神戸ファッション物語

北風 嵐

プロローグ

初めに


『神戸ファッション物語』、日本でファッションの発信基地とされるのは東京と神戸である。前者が圧倒的で、青山、原宿、代官山、六本木で語られる。神戸ファッションは港町のハイカラセンス、阪神間のお嬢様センスと言った東にはない特色で語られる。

この物語は、淡路島の高校から出てきて、ファッションに夢見た若者5人の栄光と挫折の物語であるが、前半部分は「神戸」が主人公であり、後半部分は神戸アパレルと東京アパレルの確執を中心に「ファッション」が語られる。


神戸の街や歴史についてや、ファッション用語・ブランド名については*で章末尾に注釈と資料として簡単に付け加えておいた。


プロローグ


1  『神戸空港』


 神戸空港に降りたった到着便の中に、イタリー製の生地で仕立てたスーツを着込んだ男性がいた。シルバーグレーの頭髪から、かなりの年配と見られたが、真っ直ぐに伸びた姿勢、その世代にしては高い身長、大幅に歩く姿は遠目で見れば、50代そこそこの紳士に見えたであろう。


「ああ、ちょっと…」と声をかけた。運転手は振り向いた。「いい、やってくれ」。

北富雄は北野坂を上がる勾配の入口角にある建物の前で止めてもらおうかと、一瞬思ったのだった。次の信号との交差する所が山本通りで、この辺から異人館街が始まる。突き当たると北野通りで、この上に『風見鶏の館』や『うろこの館』がある。

 車は突き当たって右に曲がった。50メートルも行ったところに隠れ家的なイタリアンのレストランがある。今日は北の米寿の祝のパーテイがここである。70歳代までは仲間も元気でいたが、さすが男でこの歳になると仲間は少ない。大学の同級の南との合同パーテイだ。東南西北4人揃いとはいかない。神戸大学の経済学部の同級で、実際、東(あずま)、西といた。4人揃って麻雀をしていると、よく友達にからかわれたものだ。

 

 北は一昨日、イタリアから帰って来たばかりだ。東京で一泊し、羽田から神戸空港までは70分きっかりだった。空からの神戸は初めてで、これを楽しみにしていた。西日を浴びた六甲山は美しかった。六甲山と言えば見上げるばかりだったが、見下ろす六甲は、又違った趣があった。

 北がイタリアに旅立ったのは、震災の翌年だったから、15年程たっているのだろうか、神戸空港なんてもちろんなかった。妻は震災の前の年に癌で亡くしていた。

 震災のときは箕面に住んでいて揺れはきつかったが、家は無事だった。震災のその年の4月で定年退職であった。その後、関連会社の重役として5年程は働く事が出来たが、妻の死に引き続いた震災、瓦礫の神戸を見るのも辛く、何かむなしく、仕事はもうーいいと思った。北はイタリアに暫く住んでみようと思った。瓦礫の神戸は北には戦後の焼け跡を思い出し、学徒で戦場に出ていったことを思い出させた。


 仕事柄、パリ・コレクション、ミラノ・コレクションなどで、ヨーロッパはよく行き、イタリアは生地の問屋も多く馴染みだった。ミラノの大きさは神戸と同じぐらいである。ミラノ駐在の元部下に頼んでボローニャの町に住まいを見つけて貰った。

 人口30万の規模のこの古都が前から気に入っていたのだった。人が住むのに最適な都会は、「都会とも云えないこの30万が日本でも外国でも云える」と云うのが北の持論であった。5年ほどのつもりであったが、つい長居をしてしまったのだった。88才、外国の一人暮らしは限度、娘に捨てられない内に帰って来たと言う次第だ。


 荷物は空港に来たオリエンタルホテルの車に乗せて、北はそれには乗らずタクシーで三宮に出た。ホテルに立ち寄るとかえって出づらくなると思ったのだ。それはいいのだが、南に渡すイタリア土産が荷物に入ったままだった。〈さんちか〉でイタリア製の紳士用の小物でも買えばいいと思ったのだ。

 センター街をぶらつき、〈さんちか〉の紳士物店でメイドイン、イタリーのマフラーを買った。この店は昔のままの屋号であった。店員が店の包装で包もうとしたので、笑ってしまった。イタリア土産が〈さんちか〉の包装紙ではいけない。箱のまま渡せばいいが紙袋に困ってしまう。それと察した店員が無印の袋を探してくれて入れてくれた。横着はやはりいけない。神戸の街は震災時の無惨な姿はなく、以前より街は綺麗になってはいるが、知らない店が殆どになってしまっていた。


 少し時間があるので珈琲をと思った。せっかくだから『にしむら珈琲本店』に行こうと思った。歩いても10分程なのだが、タクシーを止めた。昔のようにはいかない。米寿という歳を思った。「にしむら珈琲本店」は中山手通りとハンター坂の角にある。

 北ドイツ風の木組様式はそのままであったが、2階建てだった建物が3階建てになり、威風ある建物になっていた。3階は団体客専用と云う。観光コースに組み込まれているのだ。2階の中山手の通りが見下ろせる席に座った。

 戦後、3年した頃であったろうか、大豆の代用珈琲の時代、店頭で挽きたての珈琲豆の香りは、珈琲好きの神戸っ子をたちまちに惹きつけた。その後も、灘の酒造りに使う〈宮水〉を使う等して、名前を売ってきたのは女主人のたゆまぬ珈琲店にかける情熱であった。

 昭和40年代には、北野坂にあった自分の自宅を会員制の喫茶店にし、「会員でしか飲めない珈琲と本店の珈琲とは違うのか?」と客に質問させ、同じ味であっても、蔦の絡まったレンガ造りの建物の玄関先に「会員専用」と書かれてあれば、一度は入ってみたいと思わせて不思議だった。これも女主人の粋なアイデアであったろう。先ほど「ちょっと、止めて」と声をかけた建物はこの会員制の店のすぐ下にある。北野が注目される前からある神戸っ子に人気なスポット・ジャズ喫茶『曽根』はこの建物の2、3軒浜側にある。

 

 珈琲好きの北の父は、この「にしむら本店」が気に入って、朝は必ずここで新聞を読みながら、珈琲を楽しむのを日課とした。父は珈琲の味は勿論であったが、この店の落ち着いた雰囲気、とりわけ、椅子に千鳥格子の生地が貼られているのが好きだった。日曜日の会社の休みの日などは、父によく誘われてこの店に来たものだった。

 

2  『トーア・ロードは坂の道』


 北の生家はこの近く、トーア・ロードにあった。父はそこで紳士服のテーラー*の店をやっていた。父の誂は、戦前は会社の重役相手の高級なものであったが、遊び着として千鳥格子の上下に、黒のフラノのベストを組み合わせた三つ揃いをよく客に勧めていた。空襲で幸い家は焼けず、手持ちの生地も残り、戦争直後のこんな時期に背広の誂などは「ない」と思っていたが、要る人には要るのであって、噂を聞いて大阪方面からの客もあり、父の店は忙しかったのである。

 無地の生地の要望が中心だったが、品薄で、千鳥格子やグレンチェックの柄物の生地なら都合がついて、苦肉の策が、父の三つ揃いになったのだった。又、これが話題になり、わざわざ客の方から指定してくるようになった。


 トーア・ロードは大丸百貨店から北野まで真っ直ぐ伸びる坂道である。山側にかつて、東亜ホテルがあってこの名になったとか、色々に言われているが、名前の由来は定かでない。浜側から三宮、北長狭、下山手、中山手、山本、北野と実に6つの通りを縦断している。坂を上りきったところに『神戸外国倶楽部』がある。その少し手前に父の店はあった。

 母と大丸まで買い物に行くのは良かったが、帰りは荷物を持たされて、フーフー云って坂を登らねばならなかった。夏などは、来たお客も暫くは扇風機の前で顔を拭きながら汗を入れた。テーラーの店だけど、和服姿の母が冷えたサイダーを出していた。

 

 一人息子の北がサラリーマンになって後を継がなかったので、父は指先をケガしたのをきっしょうに、母の実家のある淡路島にひっこんだ。店は今はなく、両親もすでに他界している。神戸は北が生まれ育った街で、この近辺から北野にかけては、自分の庭みたいなものだった。北の父は腕のいい職人で、お得意の顧客も多くあった。北に継いで欲しかったのだろうが、父は一言もそれらしきことを言わなかった。

 別に洋服の仕立ての家業が嫌いなわけではなかった。小さい時から物差しとハサミを持った父を見てきたせいか、何かにつけて不器用な北には、とっても無理だと幼心に思ったのだ。神戸大学の経済学部を出て、大阪にある大手商社に勤めた。


 昔、かってあった生家のある前を通るのは苦手なものだ。でも、近辺まで来たときは無性に通りたくなることがある。その時は子供服店であったが、その前を通るとき、何故か「父に申し訳ない」そのような気持ちになるのだった。

 そんな事を思いながら外を見れば、とっぷりと日が暮れていた。時間だ。急がないと、パーテイのレストランまでは、歩いて歩けない距離ではないが、北野坂を上がるのを思うと、車に手を挙げていた。

 止めてもらおうと思った所は、黒御影の石造りの地下1階、地上3階の建物であった。よくある雑居ビルなんぞではなく、ワンフロアーに一つの店だけが入っているエントランスもある洒落た瀟洒な造りであった。その1階に、かつて神戸の若い娘たちに人気があったブティックがあった。


 北は商社では、最初は輸入家具を取り扱ったが、繊維の畑がほとんどだった。繊維部長の肩書きで退職したのだったが、幾多のアパレルの栄枯盛衰を見てきた。この店もその内の一つだった。ふとしたことで、この店と仕事上の関わりを持ったことがある。それが良かったのか、悪かったのか・・。

 今はどんな店が入っているのか、見てみようと思っただけだった。その店を北が初めて知ったのは、当時、北野にマンションを買って住んでいた息子を尋ねたときだった。阪急の駅を降りると、北野坂の入口から若い女の子の行列があった。美味しいモノに並ぶには朝の9時はない。先頭は中山手を過ぎて次の信号の角、その建物の1階の店まで続いていた。先頭付近の女の子に、「何があるんですか?」と訊くと「バーゲン」と答えが返ってきた。

 その話を息子の嫁にすると、3年ほど前に出来た店で、最近ファッション雑誌とかに『神戸お嬢様ブランド』としてしきりに取り上げられて、人気のある店だと云う。

「私も一度買ったことがあるのですが、若すぎないかと主人に笑われました」と嫁は笑った。

 

 商社の繊維部長と言う肩書きだけでなく、いまどき行列が出来る店か、と印象に残って店名を覚えたのだった。世の中が「個性」や「感性」と言われ出してデザイナー・ブランドが直営店を持ち、急成長する時代であった。商社も川下作戦と称して、店頭や売り場やタウン情報をいかに先取りし、物づくりに反映させるかが課題になっていた。

 その時代、神戸の女の子に絶大な人気を博した店がセンター街にもう1軒あったが、それも今は無くなっていた。当時この店に並んだ娘たちは今、何才になっているのだろうか・・そして、この店の名前を覚えているのだろうか。


 部下にその会社を調べさせた。あるとき、「これからの時代は製造小売業(SPA)の時代」と、その店のオーナーの論調が繊維関係の業界紙に載った。北は行列と、その書かれてある記事に関心を持って、その店を訪ねた。それがその店との関わりの初めで、この店をめぐって、『神戸ファッション』の熱い戦いがあったのだった。それは、東京対神戸の戦いでもあり、小売屋対アパレルの戦いでもあった。

 何より淡路の田舎高校から、都会に憧れ、成功を夢見て出てきた若い5人の友情と戦い、成功と挫折の物語でもあったのだ。


 北は久しぶりの神戸の夜を満喫した。親友の南を入れたパーテイは楽しいものだった。これから一緒に暮らす娘の運転で芦屋の娘の家に向かった。娘といっても今年還暦を終えた年齢になっていた。車の中で気持ちよく酔った頭でそんなことを思い出していた。


注釈と資料

テーラー(紳士誂え洋服店):1869年(明治2年)年、イギリス人のカペルが居留地16番地に洋服店を開いたのがはじまである。神戸港は外国との交通の要所として、欧米の最新の流行ファッションがもたらされた。特に、オーダーメイドで仕立てられる紳士服は「神戸洋服」と名付けられ、着心地の良さが評判となった。カペルに弟子入りした日本人最初のテーラーである柴田音吉は、明治16年に元町で洋服店を開業し、そのまた弟子たちが洋服の伝統を受け継いだ。



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