親に教えられた通りに名乗り、小さく頭を下げる。

 びくびくとしたその様子をどのように見て取ったか、青年はふむと鼻を鳴らして長い左手を差し出してきた。


「〈蝙蝠〉のファサームだ。決闘士をやっている」 


 早苗月の第十二日。

 初夏の訪れの頃、ワシリッサはこうして、ファサームと出会ったのだった。

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