第7話 紙切れのような女の話②

 ガンガンは中学卒業から数年後に、当時付き合っていた二つ年上の男と結婚した。若くして結婚してしまうくらいなのだから、それほどまでに愛していたのでしょうね。いいえ、さほど好きでもなかったらしい。だったら、顔がよっぽどタイプだったのでしょうか。そうでもない。中の上くらいかしら。

 だったら、どうしてなのでしょう。ええ、それはね。働きたくない、学校にも行きたくないというただそれだけの理由で、彼女は彼と共に歩む人生を決めたのだった。

 

 旦那が働きに出ている間、彼女はろくに家事もせず、遊びほうけていた。飲み屋で知り合った男と、一夜を共に過ごすことさえあったほどだ。

 最高の人生。彼女はそう浮かれていたが、そんな生活が長く続く訳が無い。終わりを告げたのは、結婚して半年ほどが経った頃。彼女が電車も走っていないような時間に帰宅した時のこと。玄関の扉をを開けた瞬間に拳が飛んできたのである。


「痛い! 何すんのよ」

 頬に受けた衝撃で、彼女は後ろによろめいた。


「もう限界なんだよ! 出て行け!」

 彼は彼女の怠惰に耐えかね、離婚を要求してきたのだった。


「あんたみたいな暴力夫、こっちから願い下げだよ」

 彼女は自分の非など認めず、直ぐに書類へサインをした。その後、直ぐに荷物をまとめ、出て行く準備を整える。玄関に立ち、最後に家を見回した時には、半年間暮らした家にはなんの愛着も残っていなかったことを悟ったのだった。


「あのさ、今日泊めてくんない?」

 彼女は安定した職も住居も見つけず、友人や見知らぬ男の家を転げ回った。


「あたしって、結構人脈あるかも」

 最低限の衣食住が確保できているのだから、なんの問題も無い。楽観的な考えの彼女はむしろこの生活を楽しんでいた。

 人は案外生きてはいけるのだ。彼女のように。しかし、月日が経つにつれ、精神的な苦痛が彼女をジリジリと追い詰めていた。

 

 仲が良いと思っていた友人達は、何かと理由をつけて会おうとしなくなり、やがてメールの返信さえ来なくなる。男の家に転がり込んでも、彼らが求めるものは、彼女の身体だけ。そこには愛のかけらも無い。そんな時の彼女は人形と変わりないのだから、虚しくもなるだろう。


 いつものように、彼女は名前も知らない男の後へとついて行く。鼻歌を歌いながら、あちこちのポケットから鍵を探し回る男の様子を見て、死んだ魚のような視線を送る彼女。やっと見つけたそれで鍵を開けるのかと思いきや、手に持ったままポストを開けて、一通一通確認しながら中のものを取り出し始める。顔に似合わず、かしこまった新聞紙もその中の一つに紛れているのを見て、彼女は鼻で笑った。しかし、新聞を手に持った時間はわずか10秒で、開きもせずにゴミ箱に捨ててしまったのだった。


「それ捨てちゃうの?」

「ああ。親父の知り合いに頼まれたから、仕方なくとっているだけなんだ。あと一ヶ月で止めるよ」

「ふーん」

「そんなのどうでもいいからさ、いいことしよ?」

 一日中肌を焼き付けるような日差しが射していたため、お互い汗がびっしりこびりついていた。「シャワー浴びないの?」そんなことを考える暇も与えられず、いつの間にかに絡みついた手に身を任せて、夜が更けるのを眺めていた。


 彼女はカーテンから漏れるほのかな光で、5時頃に目を覚ました。ベッドの脇につるしてあった下着を数回触ると、乱暴に洗濯ばさみから剥ぎ取る。


「俺今日休みだからさ、もうちょっと一緒にいようよー」

 ゾンビのようにベッドを這いずる男の手が肩のすぐそこまで迫っていた。しかし、あと数ミリのところで、彼女はくるりと回って、そのまま玄関の方へと歩き出す。「さよなら」さえも言うことは無い、そんな関係の幕は閉じた。


 彼女は夏が好きらしい。キャミソール一枚でも過ごせて、経済的だから。彼女の理由は、いつもそうやって楽観的なのだ、

 そうなのだが、早朝ともなれば流石に両手で身体を覆わずには居られなかった。 

 その寒さが追い討ちになったのか、彼女は涙を流し始めた。誰にも見られたくないのだろうか、次第に歩みが速くなるが、目の前の信号が意地悪くも赤に変わってしまう。周りには、欠伸をしている会社員が数人。道路を挟んだ正面にも、じっと信号を見つめる同じ様な服装が並んでいた。彼らから隠れるように下を向くと、小さな紙を自分の足で踏んでしまっていることに気が付く。


 まだ捨てられてさほど時間が経っていないのか、輝きだしそうなほどに、使用された形跡が無い紙であった。それに吸い込まれるように、彼女は手を伸ばして拾い上げていた。


「かわいそうに」

 全てのモノには目的がある。しかし、目的を果たせば捨てられてしまう。ましてや、紙というものは本当に弱い存在で、先ほどの新聞紙のように目的を果たす前に捨てられてしまうことも珍しくない。


 信号は赤になり、人々は一斉に歩き出したが、彼女はなぜか進まなかった。車の通りが少ないこの時間、やけに青が長く感じるのは気のせいだろうか。やがて、辛抱強く待った信号も、赤に変わってしまった。


「とりあえず、泊まる場所が無いと何も出来ないな」

 彼女は後ろへと一度引き返すことにしたらしい。いたずらのし甲斐も無いとため息をつくように、残された信号機は寂しげであった。


 とは言ったものの、こんな早朝に彼女にかまうほど暇な人など居る訳が無い。そのため、目的も無く、今どこにいるかも分からずに、さまよい歩くこととなる。

 

 どの位歩いたのだろうか。ふとあたりを見回してみると、見知らぬ路地裏へと迷い込んでしまったらしい。壁一面には、お世辞にも芸術的とは言えない刺激的な色使いの絵が並んでいたが、そんなものは視界のうちのほんの少しを占めるだけ。彼女の目に飛び込んでくるのは、地面に転がっているものであった。


 後ずさりをすると、何かにぶつかり、細いからだがさらに小さくなる。恐る恐る足元を見ると、そこには生きているかも分からない男が、うつぶせに倒れていた。

 

 怖くなったのか、彼女は一目散に走り出す。早く逃げ出したい。その一心で走る彼女であるが、迷路のように入り組んだ道に埋もれて行くばかりで、全く抜け出すことが出来ない。


「あんなのには、なりたくない」

 焦りだけで気持ちだけが前に行ってしまうが、息を切らした身体はついていかずに、立ち止まってしまった。


「何かお困りかしら」

「きゃっ」

 突然声を掛けられた彼女は、小さな悲鳴を上げて、再び身体を小さくした。先ほどの情景が浮かんでいるのだろうか、顔を蒼白させながら、声の方へとゆっくり顔を向ける。


「そんなに驚かなくても」

「ご、ごめんなさい」

 声をかけてきたその女が、確かに息をしていることを確認したからか、彼女は一瞬安堵の表情を見せるが、ギョロギョロと動き回る瞳を追いかけたことで、再び顔を硬直させてしまった。


「もしも、泊まるとこを探してるんなら、あの人に言ってみたら」

 彼女の心境など知ることも無く、その人は、長く伸びる一本道のずっと先を指さした。そこには、真っ黒な服に身を包んだ人物が動き回っている。


「あの坊やはいつもゴミを拾っているの。変わっているでしょ?」

「ゴミですか......」

「最近は人間も拾って養っているらしいわよ」

 その女がなぜそんな事を言ったのかは、分からない。しかし、養ってくれる可能性があるとするならば、それは彼女にとって絶好のチャンスだった。見ず知らずの女から聞いた見ず知らずの男の話。考えはいつも浅はかで、使えるものは何でも利用する。不安定な生活で育まれたのは、そんなクズみたいな考え方だ。


 その男に近づいてみると、女が言っていた通り、道に落ちているゴミを拾い集めていた。男は終始下を向いているせいで、彼女のことなど気づきもしないらしく、横をすり抜けていってしまう。


「むかつく」

 ちょっと色目を使えば直ぐに受け入れる癖に。そんなことを思いながら、かがむ男の後頭部を睨みつける。彼女は男の前に回り込むと、先ほど拾った紙を男の前に落とした。案の定、男はそれを直ぐに拾おうとするが、すかさず彼女は手を出し、それを拾い上げてしまう。男は逃れていくそれを取ろうと、手を伸ばした時に、ようやく顔を上にあげて、彼女と目を合わせた。


「はい。どうぞ」

 彼女は紙切れを差し出す。

「ああ、どうも」

 しかし、男が紙をつかもうとすると、紙はひらひらと引き上げられる。男がもう一度挑戦すると、今度はSの字を描くように下へと落ちていく。

 男が彼女を見上げるその表情は、少しだけ渋くなった。


「これが欲しいんなら、あなたの家に今晩泊めてくれない?」

 男は口をポカンと開けて、目を見開いた。冗談と言ってくれとでも思っているのだろうが、彼女は至って真面目である。それをようやく察したのか、男は一度咳払いをした。


「それはもちろん、お断りだ」

 男は彼女に背を向けて、逃げるように歩き出した。

「ちょ、ちょっと待って! 私には人質がいるんだよ」

 彼女は男の背中を追いかけながら、紙をヒラヒラさせた。

「そこまでして、欲しくないよ」

 絶好のチャンスを彼女が簡単に逃すわけもなく、いつまでも男の背中を追い続けた。結局、そのしぶとさにより、彼女は男の懐に飛び込むことに成功したのである。


 有頂天になる彼女を尻目に、こんな形でゴミを拾うことになるとはと、男はさぞ落胆していることだろう。

 

 そんなことを想像してか、何やら影も動き出す。



「ちゃんとあの女の子、彼のことを捕まえたと思う?」 

 彼女が男を追いかけて立ち去ると、座り込んでいる女は、肩を揺らして小刻みな笑い声を上げた。


「どんな男でも、女に壊されていくものなの。ねえ、あなたもそう思うでしょ?」

「ああ、君に同感だよ」

 路地裏に響くの笑い声が、町全体を包み込んだ。








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