四月三十日(木)

          1


 高い天井の屋内に反響する、涼しげに弾ける水の音と、元気の良い若者達の掛け声。

 競泳用の海パンに水泳キャップとゴーグルという出で立ちの落ちつかないボクちゃん。

 ここは屋内プール。

 制服のままの鎮目は、昨日話に出た『水泳部の知り合い』の前に俺を連れて行く。

「紹介するわ、女子水泳部部長の来栖藍莉くるすあいり先輩よ。三代続く由緒正しいブルーの家系に生まれた筋金入りの――」

「ゴホン! そ、その話は又の機会にな」

 気恥ずかしそうに咳き込んだその女性。ベリーショートの髪に、少し気の強そうな目元。 アスリートらしいスレンダーな身体を、スポーティな競泳用水着に包んだ来栖先輩は、俺に向き直り、ニコリと微笑みながら口を開いた。

「君が功刀君だね。鎮目君から話は聞いているよ。他ならぬ彼女の頼みだし、何より自分以外の誰かの為に苦手な水泳にチャレンジしようという君の心意気に感じいった。喜んで協力させてもらうよ」

 鎮目の奴め、余計な事まで話しやがって。

「私は普段チビッコ水泳教室で講師のアルバイトをしていてね、これまで何人ものカナヅチを治して来たものだ、功刀君も今日は大船に乗ったつもりでいたまえ」

「い、いえ、教わりたいのは山々なんですが、体育祭は明日ですし、残念ながらじっくりやっている余裕がありません」

「フム」

 来栖先輩は困ったな、という顔、俺は話を続ける。

「実は、既にいくつか考えている作戦がありまして、今日は実際に水中でそれを試してみる為に来たんです。どうかプールの隅っこを貸していただけないでしょうか?」

 俺は頭を下げる。そうだ、ダメそうなら急いで又、別の手を考えなければならないのだ。

 来栖先輩は少し残念そうな顔をしながら、

「そうか――そういう事ならば八番コースを好きに使いたまえ、部員達には私の方から言っておく」

「感謝します、来栖先輩」

 俺は鎮目と来栖先輩の二人と別れ、指定された端っこの第八コースにやって来た。水面を眺め、一つ深呼吸をして覚悟を決めると、恐る恐る水に浸る。

 試しに首まで浸かった所で、俺は深呼吸を一つして気持を落ちつけた。

 ふ~大丈夫大丈夫。凄く久しぶりだが、それだけだ。足だって着く深さだし、問題ない。

 不安感が大分薄れて来たその時、後ろから急に声をかけられた。

「いよ~! 功刀~、何やってんだよ水泳部に入るのか」

 突然後ろから肩を抑えられた俺は、足を滑らせて危うく溺れかける。

「ぶはっ! 川村か――」

 俺は顔の水を拭いながら川村に事情を説明した。

「実は何の因果か体育祭で水泳種目になってしまってな、更に深い事情があって一着まで取らねばならなくなったのだ。泳げないのに」

「そいつは大変――って、水泳種目って百メートル自由形じゃあるまいな?」

「そうだが、何でだ?」

「くっくっく、そうか……お前とはいつかこうなる気がしていたよ」

「まさか、お前――」

「そう、俺も百メートル自由形なのさ。ちなみに抽選の結果、水泳部で水泳競技に当たったのは俺だけだ。俺の肩には水泳部の威信が懸かっている。勝ちを譲るわけには行かん。つまりお前が一着を取るには俺を水泳で倒さなければならんということさ、ふふふ、お前に俺が倒せるかな?」

「帰りに闇討ちした方が早そうだ」

「ゴメン調子に乗った、謝るからズルは無し、正々堂々と勝負しようじゃないか、水泳で」

「ふ~ざけんな! 水泳って時点で俺には圧倒的なハンデ戦だろ!」

「じゃあ球技にしよう、水球とかブリッツボールとかどうだ?」

「それどっちも水ん中じゃねえか! セコイぞ川村ァ!」

「では仕方ないな……えいやっ!」

「おぶっ! ゴボアッ!」

 急に水中で足を引っ張られて溺れかける俺。電光石火、水中をウミヘビの如く体をくねらせてプールを横断した川村はイルカの様に水面に飛びだしプールサイドに着地した。

「部長! 不承川村、身の危険を感じるので今日は明るいうちに帰ります!」

 走って逃げて行く川村を見送る。ちっ逃げられたか、ま、ホントの事言えば水の中でやりあったら大人と子供。とても敵う訳がないんだが、あいかわらずいい奴だな川村、敵に回したくなかったよ。俺は小さく呟いた。

「――毒、か……」


 ―――三十分後―――

 気を取り直し、当初の予定通り、水中での一通りの駆動実験を終えた俺は、プールサイドに座って一休みしていた。しかし、やはり水の抵抗は予想を遥かに超える強烈な壁だ。たった三十分ばかしの練習の負荷で、もう関節各部が熱を持ってしまっている。加速モードなんて使ったら本当にバラバラになるな。俺がまじめな顔で考えていると。

「よう少年! 奇遇だなこんな所で!」

 向こうからピチピチのブーメランみたいな競泳パンツを穿いたオセ先輩がやって来た。

「いや何と無く通りがかったていですけど、そのパンパンに張った全身の筋肉は明らかに出待ちの時間を利用してパンプアップしたもの、つまり十分余裕を持った待ち伏せですね」

「うむ、その洞察力たるや良し。そんなことより、水臭いではないか少年」

「な、何がですか?」

「ふふふ、隠さんでもいい、聞けばカナヅチ克服の為の秘密特訓中との事」

「うっ、どこからその情報を」

「水臭い、水臭いぞ少年。『困った時のオセ先輩』を忘れたのか! ワシが手とり足とり教えて野郎とやろう!」

「最後! さりげなく、なんか言っただろ! 嫌ですよ、こんなパンツ一丁であんたと遊んだ日にゃ、どこまでされるかわからん」

 俺は警戒レベル1の戦闘モードではすに構える。

「ジョークだジョーク、そう構えるなよ。ワシは久しぶりにプールに来る口実が欲しかっただけなのだ」

 俺はデトロイト・スタイルで左腕をブンブン振りながら、

「別に水泳部に一声かけて普通に入ったらいいでしょ。何かダメな理由が有るんですか?」

「それはだな――」

 オセ先輩が何か言いかけた所で、向こうから来栖先輩がやって来た。

「功刀君、どうかね、何かヒントはつかめそうかね――!?」

 俺の様子を見に来てくれたのであろう彼女。その優しげな顔が、オセ先輩の存在に気付いた瞬間に鬼の形相に変わる。

「あぁっ! オセ! 貴様、性懲りもなく! 皆の者、出会えい!」

 プールからボンボン水しぶきを上げて次々と水泳部員が集まって来る。俺達はあっという間に殺気だった水泳部員軍団に囲まれた。

「な、なんなんスか、これ! オセ先輩?!」

「うむ、実は以前、膝のリハビリの為と嘘をついて入り込んで悪さを働いて事があってな、それ以来水泳部に屋内プールの出入り禁止を食らっているのだ。もうそろそろほとぼりも冷めた頃かと思ったのだが」

「……何やったんスか?」

「大した事じゃないぞ、うら若き少年少女達が半裸で一所懸命頑張っている姿を、我がXレイ・アイズで視姦しまくっただけだ。あと、ちょっとうっかり、おしり触ったりとか」

「帰れ! 淫獸学園に!!」

 来栖先輩が一歩前に出る。

「見損なったぞ功刀君、君がオセの仲間だったとは……苦手意識にも負けず真摯に水泳に打ち込む君の姿は、そのケダモノを招き入れる為のポーズにすぎなかったのか?」

 俺は慌てて手を振って来栖先輩に助けを請う。

「ちょっとタンマァ! お、俺はこの性犯罪者とは何の関係も無いんだ!」

「部長大変です。プールの底が穴だらけになってます!」

「何だと、何コースだ?!」

「八コースです!」

 皆の視線が俺に突き刺さる……弁解を諦めた俺は。意味もなくオセ先輩とハイタッチしてみる。イェ~イ! もうダメだ~。

「捕えよ!」

 来栖先輩の号令一下! プールから鉄砲水の様な勢いの水流が俺達に浴びせかけられた。 波に呑み込まれあっという間にプールに引きずり込まれるオセ先輩。

「お前らごぶぁ! そんないっぺんにくんなゴブァ!!」

 おお、何人もの水泳部員にたかられ、水の中に引きずり込まれて行くあの様は、まさしく恐れていたアレ、凄いぞ、舟幽霊ってホントに居たんだ!

「先輩! 功刀がいません!」

「何?!」

「俺なら、ここだ!」

 彼らが声の主を求めて上を向くと、二階観客席の手摺てすりの上に立って見下ろす俺の姿が。

「プールサイドで諸君とやりあう愚か者はおるまい。誤解を解きたいのは山々だが、この雰囲気ではそれもままならん。残念だが今日の所はおいとまさせて頂くとしよう」

「うぬぬ、卑怯だぞ! 降りて来て勝負したまえ!」

「そうだゴブァ! 少年、助ゲッボォア! ゴボゴボゴボ……」

 沈んでゆくオセ先輩。あれは自業自得だな。

「みろ、功刀のあの冷徹な瞳を!」

「ああ、あれはまるで屠殺場に向かうブタを見る目だぜ!」

 ムカッ!

「なんとでも言いやがれカッパ共! へっ、水不足の年には気を付けな!!」

「あっ、逃げたぞ追え~!」


          2


 その日の夜、寮のレクレーションルームのソファに座ってだべる俺と一馬。

 二十畳ほどの広さがある、その寮の居間は、談話用のソファーや背の低いテーブルなどがそこかしこに置かれた、皆の憩いの空間だ。かくいう俺も、風呂上りにここでコーヒー牛乳を一杯やりながらくつろぐのが、一日の締めの楽しみになっている。

「それで、オセ先輩捨てて来ちゃったんだ~」

 一馬の軽い非難の声に、コーヒー牛乳のストローから口を離した俺が反論する。

「あんなの面倒見きれるか! おまけにとばっちりで俺まで水泳部出入り禁止になったぞ」

「あはは~、ねえそれで? 結局水泳の練習はどうなったの」

「うむ、無駄な努力こそエコロジーの最大の敵だという事を再認識した一日だった」

「え~と、結局ムリっぽいって事?」

「水面下を這うパターンが一番ましなタイムだったけど、それでも普通の学校の水泳部以下。プールの底ガリガリにして怒られただけだ。ヤッパね~、ムリなもんはムリなのよ~」

「も~、そんな事でどうすんのさ、体育祭は明日なんだよ~」

「そんなこと言われたってよ~」

 俺は諦め混じりそう言って、イスの背にグダッと寄りかかった。

 ふと、後ろの大画面テレビから流れて来た、のどかなテーマソングにつられて振り向く。

 ああ、今日は木曜か、毎週この時間はマルコシアス先輩がテレビを占領しているんだ。

「また『爆笑! あにまる☆キングダム』ですか、飽きないっスね~」

 俺は、ファミリー向け動物番組に見入るマルコシアス先輩に、後ろから声をかける。

「大自然のスペクタクルな営みに飽きなど来よう筈も有るまい。功刀禅よ、貴公も一緒に観るがいい、懸命に生きる動物達の姿に何か感じ入る所があるやも知れぬぞ」

「大自然のスペクタクルねえ……」

 元より万策尽きている俺と一馬は、マルコシアス先輩の脇のソファにダラリと腰かけてそのまま動物番組を眺める事となった。『CMの後は水辺の生き物特集!』羨ましいねぇ、俺も水辺の生き物に生まれていれば『泳げない』何ていう情けない悩みを抱える事も無かったんだけどな~、見ろよあのトカゲなんてあんなに元気に水面を、水面を――

 ガタン!!

「ど、どうしたの禅!?」

 俺はソファの背を飛びこる。

「ど、どこ行くの、こんな時間に?」

「プール!!」

「えぇ?! 学校の? とっくに閉まってるよ!」

「こじ開けてでも入るさ、試してみたい事が出来たんだ、ハハッ明日を楽しみにしてな!」

 俺はシャーリー姐さんのテレポート魔法陣に向かって全速力で走った。

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