4(七)

 私は右手で缶ビールを口に傾け、反対の手に持ったお玉で鍋の中のミネストローネをゆっくり掻き混ぜた。

 ロフトの隅で丸くなって雑誌でも読んでいるであろうテツオのことを考えながら。


 テツオは寡黙なヒトだ。

 自分から私に何かを語ってくれることはない。

 会話のきっかけは常に私。

 私が何かを訊ねる。

 すると彼が会話として成立する最低限の返事を私に投げ返してくれる。

 広げることも他方面へ展開することもない。

 私が次の言葉を必死に繋げなければキャッチボールはそこで終わってしまう。


「テツオ?」


 私はコンロの火を消し冷蔵庫に凭れて梯子が掛かっているロフトに目をやった。

 スタンドライトの暖色の灯りの中で、テツオが振り返りそうで振り返らない程度に微かに頭を動かした。

 それが私の呼びかけに対するいつもの彼の返事だ。


 私は今日も不毛な戦いに挑もうとしている。

 アルコールの摂取量に比例して着々と戦闘態勢は出来上がっていた。

 身体がふんわりと温かくて軽い。

 さらに勢いをつけるために缶に半分ほど残っていたビールをググッと咽喉に流し込む。


 私は声を張った。


「今日は何してたの?」

「……別に」


 こちらに背を向けたままのテツオの声は私の耳に届く前に搔き消されてしまいそうなほど小さい。

 それは枯葉が北風に運ばれて冬の誰もいない公園の隅でカサカサと舞い上がる音に似ている。

 私は耳を欹ててテツオの声に集中する。


「冷蔵庫に入れておいたチャーハン、お昼にちゃんと温めて食べた?」

「……食べた」

「どうだったかな?ちょっと塩味がきついかなって思ってたんだけど」

「……大丈夫」


 単語ばっかりの返事をしやがって。

 お前は反抗期の中学生か、と手にしている空のビール缶を投げつけたくなる。

 私は力を込めて右手を振りあげたが、大きく息を吐き、ペダルを踏んでゴミ箱の蓋を開け、アルミ缶を放り投げた。

 ゴミ箱の中は空き缶が溢れんばかりになっていて、投げた缶がゴミ箱から飛び出て足元に転がった。

 私はもう一つため息をつき、両手でくにゃりと缶を潰してからそっとゴミ箱に入れた。


 私も私だ。

 結果は分かっているのに、どうしてこんなにテツオと会話をしたがっているのだろう。

 お酒が入ると性格が様変わりして、お喋り好きの寂しがり屋になってしまう自分が情けない。


 しかし、お酒はおいしい。


 テツオはペットのようだと思う。

 私が作った食事を文句なく食べ、それ以外の時間はほとんど自分のねぐらであるロフトで息をひそめている。

 私が首輪をつけて引っ張り出すぐらいの強引さを示さないと外へ出ようとしない。

 犬というよりは猫に近いだろうか。


 そうだ。

 もし、彼が本当に犬や猫といった動物だったとしたら。

 実は例えば猫が人に姿を変えてそこに寝そべっているのだとしたら。

 今、三往復も人間界の言葉でやり取りがあった。

 それは奇跡としか言いようがない。

 特別な能力を持ち人間の姿を借りている猫。

 猫は気まぐれな生き物だ。

 そう思えば怒りもどこやらへ消えていく。


 私は冷蔵庫を開き、ずらっと並んだ缶ビールの群れを眺めた。

 次はどいつをいただこうか。


 私は本質的にはSなのだろう。

 冷蔵庫からビールを取り出すときは、鶏舎の扉を開き、逃げ惑う鶏を追い掛け回すような気持ちになる。

 それが何とも言えず私を昂らせるのだ。

 だから常に我が家の冷蔵庫のビールは充実している。

 舌で唇を湿らせつつ奥に手を伸ばし、いたいけな若鶏のような缶ビールをまた一本取り出した。


 それに、今日はまだ良い方だった。

 テツオは私が何かを切り出しても頑なに俯いてしまい、私が質問を取り下げるまでじっと押し黙っているときもある。

 それはテツオ自身のことについて訊ねたときに多い。

 そうなってしまってはどうにも埒があかないので、私はすぐに他の話題に切り替えることにしている。

 切り替えたところでテツオが相手をしてくれるとは限らないのだが、何とか会話の糸口を見つけたい私には他になす術がない。


「ご飯できたよー」


 私はリビングの中央にある二人で使うには少し狭いテーブルにペペロンチーノとスープを運び、開けたばかりのビールを啜りながらロフトに呼びかけた。


 テツオは素直に灯りを消すと、梯子を使ってするすると音も無く降りてくる。

 無駄のない動作で素早く私の向かいに腰を下ろし、控え目に合掌をしてフォークを手に取った。


「いただきます」


 確かに今、彼はそう言った。


 また猫の言葉を聞き取ったと微笑んだ私の顔を一顧だにせず、彼は静かにパスタを口に運び始めた。

 おいしそうでもなく、まずそうでもない。

 満足なのか不満なのか。

 眉間や小鼻や目じりの動きに何かしら浮かぶかもしれない表情を逃すまいと私は自分の皿には手をつけず、ただビールを飲みながら正面にある顔に注視する。

 しかし、いつまで経ってもテツオが動かすのは噛むという動作で使う筋肉だけである。


 どうやら今夜もテツオの勝ちのようだ。


「テツオも飲まない?」


 私は彼の前にビールを突き出した。


 二、三秒だろうか。

 彼はじーっと缶ビールの飲み口あたりを見つめていたが、ふと視線を落とすと小さく首を横に振り、また黙々とペペロンチーノを食べ始めた。


 つまらない。

 遠慮せずにたまには付き合ってほしい。

 飲めない体質ならはっきりとそう言ってくれれば良いのに。

 私は半ば自棄気味に、少し乾いてぱさつき出したパスタにフォークを突き刺した。


「青木がさ、あの同じ係の青木だけど、相変わらず仕事遅いんだよね。うちの課に来て四年目なんだから、もうちょっと要領よくパパッとできそうなもんなんだけど、できないんだよね。それで今日、係長に私が叱られちゃってさ。もう少ししっかり青木の面倒見てやってよ、って。松山さんの指導力の問題だよ、だってさ。それを言うなら係長、あんたの指導力でしょっつうの。何で私があいつの面倒みなくちゃいけないのよ。三年目の小島君とか二年目の大河内さんは何も言わなくてもできてるんだから、ただ単に青木が財務の仕事に向いてないだけなのよ。いっつもぼーっとしちゃってさ」


 気付けば私はパスタをフォークでくるくる弄びながら仕事の愚痴をこぼしていた。

 皿の上で何本もの麺がフォークを中心に綺麗な渦を描いている。

 私は冷め始めたペペロンチーノを頬張り、ろくすっぽ咀嚼せずにビールで流し込んだ。


 もともと地味な性格で極度の話下手の私ではあるが、一日の仕事を終えて自分の部屋に帰ってくれば誰かに聞いてほしいことが知らないうちに澱のように胸の中に溜まっていることもある。

 しかし、私が少しでも身軽になろうと他愛もない一日の出来事や翌日の予定について独り言のように呟いている間、テツオは肯定的にとらえれば小さな相槌のような空気の漏れを聞かせてくれるだけだで、「でもさ、それはゆかちゃんの能力が評価されてるからだよ」とか「あと少し辛抱したら異動させてもらえるんじゃない?」などと嘘でも慰めてみせるようなことは一切してくれない。

 一切だ。


「ごちそうさま」


 いつの間にかスープまで綺麗に飲み干し皿を空にしたテツオが再び控え目な合掌をしている。

 彼は私がまだ半分も食べ終えていないことなど全くお構い無しで席を立った。

 私は少し寂しい素振りの上目遣いに思いきり念を込めてテツオを見上げる。


 あのね、もう少しだけ、ただそこに座っていてくれるだけでいいの。


 しかし、女子の取って置きの必殺技も人間の仮面を被っただけの猫には通用するはずもない。


 彼は再び音もなく梯子階段を昇り、自分のねぐらと定めたロフトの一角に帰っていった。


 尻尾を振りながらじゃれついてくる犬とまではいかなくても、もう少し私に心を開いて見せて欲しいと思う。

 しかし、一緒に生活を始めて四カ月近く経ち、テツオに何かを期待しても無駄だということは分かってきていた。

 これが惚れた弱みということなのか。

 最近ではテツオが話し好きで喋り出したら止まらないような私が最も苦手とする性格の持ち主でなくて、これはこれで良かったのだと思うようにしている。


 テツオは私が出す料理の味に文句を言うこともなければ、私の酒びたりの生活に小言一つ言うこともない。

 私が何かを頼めば、例えば電球の交換や部屋に入り込んだ蜂の始末は何も言わずにやってくれる。

 だからと言って私に対してどれぐらいの愛、愛でなくても情のようなものが彼にあるのか彼の泰然自若とした態度からは私には推し量りようがなかった。

 世話はかからないが、何を考えているのか分からない。

 本当に猫のようなヒトである。

 そういえばどことなく身のこなしが、小学生のときに一度は拾ったが母親に叱られて捨ててきた白い野良猫に似ているような気がしないでもない。

 そんなところに私がテツオを手放せない理由があるのだろうか。


 缶はいつの間にか空になっていた。

 私は舌打ちをして、のそのそと次の生贄を求めて冷蔵庫に向かった。

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