17(十一)

 部屋のドアを開けると私は一目散に冷蔵庫に駆け寄った。

 中からビールを掴み出しプルタブを引くと缶のお尻をぐいっと天井に向けた。

 ゴボゴボと音を立てながらビールが私の咽喉に流れ込んでくる。

 口から溢れた冷たい液体が首筋から服の中に入り込んでくるが構っていられない。

 あっという間に一缶飲み干してゴミ箱に放り込むと、新しい缶を冷蔵庫から取り出して開けた。

 二口ほど飲むと漸く落ち着いた気分になりリビングに向かう。


 テツオは薄暗がりのロフトの上で無言で何かと揉み合っているように見えた。

 私はソファに腰掛け彼の様子を観察した。

 揉み合っている相手は彼が気に入っている電気スタンドだった。

 ドライバーを手に部品を付けたり外したりしては首を傾げている。


「壊れちゃったの?」

「点かなくなっちゃったんだよ」


 カチカチとスイッチを押すが確かに電気スタンドはチカッとも光らない。


「私が中学生のときに買ってもらった年代ものだからね。仕方ないかも」


 寿命と言うものだろう。

 単純な構造だから壊れにくかったのかもしれないが、今日までよくもった方だ。


「大事に使ってたんだね」

「そうよ。それはテツオに貸してるだけで、欲しいって言ってもあげないからね。責任もって直してよ」


 父が読書好きだった私の視力を心配して用意してくれた誕生日プレゼントだ。

 今、この部屋にあるもので父に繋がるものはこれしかない。


「もっと小さいドライバーない?」

「さあ。その辺りに工具箱なかった?」


 一人暮らしでもこういうものがあった方が良いぞ、とここに引っ越すときに兄にもらった工具箱だ。

 素直に頂戴したがそのまま物置代わりのロフトの隅に仕舞いこんで、今日まで一度も開けたことがない。


「このドライバーもこの工具箱の中にあったんだけど」


 そう言いながらテツオはガチャガチャと工具箱を引っ掻き回している。「あ、あった」

 

 テツオは見せたことのない満足そうな表情を浮かべ、再び電気スタンドと格闘を始めた。

 機械をいじるのが好きなのだろうか。

 テツオの表情がいつもより明るい気がする。

 言葉数もいつになく多い。


 私は工具箱をくれた兄に感謝しつつ、その兄からの電話を思い出して気を滅入らせた。

 二缶目のビールを空にすると私はバーボンとグラスをダイニングテーブルに取り出して指一本分ほど注いだ。

 ストレートでちびりちびりと舐めながらソファに戻りテツオの観察を続ける。


 見合いをすることを伝えたらテツオはどういう反応を示すだろうか。


 答えは簡単だ。

 きっと何も言ってはくれないだろう。

 彼が私の話すことについて何か答えを返してくれるのはご飯と雑誌のことぐらいで、仕事の愚痴に対してすらまともに付き合ってはくれない。

 それは私の人生に自分が関わることを一切拒絶しているかのようだった。


 そもそも私にとってテツオとは一体何なのか。


 できることなら恋人と断言したい。


 私は彼が好きだ。

 ずっと私のそばにいて欲しいと思っている。

 だからこそ私は彼の生活に必要なものを買い与え、料理をし、洗濯をし、掃除をし、セックスもする。

 しかし、彼は私のことを恋人と思ってくれているか自信がない。

 恋人という関係は互いが互いのことを好きだという確認と付き合っているという合意がそろってはじめて成り立つというのが私のイメージである。

 その定義から言えばテツオに対して私のことをどう思っているのか確認行為を怠ってきた私は彼を恋人だと言い切ることはできない。


 命の恩人という説はどうだろう。


 二人の出会いは彼が暴漢に襲われているところを私が救ったところから始まる。

 熱に浮かされている彼を必死に看病したのも私だ。

 彼の命は私によって長らえることができたと言っても過言ではない。


 だけど、……と思う。


 あの時私が警察に電話をするふりをして暴漢を追い払わなかったら、あの暴漢もテツオのことを殺すところまではしなかったかもしれない。

 高熱があったのは事実だが放っておけばテツオは間違いなく死んでしまっていたかと訊かれれば、それもどうだか医学的な知識の乏しい私には分からない。

 そもそも三日間も呆けたように公園のベンチに座り続けていたテツオを見て私は何を想像したか。

 それは彼の自殺である。

 もし彼がこの世に何の未練もなくもう死んでしまいたいと切に願ってその方法を考えながら秋空の下で虚空を睨んでいたのだとすれば、私の突然の介入はテツオにとってありがた迷惑だったとも言える。


 いや、そんな想像は悲しすぎる。

 そんなことはないと信じたい。


 ああ、もう。

 考えていても埒はあかない。

 いっそ本人に訊いてみようか。

 私のことをどう思っているのか。

 彼にその答えをもらえば私と彼の関係はクリアなものとなる。


 私はバーボンを口に含みながらテツオを見上げた。

 ロフトの上の薄暗がりにぼんやりと浮かぶ彼。

 あなたは私のことをどう思っているの?


 その問いは声にはならなかった。

 それを訊いてしまったら最後、テツオはどこかに消えてしまう。

 そんな明け方の夢のような刹那的なイメージがテツオの存在にはどうしてもつきまとう。

 今の関係を続けたいのなら何も訊いてはいけない気がする。

 テツオという男を成している輪郭はいつも弱々しくおぼろげなのだが、その境界を見極めようと目を凝らすと急に彼の纏っているオーラが私を強く冷たく突き放すのだ。

 そこにいるのに捕まえようとするとどうしても手が届かない。

 テツオとはそういう存在だった。


 私はバーボンを呷って脳を痺れさせ考えることを放棄することにした。

 つまるところテツオが私の部屋に寝起きし私のお金で食べているところからすれば、少なくともヒモと金づるの関係だとは言える。

 どんなものであれ私の所有するモノのどこかしら何かしらがテツオに絡まっていればそれで良い。


 そのとき突然私の頭上が明るくなった。

 見上げるとテツオが手にしている電気スタンドが光っているのだ。

 まるで私の思考の到着点が正解と言わんばかりのタイミングだった。


「点いたね」

「これでまた大事にしてもらえるな。良かったな」


 そう言ってテツオに傘の部分を撫でられている電気スタンドに私は軽く嫉妬する。


「ほんと、テツオに大事にされて、その電気スタンドは幸せものだわ」


 私の嫌味を理解しているのかどうなのか。

 テツオはいつもの調子で何も言わずに電気スタンドの脇に寝そべって何やら読み始めた。


 私はため息混じりに立ち上がって空になったグラスに再びバーボンを注いだ。

 もう少し酔っ払ったら母に電話をするつもりだった。

 あと一時間もすればテツオがシャワーを浴びにいくだろう。

 その隙に母と今回の見合いの細かい段取りをつけようと思っていた。

 一時間飲み続ければ、少しはおおらかな気分で母と話せるだろうし、テツオのいる前ではやはり他の男と会う話はしたくない。


 しかし、母が見つけてくる見合い相手とはどんな男性なのだろうか。

 対人恐怖症の私を勧めるなんて母も罪な人だと思う。

 しかし、その罪を感じさせないということなら相手も相当の玉であることが想像できる。

 私以上に病的な性格の持ち主であることもあり得る。

 だとすれば、そんな二人が同席して何を語り合うというのか。

 私にはその気はないが、お見合いである以上その二人が夫婦になる可能性だって否定できない。

 そんな夫婦に親と呼ばれて母は嬉しいのだろうか。


「鳴ってるよ」


 珍しくテツオが指摘する。

 私も気付かないふりをしていただけなのだがテツオに言われれば仕方がない。

 私はまだ酔いの回りが足りない身体を起こして鞄の中の携帯電話を覗き見た。


 大方母からだろうと高を括っていたが、意外にも掛けてきたのは青木だった。

 バックミラー越しに見た彼の姿を思い出す。

 そう言えば飲み会はどうなったのだろうか。

 課長や係長は途中で姿を消した幹事のことをどう思っているだろうか。

 私がビールを呷ってみせたことを大河内は周囲の人間にどんな風に吹聴しているのだろうか。


「もしもし?」

「あ、松山さんですか?青木です。今、どこですか?」

「どこって、自分の部屋ですけど」

「そうですか、良かった。僕は今まで課長と係長に付き合わされて、もうへとへとです。あ、そんなことよりも体調はどうですか?」

「体調?」

「飲めないお酒を無理やり飲まされて今頃タクシーの中で失神してないかって心配してたんです。ちなみに僕はさっき無理やり吐いて今の気分はすっきりしてますけど」

「あ、ありがとうございます。私は平気です」


 私はバーボンを啜りながら口先だけの感謝を述べる。


 いつの間にロフトから降りてきたのか、私の脇をすり抜けてテツオが浴室に向かう。

 おそらく気を利かせたつもりなのだろう。

 何も疚しいことはないのにテツオの背中を何故か後ろめたい気持ちで見送っている自分に心の中で舌打ちしてしまう。


「平気だったらいいんです。遅くに電話しちゃってすいません。それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 私は携帯電話を切りながら、心の奥から細波が広がるのを感じていた。

 その波動は私の胸を内側から小さいながらも確実に揺さぶっている。

 何だろう、この感覚。


 いつまで経っても鎮まらない潮騒のような胸のざわめきを持て余し、私はバーボンを一気に喉の奥へ押しやると携帯電話を持ってベランダに出た。


 しばらく酔いに火照る頬を夜風に当てながら、ぼんやりと夜空を眺める。

 青木の方こそ無事に帰れるのだろうか。

 私のために飲めない酒を飲んだ青木。

 彼の言動には私への好意が垣間見えて仕方がない。

 もし告白でもされたら私はどうすれば良いのだろう。

 そんなことを考えていると、さらに頬が熱くなってくる。


 いや、きっと私の思い過しだ。

 青木はいつも世話になっている私に純粋に恩返しする気持ちだったのだろう。

 青木が異動してきてから私は何度も彼をヘルプしてきたのだ。

 私は自分の中に湧き上がってくる想念を振り払うように首を左右に振り、携帯の画面に母親の電話番号を表示させると、そのままの勢いで通話ボタンを押した。

 一度ためらうともう二度とボタンを押せないような気がした。


 彼女は電話の前で待っていたのかというぐらいの素早さで出た。

 殊勝な姿勢で日時を了解し待ち合わせ場所や当日の服装などを確認すると、彼女が飛び上らんばかりに喜んでいるのが受話器越しに伝わってくる。


「これでいつ死んでもお父さんに顔向けできるわ」


 心にもないことを。

 それとも私へさらに結婚のプレッシャーをかけてきたのか。


「言っておくけど、お見合いしたからって結婚するわけじゃないのよ」


 分かってる分かってる、と何も分かっていない軽い口調で応じる母に不安は募る一方だ。

 しかし私の気持ちをよそに、「それじゃ風邪なんかひかないようにね」とあっさり切られてしまった。

 長話をして私が心変わりをするのを恐れているかのようだ。


 サッシを開きベランダから戻ったところで私はハッと立ちすくんだ。

 目の前でジャージのズボンにTシャツ姿のテツオがダイニングテーブルの椅子に座りバスタオルで髪を拭いていた。

 母とのやり取りを聞かれただろうか。

 タオルの影になっていてその表情は窺い知れない。


「もう上がったの?早いわね」


 声が上ずってしまう。

 そんな私とは対照的にテツオは冷静だ。


「そう?いつもこれぐらいだよ」


 時計を見れば確かに十五分ほど経っている。

 テツオがシャワーに掛ける時間はいつもこんなものだろう。


「言われてみればそうね。私、酔っ払っちゃったのかな」


 何を言っているのだろう。

 これしきのアルコールでどうこうなる私でないのはテツオも知っているのに。


 母との会話を聞かれたからと言って何も構えることはない。

 三十路を過ぎて親に婚期を心配されている哀れな女が見合いについて話していただけのことだ。

 テツオだって私の将来に興味などないだろう。

 私との関係に執着があるのなら、テツオの方から「今の電話って」と訊ねずにはいられないはずだ。

 そう頭では考えていても口をついて出てくる言葉はしどろもどろになってしまうのは何故だろう。

 青木との電話以降すっかり私は調子を狂わせてしまっている。


「今日は色々あったし、私もさっぱりしてこようかな」


 ダメだ。

 シャワーに行くとだけ言えば良いのに余計な言い回しをしてしまう。

 執着が強いのはやっぱり私の方だ。

 寂しいけれどそれが事実。

 私は心に吹き付ける寒風に背中を丸めるようにして足早に浴室に向かった。


 温めのシャワーを浴びていると、少しずつ自律神経が平衡を取り戻していくのが分かる。

 鼓動がゆっくりになり、胸のつかえが薄らいで息が楽になっていく。

 壁に頭をつけ首の裏側にお湯をあて、じっくりと温め続けた。

 いつの間にか眠気が訪れ膝の力が抜けてハッと身体を起こしたときには気分は大分良くなっていた。


 パジャマを着て浴室から出ると私は冷蔵庫の羊たちに手を伸ばした。

 冷えたビールが弛緩した全身の筋肉に喝を与える。

 一瞬鳩尾のあたりにカッと熱い塊が湧き起り、それがすぐに血流に乗って広がると、私は一気に浮揚感を得て脳に心地良い痺れを感じ、覚束ない足取りでソファに不時着した。


 ロフトを見上げるとテツオの柔らかな寝息が聞こえてくる。

 彼はそこで毛布にくるまりながら猫のように身を丸めて寝ているのだろう。

 呼吸の規則正しいリズムが耳から心に降り注ぎ私はようやくホッとした気分になれた。


 結婚するなら静かに眠る男性が良い。

 テツオのように辛うじてだが確実にそこで生きていることを証明する穏やかな寝息を立てる人。

 テツオと暮らすようになってから、私はぐっすり眠れるようになっていた。

 アルコールでぼやけた五感で戸外の風の音も感じ取りながらロフトの上から聞こえてくる彼の呼吸に集中していると、いつの間にか私も深い眠りに引きずり込まれているのだ。


 今日もテツオのいるロフトを見上げて眠れる。


 私は生乾きの髪のままベッドにもぐりこんだ。


 こんな日がいつまで続いてくれるのだろう。

 永遠に続いてほしいのに、私は来週他の男と形だけとは言え結婚を前提にした出会いを迎えることになる。

 それは私自身がテツオと暮らすこの安穏とした日々がこのまま天に許され続けていくものではないことを何となく知っているから。

 こんな安らぎに満ちた不安定な生活が死ぬまで続くはずはないのだ。


 私は浮かび上がってくる涙を押しとどめるようにギュッと瞼を閉じてロフトの上に集中しようとした。


 いつまでも続かなくても良い。

 今日だけは昨日までと同じように眠らせて。


 そのとき、そんな私のささやかな願いを打ち砕くように玄関のチャイムが鳴った。


 何かの間違いだろう。

 こんな夜中に私を訪ねてくる人などいない。

 昼間でも訪ねてくるのは呼びもしない新聞や宗教の勧誘ぐらいのものだ。


 私は寝返りを打って再びテツオの呼吸に耳を欹てた。

 しかしどれだけ自分の息を押し殺して集中しても、あの安らかなリズムは聞こえてこない。

 きっと今のチャイムでテツオが目を覚ましてしまったのだろう。

 何ということか。

 酔っ払いのいたずらか知らないが大切な私の睡眠薬を取り上げるような真似をするとは。


 胸がざわつく。

 静まりかけていた五感が苛々とともに蠢きだす。


 そこへ再度の呼び鈴の音。


 いったい誰なのか。

 私に何の用なのか。

 込み上げてくる怒りは自分が眠れないことよりもテツオの安眠を妨げたことに対してのものだった。


 一気に布団を跳ねのけ玄関に向かう。

 カーディガンを羽織り携帯電話をパジャマのポケットに入れた。

 警察を呼ぶのは最後の最後だ。

 テツオが困ることはしたくない。


 ドアの前まで来てチェーンがしっかりかかっていることを確認した。

 傘立てから先端が一番とがっている傘を選んで小脇に抱える。

 私はドアの向こうに立っている不審者に身構えた。

 覗き穴から見ても誰もいなかった。


「どちら様ですか?」


 私は自分をというよりもテツオを守るためにドアを挟んで敵と対峙した。

 身を寄せると鉄製のドアから冷たい夜気が伝わってきて私の身体を凍らせる。


「俺、俺。西川。やっぱりまだ寝てなかったね」


 ドアの向こうから小さな笑い声が聞こえてきて私は身を縮めた。

 全身に鳥肌が立つ。

 悪寒が身体を駆け巡る。


 西川係長。

 私の父親が死んだときに私を抱いていた男。

 妻とは別居していると私に耳打ちして私をホテルに連れ込んだ男。

 嘘と知りつつ求められるままに身体を開いた私。

 西川の妻に投げつけられた抹香の匂いが鼻腔の奥に蘇る。

 あの後、彼は妻の元へ帰り、彼からの連絡は一切なかった。

 私に残ったのは罪悪感と羞恥の気持ちだけだった。

 その負の財産は私の心にいつまでも返しきれない借財として重く重くのしかかっている。


「今日は打ち上げだったんだろ?また飲めないふりを装って窮屈な思いをしてたんだろう。そんなんじゃ酒豪松山の名がすたるぞ。うまいウィスキーを持ってきたんだ。君の部屋で昔のように一緒に飲もう」


 狭い職場だ。

 西川係長が離婚して荒んだ生活を送っている。

 そういう噂が最近私の耳にも届いていた。

 寂しさまぎれに昔簡単に口説き落とせた女のところへ転がりこもうという算段か。

 私は新たな怒りが胸に萌し急速に膨らむのを止めることはできなかった。


「帰って!」


 私は声を押し殺しつつも自分なりの最も厳しい口調で突き放した。


「そんな冷たいこと言うなよ。昔のことは悪かったよ。とりあえず話をしよう。このドアを開けてくれ」

「あなたと話したいことなんて何もないの。さっさと消えて!」

「そう拗ねるなよ。俺と由香里は切っても切れない仲じゃないか。男もそうだが、女は最初の相手のことは忘れられないんだろ?初めての男を……」


 私は怒りに我を忘れ、気がついた時にはドアを開きその隙間から戸外へ傘を思い切り突き出していた。

 傘の先端が予想とは違う固い感触を伝え、次の瞬間ガラスが地面に当たって砕けるような音がした。


 西川が情けなく、ワッと驚きの声を上げる。


「物騒な真似はやめろよ。折角のウィスキーが台無しじゃ……」

「どうした、由香里!こんな遅くにどこのどいつだ」


 私の背後、部屋の奥から男性のどなり声が聞こえてきた。

 私は恐怖のあまり思わず身をすくめる。

 分かっている。

 テツオの声に違いないし、テツオは私を助けようとしてくれたのだ。

 しかし、それはいつもの借りてきた猫のような彼からは全く想像できない、柄の悪さを感じさせる低く重量感のあるどすのきいたものだった。

 こんなに大きくて、怒りに満ちた男性の声はテレビや映画でしか私は聞いたことがなかった。

 テツオが感情を露わにするなんて初めてのことだ。


 西川もテツオの怒声にすっかり怯んだ様子だった。


「お、悪かったな。男がいたのか」


 それならそうと言ってくれれば。


 気勢をそがれた顔でぶつぶつ独り言を言いながら西川は後ずさりして逃げるように去って行った。

 あたりにウィスキーの臭いが立ち込めている。


 私はホッと息を漏らしてゆっくりドアを閉める。

 部屋に戻るとそこは驚くほど何も変わったところはなかった。

 テツオは相変わらずロフトの上で横になっている。


「テツオ、起こしちゃってごめんね。それと……どうもありがと」


 返事はなかった。

 梯子に足を掛けロフトに顔を出すとテツオはやはり猫のように身体を丸めて寝転がっている。

 先ほどの怒鳴り声は本当に彼のものだったのか疑いたくなるほど静かだ。


 ここに来て初めてテツオが私を守ってくれたんだ。


 胸がまだドキドキしている。

 私は不意に愛しさが込み上げてきて寝転がっている愛猫の上にまたがった。

 枕もとの電気スタンドを点けるとテツオが猫の目で眩しそうにこちらを見上げる。

 パジャマを脱ぐと私は温かいテツオの胸に飛び込んだ。


 テツオが私の部屋から忽然と姿を消したのはその翌日のことだった。


 何時かは分らない。

 快楽と酔いで酩酊した私が昼過ぎに布団から抜け出したときにはテツオの姿はどこにもなかった。


 そして今も見つけられないままだ。

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