異世界料亭「みとり」/赤巻たると

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第1話 希望のラクレットバーガー


――尊敬していた人に踏み潰された料理は、俺の右腕そのものだったのかもしれない。


 目を覚ますと、見知らぬ路地裏にいた。

 十八歳の日本人、ササライ・ハルトは目をこする。

 覚えているのは――光。目の眩むような白い光だった。


 また、全身を削がれるような衝撃を感じた気がする。

 きっとその後、失神して意識を失ってしまったのだろう。

 だが、自分がなぜこんな場所にいるのか理解できなかった。


 春とは思えないひんやりとした外気。薄暗くてよく見えないが、右手がズキズキと痛むのも気になる。

 辺りを探ると、革製のカバンを見つけた。仕事道具の入った大切なものだ。

 それを回収して、彼は光の漏れる方へ這っていく。

 しばらくすると、大通りが目に入った。


「ここは、一体……」


 喧騒に満ちた夜の街。街路にはランタンが吊り下げられ、繁華街を妖しく照らしている。

 ただ、その町並みはドラマや写真でしか見たことがない西洋風のもの。

 また、往来を行く人達の格好も奇妙なものだった。

 甲冑を着込んだ騎士姿の男。ローブのようなものを纏い、酒場の前で談笑する女。


 全員が自分とは似ても似つかない西洋風の顔立ち。

 それも、仮装と言うにはあまりにも自然体な人々であふれていた。


「……映画の撮影か?」


 一瞬そう思った。しかし、すぐに首を横に振る。

 勤め先の店から帰宅する道に、こんな場所は存在しない。

 眼前の光景は作り物ではないと、本能が告げている。

 混乱していると、目の前をすうっと何かが横切った。


「……うわっ!」


 革袋を腰に下げ、粗末な格好で歩く青年。

 ただ、その身体は半透明で、瞳には驚くほど生気がない。

 その男は壁にぶつかると、そのまま溶け込んで姿を消してしまった。


 辺りを見渡すが、どこにもいない。

 まるで、最初からこの世にいなかったかのように。

 異常な光景を見てしまい、血の気が引く。


「……幽、霊?」


 動揺しながらも、ハルトは確信した。

 ここは日本ではなく、自分の常識が通用する場所ではない。

 迷い込んではいけないところに来てしまったのだ、と。


 見上げた先には強い光を放つ街灯。

 その明るさに目を灼かれ、とっさに右手で視線を遮る。

 その時、ハルトは右腕が血まみれになっていることに気づいた。


「……なんで、こんな」


 うずくような痛みが困惑を煽り立てた。

 血はまだ固まっていない。処置をする必要がある。

 しかし、ハルトの頭からそんなことは吹き飛んでいた。


 なぜなら、その傷を見た瞬間、ここに至るまでの光景が走馬灯のように駆け巡ったのだから――



     ◆◆◆



 料理に貴賎はなく、客を地位で選んではいけない。

 それが、料理人――佐々来春人の抱く信念だった。


 生まれは定食屋の息子。

 家柄ゆえ、幼い頃から料理人として育てられた。

 実家の厨房で実戦経験を積み、徹底的に料理の腕を磨いてきた。


 義務教育が終わると、調理師免許を取るため専門学校へと進んだ。

 別に免許がなくとも店は開ける。

 料理の腕の証明もできる。ただ、持っておいて損はないと色んな人に言われ、それなら取得しようと思い立ったのだ。


 そして十五歳の春、春人は不退転の決意で調理学校に入学した。

 地力と下積みの経験を活かし、難なく資格を習得。

 初年次にして今の勤務先である有名レストランへの内定を勝ち取った。


 その後、春人は紆余曲折がありながらも調理師学校を卒業。

 最終的には複数店から内定をもらったが、春人はその中で最初に声を掛けてくれた店へ身を投じた。


――マンジェ・ヒストリエ


 高級店が立ち並ぶ日本最大の飲食街。

 その最奥に居を構えるフランス料理の名門店である。

 下積みではあるが、多国籍料理の経験を買われて雇われたのだ。


 当初、飲み込みが早いのもあって、春人はシェフ達から注目を集めた。

 だが働いていく内、春人は彼らとの対立するようになった。

 原因は単なる料理観の違い。

 この店では、地位による客の選別を行っていた。

 先に入っていた予約を取り消してでも、上流階級の客を優先する。

 それは春人の持つ信条の反対を行くものだった。


 無銭飲食ならともかく、予約して来る客は金を払っている。

 本来そこに上下はない。

 しかし、この店は客に格を生み出し、徹底的に弱者を排斥する。

 批判が来ても取り繕った言い訳でやり過ごす。

 その風潮が経営陣のみならず、厨房に蔓延しているのを見て、春人は愕然としたのを覚えている。

『これが最高峰の店のすることか……』と。

 それでも、春人は力の限り譲歩してきた。

 厨房において連携は不可欠。

 客に提供する料理を仕込む際は、一切の我を捨ててきた。

 ソリの合わないシェフ達に妨害されても、無理をして周囲に合わせてきた。


 自分の信条を貫くのは、客の絡まない新作評論会だけにしよう。

 そこでケチの付けようがない料理を出して、周りを黙らせる。

 そして料理長に認めてもらうのだ。

 己が胸に秘める、料理の可能性を。


 そう念じることで、春人は何とか意識の乖離を繋ぎ止めてきた。

 一縷の望みに賭けて、耐えていくつもりだった。

 決定的な決裂を迎える、あの時までは――


 あの”白い光”を目にすることになる日。

 春人は緊張した面持ちで厨房にいた。

 

 これから始まるのは新作評論会。

 今まで自分を貶めてきたシェフ達を見返すため、春人は入念な準備をしてきた。

 品評会に出す料理は、これまで学んできた全てを注ぎ込んだ。


 その名もラクレットバーガー。

 甘さを控えた上質なバンズに、フランス子牛の肉を使った肉厚のパテを乗せ、熱してトロトロになったラクレットチーズを掛けたもの。

 よく炒ったクミンやチリペッパーなど数種類のスパイスを使用し、香り高く食欲をそそる一品になっている。


 昨今パリで広がっているハンバーガーを、レストラン仕様に昇華させたものだ。

 フランスにおいても大衆向けとして知られているが、春人はこの品に高級料理としてのポテンシャルを感じていた。


『これなら、料理長も――』


 料理長は厳しい人だが、味には正直な人だ。

 彼が料理長に就任してから、この店は日本でトップクラスのフランス料理店になった。

 彼に認めてもらえれば、自分はもっと進化できる。

 料理人として、高みを目指していける。そう意気込んで臨んだ品評会は――


 記憶が――ない。

 

 思い出せないのだ。

 自分の出した最高の料理が、どんな評価を受けたのか。自分が何の料理を出したのかも。 それがどう評価されたのかも。

 記憶を探ろうとするたびに、砂嵐のようなノイズが走る。

 

 それはまるで焼け付いたフィルム。

 断片的な光景しか読み取れない。

 追憶の中で、春人はそれらをかき集める。


 耳に突き刺さる嘲笑。抑えきれぬ憤慨。

 一文字の傷。血に濡れる右手。

 そして――全てを塗りつぶす絶望。


 そんな情景が、瞼の裏に次々と浮かんでくる。


 失意に満ちた帰路。

 そこには確かめたはずの青信号があった。

 直後、視界の端に映る車。衝突する瞬間に訪れた――謎の白い光。


 そこで、すべての記憶は途切れている。

 全てが曖昧で、頭は思い出そうとしてくれない。

 それでも、最後にこぼした言葉だけは覚えていた。


『……ごめんな』


 未練がましく、悲哀に満ちた恨み言。

 白い光に包まれる中で、春人は喉の奥からその一言を絞り出していた。


『――俺、料理人じゃなかったみたいだ』


 積み上げてきた存在意義の否定が、佐々来春人の最期の言葉だった。



     ◆◆◆



「…………ッ」


 意識が回帰する。

 ハルトは痛む頭を抑えながら前を向いた。


 自分に何が起きたのかは分からない。知りたくもない。

 けれども、ここで座り込んでいても始まらないことは理解できた。

 ひとまず、現状を確認するべきだ。


「ここがどこなのか、知らなきゃな」


 仕事道具の鞄を拾って立ち上がる。

 大通りを見ると、多くの人々が行き交っていた。


 一番最初に目についたのは、露店を開いている男。

 ターバンを巻いていて、浅黒く日焼けしていた。

 どうやら香辛料を売っているようだ。

 鼻を刺激する匂いに耐えながら、ハルトは声をかける。


「すみません、ちょっといいですか」

「お、いらっしゃい。スパイスについて聞きたいのかい?」


 商人は笑みを浮かべながら応じてくる。

 どうやら言葉は通じるようだ。

 ハルトは安堵しながら本題を切り出す。


「いえ、自分が今いる場所を知りたいんです。ここは日本ですよね?」

「どこだそれ。なんだ――冷やかしか?」


 商人の顔から笑みが消える。

 二の句を継ぐことを許さない圧迫感。

 彼は値踏みするような視線をハルトに向けてきた。


「ウチは客の質問しか受け付けてないよ」

「い、いえ……買います。ちょっと待ってください」


 豹変した商人の対応に、ハルトは背筋を震わせた。

 どうやら客以外には怜悧な対応を取るらしい。

 ハルトは慌てて尻ポケットに手を当てた。


「あれ」


 しかし、そこに財布は入っていなかった。

 まさか落としてしまったのだろうか。

 顔色を悪くするハルトを見て、商人はため息を吐いた。


「なんだ、何も買わないのかい?」

「いや、その……持ち合わせが」

「なら散ってくれ。あんたみたいなのがいると、他の客が寄り付かなくなるんでね」


 その言葉で、ハルトは辺りを見渡した。

 大通りの人たちの多くが彼に奇異の視線を向けていたのだ。

 どうやら予想以上に浮いてしまっているらしい。


「ごめんなさい。失礼します」


 ハルトは頭を下げて、露店から立ち去った。

 そして大通りから外れた小道に入る。

 人の目から解放されたことで、少し気が楽になった。


「はぁ……厳しいな」


 何一つ聞くことができなかった。

 財布さえあれば――と思ったが、そもそもここが日本だという保証はない。

 自分の知っている通貨が使えない可能性もあるのだ。


「気に入ってた財布だったんだけどな」


 本当に紛失してしまったのだろうか。

 一応、仕事道具を入れている鞄を開く。

 そこに収められているのは包丁くらいのもの。財布はどこにもなかった。

 しかし、一つだけ予想外のものを見つけた。


「……タッパー?」


 透明の箱。中にはどこか見覚えのある料理が入っていた。

 それは、ラクレットバーガー。

 ハルトが初めて自分で考案した創作料理。

 そして、全てが懸かっていたあの品評会に、出したはずのリョウリ――


「…………ッ」


 それを見た瞬間、なぜか全身に寒気が走った。

 こみ上げる吐き気。

 タッパーを持つ手が震え、身体が萎縮してしまう。

 どの料理より見慣れ、作り慣れていたもののはず。

 しかし、これから離れろと肉体が悲鳴を上げていた。


「……なんだ?」


 そもそも、これは品評会に提出したはずのもの。

 本来ならこんなところに入っているわけがない。

 疑問に思っていると、記憶の底から声が響いてきた。


――誰が食うんだ、こんなゴミをよぉ!


「…………つッ」


 思わず胸を抑えた。

 心臓がキリキリと締め上げられる。


 ハルトの本能は無意識に悟ってしまっていた。

 記憶の断片が、呪いのように告げてくるのだから。

 これはとても食べられるものではない、粗末な料理なのだと。


「……最初から、気づくべきだったのかもな」


 タッパーに押し込められたラクレットバーガー。

 それに視線を落とすと、胸の底からざわめきがこみ上げてくる。

 つながろうとする記憶を、身体が拒否しているのだ。


 ハルトはタッパーを鞄の中に押し込み、深呼吸して心を落ち着けた。

 料理のことを考えると頭がおかしくなりそうだ。記憶の整理は後回しにしよう。

 そう決意して、ハルトは細い通りを歩いていく。


 辺りを見渡しながら、ゆっくりと手頃な人を探す。

 小道をうろついていると、角を曲がったところで肩を叩かれた。


「どうした、この街は初めてか?」

「うわ!」


 いきなり声を掛けられて跳ね上がる。

 振り向くと、そこには強面の男が立っていた。


 逆立てた金髪。

 獅子を思わせる風貌にハルトは圧倒される。

 思わず逃げようとしたが、それを見て男は屈託のない笑みを浮かべる。


「ただの客引きだ。そう怖がるなよ」

「……は、はあ」


 男は装飾された看板を持っていた。

 危害を加えてくる様子はない。

 ハルトは頭を下げて気になっていたことを尋ねた。


「すみません。よろしければ、ここがどこなのか教えてもらえませんか?」

「ん? ここは海洋都市エンテラルだ」


 ここに来て初めて質問に答えてもらえた。

 一抹の喜びを覚えたが、ハルトはすぐに首をひねる。


「海洋都市の、えんて……?」

「おいおいお上りさんか? 海洋都市エンテラル。アルコイリス王国の第四都市だよ」


 相当な田舎者だと思われているようだ。

 しかし、事実自分はお上りさん以下の存在。

 もっと基本的なところから確認していきたかった。


「つまり、日本ではない?」

「どこだそれ。大陸の外にもそんなとこねえよ」


 ハルトは頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 母国語が通じる場所だというのに、この男は日本を知らない。

 こんな不可思議なことがあるだろうか。

 ふと、ハルトの脳内に異世界という言葉が浮かんだ。


 だが、ここで男がポンッと手を叩いた。


「待てよ、ニホン? ああ、もしかしてお前”じゃぱねぜ”か」


 じゃぱねぜ。

 聞き覚えのない言葉が出てきた。

 首を傾げているハルトとは反対に、男は合点がいったような顔をしている。


「へぇ、珍しいな。じゃぱねぜなんて初めて見た」

「ちょっと待ってください。この世界に日本はあるんですか?」

「いいや? ニホンってのは”異界”から来た奴の多くが口走ってる国の名前だ。ここにゃねえよ」


 どうやら、自分はじゃぱねぜというものに当てはまるらしい。

 ハルトはその言葉を、日本からここに飛んできた人と解釈した。

 つまり自分は、どこか違う世界に迷い込んできてしまったということになる。


 ショックを受けているハルトを見かねたのか、男は気の毒そうに告げてきた。


「王都に行きな。あそこは”じゃぱねぜ”を保護していたはずだ」

「王都ですか?」

「ああ。じゃぱねぜを集めてるらしいぜ。保護された後は奴隷にされるって話だけどな。まあ、野垂れ死ぬよりはマシだろ。頑張ってくれや」


 そう言って、男はハルトの肩をポンポンと叩いた。

 顔はいかついが、思ったよりも気さくな人だ。

 ハルトは素直に感謝の念を伝えた。


「ありがとうございます」

「いいっていいって。はぁ……金持ってると思ったんだけどな」


 客引きをしていた彼としては、金を持たない者との出会いはがっかりものだろう。

 しかし、ハルトにはまだ気になることがあった。


「最後に一つ、聞いていいですか?」

「なんだ」


 ここが異世界だということは分かった。

 そして西洋のような文化をしているのだということも。

 ただ、先ほど見た妙な現象だけは理解ができなかったのだ。


「さっき、半透明の人が壁に溶けていったんですけど。あれって何なんですか?」

「……はあ?」


 ハルトとしては、快刀乱麻のように答えてくれると思っていた。

 しかし男は質問を受けて困惑していた。

 しばらくの熟考の後、彼はハルトに諫言する。


「知らねえ。あんまり下手なことは言うなよ。幻覚が見えるなんて思われたら、王都でも保護してもらえなくなるかもしれん」

「わ、分かりました」


 この世界の人でも分からないらしい。

 怪訝に思ったが、ハルトは一つの答えに行き着いた。


 きっと先ほどの光景は何かの見間違いだったのだ。

 突然見知らぬ場所に飛ばされたのだから、錯乱するのも無理はない。

 なんとか自分を納得させていると、鋭い声が響いた。


「おい、バルテラ! いつまで無一文相手にしてんだ。サボってんじゃねえぞ!」


 大通りの方から老人が顔を覗かせ、こちらに叫び散らしていたのだ。


「うわ、やべ……それじゃあな」


 男は焦ったように大通りへ戻っていった。

 どうやら厳しい店で働いているらしい。

 その背中を見送りながら、ハルトは空を見上げた。

 元いた世界で見るよりも近く感じる月が、煌々と夜空を照らしている。


「……これからどうしよう」


 ハルトはボソリと呟いた。

 ここは日本ではなく、ましてや自分の知っている世界ではない。

 もしかすると、もう帰れないのではないか。そんな不安がよぎった。


 その瞬間、頭の中に何かがフラッシュバックする。

 突き刺さるような視線と言葉。

 そして、暗闇で立ち尽くす一人の青年。


 脳裏をよぎったのはそれだけ。

 それ以上は思い返そうとしても身体が拒否する。

 しかし、その記憶はハルトを悟らせるには十分だった。


「そっか……帰っても、仕方ないんだよな」


 料理人として、失格の烙印を押されてしまったのだから。

 ポタポタと、右手から少量の血が流れ落ちる。

 それは涙のように地面へ落ちると、そのまま染みこんで消えていった。


 数秒の沈黙の後、ハルトはゆっくりと顔を前に向けた。

 もはや自分に帰る場所はない。帰りたいとも思わない。

 ただ、こんな場所で死にたくないという想いはあった。


「愚痴ってても始まらないな」


 情報収集は続行することにした。

 どこかで夜が明けるのを待って、散策を開始しよう。

 それに、傷の手当もしなくてはならない。


 ハルトは月の光に傷口を照らした。

 右手の親指には縦にスッパリと傷が入っている。

 いつもの自分がこんな場所を怪我するとは思えない。

 不思議に思いながらも、ハルトは止血するために自分の服を見下ろした。


 その時だった。


「――動くな」


 ひやりと、首に何かが当たった。

 視界の端にグリップのようなものが映る。それはナイフの柄にひどく似ていた。

 認識した刹那、ハルトは叫びそうになる。


「――声も出すな」


 しかし、冷たい声が聞こえてきた。

 同時に刃が首に押し当てられる。

 声の発生源はすぐ右手側。ハルトは硬直しながら、そちらに視線をやる。


 そこに立っていたのは、自分より頭一つ以上低い少女。

 サラサラとした青髪と、吸い込まれるような青い瞳が目を引く。

 少女はハルトの顔を覗き込みながら、無邪気な笑みを浮かべたのだった。


「珍しいナリしてるな、にーちゃん?」



     ◆◆◆



 首元に凶器をつきつける少女。

 その身なりは綺麗なものではなく、まるでゲームに出てくる盗賊のような格好をしていた。

 微塵も動けないハルトに対し、少女は無遠慮に告げてくる。


「命が惜しいなら、金目の物を置いてってくれ」

「…………ッ」


 平和な日本に生きてきたハルトでも分かる。追い剥ぎだ。

 反抗すれば何をされるかわからない。

 ハルトは動揺を隠しながら答えた。


「金は持ってない」

「嘘つけ! そんなおかしな服着てるんだ。どっかの行商人かなんかだろ?」


 少女は不機嫌そうに鞄を奪いとった。

 そしてハルトが止める間もなく中身を調べる。

 中に包丁が入っているのを見て、少女は目を輝かせた。


「なんだ、いい獲物持ってんじゃん」

「――ッ、それに触るな!」


 ハルトは無意識に叫んでいた。

 それは料理人の魂にも等しい仕事道具。

 許可なしで他人に触らせたことはなかった。

 

 だからこそ、全てを諦めた今でも反応してしまったのだろう。

 しかし、ハルトは言った後で後悔する。


「は?」


 少女は明らかに癇に障ったようだ。

 鞄から視線を切り、ハルトに再びナイフを向けた。

 このままでは刺されかねない。ハルトはとっさに弁解する。


「いや、それだけは勘弁してくれ。親の形見なんだ」


 完全にでまかせの言い訳である。

 プロになった記念に職人から貰い受けた貴重なものだが、肉親に関係があるわけではない。

 案の定、少女はじっと怪訝な目を向けてくる。

 ベタ過ぎたかと思ったが、少女は包丁から手を離した。


「チッ……なんだよもう。そんなこと言われたら盗れるわけないじゃん」


 思ったより通用した。

 斬られるかと危惧していたハルトは胸をなでおろす。

 しかし、少女はいたくご立腹の様子だ。


「本当に金も持ってないみたいだし、襲い損じゃん。どうしてくれんの?」

「……なんで逆ギレ?」


 ハルトは誰にも聞こえないように呟く。

 落胆する少女だったが、その瞳の端に何かを捉えたようだ。


「おぉ、よく見たら食べ物あるじゃん!」

「待て――それは……」


 少女が手にとったのは一つのタッパー。

 中にはハルトにとって鬼門のラクレットバーガーが入っている。

 ハルトが止める間もなく少女は蓋を開け、その料理にかぶりついた。


 バンズとパテを一口で噛みちぎり、口いっぱいに頬張る。

 上等な牛肉を使っているため、見なくても肉汁が染み出しているのが分かる。

 少女は咀嚼するや否や、ハルトに向かって声を上げた。


「うめーッ! なんだこれ!」

「パンくずを飛ばすな!」


 バンズの欠片を振り払いながら、ハルトは信じられない様子で少女を見ていた。

 その料理は、自分の心に風穴を開けた失敗品。

 それのせいで、それを作った自分のせいで、料理人として全てを失うことになったというのに。


 しかし目の前の少女は、笑みを浮かべながらラクレットバーガーに食らいついている。


「そんなのが……うまいはずないだろ」


 ハルトは歯を軋ませた。きっと少女は嘘をついているのだ。

 金目的で襲ったのに収穫がなかったから、せめて奪った料理を美味しいものだと思い込み、自分を慰めているのだろう。

 しかし、そんな邪推をはねのけるかのように少女は告げた。


「はぁ? なに言ってんだ。テメーの味覚がおかしいだけだって。こんなに肉汁たっぷりでチーズがトロトロなのに、まずいわけないじゃん」


 それは、ハルトであってハルトではない人物――

『料理人』の佐々来春人が、死ぬほど聞きたかったはずの言葉。

 ただ美味しいと言って欲しくて、ひたすら創意工夫を繰り返していた。


 今ここにあるラクレットバーガーは、まさにその総結集。

 しかし記憶の断片において、その料理に下された評価は――


「それは、ダメな料理なんだよ!」


 思わず否定してしまっていた。

 少女の味覚がおかしいだけだろうと。

 その料理が本当に上等なものなら、こんなことにはならなかったのだ。

 しかし、今度ばかりは少女も頭にきたらしい。


「うっせえなあ、うまいっつってんだよ。あたしにケチ付ける気か?」


 少女は肉汁を口の端から覗かせながら、こちらにナイフを向けてきた。

 よく研がれたそれは、突き刺せば簡単に身体を貫通してしまうだろう。

 ハルトはそれ以上の反論を押し留めた。


 数分後、少女は名残惜しげに最後の一欠片まで食べ終えると、感動の声を漏らした。


「ふぅ……こんなうまいもん食べたの初めてだ」

「……そうかい」


 色々と言いたいことがあったものの、ナイフを持ちだされては敵わない。

 少女は手についたソースまで舐めとっている。

 と、ハルトの視線に気づいたらしく、少女は興味深げに尋ねてきた。


「これ、どこに売ってる? もっといっぱい食べたいんだけど」

「売ってないよ。作ったものだから」

「え?」


 少女は首を傾げたまま見上げてくる。

 ハルトが言ったことの意味がわからないらしい。

 こみ上げてくる発作のような自己否定感を抑えながら、ハルトは呟いた。


「それ……俺が作ったやつだから」

「はあ!?」


 少女が鋭い声を上げた。

 刺されると勘違いし、ハルトはとっさに背を向けようとする。

 すると、少女がその腰にしがみついてきた。


「すげー! こんなの作れんの!? どこで働いてるんだ? 今度はちゃんと金払うから教えろよ!」

「ちょ……なんだよいきなり……」

「あたしに作ってくれよ。常連になって通いつめるからさ!」


 どうやら、自分をこの世界の料理人と勘違いしているらしい。

 それに、もし働いていたとしてもナイフを振り回す少女など入店拒否である。


「……店に勤めてるわけじゃない。普通に無職だよ」

「嘘つけ! 人手不足の店が多いのに、こんな逸材ほっとくわけないだろ!」

「嘘じゃないっての!」


 引き剥がそうとするが、少女の力は思ったより強かった。

 食欲が人をここまで強くするのだろうか。テコでも動きそうにない。


「なあなあ、頼むから教えろよー。襲ったのは謝るからさー」

「だから、俺はただの――痛っ」


 しがみつく少女の肩を掴んだ瞬間、右手に激痛が走った。

 傷口がさらに開いてしまったようだ。

 ボタボタと血が溢れだす。


「ん……なんだお前、怪我してんのか?」

「ちょっとな」


 あまり弱みを見せたくない。

 抵抗できない人間だと思われたら、何をされるかわからないのだ。

 警戒するハルトを尻目に、少女はポケットから何かを取り出した。


「ほらよ、包帯。その辺で盗ったやつだから効果は知らねーけど、取っときな」

「……あ、ありがとう」


 追い剥ぎから施しを受けてしまった。

 なぜこんなことになったのか、ハルトは自問自答する。そんな時――


「――探せ! まだ遠くには行ってないはずだ!」


 静寂を破る大声が小道一帯に響いた。

 それを受けて少女はハッと我に返る。


「やべ……そろそろ逃げよっと」


 どうやら彼女を捕らえようとする人達がいるらしい。

 恐らくは警察のような存在だろう。

 少女はナイフをクルクルと回しながらハルトに微笑んできた。


「あたしはマリン。そんだけ美味いもん作れるんだからさ。また巻き上げる時まで勝手に死ぬんじゃねーぞ!」


 そう言ってマリンと名乗った少女は闇へ消えていった。

 しばらくして、鎧を着た衛兵のような人たちが辺りに溢れてきた。

 生命の危機を脱却し、ハルトは胸を撫で下ろす。何とか助かったようだ。


「……ふぅ」


 嵐のように騒ぎ立て、風のように去っていった謎の少女。

 自分が触れてほしくないところに問答無用で踏み込んできたと思ったら、因縁の料理をべた褒めしてきた。

 ハルトが今までにあったことのないタイプの人間である。

 そんな彼女が、去り際に告げてきた不穏な言葉を思い出す。


「……結局、奪う気なのかよ」


 もし次にあの少女が現れたら、裸足で逃げ出そう。

 荒らされた鞄を整理しながら、ハルトはそう誓ったのだった。

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