俺の半分は悪魔でできている

木根間鉄男

第1話プロローグ&第1章「人の器 悪魔の中身」

―プロローグ「悪魔と人間と神様と」―


―悪魔は存在するのか?―

悪魔、それは神話の時代から様々な物語や伝説に登場する存在だ。

人間にいたずらをしたりするものや人間をエサにするものなど様々だ。

けれどそれは実在するのだろうかと聞かれれば誰もが口をそろえてこう言うだろう。

「悪魔なんていない」

この現代社会に悪魔なんてものが存在してはいけないのだ。

けれど実在しないと言い切れないことは「悪魔の証明」によってわかるだろう。

だから俺は悪魔はいると主張するが所詮はただの屁理屈だろうと切り伏せられる。

「じゃあ悪魔はどこにいるんだよ?」

「それは…人の心の中だ」

俺は自信を持ってそう答える。

自分を守るために平気で嘘を吐く、何食わぬ顔で他人を傷つける―

そんなことができる人間という種族はきっと悪魔より性質が悪いだろう。

けれどこの心の中の悪魔が人間を人間たらしめる存在にしているのだ。

心に悪魔がいるからこそ人間なのだ。

もし悪魔を飼い慣らしていない人間がいたら?

それは嘘を吐かない正直な存在、他人も傷つけずに他者の痛みを全てくみとる聖人君主のような存在―

こんな人間は絶対に存在しない。

まさに神をも超える存在だ。

そう、神様だって悪魔を飼っている。

だって神様が悪魔を持っていないのなら、世界はすべて平等になるはずだから―

飢えに苦しむ人間も、戦争で愛しいものを失う人間も、ましてや大切なモノを奪われる人間も―

きっと世界からいなくなるはずなのだから―










―第1章「人の器 悪魔の中身」―


「なんで…?ねぇ…待ってよ…!」

 少年は必死に叫んでいた。まだ小さな身体だというのに、とても大きな声で。その声はまさに絶叫にも似た響きがあった。

「待って…!ボクをおいていかないでよ…!お母さん!」

 少年は母に向かって叫んでいた。車の中でこちらに侮蔑にも、怖れにも似た瞳を向けている母親へと。

 つい数分前、少年は車からムリヤリ降ろされた、年端もいかぬ妹と共に。力任せに、母親は息子たちを引きずり降ろしたのだ。

「なんでボクたちを捨てるの…お母さん!」

 必死に少年は叫んだが彼女は何も答えなかった。母親は身体をがたがたと震わせて恐怖に顔を歪めているだけ。おおよそ母親が子供を見ているとは思えない表情だった。それは例えるならば、悪魔を見るようなものだった―


「…きろ…お~い…起きろぉ…!」

「ん…?んぁ…?」

 黒く揺蕩う意識の中誰かに揺すられる感覚をおぼえ彼、凍夜要(とうやかなめ)は重たい瞼をゆっくりと開いていった。窓から差し込むまだ春だというのに少し眩しすぎる光に目を細めながら重たい体を起こしていく要。

「あ、やっと起きた。要ちゃんさっきからずっと寝てたから、もしかしたら死んじゃったかと思ったよ」

 隣でてへへと笑う金髪で少しちゃらちゃらした感じのギャルっぽい感じの女の子、笹野静香(ささのしずか)がふざけたようにそう言った。先ほどギャルっぽいと書いたが薄めの紺色のブレザー、要するに制服である、をきっちりと着こなしているほどに根は真面目なのだ。ただ少しオシャレがしたい年頃ということなのだろうが、少し方向性を間違っているのではないかと普段から要は思っていた。

 重たい身体をゆっくりと起きあげた要の顔をじっと覗きこんでくる笹野。彼女の両の瞳にはまだ寝起きで覚醒していないアホっぽい要の顔が映し出されていた。

「あっ!要ちゃんヨダレヨダレ!」

「え?マジで!?…うわ…恥ずかし…」

 そっと自分の口元を触り頬を赤らめる要。急いでごしごしとそれを擦っていくがどうにもその被害は自分自身の顔だけではとどまらずノートにまで侵食していたようだ。灰色の染みとミミズがのたくったようなボロボロの文字が彼の眠りの深さを物語っている。

「要ちゃんってば爆睡してた上にヨダレたらしちゃうって…」

「仕方ないだろ…さっきの物理の授業まったく面白くなかったんだからさ。あんなつまんない授業されれば誰だって眠くなるって…」

「ま、確かにそうかもね。なんで将来使うかどうかも分かんないこんな公式覚えなくちゃいけないんだろ?」

「さぁな…国が勝手に学生はこれをやれって決めたんだから俺たちは仕方なくそれをやらなくちゃいけないんだよ…唯一できる対抗は俺みたいに寝ることだけだな」

 彼らが話している内容でわかると思うがここは学校だ。某県のそこそこのレベルの普通の高校、その2年3組に彼らは在籍していた。先ほどの授業は要が苦手としている物理であり眠ってしまうのは当然だった。まぁ要以外にも物理の授業は苦手で睡眠学習をしたという覚えのある人も多くいるだろう。教室には休み時間特有のざわざわとした楽しげな賑わいが満ち溢れている。それとは対照的に黒板にはびっちりと物理の小難しい公式が書かれていた。

「ふわぁ…まだ眠いや…あくびがとまんねぇ…」

 要は大きく口を開けて女の子みたく長い睫毛の眼をぱちぱちと瞬かせた。あくびによってその端正な顔立ちはすっかり間抜けなモノに変わってしまっていた。

「もしかして要ちゃんってお疲れかな?」

「あぁ…そうかもしれないな…」

 首を回して骨をボキボキと鳴らしながら要は気だるげに答えた。

「疲れてるから悪い夢見るのかな?」

「悪い夢…?どういうことだ、笹野?」

「うん。要ちゃんさっき寝てる時ちょっとうなされてるっぽかったから心配だったんだけど…もしかして私の気のせいだった?」

「う~ん…どうだろ?あんまり覚えてないや。ま、心配する必要はないさ。多分夢でも物理にうなされてたんだろうさ」

「あはは!要ちゃんってばぁ…もぅ…心配しちゃって損した!」

 ほっと胸をなでおろす笹野に努めて笑顔で返す要。

(ゴメン笹野…実は夢の内容覚えてるんだよね…)

 要はそう内心で彼女に謝った。彼の見ていた夢、それは過去の記憶だった。彼の中の奥深くに根付いた記憶。忘れ去りたい、忌わしい記憶―。

「あ、そうだ!要ちゃん!今日ゲーセン行こうよ、ゲーセン!」

「おいおい…唐突だな…」

「ゲーセンでスカッとして疲れも吹っ飛ばしちゃおうよ!楽しいことしたら疲れも感じないって!」

「なるほど…そうだな、久しぶりにゲーセン行くか!」

 こう見えても彼らは大のゲームセンター好きなのだ。昔はよく行っていたのだが最近はお互いの都合が合わないということで行けていなかったのだ。なので久しぶりのゲーセンの誘惑に要は胸を躍らせていた。

「あ!俺も行きたい!なぁいいだろ!?」

「誠も行きたいの?どうしよっかなぁ…?」

 彼らの話に急に横から割って入ったのは笹野の幼なじみであり要たちのクラスメイトの仙波誠(せんばまこと)だ。犬のように人懐っこい笑顔を浮かべて笹野にすり寄っている。

「俺も行きたいよぉ…久しぶりにゲームしたいよぉ…」

 長身の仙波は膝を折って笹野の身体にまとわり泣きつく。その姿はまるで母親にダダをこねる子供のようで見ていられるものではなかったが…。

「キモい!まとわりつくな!付いてきていいからそんな捨てられた子犬みたいな目で見るな気持ち悪い!」

「やったー!要!久しぶりにバッティング対決とかしようぜ~」

「私にすら勝てない誠が要ちゃんと勝負するの?ホントに?ばっかじゃないの!」

「な…!ば、バカって…!誰がバカだ誰が!」

 こんなバカなやり取りが彼らのいつもの光景だった。仙波と笹野の幼なじみが要を巻き込んで何かをする、というのが彼らの日常だ。元々要はあまり人付き合いが得意ではない方だった。そんな彼がクラスのムードメーカー的な二人と出会った経緯は入学してから少ししてからの事だった。

 

要は昔からコンプレックスがあった。それは釣り目がちな瞳だ。顔は女のように美麗で整っているというのにその釣り目のせいで独特の悪魔的な様子を映し出してしまっていた。入学して以来この目つきの悪さのせいで周りからは怖がられてしまっていてさらに人付き合いの悪さだ。そのせいでクラスでは浮いた存在になってしまっていた要だがそんな彼にも声をかけてくれる人がいた。それが彼女たち二人であった。クラスに馴染めていない要を心配して声をかけてくれたのだがどうにも気恥ずかしくて彼は鬱陶しがっていたが、今ではこの通り親友と呼べるほどに仲が良くなっていた。

「あ…そうだった。私、今日掃除当番だった…ゴメンだけど掃除終わるまで靴箱で待っててくれるかな?」

「ん?あぁ、いいぞ」

「えぇ~!俺早くゲーセン行きたいのによぉ…。なぁ要?静香放っておいて先に行こうぜ?」

「ま~こ~と~」

 ふざけたようにそう言った仙波の事を鬼のような形相で睨みつける笹野。隣にいる要さえ恐ろしさでびくりと恐縮してしまうほどの威圧感が今の彼女にはあった。こうなることはわかっているのに仙波も相変わらず笹野を怒らせるような事を言うのが止まらないな、と要は呆れて内心でため息をついていた。いつもと同じならここで笹野が拳で仙波を黙らせに入るはずだ。

 だけれどそこで無情に休み時間の終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。クラスではしゃいでいた連中は皆また陰鬱で気だるい授業を受けねばならないのかとため息交じりの息を漏らして席についていた。

「命拾いしたね誠…でも次言ったら…どうなるかわかってるよね?」

 きっと鋭い眼光で睨みつける笹野にそれに怯えたように顔を引きつらせる仙波。命拾いした仙波は走って自分の席まで逃げて行った。その速さはまるで音速にも近いものがあった。

「はぁ…アイツあんなこと言ってるけど…ちゃんと待っててくれるよね?」

「あぁ、もちろんだって。俺が置いてくわけないだろ?」

 心配そうにそう尋ねる笹野に大丈夫だと笑いかける要。この後の残りの授業中ずっと要の心には久しぶりのゲーセンに対する期待に胸が昂っていった。


「対魔術教会イギリス支部に勤める唯一の日本人神谷氏が本日日本に帰国しました。神谷氏は先日、3年前から世間を騒がせていた上級悪魔、ジェノサイドデーモンを討伐したということで英国王女から受賞され…」

「へぇ…スゲェなぁ…やっぱり悪魔と戦う人は格が違うぜ…ほら、見てみろよ。もう体の造りからしておかしいぜ?肩とか筋肉付きすぎでカクカクじゃん」

 日が傾きかけてきた午後、笹野を待つ間にスマホのテレビ機能を起動させて昼のニュースを眺めていた仙波が驚きとも呆れとも似た声を上げた。チラリと横目でスマホを覗いた要はまたこのニュースかとため息をついた。この神谷という人物が上級悪魔を倒したというニュースは一週間以上も前から世間を騒がせておりほとんどのテレビ番組はこの話題一色だった。テレビをつければ同じような内容が語られ要にしてみればもう飽き飽きだった。

「でもこの人スゲェよなぁ…悪魔倒しただけでこんなに騒がれて…」

 悪魔、それは人間社会に巣食う悪だ。人間の血を栄養分として生きていく闇の住人。それは神話の時代から歴史の闇の中で暮らしている存在だ。先ほども書いたとおり人間の血が食事代わりなので度々人間社会に現れては暴れまわっている。だけどそれは低級悪魔にありがちな行動だ。さっきのニュースで言っていた上級悪魔といわれる存在は人間に擬態して世間に溶け込んでいると言われている。隣人が実は悪魔でした、なんてネタはもう古今東西使われ続けてきて今や新鮮味を帯びぬ過去の遺物となっていた。何故奴らは人間社会に擬態して生きていくのかはまだ詳しいことはわかっていない。血を効率的に求めるためだとか人間を皆殺しにするためだとかを唱える学者もいるがそのどれもが的を射ているようでどこか違っているふうに思える。そういうわけできっとこの先もこの理由は闇の中である。

 歴史的に見ても悪魔と人間は深い関わりがある。例えば歴史上最大の殺人鬼と呼ばれている切り裂きジャックだって悪魔だったし、革命の英雄、ジャンヌダルクを異端だと罵ったのは悪魔に操られていたせいだという話もある。歴史の裏を覗けばこのような話はいくらでも転がっている。

 そしてこの迷惑な存在を人間社会から排除する存在、それがこの神谷氏と同じような悪魔祓いと呼ばれる存在だ。特殊な訓練を受けて育った人間はみな悪魔祓いとして闇の存在を狩る者となる。もちろんこれも立派な一つの職種の一つで学校の進路掲示板にも悪魔祓いになろうとでかでかと書かれたポスターが貼られるぐらいにはポピュラーだ。けれど悪魔と戦うにもやはり簡単な事ではない訳でもちろん死者も多く出る、だから人気かどうかといわれれば微妙な所なのだ。それに報酬もまた微妙な額なのがネックになっている。

 悪魔祓いとなった人間は一つの契約会社、いや、ギルドといった方が分かりやすいかもしれない、に所属してそこで悪魔の依頼を受ける。それは民間から出されるものや国から出されるものなど様々で、そのせいで報酬額もバラバラ。国から出るものは報酬額が高いが難易度は高い、逆に民間から出されるものは難易度が低いが報酬はその依頼主によって決められるので金持ちの依頼しか消化されないという問題が起こっている。

 とにかく悪魔祓いという仕事も楽じゃないってことだ。けれどその仕事をあたかも英雄のように扱うのがテレビ放送だ。少しでも大きな悪魔を倒せばお祭り騒ぎのように囃し立てヒーローとして世間の注目を集める。そしてそのヒーローにあこがれた人間を悪魔祓いに仕立て上げる。その一連の流れはプロパガンダといっても過言ではない。

「俺も悪魔祓いになろうかなぁ…でっかいの倒して有名になったらきっとモテモテだよなぁ…可愛い子からいっぱい付き合ってくださいとか言われちゃうんだろうなぁ…」

 ここにもプロパガンダの被害者が一人いるようだ。要は夢見がちな親友の姿に呆れてため息をつくことすら忘れていた。

「はぁ…何バカなこと言ってんの?モテるモテないの前にまずあんたのそのお花畑みたいな脳内をどうにかしたらどうなのよ」

「なっ…!?き、聞いてたのかよ…!?」

 いつの間にか掃除が終わった笹野が要たちの後ろに立っていた。その顔は呆れと哀れみの表情を存分に含んでいた。

「あんたがバカなこと言ってるのは全部聞いたわよ…はぁ…こんなのが幼なじみなんてほんとうんざり…ほら、要ちゃん、こんなバカ放っておいていくよ!」

「あ!待てって!」

 強引に要を引きずっていく笹野に、その後ろからちょこちょことついてくる仙波。久しぶりの放課後のこの光景に自然と要の頬は緩んでいた。


「よしっ!いけいけ!…んっ…まだまだぁ!」

「突っ走るなよ笹野!そんなにグイグイ行ったらフォローが…ってあ~あ…言ったそばから死んでるじゃん…」

「えへへ…ごめんごめん…」

 左手に握った銃身の先でこめかみをカリカリと掻きながら笹野が恥ずかしそうにそう言った。媒体の巨大なはめ込み画面には大きくGAME OVERという文字がどす黒く描かれていた。

「久しぶりだからつい熱くなっちゃって…」

「まぁ分からなくもないかな?」

 ここは地元で一番の大きさを誇るゲームセンターだ。定番のUFOキャッチャーに格闘ゲーム、シューティング、音ゲー、コインゲーム、さらには古い旅館に置いてあるようなレトロゲームに至るまで様々なジャンルがおかれたこのゲームセンター。ここは夏休みやゴールデンウィークのような連休にはゲーム大会が開催されるほど大きなものなのだ。賑わう室内に揺蕩うタバコの煙が目に刺さりしばしばするのを感じながらも要たちはゲームに没頭する。慣れ親しんだ轟音に耳を焼かれる感覚も彼らにとっては楽しさを増幅させる要素の一つにしかならなかった。

「ふっふっふっ…それじゃあ今度は俺が…」

「あんた私より弱いじゃん。あんたはそこで一人でコインゲームでもしてなさいよ?好きなんでしょ?」

「い、いや…確かにコインゲームも好きなんだけどさ…俺も一緒に楽しみたいなぁって思ったりしてさ…」

「すまんが仙波、お前とやってもお荷物だ…100円を無駄にしたくないんだよ」

「なっ!?100円と俺と遊ぶのどっちが大事なんだよ!?」

「もちろん100円だよな」

「うんうん!要ちゃんの言う通り!あんたと遊んでも100円の価値もないっつーの!」

「ふ、二人して俺をいじめる…知らないぞ!トイレで一人泣きしてきてやるんだからな!」

(こんなバカ騒ぎも久しぶりだな…)

 要はこの楽しい時に酔いしれていた。こんな自分でも普通の学生生活が送れていることに、多少なりとも幸福感すら覚えた。彼はこの楽しい時が永遠に続けばいいのにと感じていたことだろう。


 けれども、その願いも虚しく楽しい時間を終える知らせが届いた。要のポケットに入れていたスマホが震えメールの着信を知らせる軽快な音が響き渡った。

「あれ?要ちゃん、ケータイ鳴ってるよ?メール?いいよ、気にしないで見なよ」

「あぁ…」

 笹野のお節介を受けて少しうんざり気味にメールアプリを開いた。そこに書いてあった思った通りの差出人を確認して要の瞳はキッと少し鋭いものに変わった。雰囲気も少し緊張した風に思える。要は画面をタッチしてメールを開きそこに書いてあるたった4つの文字列に目を通した。

【外を見て】

 それだけ書かれたメール、まさにここだけを見るとB級ホラーのワンシーンのように思えるが要にとってはごく普通の事であり、さして驚きも呆れもすることはなかった。

 要はそこに書かれていた通りゲームセンターの透明なガラス張りの壁越しに外を覗く。夕暮れに染まりかけた街、空から降り注ぐオレンジを浴びながらも人々は楽しげに道路を闊歩していた。その中から要は見知った人影を見つける。金色の長髪を後ろで長めのポニーテールにくくっている14歳の可愛らしい子、周りの大人たちよりもずいぶんと小さいのですぐにわかるその人物は彼にメールを送りつけた張本人であった。その子は要が存在に気付いたのと同時にサッと後ろを向き走って路地裏の闇の奥へと消え去ってしまった。

「ごめん、せっかく誘ってくれたのにちょっと用事が出来ちまってさ…」

「ん?いいよ、別に、気にしないで。用事なら仕方ないし」

「俺らの事なんて気にせずさ、行ってこいよ。どうせまた遊べるんだしさ」

「ありがとな…この埋め合わせはまたするから!」

 要が謝るも二人は全く気にしないという風だった。それもそのはず、今回のようなことは多々あったからだ。普段遊んでいる最中にも空気も場の雰囲気も読まずにかかる呼び出しに彼は応えなければいけなかった。いや、応える義務があったのだ。彼は二人にまた明日と告げて路地裏へと消えた金髪を追いかけた。それが、彼の日常と非日常の分かれ道だった―。


 路地裏、そこは活気のある町から隔絶された場所。町の光に馴染めずに黒へと沈んでいった場所。その狭い道を要は辺りの灰色に似つかわない金色を追いかけて走る。

「また仕事か?」

 彼は先を行く金髪に声をかけた。けれど何も言葉が帰ってこなかった。しかしこれはいつもの光景。聞こえてはいるのだろうがこの子は何も答えてくれない。必要なこと以外話してくれないのだ。けれども要はそれでも声をかける。無言=YESの法則が成り立ってしまっているからだ。今のだって仕事かと聞いてその解が無言での肯定を示しているわけである。

「…早く、して」

 と、珍しく金髪が要のほうを振り向いてそう声をかけた。小さな身長に似合う幼い顔立ちにあまり感情のこもっていない虚ろな灰色の瞳に黒縁メガネというどこかアンバランスで、けれど魅力的な顔が彼を射止めた。そしてぼそり、と可愛らしい声を漏らすのだった。

「はいはい、わかりましたよ」

 要はその子の言葉に従うように歩を速めた。彼の仕事場の、ある場所へ向かって…。


暗い路地裏をひたすらジグザグと曲がって奥へ奥へと進んでいくとそこに一軒のテナントが見える。3階建ての薄汚れたテナントの2階の窓、そこに大きく桜庭対悪魔相談所と書かれている。その場所こそ要たちの目的地であり職場だった。

このテナントにはエレベーターなんて贅沢なモノはなく階段を上ってそこに行くしかなかった。路地裏の薄暗さと相まってどこか不安さをあおる階段をのぼり目的の階についた。前を歩いていた金髪ポニーテールはもうすでに部屋に入った後のようだった。これまたご丁寧に桜庭対悪魔相談所とネームプレートがかけられた扉を開いて要はそこに入った。

「やっと来た…遅いよ、要君!」

「仕方ないじゃないか…ここまで来るのにどれだけかかったと思ってるんだ、社長」

 扉を開けた彼を待っていたのは腕を組み仁王立ちをしている20代前半ぐらいの女性だった。大人の女性特有の色気のある体つきにすらりと伸びた茶色の髪、ほどほどの化粧が施された顔、彼女は桜庭咲夜(さくらばさくや)、この桜庭対悪魔相談所の社長でありこの部屋の主だ。

「そんなの知らないわよ!仕事が入ったらすぐに来るのが務めじゃないの?」

「まぁ確かにそうかもだけどさ…」

「ふふん!遅刻したから減給ね!報酬から3割ほど引かせてもらうから!」

 彼女は腕組みのまま胸を反らしふんっと大きく息をついた。どうにも社長にはこういう子供らしいところがあり要はほとほと困り果てていた。黙っていれば綺麗な女性なのだが…喋ってしまえばこの通り、子供っぽくてバカっぽいところが丸見えなのである。そのせいで人生損してるんじゃないかと要はずっと思っていたが言葉にすることはなかった。なにせそれを言ってしまえば減給どころの騒ぎじゃなくなってしまうだろうということは目に見えていた。

「減給って…じゃあ逆に言わせてもらうけどさ、あんたがもっと効率的な呼び方をすればいいんじゃないか…?何でわざわざ早苗をよこすんだよ…」

「だって要君が迷子になったら困るし…」

「迷子って…俺何歳だよ…早苗からも何か言ってやれよ…って本の世界に没頭してやがる…」

 早苗といったのは要の案内役の金髪の子のことである。黒野早苗(くろのさなえ)、この会社で社長と共に過ごしている謎多き人物だ。社長自身は早苗の事を拾ってきたと言っていたがどこまで本当か要にはわかりきらなかった。先ほども述べた通り幼い顔立ちだがなぜか女性用スーツを着ていて美麗な感じ…なのだが、しかしだ、早苗にはある秘密があった。それは、早苗が実は男だということだ。この事実を最近になって要は知ったのだ。たまたまお風呂上りの早苗と遭遇してそのままポロリ、というわけである。どうにもこの女装は社長の趣味らしいが、しかし彼(彼女?)も嫌がっている様子もないので要には何も言うことができなかった。

 で、その早苗はというと部屋に置いてあるお気に入りのフカフカのソファを独占してライトノベルを読んでいた。どうにも本の世界に入り込んでしまったらしくこちらの声などお構いなしに壮大な文字のファンタジー世界へとのめり込んでいた。

「あ!早苗が読んでるあれって…もしかして新刊!?」

「あぁ、確かキミあのシリーズ好きだったね。いいよ、3冊買ってあるから特別に要君にも貸してやろう」

「ありがとうございます社長!」

 なぜ3冊も買ったのか、要はその理由を知っているからあえてツッコまなかったがここは補足が必要だろう。社長はこう見えても大のオタクなのだ。彼女の仕事机の上には大量の美少女フィギュアが飾られているほどの筋金入りだ。オタクである皆さまならわかるだろうが彼女は店舗特典欲しさに同じ本を買い漁っているのだ。ちなみに社長はとある財閥の一人娘であり昔からワガママに育ってきた。もちろんお金も自由自在に操ることができるわけでして、そういうわけで新刊が出た日には親から余りあるお金をもらってとらやらメロンをハシゴするのである。

「これアニメが中途半端に終わって続きが気になってたんですよ…!」

 この社長の趣味に飲み込まれる形で要も早苗もオタクルートをまっしぐらに突っ走ることになってしまった。早苗はラノベオタクに、要はアニメ、ゲームオタクにこの社長のせいで歪められてしまったのである。社長から手渡されたラノベを大事そうにカバンにしまい込む要だが当初の目的を失いかけてハッとして真剣な表情を彼女に向けた。

「…って社長!こんなことしてる暇ないんでしょ?仕事って何ですか?」

「あっ!そうだった…ごめんごめん…それじゃ奥の作戦室に行こうか」


作戦室、とは名ばかりでただの個室のそこにはテーブルといす、そしてファイルがぎっしりと詰まった本棚があるだけであとはテーブルの上にパソコンが一台あるぐらいだ。その殺風景な部屋に通された要はいつも通り椅子に座りテーブルの上にあったパソコンに目を向ける。

「要君はいつものでいいかな?」

「あぁ」

 ことん、とテーブルにコーヒーが置かれる。要はパソコンの文字を読みながらもそれに口を付けた。すっきりとした苦みとコクがじわぁっと口の中を通して頭にまで染み渡っていく感覚に彼は酔いしれていた。いつものブラックコーヒーをもう一度すすった要は顔をあげて今度は社長が手元に広げたファイルに目を通していく。そこに書かれているのは今回の依頼者にその内容、報酬、その他諸々の事だ。その一つ一つを要は頭の中にインプットしていく。

 この桜庭対悪魔相談所は名前の通り悪魔に関する依頼を請け負う会社だ。先に述べた言い方をするならばギルド、というものだ。構成員は社長である咲夜、要、早苗、そしてもう一人、今は海外にいるのだが今回のストーリーには関係が無いので割愛させてもらう。この会社の顔である社長が仕事を引き受け、早苗がそのサポート、そして悪魔祓いである要が悪魔を屠る、というのが現在のローテーションだ。

「今回の依頼者もまたたらいまわしですか?」

「えぇ…あの人ってば娘の為にお願いしますって泣きながら他の所も回ってたみたいよ」

 たらいまわし、それは悪魔祓いの間ではごく日常的な事だった。悪魔祓いに払われる報酬はあくまでも依頼者次第、その依頼者がもしも貧乏だったら?その依頼は即座に首を横に振られ追い出されてしまうのだ。そして後はその繰り返しだ、あらゆる悪魔祓い達に断られ自棄になった依頼者は自ら悪魔を狩るという狂気に走り…そして死ぬ。たとえ相手が低級悪魔だったとしても何も訓練をしていない人間ならば、到底かなうはずもない。だから悪魔祓いがいるのだが、その頼みの綱である彼らは使い物にならない。そんなたらいまわしを受けた依頼を積極的に請け負うのがここ、桜庭対悪魔相談所である。報酬、悪魔の強さ、その他一切に関係なくどんな依頼も請け負う、と。さっきも述べたとおり個々の社長は金持ち、これも金持ちの道楽の一種というわけである。まぁ道楽で人助けをするのかといわれるが彼女は人並み外れた正義漢の持ち主なのだ。持ち前の正義感に金というガソリンをくべて作られた会社、とでも言っておこうか。

 さて、話を戻そう。要に今回与えられた任務、それは依頼者の娘を傷つけた悪魔を倒してほしいということだった。さほど大きな傷をつけられたわけではないがその彼女が悪魔を恐れ外に出ないというのだ。その悪魔がいなくなれば娘は外に出てくるのではないかと考えた両親はなけなしの金を持ってさまざまなギルドを尋ねたが断られ、そしてここにたどり着いたというわけである。

「敵の数は…5体か。なるほど…小型の雑魚だけか」

「けどあまり余裕ぶっちゃダメよ?早苗の話によるとどうやら少し血気盛んになってるらしいの…たぶん当分血を摂取してないと思うの」

 悪魔の食料は血液、それが不足すればどうやっても血液欲しさに暴れまわるのは目に見えていた。

「それにもうすぐ夜よ。あまり長引いた戦闘は避けて欲しいの」

 悪魔の代表的な特徴といえば夜行性ということだ。夜、いや、暗いところでは活動力が大幅に上がるのだ。小型の悪魔でさえ夜になれば並の悪魔祓いがてこずるぐらいの強敵に様変わりだ。

「大丈夫ですよ。さっさと終わらせます。こいつが待ってるんでね」

 要は社長から借りたラノベをバッグ越しにポンとたたいた。その顔には余裕の表情と同時に狩人のような凛々しさが浮かび上がっていた。


「要君、悪魔の場所はいつもと同じでアプリに表示しておくから確認よろしくね」

「あぁ」

 ロッカールームで戦闘服に着替えている要の耳元、彼の耳にさしたインカムから社長の声が聞こえてきた。さすがに学生服という動き辛い服装で戦闘に向かうなんて言う馬鹿な真似を要がするわけもなく、こうして動きやすくて強度の高い服装に着替えているわけである。白のシャツに耐久度の高いズボン、そして締めには彼のお気に入りの漆黒のロングコートを羽織り完成だ。このコートを羽織ったことで要は戦いに向かう覚悟を決めるスイッチとなる。どうにも昔からの相棒だったこいつには何か戦いに向かわせる闘志のようなものが備えられているのだろう。

「この近くか…それなら走ってでも行けるか」

 早苗がオリジナルで制作したスマホアプリを開くと画面いっぱいに街の地図が表示される。そしてその上に赤い点が5つ点滅していた。これが悪魔の位置情報だ。これを頼りに要は悪魔を狩りに走った。

「ミッション…開始だ」


 そこは真っ暗な路地裏だった。要たちのギルドがある場所よりももっと奥深くの、それこそ街に認知されていないひっそりとした場所、そこが今回のターゲットの潜伏地だった。あたりの廃ビルが大きく影を落とすなか、まるで蜘蛛の糸のように一筋の夕焼け交じりの光が垂れこんでいた。悪魔が嫌う光の中を極力選んで移動する要。ギラリと周りを見渡す鋭い瞳はハンターのようだった。

「ん…?曲がり角か…敵はその先…さて、どうするかな…?」

 人気のない路地裏を進んでいくとやがて曲がり角にたどり着き、さらにその先には悪魔の反応だ。要の身体自身も悪魔の存在をびりびりと感じ取っておりその反応が偽りではないことを物語っていた。

「まずはこいつでお手並み拝見だな…」

 要は相棒である黒のロングコートの内側に手を突っ込みごそごそと何かを探り出す。そしてそこから一つの拳銃を取り出した。真っ黒な体にまるで西部劇のガンマンが使っていそうなリボルバータイプのフォルム、殺意があふれ出る重さを手に感じながら要は撃鉄をおこして構える。壁に向けられた漆黒の銃身、それが要の指が動くのと同時に火を噴いた。

 パン!と鋭い音が辺りに響き渡る。それと同時に銃弾がまっすぐ壁に向かって空気を裂き飛び出していく。ぎゅんっと伸びるように素早い弾丸は壁に当たると、反射した。まるでエアホッケーで壁にぶつかったディスクのようにジグザグと移動して曲がり角の奥へと吸い込まれていく。そして肉が抉れるような音と低い獣のうめき声が銃弾の残響が残るこの路地裏に響いた。

 要は急いでスマホを確認する。そこに映っていた真っ赤な点の一つが消滅している。それは悪魔の消滅を意味していた。跳弾の不意打ちの攻撃に一体屠ることができた、出だしは上々である。

「よし…まずは一匹だ」

 確かな手ごたえを感じ要はまた跳弾を撃ちだしていく。弾倉のすべての弾を撃ち尽くしたと知らせる撃鉄の軽い音が要の耳に届いた。しかし全弾発射したからといってさっきのように楽に倒せるほど悪魔は甘くなかった。多分すべて避けられたかしたのだろう、奴らのうめき声一つ聞こえなかったということはすべての弾が無駄になってしまったということだ。

 彼は舌打ちを一つしてまた懐をまさぐった。次に出てきたのは球状の黒い物体、グレネード、いわゆる手榴弾である。集中して要は奴らの気配を探る。こいつを使うには距離感をミスってしまえばおじゃんである。だから慎重に敵の位置を測る必要があった。

(足音も気配も近づいてきた…あと10カウントで奴らは角から出てくるかな…10…9…)

 心の中でカウントダウンを始める。数が小さくなるごとに敵の気配も近づいてくる。内心の焦りでカウントが早まってしまわないように極力平常心を保ち呼吸も乱さないようにする。

(7…6…5…今だ!)

 手榴弾の爆発タイミングも計り要はそれを投合した。コロコロと鉄製のそれが落ちた音が路地裏に嫌に大きく響いた。要はそれと同時に近くにあった室外機の後ろに隠れた。ほこりまみれの古い室外機でも人一人隠れるぐらいのサイズはある。そこから少し顔を出して先の様子を見守った。

(3…2…1…0!)

 要のカウントが0になると同時にボンっ!という爆音と同時に真っ黒の硝煙と数多の金属片が狭い路地裏に所狭しと散らばった。そして次には爆発音にも引けを取らないほどに大きな悪魔のうめき声が辺りの廃ビルに反響して要の耳に入ってきた。

「よし…残りの数は…」

 要はもう一度そこから顔を出して敵の様子を確認する。爆発の時の硝煙がようやく晴れてその奥から敵の姿が見える。

(獣型が2体に…人型が1か…あの爆発で1体死んだか…)

 そのどれもが体にグレネードの破片が刺さりそこからどくどくと真っ赤な命の液体を吐き出していた。しかしそんな状態でも奴らの闘志は死んではいなかった。黒い体躯に浮かぶ真っ赤な瞳が鋭くぎらぎらと光り獲物を探すようにぎょろりと辺りを探っていたのだ。その瞳の輝きの奥には獣特有の逃走本能の灯が見え隠れしていた。

「まずは獣型を1匹削るか…」

 そう言って要は懐から銀色に光る拳銃を取り出した。立ち並ぶビルの隙間から差し込む光にメタリックの体が反射してきらりと殺意を込めた光を放っている。

 この銃は要がオリジナルに改造した銃、ジェットドライブだ。威力を犠牲にして遠距離まで飛ばせるようにしたものである。射撃音も極力小さなものに抑えることができこうやって隠れながら敵を狙撃するのにはもってこいの銃なのだ。

使い慣れたその感触を手の中で確認し要はまた外を確認し射撃体勢をとる。こちらの姿は見えないように極力身体は外に出さないように、けれども相手を狙いやすいようなポジションへと身体を動かしていく。場所が決まれば次は照準を定める番だ。ぐっとグリップを握り射撃時のブレがないように心がけながら銃身をターゲットのほうへとじっくり絞っていく。彼の頭の中では今弾道の予測経路が高速でよぎっていた。風の影響なども考慮した弾道の完全計算、そしてその予測経路とターゲットの足が完全に交差したところで、彼の指は引き金を引いた。

 パンっ!と軽い音が響き殺意がこめられた鉛の塊が銃身から吐き出される。それはものすごい勢いでぎゅんっとターゲットの元まで向かい、そしてその足をえぐり取った。さっきの爆発で足にダメージを負っていた獣型の悪魔はさらなる足への追撃により4本足で体を支えるのが困難になり地面に膝をつける。要はその隙を見逃さずもう片方の足にも弾丸を撃ち込み機能不能にする。

「これで…終わりだ…」

 足をやられて完全に動けなくなった獣型の眉間に、命の終わりを告げる弾丸があっけなくめり込んだ。そいつは絶命の声を漏らすこともなくばたりと力なく倒れてもう二度と動くことはなかった。

「よし…あとは残りのアイツらだが…」

 このまま隠れて射撃するには要は少し派手にやり過ぎたようだ。敵だってバカじゃない、こちらが3発も弾丸をぶち込めばそれを辿って襲ってくるのは明白だった。仲間を殺されて怒りだった2体が要の隠れる室外機へと襲い掛かる。

「ちっ…こいつじゃ今のアイツらには対抗できない…」

 要のジェットドライブには欠点がある。それは威力を犠牲にしたことだ。素早い弾丸を遠くまで撃ちだせるこいつだがその威力はほとんどない。さっきのように敵の弱っている部分や敵の脆い部分を狙ってなら効果も出るのだが、動いている奴らに正確に弱い部分にヒットさせるにはさすがの要でも難しいのだ。たとえヒットしたとしても思ったところにあてられずたいしたダメージにはならない。

「頼むぜ…もう片方の俺の相棒…」

 要は例の黒コートの懐に手を突っ込み相棒の存在を手で確認する。そしてそれをぎゅっと握ると室外機の影からバッと飛び出した。このタイミングで要と悪魔との距離はほんの10メートルほどしかなかった。けれどもこれは要にとっては完全に敵を仕留めることのできるデッドポイントだ。近ければ近い程一撃必殺のこいつを叩きこむことができるのだ。

「もっと近くだ…もっと近づいてこいよ!」

 要が奴らに向かって走っているのと同じく奴らも要を葬るべくこちらに殺意を向けて近づいてくる。タイミングは一瞬、それは絶対に逃せないものだった。

 そしてそのタイミングはすぐに訪れた。要と奴らが対峙する、その一瞬だ。その時要は奴らの間を横切り、そこで懐から拳銃を取り出した。今度は夜の闇のように漆黒のフォルムの銃だ。光を受けて黒い光沢を放つそれは使われることに歓喜をおぼえてすらいるように見えた。

「チェック…メイトだ…!」

 要はまず右の人型の悪魔の頭に向けてそれを放った。ずどん!というまるで拳銃には似つかわないほどの轟音を響かせて弾丸が放出される。それは奴の頭を粉々に砕き去りその奥の壁にぶち当たった。びしゃりと悪魔の生ぬるい血が身体にかかるのも構わずに要は反動を利用して今度は左の悪魔へと照準を向けて銃を撃ち放った。今度もあっけなく頭は吹き飛び身体の残骸は無惨にもべしゃりと地面にぶつかってひしゃげた。

「任務…完了」

 この間わずか2秒足らず。まさに瞬殺だった。それを可能にしたのが要が今さっき使った黒い拳銃、バスタードライブだ。ジェットドライブとは対照的に威力を限界まで極めた近距離戦闘用の拳銃がこのバスタードライブである。一撃必殺を誇るその弾丸の威力は計り知れないものがあった。だけれどその分反動も大きい。並の人間、いや、普段銃を扱っている人間でさえも腕が吹き飛んでしまうぐらいの反動が襲ってくるのだが要の身体は特別性なのでびりびりと痺れる位にしか感じないのである。

「うわぁ…悪魔の血がべったりついてるし…これとれるかな…?帰って早苗に頼もう…」

 コートやらズボンについた悪魔の血やら肉片は帰ったら早苗がきれいに洗濯してくれるのだが顔についた血はどうすることもできず要自身が拭くしかなかった。自身の顔についた生暖かくどろっとしている悪魔の血を拭う感覚は何度やっても彼は慣れることはなかった。

「要君!何もう終わりみたいな雰囲気だしてるの!?まだ残ってるわよ!」

「は?いやいや、悪魔なら俺が全部…あれ…?」

 要はその場に転がる悪魔の死体の数を数える。バスタードライブで頭が粉砕された2体、ジェットドライブで眉間からだらだらと今も血を流している1体、そして、曲がり角の奥で頭を撃ち抜かれただけの1体…。

「手榴弾で死んだ奴が…いない…?まさか…死んでいなかったのか?」

 要は慌ててスマホを取り出してマップを確認する。そこには真っ赤な点が一つだけ残っていた。

「ちっ…死に損ないが…!」

 あの爆発で気絶、または死んだふりでもしていたのだろうな。それで要がほかの奴らに気を取られている隙にこっそり逃げた、そういうわけである。

「要君、早く追いかけて!あいつが進んだ先は市街地なの!もし人質を取られたら…それに最悪の場合一般人が犠牲になる…」

 奴らは狡猾で、そしてどこまでも卑劣な奴らだ。追い込まれれば人質を取るし、それに体力を回復させるために人間の血を吸ったりもする。そうなれば夢見が悪いことこの上ない。

「…ってこの進路…仙波たちの家のある方…!」

 要の頭に親友である二人の顔が映る。もしここで彼らを巻き込んでしまえば、悪魔祓いとしても、親友としても失格だ。

(それに…もし俺の本当の姿を知られれば…もう日常には戻れないな…)

「急いで要君!もう日も落ちかけてる!このままじゃ悪魔の時間帯になるわ!」

「あぁ…分かってるよ!」

 廃ビルの隙間から見える落ちかけた夕日をキッと睨み、要は残りの悪魔を倒すべく、親友に襲いかかるかもしれない危機を取り除くべく走り出した。街のオレンジは、もう薄暗い黒へと変化を遂げようとしていた―


「要君!その先を右!そこから10メートルの角を左!急いで!」

 右耳にさしたインカムがそううるさくがなり立てる。わかっているとコートの襟首に取り付けられたマイクに叫びながら要は走った。街にはだんだんと夜の帳が降り、遠くに見えるビルの足元にネオンが光り始めていた。彼はスマホを確認し悪魔の移動速度を算出する。幸いにも痛手を負っていたために移動速度は低かった。


「追いつめたぞ…死に損ない!」

 ついに彼はターゲットに追いついた。あと2つ角を曲がられていれば住宅街というギリギリの場所だ。

 彼は悪魔と対峙した。人型悪魔のギラリと光る赤い眼と要の釣り目がちな鋭い視線が交錯した。それが戦いの開始を告げる合図となった。

 悪魔がキェー!と甲高い悲鳴にも似た声を上げ、金属片で傷ついた身体をもろともしない動きで襲いかかってきた。本格的ではないにしても夜の闇が奴の身体能力を強化したのだ。要はそれを迎撃するために懐の銃を手に取ろうとして、止めた。

(ここは市街地に近い…もし発砲すればその音につられた周囲の人間を巻き込むかもしれない…)

 ただでさえ好奇心旺盛な人間だ、銃声がすれば野次馬魂が働くのも当然だろう。一瞬のためらいの隙を突き奴が飛び込んできた。刃のように研ぎ澄まされた鍵爪が要の首元をとらえた。しかし要はそんな攻撃で倒されるほど柔な訓練は積んでいない。バッと横に飛び退き攻撃を避け、そのまま奴の背中にナイフを突き立てた。ぐにゅりと肉に潜り込む感じを手に感じながらも一撃離脱を試みて奴との距離をとる。

「まだ戦おうってのか…夜の悪魔はやっぱり厄介だな」

 要の攻撃を受けながらも奴は不敵にクヒヒといやらしい笑みを浮かべた。

「クヒヒヒ…死ぬのはお前だぜ、人間」

 ねっとりとそう言い放った悪魔の声は、しわがれた老人のようであり、いたずら好きの子供のような声でもあり、不思議な感覚をおぼえた。

 また悪魔が飛び込んでくる。今度は一点を狙う攻撃とは違いメチャクチャに爪を振り回す攻撃だ。隙だらけで攻撃タイミングも考えないむちゃくちゃなモノ、けれどそれだからこそ厄介なのだ。相手の手を読めずに隙を突こうとしてもそこに攻撃が降りそそるかも知れないリスクに要は防戦一方を強いられていた。懐から取り出した短剣でひたすら攻撃を防ぐ。金属同士がこすれる嫌な音が辺り一帯に響く。あまりにも激しい打ち争いに剣はオレンジの火花を散らしていた。

「どうしたどうした!さっきまで大口叩いてた余裕はよぉ、人間!」

「少しは押し負けないと面白くないだろ、雑魚が」

 その瞬間要の纏う雰囲気が変わった。周りの闇が揺らめき彼に吸い込まれていくような、そんな邪悪な雰囲気が要に渦巻いていく。そして、その闇が放出された。それは比喩でもなく、まぎれもない闇のオーラの放出、それによってさっきまで要に肉薄していた悪魔はまるで強風に飛ばされた路上の空き缶の様に無様に吹っ飛んだ。

「ま、まさか…お前…!」

 悪魔がこちらを向いて怖れたように声を震わせた。悪魔の目に映ったそれは、悪魔だった。

 黒色の髪の隙間から覗く金色に光る瞳、血のように真っ赤な大鎌、オーラによってたなびく漆黒のロングコート、その姿はまさに悪魔、いや、もっといい表現があった。それは―

「死…神…!悪魔殺しの金眼…!」

 それは、まさに命を刈り取る神話の存在、死神の姿だった―


 要の父親は殺された。まだ幼き日の要の目の前で、まるで見せしめのように。

 それは10年前に遡る。要の家族はごくどこにでもいるような普通で幸せなそれだった。父がいて、母がいて、そして妹がいて、毎日食卓をみんなで囲み、休みの日にはよくみんなで買い物に行っていたものだ。幼き少年はこの幸せが終わるなどとは夢にも思わなかった。

 永遠に続くであろう幸せはあの男によって壊されてしまったのだ。きっちりとスーツを着込み紳士的な対応をとるも、メガネの奥の傷つき開かなくなった右目が怪しげな雰囲気を醸し出す男にだ。母に連れられてやってきたその男、啓二(けいじ)と名乗っていた、は要たち兄妹を不幸のどん底に陥れた。

「キミたちのお父さんは、悪魔だ。そしてキミたちも、どうしようもない悪魔のクズだ」

 その男は開口一番にそう言ってきた。その時向けられた冷たく無感動で、ひどく憎悪を孕んだメガネの奥の片目を今も要は忘れることができなかった。その男は悪魔祓いだった。彼は無抵抗な要の父をナイフで滅多刺しにし、嬲り殺した。そのさまを要たちに見せつけ、可愛らしい幼顔が恐怖に引きつるのを楽しんでいるようだった。

「ゴメンな…俺が悪魔だと隠してたばかりにお前たちを不幸にして…父親失格だ…ゴメンな…」

 父は血がこぼれ落ちてくる口を必死に動かして、命の最後がくる瞬間まで、ゴメンねと息子たちに告げていた。


 父が殺されて3日が経過したその日、要たち兄妹は母に捨てられた。最後に見た母の侮蔑交じりの瞳は要の心にずっと染みつき離れなかった。

 悪魔と人間のハーフ、それは世間にとってイレギュラーこの上ない存在だった。元々交わってはならない二つの命の結果だ。見た目は人間、しかし身体能力は常人以上、記憶力も高く頭もよくなる。それだけならいいが悪魔の子が世間に嫌われるのはある理由があった。それは、悪魔の能力を受け継ぐこと。

 人間の姿で悪魔の力を使う、それは人に化けたモノよりも性質が悪い。遺伝子も人間なのだから判別がつかないのだ。そして放っておけばいずれ残虐性に飲み込まれて事件を起こす。ゆえに悪魔の子、半悪魔は忌み子として社会から消されるのだ。

 けれど要は生きている。あの時母が孤児院に捨てたからだ。それはまるで生かされていることが半悪魔として生まれてきた罰だとでも言うように…。


「死神…!」

 要の黄金に光る悪魔の眼がきらりと輝きを放ち醜い黒の姿をとらえた。その次の瞬間には爆発的な瞬発力でその場を飛び出した。それと同時に足元の地面が少し抉れたが要は気にすることはなかった。今彼の意識には敵を倒すということしかなかったからだ。

彼の身体が悪魔の横をすり抜けた。その1秒の後、悪魔の全身から血が噴き出していた。身体に浮き上がった無数の裂傷が命をこぼさせていたのだ。要はあの一瞬で持ち前の鎌で奴の全身を切り刻んでいたのだ。悪魔は驚きに目を見張りばたりと倒れた。しかし意外としぶといようで全身から赤を噴き出させ、息も絶え絶えに這いつくばりながらも、彼に哀れな瞳を向けた。

「助けて…くれ…死にたく…な…い…」

「悪魔のくせに命乞いか…見苦しい」

 あまりにも無様で腐りきった自己中心的な姿に要は吐き気をおぼえた。

「俺が1つ質問する…それに答えることができれば助けてやる」

 彼がそう言うと悪魔は少し安堵の顔を見せた。やはりその態度にまた彼は吐き気がこみあげてきた。自分の中にこのような卑しいモノの血が一滴でも混じっているのがどうしようもない吐き気となったのだ。

「隻眼の悪魔を、知っているか…?」

「隻眼の…悪魔…?いや…知らないな…」

 この質問は要が悪魔と対峙した時に必ずするモノだ。隻眼の悪魔、因縁深い忌々しい声を含ませて彼はまた続けた。

「薬学を熟知しているはずなんだ…本当に…知らないか…?」

 そう要が尋ねても悪魔はぽかんとした顔をするばかりだった。本当に知らないみたいだ。

(またハズレか…)

 要はため息を吐き出して悪魔の首に鎌をかざした。それはまさに死刑囚の首を刈り取る瞬間に酷似していた。

「ま、待ってくれよ!俺は質問に答えた!助けてくれるはずじゃなかったのか!?」

「知らない、というのは答えでも何でもない。俺が欲しかったのは知っているという答えだけだ」

「う、嘘だ!さっきのは嘘なんだ…!本当は知ってる!あぁ知ってるよ隻眼の悪魔だろ?あいつは…」

「黙れよ…耳障りなんだよ」

 死ぬ前の惨めな姿に要の中の嫌悪感がピークに達した。どうしようもなく救いようのないクズの首めがけて鎌を振り下ろす。さっきまでべらべらと耳障りな言葉をしゃべっていた悪魔の声はもう聞こえない。代わりに聞こえるのは路地の先からの車のエンジン音と、悪魔の首から命が漏れる音だけだった―。


「お疲れ様要君。後処理は頼んでおいたから帰ってきていいわよ」

 インカムに社長の声が聞こえる。ふぅ、と要は息をつき全身に張りつめていた力を抜いた。それと同時に要の金色の瞳も、血のように真っ赤な鎌も、纏っていた黒のオーラもすべて消えてどこにでもいるような少年の姿へと戻っていた。

「あんなのに君の力を使わなくてもよかったんじゃない?大丈夫なの?」

「たまに使ってやらないとどうにも力が鈍るんでね…ま、別に気分が悪いとかっていうのもないですし大丈夫ですよ」

「そう?ならいいんだけど…」

「あ、早苗に一つ伝えておいてください。洗濯の用意をしておいてくれって」

「ははは、いつもの事だね。了解!」

 社長との会話も終わり要は路地裏を後にした。血だまりに染まった路地裏も、悪魔の死体も秘密裏に回収業者が処理してこの戦いを無かったことにする。こうして世界はまた平穏を保つのだ。悪魔の血と、悪魔祓いの血が染み込んだこの世界の大地の上で―


「お疲れ様要君!」

「社長…それさっきも聞きましたから」

 要が会社の扉を開いた瞬間満面の笑みの社長が飛びついてきた。大の大人が少年に抱きつくというおかしな光景も今では見慣れたモノだった。抱きついてきた社長をはがして要は早苗の元へと行きそしてコートを渡した。

「これ、洗濯頼むな」

「ん…」

 血の付いたコートを嫌な顔一つせず無表情に受け取った早苗はそのままトテトテと洗面所へと向かった。しかしすぐに戻ってきてベッドでラノベを読む作業に集中し出した。どうやら洗濯は後回しにされてしまったらしい。要は苦笑いを浮かべつつも早苗の愛らしい姿にほっこりとしていた。

「さ、要君!ごはん食べに行こう!今回の依頼でそこそこに資源は潤った!だからご飯食べに行こう!」

「なんで社長が偉そうなんですか…俺の働きあってこそですよね…」

「男の子でしょ!そんなこと気にしないの!」

「いや…それたぶん男も女も関係ない気が…」

「早苗は何が食べたい?この前は要君のリクエストでお肉食べに行ったし、次は早苗の番ね」

「早苗は今ラノベに集中して答えないって…」

「お寿司」

 ラノベを読みながらも早苗はぽつりとそう答えた。そういえばこの子、食い意地だけは人一倍だったということを要は思い出していた。

「それじゃお寿司屋さんにれっつごー!あ、ただし間違っても金色とか黒色のお皿は取っちゃダメだからね!取っていいのは白色だけ!」

「白だけって…それタマゴとかコーンとかカッパじゃん…寿司屋に行く意味あるのかよ…」

 社長のこんなバカ発言もいつものことだ。それに要がツッコミを入れて早苗は…まぁ相変わらずマイペースにラノベを読む。それが要の第2の日常だった。


 街には完全に夜の帳が降りた。昼間の賑わいなど無かったかのようにしんとした街中。聞こえるのは帰路を急ぐサラリーマンを乗せた電車の音と、茂みの中で必死に自己主張を繰り返す虫の声だけだった。まだ少し肌寒さを残す春の夜の中、要は家路を急いだ。手には社長がお土産だと持って渡してくれた寿司屋の土産袋が握られていた。行く前は白皿だけだとか言っていた社長もいざついてみれば何でも食べていいと気前のいい発言を、さらには要にお土産を持たせてくれるぐらいの太っ腹な態度に一変した。

(社長っていい人なんだけど…やっぱり言動がなぁ…)

 まだ少し社長については掴みきれておらずに要は小さく息を吐いた。


「ただいまー」

 しばらく歩くと見えてくるのは小さな一軒家だ。そこそこに新しいその家は要の居住地だ。孤児院から飛び出した要の為に社長が用意してくれた温かな家。いつものように鍵を開けて重々しいドアを開けて家に入る。

 帰ってきた要を迎えたのは静寂と闇だけだった。真っ暗な家の中に、何者もいないことを表す静寂、それを知っていながらも要はただいまと声を出した。奥の部屋で待っていてくれる、彼女の為に。

「…ただいま」

 彼はその部屋を開けて、もう一度ただいまと言った。しかし今度は弱々しくて消え入ってしまいそうな小さな声でだ。けれどその少し狭い静かな部屋には小さな声でさえ大きく響いた。

 ベッドに向けられた要の瞳、それがある少女をとらえていた。ベッドに横たわりじっと目をつぶった少女、それが要の帰りを待つ唯一の存在だった。要はベッドの脇に膝をついて座り彼女の少し不格好な髪の毛を柔らかな手つきで撫でた。

「今日もお寝坊さんだな…空(そら)…」

 そして要は優しげな声で彼女の、妹の名を呼んだー。


 空、それが要の妹の名前だ。昔からお兄ちゃんっ娘でずっと要の後をトテトテと追いかけてきていた最愛の妹。親に捨てられた彼の唯一の家族であり、守るべき存在で生きがいだった少女だ。要にとって空は暗闇を照らす光のようだったのだ。捨てられたあの日から、空の笑顔だけが要の心を救ってきた。どんなに辛いことがあっても、妹のためならばと奮闘した日もあった。そして今も、その奮闘は続いている…。


 それは要が12歳、空が10歳のころ、今からちょうど5年前の話だ。その頃はまだ要たちは孤児院で暮らしていた。母親に捨てられた傷もようやく癒えてきたころの話だ。要たちは孤児院に入ってからずっといじめられてきていた、悪魔の子供だと。優しげな初老の院長先生以外、すべての人間が敵だった。院長先生は悪魔だとかそんなの関係無く可哀想な子供だ、自立させてあげないといけないと要たちの事情を知っていながらも他の孤児と接するのと同じように分け隔てない優しさを振りまいてくれた。心強い味方の先生がいたが、味方がいたからこそいじめは粘着質なモノとなった。暴力などはすぐに先生にばれて怒られてしまう、だからアイツらは精神的な暴力を振るってきたのだ。持ち物を隠されたりするのはいつものこと、食事を横取りされたりするのも日常的だった。誰も見ていないところで散々と悪魔だと罵られたこともある。このような仕打ちを要たちは母に捨てられてから5年間ずっと耐えてきた。要は妹を支えに、そして空も兄を頼りにして…。けれどやはり子供心には限界がくるもので、その5年という月日で、ついに空の精神は狂ってしまった。

 その日はいつにもなく大雨だった。嵐が近づいているとのことでテレビではニュースキャスターが暴風に備えるように口を酸っぱくして述べていた。嵐で外に出るのが困難になる前にと院長先生は街に買い出しに出ていた。その隙を狙って、事件は起きた。

 それはいつものような空へのからかい、侮蔑の言葉から始まった。

悪魔、疫病神、人間もどき―

 さまざまな悪意を含んだ声が幼く柔らかな空の剥き出しになった心に傷をつける。

「黙れ!」

 妹を守るために必死に要はそう叫ぶがその声に負けないように侮蔑の声が上がった。そしてそれはだんだんとエスカレートしていき、そしてついに拳が飛んできた。いつもなら院長先生という抑止力がいるから大丈夫だったそれを失った途端、暴力の嵐が要を襲った。さすがに女の子でまだまだ幼い空を殴るのは気がひけたのかアイツらは空のチャームポイントだった真っ黒の長髪を容赦なく切り刻んでいった。10人以上に囲まれてぼこぼこにされ要の顔は真っ赤に腫れあがりところどころから血が漏れていた。耳に聞こえる空の泣き叫ぶ声を聞きながら要は血液交じりの咳をこぼした。日ごろの鬱憤がたまっていたのだろうか、それとも邪魔者を排除して英雄になろうとでもしたのか、ある一人の少年が台所から果物ナイフを持ってきて要に襲いかかったのだ。ギラリと光った日常の中に潜む狂気に要は顔をひきつらせた。

殺せ!死ね!地獄に落ちろ!

 ナイフの登場によりギャラリーもまた血気盛んになりさらに騒がしくそうがなり立てた。鋭利な刃が要に迫りくる。けれど彼は不思議と怖くなかった。彼の心を占めていたのは、ようやく死ねるのだという安堵の心地だけだった。陰湿ないじめが続くこの地獄のような日々に、ようやくピリオドを打てるのだと思うと自然と笑みがこぼれ落ちていた。

けれど、要はまた死に損なった。死を覚悟して目をつぶった要だがいつまでたってもナイフの衝撃は身体を襲ってこない。さっきまでさんざん殺せと騒いでいたギャラリーもおとなしすぎる。まるでスピーカーの電源を急に落としたように静かになっていた。どういうことだと思い要は目を開けた。すると目の前には要を殺そうとした少年が、白目を剥いてそこにいた。首には何か黒い影のようなものが締め付けられていた。

「あ、悪魔だ…本物の…悪魔…!こ、殺されるんだ…みんな…いやだ…死にたくない…!」

 ギャラリーの一人が指を震わせながらも指したそこには、空がいた。自慢の長髪は無惨に切り刻まれて不細工なショートカットになってしまったが、その髪が赤に染まっていた。

まるで燃えるような赤、それは復讐の炎を具現化したかのようにも見えた。空の変化はそれだけではなかった、瞳は金色に光り少年をじっと見つめていた。彼女の影はグッと長く腕のように伸びて少年の首に巻きついていたのだ。

「お兄ちゃんを殺そうとする奴は…私が許さない!」

 金色に変わってしまった瞳に涙をいっぱいに溜めて彼女は絶叫にも悲鳴にも似た声でそう叫んだ。その瞬間だった、少年の首に巻きついていた黒い影がバッと炎を発したのだ。空の髪の毛にも劣らないほどの赤に要は一瞬目が眩んだ。それはみるみる間に少年の体を覆い尽くして彼の肌を黒く染めていく。

誰か助けて―

 少年がそう叫んでいた気がした。けれどその声は炎に飲み込まれた喉では言葉にすることが出来ずに無惨にも煙となって消えていった。

「あはは!死ね!みんな死んでしまえ!お兄ちゃんを苦しめた罰だ!私の大好きなお兄ちゃんをいじめたんだ…みんな地獄に落ちちゃえ!」

 空がそう叫ぶとさらに影は無数の手を伸ばしてギャラリーたちを絡め取った。まるで大きなタコの足に捕まれたようにギャラリーたちは動くことができなかった。

「なんで優しいお兄ちゃんが嫌な思いをしなくちゃいけないの…?私たちみんなに何もしてないよね…?なのに毎日毎日ひどいことして…そんな奴ら死ねばいいんだ!」

 空の顔が酷く歪んだ。涙で濡れた瞳はキッと奴らを睨みつけて嬉しそうに表情を歪めた。けれど要にはその顔が酷く悲しそうで、辛そうに見えた。

 要はじっとその様を見つめて、ふと意識が戻ったかのようにハッとした。周りの人間がすべて空に焼き尽くされている。復讐の炎に焼かれている。けれど、このままじゃ空は人殺しだ。まだ彼らが死ぬには少し余裕がある、その間に妹を止めなければ。そう使命感に駆られた要はぎゅっと空の身体を抱きしめた。小さくて力を入れれば折れてしまうのではないかと思えるほどの華奢な体を、優しく、それでいて力強く抱きしめた。

「空…もうやめてくれ…じゃないと…みんなが死ぬ…空が殺人者になる…それだけは…嫌なんだ…空だけは…失いたくないんだ…」

「お兄…ちゃん…」

「空だけは…そばにいてほしい…俺の支えなんだ…もう、お前がいないと俺は…ダメなんだ…だから…空…もう、やめろ…」

 要の言葉が届いたのか空の身体から力が抜けた。それと同時に赤の髪も、金の瞳も、さらには炎を操る影も姿を消した。後に残ったのは、ソラの悲しそうな泣き声だけだった…。


 あの事件は結局事故ということで抑えられた。孤児だけで火を扱っていたところそれが燃え移り拡がり火事となった、そういうことに改編された。奇跡的に死者はなし、皆が重軽傷の差はあれど火傷を負ったのみだった。ただ一人、ナイフを構えて襲い掛かってきた少年以外は。彼は燃えながらも首を絞められていた、そのせいか意識不明の重体に陥り病院へと送られた。今現在の彼の様子は要すら知らなかった。孤児院の子供たちに聴取の手が回ったが皆おびえて何も答えない、そのおかげで要たち兄妹はかろうじてまだこの孤児院に残れるようになった。


 そして事件から2日目の夜のことだった。予報より遅れてやってきた台風は月夜の晩を雨風で乱しながらゆっくりと進んでいた。びゅうびゅうと風の音が耳をつんざきガタガタと窓が揺れる音が嫌に耳に響いて眠れない夜だった。

「うぅ…ここ飛んでっちゃわないかな…飛んでっちゃったらどうしよう…私たちまで飛ばされちゃうかも…」

「ははは、空は心配性だな。大丈夫だよ。もし飛ばされそうになっても兄ちゃんが守ってやるからな!」

 少し大きめのベッドに二人で寝転がり外の音に耳を傾ける。いつもの穏やかな夜とは違いこの激しい風雨の騒ぐ夜に、要はどこか胸が高鳴るのを感じていた。

「うん…お兄ちゃんが守ってくれるなら安心だね!」

 空がギュッと要に抱き着いた。まだまだ小さくて柔らかくて、壊れてしまいそうな華奢な空の体を要はぎゅっと抱き返して髪をなでた。短く切られてしまった髪の毛があの事件を思い出させ要の心をしばりつけた。あの事件以来要の中である不安が渦巻いていた。それは、空がどこか自分の知らないところまで行ってしまうことだ。あの時から空の心はどこか不安定だった。急に泣き出したりすることもあれば、どこか明後日の方向をぼぉっと眺めていたり、そのすべてが要を心配させる要因となっていた。

「ねぇ…お兄ちゃん…」

「ん?なんだ?」

 胸の中に抱いた空が小さくそう呟いた。風の音で吹き飛んでしまいそうなその声を要は拾い上げてその続きを促した。

「あのね…私、お兄ちゃんが大好き…優しくって強くって…ずっと私を守ってくれたお兄ちゃんが大好きなの」

「ははは、急にそんなこと言われても…なんか照れるな…」

 突然の妹からの告白に幼い要は頬を染めてそっぽを向いた。要には夜の闇のせいで見えなかったが、空も恥ずかしそうに頬をピンク色に染めていた。

「でね…私、お兄ちゃんにありがとうって言いたいの…みんなにひどい事されても私のことを助けてくれたりね、寂しいときは一緒にいてくれたり、私が泣いちゃったときもずっとよしよしって頭撫でてくれて…すっごく嬉しかったの…だから…ありがとうお兄ちゃん!」

 空ははにかみまたギュッと要の体を抱きしめた。愛らしいそのしぐさに要の心はどきりと高鳴った一方、また不安にもなった。それは、彼女の笑顔が少し寂しそうだったから。けれどその理由は当時の要には理解できるわけがなかった。

「あれ?お兄ちゃん…?もしかして…寝ちゃってるの…?むぅ…お兄ちゃんのバカ…せっかく勇気出してお兄ちゃんにありがとうって言ったのに…」

(すまん空…兄ちゃん恥ずかしくて死にそうなんだ…)

 突然言われた妹の感謝の言葉に耐え切れなかった要はつい寝たふりをしてしまった。この恥ずかしい気持ちがばれないように、心臓の鼓動がばれないように、平静を必死に装って人生で一番困難な狸寝入りを決行した。しかしその行為は裏目に出てしまったのだ。

「お兄ちゃん…おやすみなさい…ありがとう…大好き…チュッ…」

(!?)

 寝たふりをした要の唇に一瞬だが柔らかいものが触れた。甘酸っぱくて、とろけるような感触のそれは、目を閉じていても確かに妹の唇だとわかった。ふにゅりとした初めてのキスの感触に要の体はまるで燃料を投下したかのように一気に熱くなり、心臓は暴走したように鼓動の速度を速めた。胸が締め付けられるように痛くなり急に空のことが愛おしく感じてくる。この初めての感覚は当時の要には理解するのは早く、結局訳が分からないまま眠りに落ちてしまった。

 しかし今思えば空のこの行動の意味をもっと深く考えていればよかったと彼は思った。突然の改まったような告白、不意の唇の感触、そして、寂しそうな笑顔の意味を―


 眠り姫、彼女はこの日を境に、もう目を覚まさなかった。まさに童話に出てくるお姫様さながらだった。けれど童話と違うのはどんな方法を試しても目が覚めないこと、たとえ、キスでもだ。

 台風は無事に夜のうちに経過していた。家が飛んでいくんじゃないかという空の幼稚な不安も台風とどこかに消え去ったようだ。雨粒に反射しているからだろうか、いつもよりまぶしく感じた朝日に目を細めながら要は目覚めた。いつものように胸の中に眠っている空を起こそうとして、そこで気づいた。彼女が目覚めないことに。どんなに揺さぶっても声をかけても、ましてや痛む心を鬼にして柔らかな肌をつねっても、彼女は二度と目を覚ますことはなかった。

 死んでしまった、要はそう思ったがかすかに呼吸を繰り返す唇を見てそうじゃないと自然と理解できた。ではなぜ、彼女は目を覚まさないのか、その理由を要は小さな頭をフル活用して考える。そして、彼女が何か瓶のようなものを手にして眠っていること、そしてベッドの脇に何か手紙のようなものが置かれていることに気付いた。まず要は手紙のほうを読んだ。そこに書かれていた文字は確かに空が書いたものだった。

「お兄ちゃんへ―

 ごめんなさい…私はもう、お兄ちゃんと一緒にいることができません。それは、私の心が悪魔の心になってしまったから。あの日以来私の心は悪魔の心になってしまいました。悪魔は私にみんなを殺せ、もっと殺せ、復讐しろ、とささやきかけてきます。気が付けば私はその声に導かれるように内から漏れ出る悪意を炎に変えていた。そのたびにお兄ちゃんの言葉を思い出して必死に抑え込んできたけど、もうダメみたい…。今度は悪魔はお兄ちゃんを殺せって言ってきました…。でも、私はお兄ちゃんが大好きだから殺すなんてできない…あんなに優しいお兄ちゃんを殺すなんて…。どうしたらいいのか悩んでいたとき片目が無くて怖い印象だったけど優しい悪魔さんが私の目の前に現れてお薬をくれました。それは悪魔の力を抑えることができるお薬だよ、副作用でいつまで続くかわからないけど眠っちゃうんだけれど、起きたら君の悪魔はすっかり姿を消しているからね。そういって悪魔さんは私にお薬をくれたのです。いつ起きれるかわからないのは怖いけど、私はお薬を飲むことに決めました。大好きなお兄ちゃんを、殺したくないから…。お兄ちゃん、バイバイ…お兄ちゃんは寝ちゃってて聞いてなかったかもしれないけど…ありがとうって言えてよかった…それじゃあお休みお兄ちゃん…また、会えたらうれしいな。―空」

 その手紙を最後まで読んで、要は必死に自分の無力さを呪った。

「くそ…何が悪魔の力を抑える薬だよ…そんなの勝手に使ってんじゃねぇよ…!それに…こんなに悩んでたなら少し位相談してくれてもいいじゃねぇか…勝手に眠るなんて…ふざけんなよ…!」

 勝手に眠り去ってしまった空にぶつける不満はあまりにも多すぎた。しかもまるで自分がもう二度と目覚めないといっている風にも取れる手紙の内容には、さらに不満が湧き上がった。けれど、彼が言いたいのは文句ではなかった。

「俺にも…ありがとうって…言わせろよ…馬鹿…」


 空はすぐに病院に運ばれた。何回もの検査を受けて分かったこと、それは空の身体を何かが蝕んでいること、そしてそれを治療する術はないということだ。例の薬も調べられたが悪魔の錬金術か何かで合成したとのことで成分もわからなければ解毒剤も作れないとのことだ。要はその事実に絶望し、声をあげて泣いた。病院の大きなベッドに横たわるもう目覚めないであろう妹の身体に縋りつき泣いた。

 けれど、一つも希望が消えたわけではなかった。

「もし高度な錬金術を扱える悪魔がいれば…。もしくは、この薬を作ったであろう隻眼の悪魔に出会えれば…何か治療楽のヒントが得られるかもしれない…。それに悪魔の身体を研究すれば、もしかすると血清のようなものが見つかるかもしれない…」

 医者のその言葉を聞き要は飛び出した。懐に、小さなナイフを隠して…。


「はぁはぁ…くそ…悪魔ってこんなに強かったのかよ…こんな低級悪魔にも…俺は勝てないのかよ…」

 ぼろぼろに傷ついた要の目の前には犬のような姿をした低級の悪魔がいた。口元にも爪にも要の血がべったりと付着し赤く染まっていた。要はがたがたと震えて命を守る本能により逃げ出そうとする体を必死に奮い立たせてナイフを構えた。しかしそのナイフも刃がへし折られてほとんど殺傷力を持たなかったが、それでも要は戦わなくてはいけなかった。目を覚まさなくなかった妹を助けるために、そして、妹を苦しめた元凶である悪魔に復讐を果たすために―

「俺は…なんとしても空を助けなくちゃいけないんだ…俺の心の支えだった空を…返してくれよ…!うあぁぁぁぁぁ!」

 その瞬間だった。要の内側から感情があふれ出して、彼の身体を飲み込んだ。それはダムが決壊したみたいに一瞬にして激流の中にのせて要の心に流れ込んできた。真っ黒な感情の奔流に身を任せて要は目を閉じた。そして次に目を開けた時、目の前の悪魔は消え去っていた。ずたずたに体を切り裂かれて、その場に崩れ落ちていたのだ。

 それが自分の仕業だというのはすぐにわかった。いつの間にか手に握られていた大鎌に真っ赤な血が付着していた。そして要は理解した、これが自分の悪魔の力なんだと。


「俺は…悪魔の力を以って…悪魔に復讐する…悪魔を以って悪魔を制するんだ…」

 そう誓った要だがそれも長くは続かなかった。妹に精神的苦痛を与えた奴らがいる孤児院にはもう帰れない、いや、帰りたくなかった、だから彼は路上で夜を過ごした。日中は悪魔を探して殺して回り、夜は寒さに冷える体を抱えて無理やり意識を眠りに落とす生活を続けた。食事もろくに取らずにそんな生活をしていたのだからすぐに体にガタが訪れた。5日も過ぎたころには意識が朦朧として気づけば道端に倒れていた。

(ごめん…空…兄ちゃん、もうだめかもしれない…お前を…助けてやれないかもしれない…)

 諦めかけていた少年に手を差し伸べた人物がいた。その人物は財閥の娘だった。しかし金持ち特有の陰湿で傲慢な性格ではなく正義感に燃えて誰にでも等しく優しくて、時には厳しく接する珍しい人だった。その人は要に家を与え、そして悪魔と戦う術を教えた。銃の使い方も、ナイフでの立ち回り方も、爆弾の使い方も、すべてすべて彼女が教えてくれた。その人、桜庭咲夜に出会わなければ今の要はここに存在していなかったかもしれない。


「空…今日もいっぱい悪魔を倒したよ…お前を治す薬が今度こそ見つかればいいんだけどな…」

 病院にいても何も変わらない空を家に引き取ってこうやって毎日要は彼女に話しかけている。特効薬は見つかっていないが病状を少しでも遅らせるためにもらった薬をうっすらと開いた空の口に流し込み要は彼女の頬を撫でた。ふっくらとしているのにひんやりと冷たい頬をゆっくりと撫でていく。今ここにいる空の存在を確かめるように、自分のすがるべきモノを愛おしむように、要は空の頬をなでた。

「なぁ…空…お前はいつまで寝てるんだ…?もうそろそろ起きて来いよ…お寝坊にもほどがあるぞ…」

 小さな窓から漏れた月の光が、眠る空の顔をくっきりと映した。その人形のように愛らしく、そしてどこか不気味な白さを見せた顔は今日も変わらない、あの日と何も変わらない。

 そして今日という日が終わり、また次の日がやってくる。明日も、明後日も、要は悪魔を狩り続ける。妹に、ありがとうと言うために―


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