ウェトシー編

第15話 バカにしてる

 リオニアの首都クースに近づくにしたがって、街道は徐々に広く綺麗になり、通行人も増えた。人目が増えると聖獣をおおっぴらに連れて歩きにくくなる。あたしたちは途中の町で荷馬車を買って移動することにした。間に合わせの荷馬車は揺れが激しく、椅子もない荷台に座らされたあたしはすぐにお尻が痛くなった。トキタカの言うとおり、振動もなくもふもふで乗り心地のいい聖獣の背にのってさっさと首都に向かう方がずっと楽だ。楽だからといって、そんな軽率な行動も取れないけれど。

 どちらにせよ、リオニアの首都クースまであと半日もない距離まできていた。お尻の痛みもあと少しの我慢だ――。

 休憩のために道端に馬車を止め、身体をうんと伸ばす。軽く身体を動かしながら、あたしは御者台にいるイクタ王子に目を向けた。

 隣に座って足をぶらぶらさせているのは、ハエル。アウスンは自分まで荷台に押し込まれたので少しむくれていた。

 イクタ王子は馬車から降りてこない。地味な旅装束だが、外套のフードを取って銀髪の美貌をあらわにしているので、すれ違う通行人の中には彼の正体を察する人もいるようだった。指をさされたりうわさ話をされても本人はさほど気にならないらしい。朝にアウスンが結んだ三つ編みを肩に垂らし、思慮深げに視線をいずこかに向けている。

「見とれてんのかよ」

 急に視界に同級生の顔が現れて、あたしはぎょっとした。

「ち、違」

 あまりじっと見つめすぎたかもしれない。疑わしそうな目をするトキタカに、あたしは慌てて言った。

「イクタ王子……なんだか様子がおかしい気がする」

「ぼくもキヌカさんと同意見です。旅の行程が遅れ気味なんです。あのガキ……いえ、ハエルの所為かと思っていましたが、王子が何か調子が悪い可能性もあると思って……」

 イクタ王子に聞こえないよう声をひそめて、アウスンが会話に加わる。

「でも、変ですね……王子は病気したことなんてないのに……」

「なんだ、そんなことか」

 トキタカは急に興味を失った様子で、柔らかな草の生えた地面に寝転がった。

「トキタカは、心配じゃないわけ?」

「バカだな。体調不良じゃねーよ。そりゃあ、失敗の言い訳を考えなきゃならないんだから、足も重くなるさ」

「失敗って?」

「――本当に、わかってないのかよ」

 きょとんとして聞き返したあたしの顔を見て、トキタカが信じがたいといった表情で顔を顰める。

「本気でルビリムを倒せば万々歳だとでも思ってたのか? 王子様はルビリムの魔力を手に入れることが目的だったんだよ。じゃなきゃ、隣国に忍びこんだりしない」

「それなら、邪魔したのはトキタカじゃないの」

「そうだよ」

 あっさり肯定されて、面食らってしまう。

 ――ルビリムの魔力を手に入れるため……?

 確かに、ドラゴンを倒すとその魔力が手に入る――あたしの場合は、リオノスの身体に蓄えられる。それによってリオノスはパワーアップするようなことを言っていたような気がするけれど、まさかそれ自体が目的になり得るとは思ったこともなかった。言われてみれば、そういう考え方もあると納得はできる。でも――。

「アトレン王子はテルミアを救うためだって言ったよ」

「そりゃ方便ってもんだよ。ストレックはリオニアの村や町を襲っていたから、それを倒すのは火急の問題だっただろうけど、隣国の、まだ狂ってもいないドラゴンを秘密裏に乗り込んでいって殺すのは、いくらなんでもやり過ぎだ。暗殺といったっていい」

「暗殺って……」

「あんたは利用されたんだよ、イクタ王子に」

 違う、と叫びたかったけれど、イクタ王子に気づかれる懸念が勝って、声が出なかった。理由が何一つ言葉に出来なかったからでもある。

 頭では彼の説で説明できるつくことがいつくもあると気づいていた。ストレックのときにはたくさん兵を出していたのに、今回はたった三人だったこと。誰の見送りもなく、隠れるようににリオニアを出たこと。それでも、イクタ王子があたしを騙したとは、どうしても思えない。思えないけれど、根拠は何も提示できない。

 あたしは苦し紛れに問い返した。

「あなたはどうなの。トキタカだって、テルミアを救うために勇者をしてるんじゃないの?」

「そうだよ」

 頭の鈍いあたしでも、流石にそのにやにや笑いの返答を読み違えはしなかった。

 つまり、これもまた、方便だということ。

「……アウスンは、知ってたの?」

「ぼくは目的がなんであろうと王子に従うだけですから」

 横で黙って聞いているアウスンに水を向けると、彼はよどみない口調で答えた。外面上はまるで動揺が見えないところをみると、ほとんどイエスといっていいのかもしれない。

「なにそれ……」

 人間不信になった気分で、あたしは地面に座り込んだ。トキタカが他人事のように笑う。

「まあ、しばらくはリオニアに協力するさ。お互い、利益があるうちは」



「よくやってくれた、キヌカ」

 アトレン王子はリュトリザに出発したときと変わらない気さくさで、あたしたちを出迎えた。トキタカの予言通り、というべきなのか、ストレックのときのような出迎えはなく、あたしたちは普通の旅人や商人に混じって城門を入り、城に迎え入れられた。あのときのような持ち上げられ方は二度とされたくはないけど、つい邪推してしまう。

 アトレン王子たちはルビリムを殺したことをおおやけにするつもりがないのではないか、と。

「それに、そちらのキミも」

 アトレン王子がトキタカに目を向け、手を差し出した。トキタカは軽く眉根を寄せてから、その手を取った。

「……なんかテレますね、こういうの」

「もう一人勇者がいたとは、心強い。キヌカ同様、君を歓迎する。自分の家だと思ってくつろいでくれたまえ。といっても、そうゆっくりはしてもらえないのだが」

 アトレン王子は不穏な言葉を付け足して、あたしたちを客室へ案内した。そこで旅の汚れを落としたあとは、アトレン王子との晩餐に招待された。

「疲れているところ申し訳ないが、これからのことを少し話しておきたい」

 給仕のいる慣れない食事に四苦八苦していると、アトレン王子がきりだした。

「ウェトシーのドラゴン、ロウロルアはすでに狂気に陥っているようだ。近海を航行していたいくつかの船が行方不明になっている。放置すればいずれは港町を襲い出すだろう。君たちにも討伐隊に加わってほしい」

「出発はいつですか」

 未成年のくせに、すました顔で赤い色のお酒を注いでもらいながら、トキタカが訊いた。

「出発は二日後。ウェトシーの首都ヴァノゴールへ船を出す。そこでウェトシー軍と合流し、ロウロルア討伐に向かう。ドラゴンの所在は、レーテス海海上だ」

 アトレン王子は召使に合図して、食卓の上に地図を広げさせた。ウェトシーの南の内海にバツ印をつける。

「なるほど」

 どんな味だったのだろうか、お酒を口に含むと、トキタカは密かに咳払いをした。それからアトレン王子に向かって言う。

「でも、こっちは勇者が二人もいるんですよ。軍を動かす必要がありますか? 言っちゃなんだけど、普通の人間が何人かいたところで、ドラゴン相手では役には立たないでしょう?」

「リオニアからは前回と同じくイクタに同行してもらう。彼の力はキヌカがよくわかっているだろう。ウェトシーと合同で作戦に当たるのは、彼らに地の利があるからだ。君たちも海上では今までのようには戦えない。船は必要だ」

「……」

 アトレン王子の言葉で、トキタカが押し黙る。どう戦うべきかの検討を始めた顔だ。

 アトレン王子の言うとおり、海での戦いとなると今までとだいぶ勝手が違うことになる。あたしは空を飛べるからまだしも、トキタカの聖獣ウェルノスにはそれはできなかったはずだ。

「魔法の武器でドラゴンを攻撃するには、至近距離まで近づかないと……。そのためには聖獣に乗って行くのが簡単だけど、魔法の武器はその聖獣が変身したものなの。だから、攻撃するときには、別に足場がないと、海の中に入って戦うことになっちゃう」

 勇者だって溺れれば死ぬ。それはあまり楽しくない想像だった。カナヅチというわけじゃないけど、足のつかない海で浮き輪もなしにいられるほど得意でもない。

「海上で安全にロウロルアに近づくのは、船でも難しいかもしれない。噂によれば、ロウロルアの身動ぎ一つで海がうねり、船が転覆したと」

 アトレン王子が絶望的な情報を付け加える。ストレックやルビリムの大きさを考えると、ロウロルアも巨大怪獣といってもいいくらいの大きさだろう。それが海の中で暴れたら――。

「つまり――囮は多ければ多いほどいい?」

 そう言って、二口目は満足した顔つきで、トキタカがアトレン王子を見る。

 瞬間、ふたりの空気に緊張感が生まれた。一瞬遅れて、トキタカが言わんとしていることの意味を理解する。

「ち、ちょっと待って。イクタ王子の協力があれば……ストレックのときと同じ方法で、なんとかなるかも」

「ストレックのときの方法……?」

 トキタカに目で問いかけられて、あたしは口ごもった。彼はまだイクタ王子の正体を知らないかもしれない。儀式のときにバアードが言っていたことを聞いていた可能性は高いけれど、できれば彼には隠して置きたかった。なるべく簡単に説明することにする。

「……イクタ王子は魔法使いで、ドラゴンに変身する力があるの。彼ならロウロルアの動きを封じられるかもしれない」

 言葉にしてから、単純に囮をウェトシーの船団からイクタ王子に変えただけに過ぎないことに気づいたが、口に出したものは取り消せない。イクタ王子はそう簡単にやられはしないだろうし、船を囮にするよりはるかにマシだろうとは思うけれど、王子本人がここにいないため、意見を聞くこともできない。

 イクタ王子はなぜかこの場に来ていなかった。お城の入り口で別れたあと、アウスンとともに姿が見えなくなった。ハエルに至っては、クースに到着したあたりでいつの間にか姿を消している。

「へえ、魔法使いはそんなことができるのか」

 意外にも、トキタカは素直に信じたらしい。

 アトレン王子は少し苦笑して言った。

「もとより、われわれはイクタひとりで倒せるのならそれに越したことはないと思っているよ。君たちを危険にさらすのはなるべく避けたい。なんにせよ、ロウロルアがどういうドラゴンかもわからないうちにあれこれ考えても仕方がないだろう。ウェトシーには目撃情報を集めるよう伝えてある。向こうに着けば、もう少し詳しいことがわかるはずだ」

「ロウロルアは、たしか、海蛇みたいなやつだったよ」

 トキタカが記憶をたぐりながら言った。あたしにはハエルが見せた映像のことだとピンときた。事情を知らないアトレン王子が怪訝な顔をする。

「それをどこで?」

「いや、噂だよ。俺たちもそれなりに情報収集を……な?」

「う、うん」

 急に話をふられて、あたしはなんとなく話を合わせた。グラスを空にして、突然トキタカが席を立った。

「今日はもういいですかね? 旅から戻ったばかりで疲れてるんですよね」

「ああ、すまない。あまり細かい話までをするつもりはなかったのだが、君たちが乗り気なので、つい。出発までゆっくり休んでくれ」

 自分たちの部屋に向かう途中、あたしはトキタカに問いかけた。

「どうして、ハエルのことを隠したの?」

「その話は今しない方がいいな」

 あたしたちを案内する召使に視線を走らせて、トキタカが小声でいう。

「あとで部屋で話そう」

「えっ、部屋で?」

「着替えたらそっちに行くよ」

「えっ……」

 答えを躊躇しているうちに、城の客室にたどり着く。トキタカは話は決まったとでもいうようにさっさと自分の部屋に入ってしまった。

「えーっ」



「ハエルは要するにウェルルシアのスパイだろ。リオニアの城に堂々と現れるわけにはいかないさ」

「イクタ王子は彼の正体を知ってるんでしょう? だったら隠しても意味ないじゃない」

「イクタ王子がなんでも兄貴に話ているとは限らない。実際、彼の立場は微妙だと思う。一ヶ月後にはウェルルシアの王配になるんだろ。リオニアとは同盟関係を結ぶことになるだろうが、万一敵対でもすれば、祖国と戦うことだってあり得る立場だ」

「イクタ王子がリオニアを裏切るってこと?」

「そこまでは言ってない。両国にいい顔をしなきゃならない立場ってことさ。ウェルルシア女王に内偵を頼まれたら断れない」

「うーん……」

 トキタカの話を聞いているうちに、だんだん頭痛がしてきた。世界の危機だから、悪いドラゴンを倒す。最初は単純な話だと思っていたし、それは誰にとっても利益のあることのはずだった。それに国同士の関係とか政略結婚とか、どんどん背景情報を付加されてもピンとこない。

 もっとも、トキタカの言いたいことはわからないでもない。世界を救うためだとか、単純な善意で、人や国家が動くわけではない、ということ。それ自体は、理解できる。彼自身がそうだから、彼はイクタ王子やアトレン王子の裏の意図を疑っているということも。

 仮に別の目的があったとしても、最終的にドラゴンを倒して世界が平和になるならそれでいいとも思う。彼らが最大限の労力を払ってドラゴンを倒そうとしていることは、誰の目にも明らかなのだし。

 そう言いたいけど、きっと脳天気だとかなんだとか言い返されるだけに違いない。

 あたしは密かにため息をついた。別の意図があるといえば、あたしにもあったのだった。ドラゴンを狂わしている原因を突き止めるなんて言ったけど、そんな余裕もなければ、方法もなさそうで、どうしていいかわからない。

「聞いてるのかよ?」

「え、うん」

 考えごとをしているところに問いかけられて、あたしは雑に頷いた。トキタカは人にきいたり本を読んだり(ウェルノスは文字も翻訳してくれるらしい)して調べたこの世界の情勢について熱心に語っていたが、ほとんど頭に入らなかった。日本の県の配置にもさほど自信がないくらいなのに、異世界の国の話をされてもわかるわけがない。

 あまり、彼の話に集中できていない自覚もあった。

 部屋でふたりきり、というシチュエーションが、どうにもあたしを落ち着かない気分にさせる。部屋には備え付けのテーブルと椅子が置いてあったが、あたしはトキタカを椅子に座らせて、自分はベッドに座っていた。そのうえで、リオノスを成獣の姿にして、目の前に侍らせている。そうやって距離を取って、ようやくふたりきりのプレッシャーから逃れているのだ。ウェルノスは人前ではずっとそうしているように、犬サイズになって、トキタカの足元に行儀よく座っている。

 リュトリザのヒームインからクースまでほとんど寝食をともにしてきたといっても、アウスンやイクタ王子が常に近くにいたから、彼とふたりきりになることはほとんどなかった。つい緊張してしまう。

「……とにかく、アトレン王子にしろ、イクタ王子にしろ、あまり信用しすぎるな」

 そのとき、トキタカの真剣な声色が耳に入って、あたしは顔を上げた。

「えっ、どうして」

「ほんとに聞いてたか?」

 ――聞いてなかったけど。

 素直に申し出るつもりになれず、曖昧に頷く。

「俺たちの力は、天空神とかいうやつに与えられたものだけど、相当強力なものだ。悪用しようと思えば、いくらでもできる」

「でも、あたしも、トキタカも、そんなことしないでしょう」

 トキタカは一瞬、言葉に詰まったみたいに、口を閉じた。それから、厳しい表情で言う。

「俺たちがそう望まなくても、俺たちの力を悪用しようとする輩がどこから現れてもおかしくはないってことさ。リオニアも例外じゃない。イクタ王子に、心を許しすぎるな」

 急に名指しされてドキリとする。

「か、考えすぎだよ」

「あんたが考えなさすぎなんだよ!」

 トキタカが椅子から身を乗り出して、ほとんどベッドの上に乗っかりそうになる。彼との距離がぐっと縮まって、あたしはリオノスの頭を抱き寄せた。

「二人で行動すれば、危険も減る。とにかく、俺のそばを離れるな」

 トキタカはあたしを見つめて言った。その真剣な眼差しと同時に、別のものを感じ取る――アルコールの臭気。

 ――もしかして、酔ってる……?

「離れるなって言ったって――ね、寝るときは?」

 不意を突かれた表情で、トキタカが目を瞬いた。その顔が赤く染まっていく。その反応で、あたしは自分がとんでもなくバカなことを言ったことに気づいた。

「寝るって……いや――うわっ」

 瞬間、リオノスに吼えかけられて、トキタカがベッドから落ちる。

「そういう意味じゃ……」

「もう寝るから出てって!」

 弁解しようとするトキタカの声を遮って、あたしは恥ずかしさのあまり上掛けを頭から被った。

「本当に変な意味はないから。ごめん」

 相当気落ちした声が聞こえる。トキタカが部屋を出ていこうとする気配を感じて、あたしは慌てて言った。

「……心配、してくれたんだよね。わかってる」

 それに対しての返答はなかった。

「おやすみ」

 それだけを言い残して、扉が閉まる音がする。

「……」

 あたしはしばらくしてから、上掛けの下から顔をだした。ベッドから起き上がり、足音を忍ばせて、扉に近づく。トキタカはすでに部屋に入ったらしく、廊下には誰の気配もない。顔だけ出して、外を伺ってから、そっと部屋の外に出る。

(何してるの)

 扉を閉める直前、リオノスがモフモフの姿に変身して、あたしの肩に飛びのった。

「すぐ戻るから」

 それは、半ばトキタカに対する言い訳だった。

(心配の甲斐、ないなぁ……)

「何かあったら、リオノスが守ってくれるでしょ」

(そういうことじゃなくて)

「お城の外に出るわけじゃないし」

(だからさ……まあ、いいけど)

 リオノスは説得する気などもともとないのか、あっさり引き下がった。

 実をいうと、行くあてがあるわけではなかった。

 この広い城内で、一人の人間を探し当てるのは容易ではない。名前を出せば、居場所を知っている人間はたくさんいるだろうけれど、よそ者のあたしに果たしてそう簡単に教えてくれるだろうか。

 夜が更けて、人気のない城をさまよう。そこかしこに衛兵が立っているので、危険は感じないが、どちらかというと、あたし自身が呼び止められやしないかとドキドキした。

 しばらくうろついて、王族がいる区画にあたりをつける。通路を二人の衛兵に固められているからわかりやすい。それと引き換えに、この探索が徒労に終わることに気づいて、あたしはため息をついた。彼らに王族に会いたいと告げて、はいそうですかと通してもらえるとはとても思えない。

 簡単に会えると思ったのがそもそもの間違いだった。一緒に旅をして忘れかけていたけど、彼は王族なのだ。

 部屋に引き返そうとした瞬間、あたしは肩を叩かれて思わず悲鳴を上げそうになった。

「キヌカ、こんなところで何をしている?」

 振り返ると、アトレン王子が怪訝な顔で立っていた。自分の部屋に戻るところだったのだろう。

「あの、イクタ王子がどこにいるか、ご存知ですか?」

「知ってるよ」

「えーと、ちょっと話がしたくて……」

 アトレン王子は面白がるような目であたしを観た。

「いいよ、教えてあげる。イクタは西の塔にいる。でも、彼は今誰もに会いたがらないと思うよ」

「そう……なんですか」

「急ぎの話なのか? 女の子が夜更けに男の部屋を尋ねるものじゃないよ」

 あまりにもまっとうな忠言に、頷かざるをえない。それと同時に、焦りが加速するのを自覚する。

 ――今夜でなくてはダメだ。

 今後、トキタカはあたしをひとりにはしないだろう。ヒームインを発ってからずっと、イクタ王子と話をする機会をずっと待っていたのだ。いまなら、ハエルもいない。今夜を逃したら、もう二度と話をできないかもしれない。

「部屋まで送らせよう」

 アトレン王子が誰かを呼ぼうと口を開いたのを見て、あたしは両手を振って慌てて否定した。

「ありがとうございます。自分で戻れますから」

 半ば逃げるようにその場を立ち去る。

 あたしはそのまま城の端にある西の塔に向かった。そこは人気のない通路を進んだ先にあった。ランプすら灯されていない暗い石の階段を手探りで登っていく。イクタ王子の部屋が王族の居室から隔離されていることについて、さすがのあたしでも察するものがあった。

 階段を登り切った先にある扉をノックする。

「あの……イクタ王子……いますか?」

 しばしの沈黙のあと、扉の向こうで足音が聞こえた。次いで、男の声が聞こえる。

「キヌカか。何しにきた」

「話があるの」

「帰れ」

 にべもない返答に、カチンとくる。追い返すにしても、顔くらい見せたっていいはずだ。

「だったら、このままでもいい。聞いて」

「……」

 返答がない。あたしは一か八かという気持ちでドアノブを回した。開いている。

 開いた瞬間、風が脇を通り抜けて行った。全開の窓の前に、男が立っている。下ろされた銀髪が風になびいている。

 王族にしてはあまり広くない、飾り気のない石壁の部屋だった。ベッドと本棚。壁には数本の剣が掛けられ、防具や装備品が詰まった棚もあった。

 あたしは部屋に入るのを躊躇った。本当は、彼を外に連れだすつもりだったけれど、どうせ拒絶されて終わりだ。話をするには、中に入るしかない。

 足を踏み出して、扉を締めると、風が収まった。

「あたし、やっとわかったの。ストレックを倒したあと、あなたがあたしを殺そうとした理由が。それは、あたしがあなたの父親を殺したから」

 イクタ王子が顔半分だけ振り返る。

「そんな話か。バアードにも言ったはずだが。おれはやつを父親だと思ったことは一度もない。やつがおれに与えたものといえば、命の他には、どこの誰とも知れない父親の子を身ごもった母親を死に追いやったことくらいだ」

 半ば予想した答えではあった。冷たい無表情のままで、彼が続ける。

「ストレックがリオニアの守り神であったころは――それでも、その肩書には多少価値があった。やつが狂い、倒された今となっては、もはや何の意味もない」

「意味があるとか、ないとか、じゃないよ。あなたがどう思うかでしょう?」

「何も」

「嘘」

 イクタ王子が感情を表に出さない分、自分の激情だけが膨れ上がるように感じる。ほんとうはこんなことを言うべきではないとわかっている。彼が感情を殺し、線を引くなら、踏み込むべきではない。

 それでも、知りたいと思う。

 彼があのとき――ストレックを倒したあたしに対して、ただ一度だけ、激情を現した理由を。

 罪悪感でも懺悔でも責めるのでもなく、純粋な好奇心として。

 知りたい。

 どうして頑なに感情を殺すのかを。

 その気持ちが半ば怒りとなってあたしを駆り立てた。口を開きかけた瞬間、イクタ王子がこちらを振り返り、あたしは言うべき言葉を忘れた。

 彼の口元に、真新しい痣があった。口の端も少し切れている。まるでたった今誰かに殴られたような傷跡。

「その……顔……」

 あたしの表情を見て、イクタ王子が無造作に自分の頬に手を当てる。そうして、言われて気づいたとでもいうように、少し顔をしかめた。

「何でもない。癒やすのを忘れていただけだ」

 言葉通り、手を離したときには、すでに傷跡はなくなっている。

 誰にやられたのかを問う前に、あたしは答えに思い当たった。あたしがここに来る前に、ここにいたかもしれない人物を、あたしは知っている。

 ――イクタは西の塔にいる。でも、彼は今誰もに会いたがらないと思うよ。

「何でもなく、ないよ。殴られたんでしょう……?」

「魔法ですぐ治せる傷をつけるのに、どうして躊躇する必要がある? 破けた服を繕う程度の。それ以上の意味はない」

 自棄的とも思える言葉に驚いて、言う。

「意味があるとか、ないとか、じゃないよ。痛いし、傷つくよ」

「おれは傷つかない」

「傷つくよ!」

「おれは傷つかない。心がないから」

「なに、それ。どういうこと……?」

 あたしはようやく、その言葉が比喩でなく、文字通りで意味であることを悟った。彼は、感情を殺しているのではなく、本当に何も感じていないのだと。

「おれは九年前、ウェルルシア女王ネシュフィによって、魔法を掛けられた。呪いといってもいい。彼女と結婚するまで、誰のことも愛さない呪い。彼女と結婚するとき、魔法は解かれ、おれは彼女を愛する」

 それはあまりに淡々とした予言だった。人の心が魔法でそんなふうに思い通りにできるのか、あたしには想像もつかない。現実離れした話に笑い出しそうになるのと同時に、心の底が凍えるほど現実でもある。魔法がなくても、彼はそうするしかない。だって、これは政略結婚なのだから。

「あなたはそれでいいの……?」

 そう問いかけてから、唇を噛む。念入りに選択肢を奪われた男に対して、そう問わずにはいられない自分を、あたしは卑怯だと思った。

「だれもがおれを空虚だと言う。だが、おれにはリオニアへの忠誠心と、王室への恩義がある。そして、心を奪われる前に与えられた、幸福の記憶が。それで十分だ。それ以上、何を望む必要がある?」

「だから、何をされても平気なの?」

 ――あなたを殴ったのは、アトレン王子?

 口に出す代わりに、目で問いかける。

 リュトリザに旅立つ前、城の中庭で、あたしを殺そうとした理由を問いかけたとき、彼は「言いたくない」と言った。でもたぶん、それは嘘だ。わからなかったから、言えなかったのだ。

「あなたは父親を殺しても平気なつもりでいただけ。でも実際は違った。だから、ストレックを殺したあたしを憎んだ。ネシュフィがあなたの心を奪ったというのが、どういうことかはわからないけど、少なくともそれは完全じゃない。あなたは何も感じないわけじゃない」

 あたしの言葉は、彼に何の変化ももたらさなかった。ただ、長い沈黙のあとで、彼は言った。

「証明しようか?」

 自分の手を、左胸に――心臓の上に添えて、こちらに向かって足を踏み出す。

「なにを……?」

 今までになく近づいた位置に、あたしは戸惑った。後退ろうとして、すぐ後ろが扉であることに気づく。

「おれの心臓は、ここにはない。そのかわり、ネシュフィのもとにある心臓に、魔法の器官で繋がれている……」

 イクタ王子はあたしの手を取って、そこに押し当てた。確かに彼の左胸からは、なんの鼓動も伝わってこない。そのことよりも、近すぎる距離に意識が奪われる。風に流された銀髪が、あたしの頬をかすめるほどの距離。互いの虹彩を覗き込めるほどの距離。顔を上げれば、あの美貌が目に入るはずだ。その誘惑に、抗いきれなかった。顔を上げた瞬間、これが罠だと気づいた。

 一段と距離を詰められて、背中に扉が当たる。身体が密着して、唇が重なる――。

 相手の鼓動を感じないかわりに、自分の心臓が痛いくらい跳ねた。

 どのくらいの時間続いたのか、わからなかった。あたしはアイスブルーの瞳が開かれるのを見つめた。

「ほら、何も感じない」

 イクタ王子はくちづけの吐息はいた。

 確かに、そこには何もなかった。胸の高鳴りも、身体の火照りも、微笑みも、何も。

 愛の不在証明を彼はしてみせた。

 あたしは右手を振り上げた。瞬間、彼の頬にあった傷跡のことを思い出す。

 彼の心はこの痛痒を感じるだろうか。それとも何も感じないのか。

 あたしは彼を突き飛ばし、部屋を飛び出した。そのあとのことは、よく覚えていない。気が付くと、自室のベッドで朝を迎えていた。少し泣いたかもしれない。

 あまり眠れなかったような気がするけれど、少しだけ昨日のことを考えるだけの余裕はできた。

 イクタ王子……彼は、あたしのことを――。

「……バカにしてる」

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