3.例のアネ
良香の両親は、彼女が物心つく前に亡くなっている。
そのため彼女は親を知らず、物心ついた時から五歳上の姉とずっと二人で暮らしてきた。
さすがにどこからか生活費は送られてきたようだが、清良は幼かった良雅が家事を覚え手伝うまでの間、ずっと一人で家を切り盛りしていたらしい。
当時の彼は気づかなかったが、今の良香なら清良の苦労が少しは分かる。彼女の青春の大半は、良雅の為に費やされたといっても過言ではないのだ。
だが、かといって清良が良雅のことを毛嫌いしていたのかというとそれは全く違った。むしろ、清良は良雅のことを溺愛していた。
先ほど彼女の青春の大半は良雅の為に費やされたと言ったが、どちらかというと彼女が進んでほいほい費やしまくっていたという方が正しいのである。
「良雅~~~~会いたかったわ~~もうハァハァちょっと見ない間にハァハァこんなにかわいくなっちゃってもうハァハァお姉ちゃんもう辛抱たまらないわハァハァ」
現在進行形で良香を抱きしめもみくちゃにしている女性――端境清良の容姿を簡潔に説明するとすれば、良香を大人の女性にまで成長させた上で、棘っぽい印象を全部引っこ抜いた感じ、といえば一番近いだろうか。
黒髪は腰ほどまであるロングで少し癖毛気味。目は常に細められていて、その表情は常に曖昧な笑みに覆われていた。よく笑うというよりは、笑みという表情で他の感情を塗り潰しているかのような印象だ。
おかげで、何故だか胡散臭い印象が拭えない。良香も自らの姉ながら他人からそんな印象を持たれやすいことは認識しており、『胡散臭い変態とか最悪だな』と密かに同情しているのは秘密だ。
胸の大きさはエルレシアほどではないが大きめだ。これが良香の成長性を表しているのかもしれない。
「…………出会った直後からずっとひっついてるんだが、姉ちゃんどこで辛抱してたんだ?」
「そりゃもうず~~~~っと辛抱してたわよ~~良雅がいなくなってからずっとずっとずっとずっとずっとずっと~~本当は週八くらいで会いたかったのに~~」
……姉の愛は、どうやら一週間は七日という世界の常識すらも上書きするらしい。当たり前が当たり前であることの有難みを痛感する良香である。
というわけで、現在地は良香の自宅。
良香の言葉のとおり、清良は合流してからずっと良香のことを抱きしめ、頭を撫で頬を撫で首筋を撫で胸元を撫で胸を撫で顔を殴られし続けているのであった。
良香の方は慣れっこといった感じであったが、おそらくそれは少女になってから寮に入るまでの五日間だけのことではないだろう。その前からこの姉のスキンシップの多さは続いていたのだ。
そう考えると良香が自宅に戻りたがらなかった理由もうなずけるところがある。
つまるところ、この猫可愛がりが嫌だったのだ。
リアクションを見ただけでは、そこにあるものがシリアスかコミカルかなんて分からないものなのである。
「ったく……いい歳してやめろよ姉ちゃん。元々酷かったのが女になってから余計にひどくなりやがって……」
「だってだって~。良雅ってば元々可愛かったのが余計に可愛くなっちゃって……ほらここ、目を細めた感じなんか私にそっくりだし~……ああ~~~~…………」
何か絶頂に達している清良をやっとの思いで押しのけ、正常な状態に戻る良香。ぐいっと押しのけられた清良はそこでようやっと隣で所在なさげにしている彩乃に目を向けた。
「それで……」
「お久しぶりです」
彩乃は真面目腐った表情のままに頭を下げた。それに対し、清良は目を細めたまま眉間にしわを寄せ、
「良雅をとった、にっくきにっくきぃぃ~~」
そう、凄みだした。といっても、声色のせいもあって一切緊張感はないが。
「…………申し訳ありません」
彩乃は相変わらず真面目腐った表情で頭を下げたが、清良はひらひらと手を振って、
「そっちはいいのよ~。私が言っているのは、この子の隣を独占していることぉ~~羨ましい~~私も若返って良雅のルームメイトしたい~~~~」
「…………………………ははは」
「……これだから嫌だったんだ…………」
本気なんだか冗談なんだかわからない口調で言う清良に、彩乃の口から乾いた笑いが漏れた。この手の手合いは、まともに相手をしていると神経が持たない。
良香も清良の言うことにいちいち付き合っていては身が持たないと知りつつも、ついつい付き合ってしまう。彼女のツッコミ体質はここで築き上げられたのかもしれなかった。
「ああ~~やばい~久々の良雅で愛が止まらない~~~~」
「そこは止めろ話が進まない!」
仕方なく、良雅はブーストを展開してゴッ! と清良の脳天に軽いチョップを叩き込む。
変身していない為出力は大したことないが、それでも常人が食らえば悶絶しかねない一撃だ。そんな過剰ツッコミを叩き込まれた清良だったが、彼女は両手で頭を抑えながら、
「おぐぅ、良雅ちょっと強くなった?」
二秒ほど痛がる素振りを見せてから、けろりと回復して言うだけだった。ギャグ補正の化身のような存在である。
まったく効いていない姉にもはや呆れの念を抱きつつ、良香は一応の忠告をする。
「あと、良雅って呼んで良いのは家の中とか他に誰もいない時だけだからな? さっき外で良雅って呼んでたけど、オレは外じゃ良香ってことになってるから……」
「分かってる分かってる~」
そう言うヤツはたいてい分かっていないのだが、良香にはさらなる念押しをする気力など残っていない。
それに、良香としても『男としての自分』を忘れずにいてくれる清良の存在は癒しでもあった。
なんだかんだ言って、誰もかれもが良香を女扱いしてしまえば良香は『良雅』を忘れる一方になってしまうからだ。事情を知っている彩乃でさえ、二人の時でも良香と呼ぶくらいだし。
「で、私物ってのは?」
ただ、良香はわざわざそのことで姉に礼を言ったりはしない。照れ隠しに無愛想を装って、そんなことを問いかける。
対する清良はやはり何を考えているんだかわからない笑みを浮かべたまま、
「良雅の部屋に置いてあるわよ~。ところで、今日は私物を取りに来たのよね~?」
と、そんなことを問いかけてきた。良香としても答えは決まっているが、なぜそんなわかりきったことを聞くのだろう? と内心で怪訝に思う。
「……そうだけど?」
「その為に、休日一日を使って此処に来たのよね~」
ん? と良香は内心で流れが変わったことに気付く。だが、もう既に勝利パターンに入っているらしい清良は畳み掛けるようにしてこういった。
「なら、どうせだし新しく『私物』を増やしちゃっても、良いんじゃないかしら~?」
そう言って、清良は立ち上がって良香の手を取る。
拒否権は、ないらしかった。
*
では何をするかと言うと、買い物だった。
良香と彩乃を連れた清良は、商店街の銀行の向かいにある大きな服屋までやって来ていた。
服だけでなく、アクセサリー店やメガネ量販店、ランジェリーショップも内包したかなり大きめの総合的な服飾店だ。
ちなみに、良香は今までこの服屋の前を通ったことこそあれど、中に入ったことなど一度もない。デパートの中にある安い服屋で買うのが普通だったからだ。ゆえに、
「こ、こんなブランドものっぽいところ場違いじゃないかな…………」
「あら~、ブランドって言っても良香ちゃんが想像しているような何十万もする『ブランドもの』じゃないから安心して良いわよ~。精々一着一万円とかだし~……」
「十分とんでもないわ! 頼む彩乃オレだけじゃツッコミの手が回らない手を貸してくれ!」
「な、なんだ此処は……? 異世界か……?」
「って研究者上がりには縁のない場所すぎて思考停止してやがる!? クソ、使い物にならねー!」
「あら~駄目よ~良香ちゃん。女の子がクソなんて言葉を使っちゃ~」
「うぐ……」
家の外では良香と呼ぶように言った手前、清良相手には『オレは男だから』と言いづらい良香である。
「そんな一着一万もするような服いらないよ……っていうかお金は大丈夫なのかよ?」
「大丈夫よ~。というかウチってお父さんとお母さんの遺産の振込で結構裕福だからね~。向こう三〇年は働かないでも暮らせそう~」
そんなこんな言っているうちに、清良はどこから取り出したのか薄いパステルカラーの下着をいくつか取り出してきた。
「ところで良香ちゃん、ちゃんと下着つけてる?」
「つ、つけてるよ! っつーか先月姉ちゃんが無理やり買わせたんだろうが! 絶対忘れないからなアレ!」
「でもでも~ちゃんとブラしないとおっぱい垂れちゃうわよ~クーパー靭帯~~」
曖昧な笑みを浮かべながら、良く分からないことを言う清良。ちなみにクーパー靭帯とはおっぱいの張りを司る靭帯で、ブラをしないとこの靭帯が伸びてしまい、おっぱいが垂れてしまうのだ。
ちなみに加齢でおっぱいが垂れるのはこのクーパー靭帯が重力に負けて伸びてしまうかららしい。
「靭帯の神秘ね~」
「それが言いたかっただけだろ絶対!」
「ちなみにクーパー靭帯の損傷はブーストで治せるぞ」
「お前も無理やりそっちに持っていこうとしなくていいから!」
男の子としては美女揃いの
「はぁ……大体なんで服屋なんだよ?」
ツッコミにひと段落つけた良香は、肩で息を整えながらそう問いかける。清良は相変わらず目を細めたまま、
「なんでって……だって良香ちゃん、よそ行きの服持ってないでしょう~?」
「確かに持ってねーけど……全寮制だからよそ行きの服なんていらねーよ。寮とか本校舎じゃ制服着用が基本だし……」
「じゃあ、三年間ずっと制服で過ごすつもり~? 遊びに行ったりもするでしょう? それとも学院で缶詰のまま高校生活を終える~?」
すぅっと真面目な表情(ただし薄笑いだ)になって問いかける清良に、良香は少し考えてから素直に答える。
「…………いや、たぶん遊びに行くな…………」
彩乃だけではない。才加とは絶対に遊ぶだろうし、エルレシアや志希、まだ軽く会話した程度だがクラスメイトともこれから遊ぶことになるだろう。
性別は違うが、神楽巫術学院の生徒達はみんな真っ直ぐだし、中身が男の良香とも仲良くしてくれるに違いない。
(…………そうなると、本当のことを隠してることに罪悪感をおぼえるんだけど……)
とはいえ、自分が本当は男であることなどバラしてしまえば大問題になるかもしれない。どこから情報が漏れるかなんて分からないのだ。もし外部の、彩乃の話にあった反体制派に秘密がバレてしまえば、良香は全世界から身柄を狙われることになる。
こうして清良と会うこともままならなくなるだろう。それに――、
(…………女の中に男が一人。こんなこと知ったら、絶対に嫌われるもんなぁ……)
性別の壁。
それは、改めて直面すると思っていたよりもずっと分厚いのだ。
そんな風に難しく考えていた良香の頭に、ふっと暖かい手が置かれる。にっこりと笑った清良は、落ち込んだ気分の良香を引き戻すように、
「じゃあ、たくさん服をあわせて、いっぱいお洋服買いましょうね~大丈夫大丈夫、ちゃんと良香ちゃん好みの服装をチョイスしてあげるから~」
「あ、ああ……分かった」
なんだか気を遣っているように見せかけて体よく丸め込まれている気がしないでもないのだが、考えてみても筋は通っているので良香は素直に頷く。
…………理路整然とした会話の中で何気に服をあわせることが前提条件に加えられていたり、いっぱいという文言が入っていたりと、実は思う存分着せ替えにする言質をとっているわけなのだが良香は全然気づかないのだった。
「と、いうわけで」
めでたく言質をとった清良は、ゴソソッと体の陰からある品物を取り出す。
それは、二本のひょろ長い装飾が伸びたカチューシャに網タイツ、レオタード――――、
――いわゆる、
「はい、バニースーツ~」
「なんでこんなのが売ってんだよ!?」
これを持ってきた清良のチョイスの前に、この店の品ぞろえの豊富さに驚愕する良香。
さすがにアクセサリーやらメガネやらランジェリーやら揃えているだけのことはある。全然すごいとは思えないが。
「じゃあ次~スク水とかベビードールもあるわよ~」
「着るかバカ! 私服買うんじゃなかったのかよ!?」
次々と体の陰から衣装を取り出していく清良を、良香はやっとの思いで押しとどめる。
というかそういう風に何もないところから衣服をポンポン出されてしまうと世界の法則が乱れかねないのでやめてほしいと切に願うのであった。
「っていうか、中身考えろよ、『中身』! オレにそんなの着させて楽しいかよ!?」
まさか公衆の面前でオレは男だというわけにもいかないので、良香はそう言って自分を指さす。男に着させているようなものと考えれば、楽しさも薄れてしまうだろう。
そう思ってのツッコミだったが、逆に清良はそれまで曖昧な笑みで覆っていた表情をすっと真面目なものに切り替え、
「――私は、たとえ元のままでもアリだと思う」
「圧倒的にナシだよ!」
スパン! と直後、良香のツッコミが清良の頭を直撃した。
しかし清良は微動だにせず、出した服を元に戻していく。どうやら意外と近くにコスプレグッズ売り場があったらしい。やれやれと良香が溜息を吐くや否や、清良は今度こそちゃんとした服を持ってくる。
「さあて~冗談はさておき、これなんかどう~?」
清良が提示したのは、黒を基調とした控えめにフリルのついたゴスロリ風のホットパンツとシャツの組み合わせだったりピンク系のやわらかい色彩を基調にしたロングスカートにボレロの組み合わせだったりなどなど、概ね可愛らしいコーディネートだった。
当然ながら、良香の趣味嗜好としてこういったものは全くもって好ましくない…………のだが。
「ん……まあこのくらいなら……」
如何せん、その前のネタ衣装のインパクトが強すぎる。アレがあるせいで、良香の意識に『あれに比べれば……』という妥協が芽生えてしまうのだ。あと『ここで納得してないと次どんなものが来るか分からない』とく警戒心もあった。
しかし、そんな様子を(面白そうだったので)黙って観察していた彩乃は、事の一部始終――清良の思惑の全てを見透かしていた。面白そうだったので言わなかったが。
(あの提示された衣装――提示された状態で既に上下が揃ってコーディネートされている……前以て準備していたな…………。先ほどまでの馬鹿騒ぎめいた悪ふざけは、良雅のツッコミ力を消耗させて絶対に通したい本命のコーデを確実に受け入れさせる為の布石だったか……)
ある種の畏怖を持って、彩乃は清良の横顔を見る。
その何を考えているのか分からない笑みは、彩乃の目には勝利を確信した策士の笑みに見えた。
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