第4話

「面談の際には、女将から直接お話はなかったと思うんですが、この宿で働くにあたってちょっとだけ特別な規則がありましてね。働き始めてから9日間は、うちの宿では、というか、正確には女将の意向なんですが、特別試用期間というものを設けていまして、休暇を挟まずに連続しての勤務をお願いしているんですよ、欠勤せず9日間は必ず業務に入っていただきたいんです。ちなみに遅刻や早退もせず、決められた時間内、具体的なシフトはあとからお渡ししますが、基本的には朝から陽が落ちるまで必ずこの宿の敷地内にいて、その業務に従事してくださいという意味です。昼食はこちらでまかないを用意しますし、特に宿の敷地以外に出るような作業も、その期間中はお願いしませんから、休憩時間も休憩部屋で取っていただいて、外には出ないでいただきたいんです。」


ぼくは一瞬考えるような素振りを見せて、顔を下にむけて間を置いてから、「はい、わかりました。」と、あまり何も考えずに小さく返事をした。9日間の連続の勤務のことも、そして勤務時間のことも、それほど想定外のことではなかった為、まったく気にはかけなかったが、ただひとつだけ、なぜ宿の敷地内に留まることについてこだわっているのかが少し気にかかり、そのことに触れようとしてほんの少しだけ唇を動かした瞬間、番頭さんは「あっ!」という顔をして、右掌を軽くぼくの方に向け、制止するようにして再び口を開いた。


「いやいや、回りくどい言い方で申し訳ありません、最初の9日間だけはこちらの都合でお休みなく勤務してもらいますよということです、それだけですから、あまり深く考えないでください。ほんとうにごめんなさいね、こちらの勝手な都合なんですよ、人手が少ない中、最初はいろいろと覚えてもらうことが多いものでして、ただそれだけのことです、なにか不都合がありますか?


休憩時間まで宿の中っていうのはちょっと窮屈に感じるかもしれませんが、こういう仕事柄、急な用事なんかにも対応してもらわなくちゃいけないことも幾分かありまして、最初にそういうやり方にも慣れてもらうためなんですよ、ほんとうにごめんなさいね、特に大きな意味はありませんから。もちろんそのあとに、決められた日数分、きちんとした休暇は普通に取っていただいてかまいませんし、それ以降は、休憩時間だって自由にしてもらっていいので、そういった面倒なことも最初だけでね、あとはほとんどもうありませんから、その期間だけちょっとね、辛抱してくださいね。」


きょう一日、番頭さんはぼくに付きっきりで業務の指導をしてくれていたが、終始落ち着いていて物腰の柔らかい話し方だった。まだ仕事に慣れないぼくが二度も三度も同じ質問をしてしまう場面も幾度かあったが、ぼくの言葉を遮ることもなく最後まで聞き終わってから、何度でもゆっくり丁寧に静かな口調で説明を繰り返してくれていた。


けれどいまさっき、裏口でぼくに声をかけて話し始めてからの彼の話し方には何かの焦りというか怯えというか、すぐ背後から何かぼくには見えないものに、凄まじい勢いで駆立てられているのを必死で隠しているような震えのようなものが感じられた。そしてその震えを通じて、彼の後ろに隠れている何かの黒い固まりのようなものが、ぼくにまでのしかかってくるような威圧感を感じた。人と話をしていてそういう種類の感覚を味わったことは、もちろん今までには一度として経験がなかった。だからそれがいったいなんなのか、恐怖に類するものなのか、あるいは何か別のものなのかさえ、その時のぼくにはうまく理解することができなかった。


ただ、彼の目には見えない震えは、急速に、そして確実にぼくの体にまで伝染を始め出していた。もし、ぼくがここで立ち止まってこれ以上彼の話を聞き続けていたら、彼の背後の空間に潜むものがドス黒い色を帯び出し、悪臭を放つヘドロのように滲み溢れて大きく膨れ上がり、バキバキと彼の体を砕き押し潰しながら、具体的な姿として実際に目の前に現れるんじゃないかという、半ば幻覚じみたものがぼくの中に満たされつつあった。


ぼくは必死でその震えをおさえながら、言葉を口にすることもままならず、首の動きだけで相槌を打つことが精一杯だった。


そして、話の区切りがつくタイミングをなんとか探しだし、「わかりました、大丈夫だと思います、おつかれさまでした。」とだけ投げ捨てるように言い放って、番頭さんの返事も待たずに急いで裏口を出た。


「おつかれさまでした、じゃあまた明日、よろしくおねがいしますね、きょうはありがとう。」


番頭さんの声を背中に受けながら裏口を出たとたんに、先ほどまでの異様な威圧感が嘘のように消え去ったので、息を大きく吐き出しながら宿の方を向きなおり、番頭さんに改めて挨拶をしようとしたが、すでにその姿は空気中に溶けたようになくなっていた。

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