第二話 ピンノ

(1)

「うー、おいっしぃ!」


 目の前で、ひろがうまそうにあさりのみそ汁を飲んで、感嘆符をずらっと並べた。


「この出汁がいいよねえ」

「んだ。俺は酒蒸しや洋風の料理よりゃ、みそ汁が一番だと思ってる」

「ふふっ」


 高級マンションの上層階の一室。豪華なダイニングテーブルの上はからっぽだ。部屋に似合わない貧相な座卓の前にぺた座りしたひろが、がつがつとかきこむように俺の作った朝飯を食っている。


 まあ。我が女房ながら、変わったやつだと思う。三十代の前半。俺よりゃ五つ下だ。その年で、もう部長さまだぜ。どんだけ切れ者なんだかって感じだよな。メンも悪くない。スタイルもいい。頭脳明晰。仕事はばりばりこなす。もちろんその稼ぎは、俺とは比べ物にならない。俺のような、はよ人間止めろって言われてる男からすりゃあ、眩しくて目が潰れそうな存在だよ。

 それがだな。食い物の好みに関しては、とことんばばくさい。和食好みってだけじゃない。高級懐石を、あんなみみっちいものって言い放つ。煮魚、焼き魚、煮しめ、漬け物、みそ汁、酢の物、お浸し。いわゆるざっかけないおばんざい大好き女なのだ。


 スーパーの特売で買ってきた食材を適宜チョイスして、ちょいちょいと料理すりゃあ飯の支度が出来るから、あまり献立に悩むこともない。うまいうまいと何でも喜んで食ってくれるから、食材の選択で困ることもない。メシを作って食わせてる俺からすれば、とことん世話がかからなくて助かる。部長さまがそんなことでええんかいなとも思うが。もっとも、接待含めて外食の多いひろからすれば、社メシは気取ったものばっかだから家にいる時くらいはってのがあるのかも知れない。


 行儀悪く椀に指を突っ込んで、じみじみとあさりの身をせせっていたひろが、素っ頓狂な声をあげた。


「あれえ!?」

「どした?」

「これなにぃ?」


 ひろがひょいと出したあさりの殻に、小さな小さな白いカニが乗っていた。


「ああ、これなー。おもしろいよなー」

「おもしろいって、みさちゃん、知ってるの?」


 頼むからみさちゃんは止めてくれ。とほほ。


「まあね。俺もなんだろなあと思って、前に調べたんだよ」

「へー」

「それな、ピンノって言うんだ」

「ピンノぉ?」

「そ。あさりみたいな二枚貝の中に居候して、その中で一生を過ごすカニなんだってさ」

「へー。寄らば大樹の陰って感じなのかなあ」

「あさりが大樹かっていう話もあるがな。一緒に釜茹でになってりゃ世話ぁないだろ」

「きゃははははっ!」


 ばんばんばんっ! ひろが座卓を叩いて大喜びしてる。


「おっと、ひろ! 急がないと遅れるぞ」

「あ、そだね」


 鼻の穴をおっ広げて、がつがつと残り飯を口に押し込んだひろが、ハンドバッグを引っ掴んで飛び出していった。


「みさちゃん、わたし今日は遅くなるから夕食はいい」

「ほいよー」

「あと頼むねー!」

「へーい」


 ばたばたと廊下を駆け去るひろの足音を聞きながら、俺は食器をシンクに下げた。


「さて。今日は忙しいぞー。特売日が重なってるからな」


◇ ◇ ◇


 午前中は、掃除、洗濯、ちゃりで買い出しとばたばたと家事を済ませ、牛丼屋で並み牛をかき込んで事務所に行く。事務所は通りに面していないので、飛び込みの客が来るってことはない。この前の猫事件の時の客くらいだな。あれは特殊なケースだったし。

 事務所にかかってくる電話は、俺が事務所にいない時は携帯に転送されることになっているから、それを受け損ねることはない。もっとも、ほとんどひろからの事務連しか来ないってのが実情だが。


 ぎぎゃあああるるるっ!!

 事務所の入り口の鍵を開けて、引き戸に大きな悲鳴をあげさせる。


「いい加減、修理しないとだめかあ。めんどいなあ」


 看板ばかりがやたらにでかい事務所の建物は、もともとは工事現場の飯場で使われていたプレハブだ。見た目はぼろぼろだが、作りはしっかりしている。そして事務所は俺のものではなく、とあるじいさんから借りている。前にそのじいさんが巻き込まれた事件に関わり、解決に向けてただ働きしたお礼ということで、ロハで貸してくれてる。ありがたいことだ。じいさんにとって見れば、裏の物置きに人がいるってくらいのもんだろうけどな。


 物置き。そうだな。俺に取ってはこいつは立派な事務所だが、訪れた客からすれば物置き以外の何ものでもないだろう。事実、登記上はかみさんのマンションが事務所になっており、この事務所は本当に物置きにしか過ぎないってことになる。まあ、建前はどうでもいいのさ。俺に取っては、見かけがどうあれここが俺の城だ。誰にも邪魔されず、『探る』ってことに専念出来るからな。


 探偵の『探』の字。あれには二つ意味がある。探す、と。探る、だ。俺の探偵としての大半の業務は探すことだ。この前の猫もそう。浮気調査のダンナや奥様の行方を突き止めるのも、家出人の足取りを辿るのも、みんな探すこと。探すというのは物理的にその所在を明らかにするということで、それ自体は単純作業であり、面白くもなんともない。俺が探偵業にこだわるのは、それに『探る』という要素が入っているからだ。それは、推理ということではない。


 こういう稼業をやっていてつくづく思うが、人間は奇麗事だけでは出来ていない。誰にも裏表の裏の部分があるからこそ、そこに疑念や劣情が生まれ、俺の飯のタネが出来る。だが、その逆もまた真なり、だ。人間が全て裏黒い魂胆だけで出来ているわけでもない。世の大半の人々は、出来うる限り真っ当に生きようとしてる。だからこそ社会ってのが維持出来ているんだ。性善説、性悪説、そのどちらかだけじゃあ、世の中ってのを説明出来ないんだよ。

 いろいろな心情を抱えて、それがバランスを崩しそうになった時に、人の振り子は大きく揺れる。俺の商売は、それを見極めなければならない。その心模様をどれだけ芯から探れるかで、依頼人のリクエストを全う出来るかどうかが決まる。だからこそ、俺は『探る』ということに全力をぶち込むし、そこを絶対に手抜きしたくない。


 だが、この前の猫事件。あれは、探りが完全に後手に回ってしまった。最初に感じた違和感を中途半端に放置し、猫探しの物理的決着を先に済ませてしまったのが致命的だった。三島という悪名高き女への先入観が探りのアンテナを鈍らせてしまったということを、深く反省しないとならない。どんな突拍子もない出来事であっても、やはり『探る』ということを中途半端にすべきではなかったのだ。俺としたことが大失態だ。後味が悪くて仕方がない。そういうところが、俺のへっぽこたる所以なのだろう。


 俺は回転椅子の上にあぐらをかいて、腕を組んだ。それから手帳を出して、この前の事件のメモの最後に赤い字で一文を書き足した。


『初志貫徹!』


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