時をかけるフォトグラフ

清良 駿

第1話 春

 僕らしいと思われる人物が、薄暗い道を歩いている。先が見えない空間の中で、同じ場所を何度も周っていた。なんとなく、背中を強く押されている様な気がする。すると突然、辺り一面が明るくなった。どのくらい離れているのか分からないけど、小さな女の子が立っている。強い光の反射で顔が良く見えない。彼女の方へ恐る恐る近づくと、大きな黒い穴に落とされた。そして、なぜだか分からないが〝ごめんなさい〟と何度も謝っていた。自分で体の硬直を確かめている。夢と現実の世界に挟まれ、抜け出す事が出来ないのだろう。頭の中で、手足が動けという信号を送っている。どこかへ落ちて行く描写の中で、はっと目が覚めた。額から首筋にかけ、びっしょりと汗をかいていた。呼吸は乱れ、薄暗い天井が押し迫って来る。〝まだ続いているのか〟それは無いと自問自答している。時という感覚が戻り、自然に喉の渇きを憶えた。しばらくしてベッドから起き上り、キッチンへ向かった。月明かりが薄っすらと、リビングの床を照らしている。無機質のシンクが視界に入り、ゆっくりと蛇口に顔を近づけた。口の横から水がこぼれ、小さな穴へ吸い込まれて行く。流れて行く響きにリンクされたのか、涙が頬を伝わった。言葉に出来ない悲しみが、どこからか突然襲って来て、体を強く締め付けている。震える体を両手で抱きしめ、ソファへ倒れ込んだ。それと同時に激しい眠気が押し寄せてきた。

かける、翔、起きなさい、ねえ、翔」

 母が、かけにいの体を揺さぶっている。私は幼い頃から、兄の事を〝かけ兄〟と呼んでいた。だから今でも、そう呼んでいる。かけ兄と私は、歳が2つ離れていた。幼い頃から、いつも背中を追っかけていた記憶が残っている。そんな私を、舞、舞と呼んで、かわいがってくれた。それが今では、映画を見ている様な感じになっている。私は違う空間にいて、そんな様子を見ているだけだ。何故だか分からない。気がつけば、そうなっていた。ここには、私ひとりだけの空間が確かに存在している。ふたつの世界は、繋がっている様な気もするが、そうでも無い気もする。たぶん一方通行みたいな感じで、向こうからは何も見えない。ほとんどの人々が、見えないものを信じないみたい。遠い昔の人達は信じていたのにね。

「こんな所で寝て、憶えていないの?」

「あっ、ご、ごめん」

 かけ兄が、両手で頭を抱えている。辛そうだ。きっとまた、自己嫌悪に襲われていると思う。母はそれ以上何も聞かず、冷たい視線を送りながら、キッチンの奥へ消えて行った。かけ兄を苦しめている後悔の想いは、知らぬ間に母へ送り続けられている。誰も受け止めてくれない気持ちは、時を刻む様に少しずつ増えて行く。

 お湯の沸騰を知らせる耳障りな音が、キッチンで響いている。それが合図かの様に、かけ兄は、そっと立ち上がり部屋へ戻った。そして、壁に貼ってある何枚もの写真を見つめていた。かけ兄が撮った物で、自然の風景ばかりしか写っていない。すると突然、一眼レフのデジタルカメラを手に取り、部屋から通じているベランダへ出た。高層マンションから見える複雑な景色が、癒しを与えているのかな。ファインダーの枠に納まる小さな世界を見つめ、時を忘れているみたいだね。高速道路を走る車が、渋滞に巻き込まれ長い列を作っている。その奥には、港に隣接された無機質なランドタワーが見える。赤い鉄橋の下を大きな貨物船が通過して行く。そのタイミングを見計らい、シャッターを押したみたい。撮った風景を真剣に見つめている。落ち着きを取り戻したのか、薄っすらと笑みがこぼれた。

 かけ兄は部屋へ戻り、パジャマをベッドの上へ脱ぎ捨た。そして、体を軽く動かし始めた。立て掛けてある鏡に、細く引き締まった体が写し出されている。普段は、あまり運動をしないけど、ストレッチだけは日課としてやっているみたい。紺色のブレザー、白いシャツ、チェック柄のネクタイ、灰色のズボンが壁に掛かっている。かけ兄が通っている神奈川県立港南高校の制服だ。今日から新学期が始まる。それと同時に、高校生活の終わりが近づいている。希望や夢を抱く反面、不安も襲って来る時期だよね。かけ兄の脳裏に浮かぶのは何だろう。希望ある未来なの。それとも、戻れない過去を追い続けるつもりなのかな。かけ兄は制服に着替えると、愛用のデジタルカメラを鞄へ放り込んだ。

「朝ごはん、食べていかないの?」

「う、うん」

 かけ兄の弱い返事は、母の強い言葉で押され、何処かへ飛んで行きそうだった。

「今日も仕事で遅くなるから」

「分かった」

 かけ兄は俯きながら答えると、逃げるようにして玄関へ向かった。一緒に居ても目に見えない孤独感が、2人の間を引き離している。ドアが閉まる音と同時に、母は用意してあった朝食をゴミ箱へ投げ捨てた。母の心に残っている怒りや悲しみは、何処にも捨てる事ができないみたい。

 エレベーターのドアが閉まる寸前に「乗りまーす」と声が聞こえた。

 かけ兄が『開ける』のボタンを何度も急いで押している。

「間に合った。セーフだ」「良かったね、お兄ちゃん」

 黒と赤のランドセルが揺れている。

「ありがとうございます」

 少年の元気な声が響いた。

「あっ、うん」

 かけ兄の小さな声を掻き消す様に、ドアがゆっくりと閉まった。

 2人の話し声が、狭いエレベーター内に響いていた。少女の方が何か忘れ物をしたらしく、少年が心配するなと声を掛けている。すると少年は、ランドセルから鉛筆と消しゴムを取り出し、少女へ手渡した。少女の顔が笑顔になっている。そんな光景に、かけ兄の目頭は熱くなっていた。時として、見えない心が見えてくる。

 

 かけ兄は自転車へ乗ると、緩やかな坂道を下り川沿いに出た。心地よい春風が、桜の花びらを揺らしている。まるで、人々の新しい門出を祝福している様だった。かけ兄の手が一瞬、担いでいる鞄に伸びた。撮りたいと思う衝動を抑えながら、前へ進んでいる様に見える。写真は瞬間的に時を止め、人の思いを収める事が出来る。しかし現実の世界は、止まることなく永遠に進んで行く。ふと立ち止まると、何かに追い越されてしまう様な気がするのかな。もう二度と同じ瞬間に出会わないかもしれないのに。例え、そんな風に思っていても、自分でシャッターを押すには勇気がいるかもしれない。さらには、複雑化した社会に乗り遅れない様、ずっと前を見て歩いて行かなければいけないのかな。気が付くと、様々な事を何の疑問も無く受け入れている。なぜだろうと思う気持ちは、直ぐに何処かへ消え去ってしまう。社会というレールに乗れば安心感が増して行き、そこから脱線すると自分を押し殺さなければいけないのかな。前を向く事は大事だと思う。でも、立ち止まってみると、色々な景色も見えて来るのに。

 そう思うよね、かけ兄。

 赤い鉄橋が近づいて来る。今朝方、この大きな建造物を、小さなカメラの中へ収めたよね。高層マンションから見える景色とは違い、鉄の重厚な質感が分かる。近くから見ないと分からない世界が広がっている。かといって足元ばかり見ていても、周りとの繋がりは分からない。きっと写真には、各々の性質が現われ、目には見えない何かを写し出すに違いない。かけ兄は、鉄橋の真下でシャッターを押した。そして、撮った写真には目もくれず、自転車を走らせた。ファインダーから見た世界に何を感じたのだろう。

 さらに進んで行くと、駅が見えて来た。そこから出て来る人の波が、緩やかに続いていた。みんな同じ方向へ歩いて行く様な気がする。その大きな波に逆いながら、かけ兄の自転車が進んで行く。しばらくすると、神奈川県立港南高校が見えて来た。道路の脇には、真新しい制服に身を包んだ新入生達が歩いている。太陽の光と同じぐらい、眩しく輝いていた。

 かけ兄は、校門を抜けて自転車置場へ向かった。

「おはよう、翔」

 聞き慣れた声がする。かけ兄は振り向くと同時に、何も持っていない手で、シャッターを切った。親友が、変なポーズを取っている。思わず、笑ってしまった。

「おはよう、慎平」

 私は、かけ兄の親友を勝手に〝シンペ〟と呼んでいる。もちろん彼にも、私の声は聞こえ無い。かけ兄とシンペは、この高校で出会った。共通の趣味であった写真を通じて仲良くなり、現在も親交は続いている。かけ兄と違って、シンペの方はラジコンにアニメという趣味も持っていた。当然2人共、写真部に所属している。でも今の所、彼ら以外に部員は存在しない。もし今年中に新入部員が入らなければ、廃部になる可能性だってある。大丈夫なのかと、いつも心配している。

「やっぱり勧誘しないと駄目かな?」

 シンペが眼鏡のレンズを拭きながら、独り言の様につぶやいている。

「そうだな。やっぱり写真部の暗いイメージを変えないと駄目なんじゃないか」

「コスプレでもするか?」

「外見じゃなくて、写真を通して何かを伝える事が大事だと思う」

「そういえば去年、サッカー部が全国大会に出場して、ベスト4まで進んだ時ー。翔が撮った渾身の一枚」

「あー、あれか」

「評判は良かったよね」

 学校から頼まれて撮った写真が、スポーツ記者の目に留まり、サッカー雑誌に載り少しだけ話題になった。

「噂をすれば、ほら見てみろよ」

 シンペが校門の近くを指差しながら、羨ましそうに言った。サッカー部で、エース番号の10番を付けている中田修二さんが、新入生達に囲まれながら歩いている。彼は高校1年の時から、レギュラーとして活躍していた。学校側も悲願の初優勝へ向け、必死にサポートしている。また、彼のプロ入りは確実みたいで、マスコミやファンの熱狂振りも凄かった。しばらくの間、収まる気配は無さそうだね。私も密かに彼へ好意を抱き、応援している。

「いったい僕達と何が違うのかな?」

「まあ、そう言うなよ。僕達は僕達だよ」

「おー心の友よ」

 シンペは、かけ兄の肩に手をかけると、何かのアニメソングを歌い出した。私が現実の世界で〝シンペ〟と呼び捨てで呼んでも、きっと怒らないよね。

 授業が終わり、かけ兄とシンペは部室に行こうと急いでいた。

「朝比奈、ちょっといいか?」

 担任の氷川先生が、かけ兄を呼び止めた。

「あっ、はい」

「先に行っている」

 シンペは、小声でそう伝えると、先に教室から出て行った。かけ兄と先生が、向かい合う様にして座っている。少しだけ開いている窓から、新入生達の騒がしい声が聞こえてきた。興味のある部活を見学しているのかな。

「誰か入部しそうか?」

 先生は写真部の顧問もしていて、かけ兄の事をいつも気に掛けてくれる。

「今年は何とかしないと後がありませんから」

「そうだな。ところで朝比奈を呼び止めたのは・・・この件だ」

 先生は白い用紙を机の上に置いた。何だろう。かけ兄は用紙から目線を外し、自分の膝を見つめている。用紙に書かれている内容とは進路の事だった。この学校では3年生に上がる前、大学進学コースの申し込みをしなければいけない。

「就職するのか?朝比奈の成績なら十分に大学へ行けるぞ」

「家を出て自分の力だけで生活がしたいんです」

「どうして急ぐ必要がある。やりたい事でもあるのか?」

 かけ兄は返す言葉を失い、申し訳なさそうにしている。先生は、かけ兄の事を、ずっと前から気に掛けてくれていた。どうして本心を伝える事ができないのだろう。歩んできた人生を白紙に戻したいと思っている限り、人は立ち止まってしまう。かけ兄が逃げようとしても、それはきっと心の中まで追いかけて来る。かけ兄の好きな写真は、何度も撮り直しが効くかもしれない。でも、同じ写真は残らないよね。真剣に人生と向き合っているからこそ、絶好のシャッターチャンスを逃さず、前へ進む事ができると思う。

 そう思わないの、ねえ、かけ兄。

「もう一度、母親と話し合ったらどうだ?」

「いえ、大丈夫です」

「なあ、朝比奈、写真を撮る上で大事な事は何だと思う?」

「たぶん・・・心の眼ですか?」

「それも大事な事だ。でも私は・・・被写体の背景を感じる事が大事だと思う」

「背景ですか?」

「そうだ。歴史や人生、そして自然によって変化していく物事。苦しくても生きていく中にこそ、見えない背景が隠れている。それらを感じながら撮った写真には、大きな力があると思う」

 生きている人間の苦しみを取り除く方法は、どこかに存在するのかな。文明が作り出した写真という知恵の結晶は、かけ兄の背中を押してくれるかもしれない。私が歌手になりたいと言った時、じゃ僕は曲を作る。漫画家になりたいと言った時、じゃ僕はアニメを作る。そう言っていつも、私の背中を押してくれた。でも私は、かけ兄の背中を押して上げる事が出来ない。誰かから背中を押されると、勇気みたいな力が涌いてくるのは何故だろう。可能性という力は、全ての人間に備わっていると思う。きっと、取り出す方法が分からないだけだ。

 かけ兄は中学に入ってから、写真に興味を持ち始めた。きっと、あの小さな出来事が影響している。

 小学6年生の時だった。かけ兄が、壁に張られた修学旅行の写真を眺めている。その横に立っている子が、必死で自分の写真を探していた。彼女は、かけ兄と同じクラスで、物静かな生徒だった。残念な事に、小さな彼女しか写っていない。その様子を見ていた担任の先生は、彼女を廊下へ呼んだ。そして、そっと封筒を渡した。その中に入っていた写真には、彼女の大きな笑顔が写し出されていた。きっと先生が、個人的に撮った写真だと思う。先生の思いやりが写真へ伝わり、それが流れる様に彼女へ伝わった瞬間だった。かけ兄は、そんな光景を心の中に留めた。人の心を変える力は、決して特別なものではないと思う。きっとそこに働く力は、日常の生活に溢れている。只、見過ごしているだけだ。もっと深く観察していると、目の前に広がっているかもしれない。

 そう信じるよね、かけ兄。

「まだ時間はある。もう一度、良く考えろ」

「・・・はい」

 静まり返った教室に、かけ兄の小さな声は響かなかった。誰でも、夢は持っているかもしれない。でも叶わないと思ったら、自分の心に閉じ込めてしまう。勇気を出して前へ進めば、何かが見えてくるかもしれない。自身がやりたい事と、夢が一致するとは限らない。とりあえず前へ進む事によって、夢に似た使命みたいな事を感じられるかもしれない。

 私は、そう思うよ。

 部室にいるシンペは、パソコンで写真の画像処理を行っていた。

「すいません」

 シンペは、座っている椅子を回転させながら振り向いた。部室のドアに新入生と思われる女の子が立っている。ショートカットが良く似合っていた。

「廊下の突き当たりを左に曲がると、ダンス部があります」

 シンペは、彼女の顔を見ながら勝手に答えている。

「いえ、そうじゃないです」

「あっ、もしかして吹奏楽部?突き当りを右です」

「あのー。写真部に興味があって」

「あー写真部ね。えー」

 彼女は、シンペの大きな声に驚き、後ろへ下がった。するとタイミング良く、かけ兄が入って来た。

「きゃ」「何だよ」

 かけ兄は、思わず彼女の肩を掴んだ。彼女は再び「きゃ」と驚きながら、横の方へ飛び跳ねた。

「大丈夫か?」

 シンペが笑いながら問い掛けた。3人は互いの顔を交互に見ている。

「ところで・・・君は誰?」

 かけ兄の困惑した顔が見える。

「あっ、始めまして1年の中田美紀といいます。入部の希望です」

「えっ、どうして写真部に?」

「えっ、どうしてって?あっ、そっか、これです」

 美紀と名乗った新入生は、鞄から雑誌を取り出した。見覚えのある人物が、大きく写っている。サッカー部の修二さんだ。ミドルシュートを打つ瞬間のショットで、見ているだけで躍動感が伝わってくる。去年、かけ兄が撮った写真だよね。

「あーもしかして、彼のファン?」

「違います。私のお兄ちゃんです」

「えー」「えー」

 かけ兄とシンペが、同時に声を出し驚いている。待ちに待った入部希望者が、人気者の妹である。驚くのも当然だよね。2人は頭の中を整理している。

「この写真を見て感動しました。どなたが朝比奈さんですか?」

 かけ兄は、照れながら自分を指差した。すると彼女は「会いたかったです」と言って、かけ兄の手を握り喜んだ。シンペは、その様子を羨ましそうに眺めている。かけ兄は、我に帰り彼女の手を突き放すと、シンペの肩を掴み部室から出て行った。

「どうする、慎平」

「別に気にしなくてもいいと思う。これで写真部が明るくなる」

「また呑気な事を言っている。何か目立ち過ぎないか?」

「心配しすぎだよ。とりあえずは、様子を見るという事で、な、大丈夫、大丈夫」

 シンペは、話を切り上げて部室に戻った。かけ兄の顔には、まだ不安が残っている。気にしすぎだよ。

「何も問題は無いです」

 シンペの言葉を聞いて彼女は喜んだ。

 彼女が、机の上にあるデジタルカメラを眺めている。

「どれも大きくて重そうですね?あっ、これなんか丁度いいかも」

 彼女はシンペが大切にしている、ライカの小型一眼レフを手に収めた。

「あっ、それはライカと言って凄く・・高・・い」

「私、一眼レフのデジカメって持っていないの。先輩、貸してください」

 彼女は、シンペの言葉を遮り大きな瞳を輝かしている。初めて言われた〝先輩〟という言葉が、シンペの耳に心地よく残っているみたい。

「あっ、うん」

 シンペは少し照れながら返事をした。かけ兄と私は、必死に笑いを堪えている。でも本当に良かった。これで廃部は無くなりそうだね。

 

 かけ兄は学校を出ると、駅に併設しているショッピングモールへ向かった。大きなデジタル時計の表示が、6時丁度になり音楽が流れて来た。私は思わずメロディーを口ずさんだ。駅前は会社帰りの人や学生達で混雑していた。かけ兄は駐輪場に自転車を置くと、エレベーターで地下へ降りていった。カメラショップの『FINDER』という看板が見える。店内は差ほど広くなかったが、豊富な品揃えで、専門的な知識を持ったスタッフが働いていた。ひとりの女性スタッフが、かけ兄へ近づいて来る。

「久しぶり。元気?」

「うん」

 彼女の名前は水野葵さん。かけ兄の2年上で、写真部の先輩だった。相変わらず落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「撮ってる?」

「うん」

 かけ兄は、鞄から小さなアルバムを取り出して彼女へ見せた。彼女の真剣な眼差しが見える。かけ兄もまた、彼女の横顔を見つめながら、昔の事を思い出していた。

 僕は・・・彼女から写真のモデルになってほしいと頼まれた。初めは断っていたけど、彼女の根気に負けてしまった。撮影場所は、廃墟になっていたビルディング。割れた窓ガラスや空き瓶が床に散乱していたのを良く覚えている。彼女は真剣な眼差しで言った。服を脱いで自由になってほしいと。彼女の荒い呼吸と、シャッター音が耳に残っている。そして撮影が終わると、彼女は黙って僕にキスをした。初めての感触が唇へ伝り、心臓の鼓動は早くなっていた。

 かけ兄は、時々、こうして思い出している。あれは夢だったかもしれないと。半年前、かけ兄は偶然、この店で彼女を見つけた。彼女はフリーカメラマンのアシスタントをしながら、この店でアルバイトをしている。

「相変わらず自然の風景ばっかりだね。でも翔の力を感じる」

「ありがとう」

 かけ兄は緊張しながら、ポケットの中でチケットを握り締めていた。彼女が大好きな写真家である、ピーター・ウィルソンの写真展が開催されている。写真が好きであれば誰もが知っているだろう、ピューリッツァー賞を受賞している。言葉では決して伝えきれない真実を表す為に撮る。微妙な表情や色合い、目には見えないが必ず存在する秘めた力。多くの写真家たちが追い求める希望の光や闇は、本当に存在するのかな。かけ兄も、それらを追い求めているのだろうか。

「ごめん、お客が呼んでいる。またね」

「あっ、うん」

 かけ兄は彼女の長い黒髪を目で追いながら、掴んでいたチケットを離した。絶好のシャッターチャンスを逃した時のような顔になっている。そして、深い溜息を吐いた。きっと、心と体が別々の道を歩いている。

 残念だったね、かけ兄。

 外の気温は、肌寒いと感じるぐらい下がっていた。天井がない大きなホールの真ん中から、夜空に向かって光が出ている。それを囲む様にして、多くのカップルが肩を寄せ合っていた。かけ兄は真ん中の光にピントを合わせ、ぼかして撮ってみた。写真の中に人物を入れるなんて、久しぶりじゃないかな。何となく浮かび上がって見える人物像が、白い魂みたいに光と融合していた。言葉に出来ない思いが写真の中へ吸い込まれて行く。新入社員と思われる団体が集まって騒いでいる。その間をすり抜ける様にして、かけ兄の自転車が颯爽と走り去った。

「こんばんわ」

 元気な声がマンションの自転車置き場に響いた。かけ兄が今朝方、エレベーターの中で会った少年が立っている。

「あっ、こんばんわ。こんな遅くまで遊んでいたの?」

「塾に行っていました」

「大変だね。あっ、僕の名前は朝比奈翔です」

「新庄健太です。えーと、4年生になりました」

「あの女の子は、えーと、健太君の妹だよね?」

「そうです。萌子は2年生です」

「2年生か・・・」

 私も思わず、2年生かと呟いた。2人を乗せ、エレベーターが上昇して行く。かけ兄は過去へ戻り、健太君という少年は、未来へ向かって進んでいる様だった。目に見えない暗い過去と明るい未来が、狭い空間の中で絡み合っている。

 僕は、重たい玄関のドアを開けた。目の前に薄暗い廊下が現われ、どこかへ吸い込まれそうになる。明かりを点けても、何となく寂しさは消えなかった。ラップに包まれた夕食がテーブルの上に並んでいる。直ぐに食事を済ませ、デジタルカメラを持ってベランダへ出た。目の前に宝石の様な光が現われ、巨大な建造物は姿を消している。氷川先生の〝被写体の背景を感じる事〟という言葉が頭に浮かんだ。暗闇があるから光は輝きを増して行く。互いに性質は違うが、うまく融合しながら調和している。周囲との関係性があるからこそ、自分自身が輝いて行けるのだろうか。

 私は横で感心する様に頷いていた。暗い海に船の明かりが光っている。見つけてほしそうに光る小さな輝きを、かけ兄はカメラに収めた。

 何を見つけたの、かけ兄。

 

 数日後、かけ兄は部室で、ボーとしていた。ポケットから写真展のチケットを取り出し見つめている。葵さんを誘う勇気が無いみたいだね。

「翔先輩の悩む姿」

「うゎー」

 美紀がカメラのファインダーを覗きながら立っていた。とても明るい子だよね。なんだか親近感が涌いてくる。もし生きていれば、友達になりたかったな。

「ビックリさせるなよ」

「だって、声を掛けだけど返事しなかったから」

「あっ、これ何」

 彼女は、かけ兄の手からチケットを奪い取った。

「ピーター・ウィルソン勇気の写真展?もしかして私と一緒に?」

「違うよ」

「誰と行くの?」

 かけ兄は返答に困って「分かったよ」と言ってしまった。彼女は喜びながら、チケットにキスをしている。

「慎平には内緒だからな」

「分かっています。だってデートだからね」

「違うと言っているだろう」

 彼女は喜びながら部室を後にした。

 窓から赤い夕日が差し込み、床の色に変化をもたらしている。何だか静かだね。するとボールを蹴る音が、グラウンドから聞こえて来た。かけ兄が窓の方へ近づいて行く。修二さんが、サッカーゴールに向かって何度もボールを蹴り込んでいた。彼以外に部員の姿は見えない。かけ兄は、デジタルカメラと鞄を手に取り、急いでグランドへ向かった。スパイクが砂に擦れる音が、だんだん近くなって来た。ボールを蹴る音と、シャッター音が交差して行く。ファインダーから覗く彼の姿は、どう写っているのかな。去年よりも確実に鍛えられた太腿の筋肉が、シュートを打つたびに浮かび上がっていた。彼は蹴るのをやめ、かけ兄と私の方へ近づいて来た。

「隠し撮りかい?朝比奈、翔」

 スポーツマンらしく日焼けした顔から、白い歯が見えた。たぶん、2人が話しをするのは始めての事だと思う。

「あっ、すいません」

 名前を呼ばれ、かけ兄が驚いている。

「君の話は良く聞くよ。何だか妹が世話になっているみたいで。思った事は何でも口に出して行動するタイプだから、何かと困ってないか?」

「い、いえ、大丈夫です」

「ところで、俺も気に入っている。去年、君が撮った俺の写真」

「あっ、ありがとう。あのー、どうして中田君は残って練習しているのですか?」

「同い年だし、敬語はやめないか。それと呼ぶのも修二でいいよ。ボールを蹴っている時だけ、何もかも忘れて集中できる。君もそうじゃないのか?そのカメラ」

「う、うん、そうかもしれない」

「俺たち似ているかも?さっき撮った写真、見せてくれよ」

 かけ兄の気持ちに少しだけ変化が現れている。今までなら、好んで人物を撮ろうとしなかったのに。

 何だろうね、かけ兄。

 

 日曜日の駅前は、カップルと家族連れで賑わっていた。かけ兄は、待ち合わせの10分前に来て美紀を待っている。真新しい黒のジャケットとスニーカーが目立っていた。かけ兄は心の中で〝これじゃ本当にデートみたいだ〟と思いながら後悔していた。何だか、初々しいよね。

「翔先輩、待ちました?」

「い、いや、今来たところ」

 私は美紀の耳元で〝朝からソワソワしていたよ〟と呟いた。彼女は、体のラインがはっきりと分かるワンピースに、薄いカーディガンを羽織っていた。かけ兄が、彼女の足元を見て驚いている。同じブランドの色違いを履いていた。それを見た彼女が必死に腕を組もうとしている。もう少し積極的になれば良いのに。

 ねえ、聞いている、かけ兄。

『ピーター・ウィルソン勇気の写真展』はショッピングモールの特設会場に設けられていた。最終日とあって入り口には多くの人が並んでいる。かけ兄は、大切にしている彼の写真集を手に持っていた。表紙には幼い少女を抱いている若い兵士が写っていた。写真家と言っても、そのジャンルは様々にある。かけ兄の側にいると、色々な情報が入って来る。自然や風景、ファッションにアート、そして戦場という特殊な世界。世代を超え多くの人々に勇気を与えている。

 僕は答えを求める様に、一枚の写真をずっと見つめていた。彼の代表作『壁の兵士』という題名。ひとりの兵士が背中を向け、爆撃から住民を守る様にして立っている姿で、緊張感が伝わってくる一枚だ。戦場という危険な状況だからなのか、それとも兵士の背中が何かを訴えているのだろうか。きっと、答えなんか無いかもしれない。あるとすれば、この写真によって働いた影響が、何かの形に表われた時かもしれない。

 きっと表せるよ、かけ兄なら。

「写真に隠れている背景か」

 僕は小さな声で、白黒の大きな写真に問い掛けた。

「死の恐怖を感じる事で、生きる事を訴えている様な写真。手が震えたのか、ピントが少しずれているよね」

 聞き覚えのある声が耳元へ響いた。

「えっ」

 僕は驚きながら隣を見た。

「久しぶり、でもないか」

 葵さんは写真から目を離した。ひとつに結んでいる長い黒髪のせいか、目が少し吊り上っている。細めの黒いジーパンに真っ白なシャツを着ていた。肩に掛けている茶色いベルトの先には、小さいデジタルカメラが吊るされている。

「もしかしてデート?」

「ち、違いますよ」

 かけ兄の慌てている様子を見ながら、葵さんと美紀は一緒に笑っていた。かけ兄が弁解する様に説明している。

「へぇー新入部員か。これで廃部は免れそうだね」

「あっ、うん」

 葵さんの言葉に、かけ兄が照れている。

「あっ、そうだ、もし良かったら、今からランチでも行かない?」

「はい、喜んで」

 葵さんの誘いに、美紀の元気な声が響いた。彼女が嬉しそうに、葵さんの腕に手を絡めている。本当に天真爛漫な人だよね。かけ兄の呆れ顔をよそに、2人はランチの話で盛り上がっている。3人は、釜戸で焼くピザが有名なカフェレストランに入った。大きな窓からは、横浜港に浮かんでいるヨットが見える。時より吹く潮風の香りと、ボサノバの曲が心地よく流れていた。周りの席を見ると、やはりカップルが多い。そんな事は気にならないのか、葵さんと美紀は、テラスへ出て写真を撮っていた。どうやら本当に波長が合ったみたいだね。少し羨ましいな。

 おいしそうな焼きたてのピザを囲む様にして、3人が座っている。

「どうして写真部に入ったの?」

 葵さんが美紀に向かって聞いている。

「翔先輩が撮った、お兄ちゃんの写真がサッカー雑誌に載りましたよね。それを見て、どんな人が撮ったのか気になって」

「あーあの写真ね。どうして気になったの?」

 美紀が2人に向かって説明している。修二さんは中学生の時から、天才サッカー少年と言われ有名だった。しかし、彼女は天才という言葉に疑問を感じていた。地道な努力を一瞬で掻き消してしまう魔法の言葉である。彼女は叫びたかった。〝お兄ちゃんが蹴ったボールの回数や、走った距離を知っているのか〟彼女は練習や試合の様子をビデオで撮りながら、彼が追い求めている理想のフォームを探していた。そんな時偶然にも、かけ兄のカメラに完璧なシュートを打つ瞬間が収められた。人生において、偶然という出来事は多くあるよね。でも、深く考えずにいると、通り過ごしてしまう。そこには必ず意味があると信じ行動して行く。その中にこそ、新たな道が開かれるかもしれないね。

 今私、いい事言ったよね、ねえ、聞いている、みんな。

「努力した結果が形になった瞬間」

「だから、あれは偶然に撮れたから」

 美紀の力強い言葉に、かけ兄の弱弱しい言葉が交わった。

「そうかな?人間は潜在能力を持っている。普段の行動や練習が無意識に出るかもしれない。お兄ちゃんみたいなスポーツ選手を見ていれば分かるわ」

 僕は美紀の意外な言葉に驚いていた。

「でも凄い洞察力よね。たった一枚の写真から感じ取れるなんて。写真家に向いているかもね?」

「またー。何も出ませんよ。私は翔先輩の写真に興味があるの」

「へぇー、モテモテだね」

 葵さんは美紀の言葉を軽く受け取り、かけ兄へ渡した。

 かけ兄は照れを隠す様に、冷たくなったピザを口に放り込んだ。

「あっ、そうだった。私、仕事で海外へ行くの」

 葵さんの言葉は、軽い様で重みがあった。

「えっ」

「うそ、凄ーい」

 かけ兄が放った小さな驚きは、美紀の大きな声に掻き消されていた。

「どこの国へ?」「アジアから中東かな」「どれくらいの期間ですか?」「3年ぐらい」「ひとりじゃないですよね?」「当然」「彼氏ですか?」「ひ・み・つ」

 僕は黙って彼女達の会話を聞いていた。聞きたい事が山ほどあるのに、言葉として表す事ができない。思い描いた言葉は、心の中に閉じ込められ、行き場をなくしていた。まるでクローゼットの奥にある古いアルバムみたいだった。シャッターを押すのと、新たな一歩を踏み出す時の違いって、どこにあるのかな。勇気ある言葉や写真が、人生を変えてくれるのかな。僕は、変わりたいと思っていた。押し殺した言葉の数々は、どんどん蓄積され今にも溢れ出しそうだった。

「先輩、もしかして寂しい?」

 美紀は、かけ兄の顔を覗き込んだ。

「そんな分けないだろう」

 かけ兄の照れた顔を見ながら、2人が笑っている。

「へぇーそうなの。私は寂しいけどな」

 そう言って葵さんは甘えるような目で、僕を見た。

「やめて下さいよ」

 僕は慌てて立ち上がり、トイレへ行くと言って逃げた。もうひとりの自分が鏡に映っている。〝お前はそれでいいのか〟僕は心の中で自分に問い掛けていた。鏡の前にいる自分は、僕を黙って見つめ、何も答えてくれない。席に戻ると、葵さんの姿は無かった。彼女が残したメッセージは〝またね〟の一言だけだった。何かを期待して待たない方が楽かもしれない。赤い夕日が港を染めている。もう少しで、色とりどりにライトアップされた風景が浮かび上がる。僕と美紀は、日が落ちるのを待たずに立ち上がった。

「3週間後の土曜日、成田発バリ島行き、午後の1時だって」

 美紀が別れ際に振り向いて、僕へ言った。彼女の力強い眼差しが見える。時より見せる彼女の違う一面。僕の気持ちを見透かした様に黙って見つめている。小さく頷くと、彼女の顔に笑顔が戻った。何だか、背中を強く押されてしまった。

 僕は、ショッピングモールの駐輪場から自転車を押して駅前へ出た。目の前にいたカップルが、スマートフォーンで写真を撮っている。すると、写真を撮ってくれませんか、と頼まれた。僕は了解すると、まず建物で試し撮りをしてみた。2人が不思議そうに、僕を見ている。ある程度の性能を確かめているだけなのに。撮り終わった写真を見せると、何だか驚かれてしまった。カップルが向かっていく先に、スカイホテルが見える。ホテルの入り口付近に目をやると、見覚えのある女性が立っていた。僕は思わず顔を伏せ、近くのベンチに座った。母が辺りを見回しながら誰かを待っている。僕は鞄からデジタルカメラを取り出し、ファインダー越しに母を見ていた。

 舞の事故以来、母と僕の間に大きな溝が生まれた。僕は必死に溝を埋めようと努力していたはずなのに・・・どうしてだろう。

 黒いスーツを着た中年男性が母に近づいて行く。身長が大きく、体格の良さが目立っている。整っていない髪形に無精髭。どう見てもサラリーマンには見えない。母は男性の腕にしがみついている。僕は、男性の顔にピントを合わせ、シャッターを静かに押した。男性の鋭い視線が気になり、素早くデジタルカメラを鞄に入れた。2人が寄り添うようにして、ホテルの中へ消えて行く。

 私達の父である孝之が亡くなって、もう9年になる。私が亡くなる直ぐ前だったが、幼かった為か何も覚えていない。かけ兄の記憶から取り出すしかなかった。余命3ヶ月の末期癌だった。あの告知から、朝日奈家の時計は止まったままである。父は悲観する事無く死を受け入れ、母は思いつめる様に悩んでいた。かけ兄の脳裏に忘れられない出来事がある。自宅で最後の時間を過ごしていた時、母は父へ何かを問い詰めていた。首を大きく振る父に対し、母の顔は怒りに満ちていた。夫婦の間に生まれる、深い絆など無かった様に思われる。

 かけ兄は、しばらくの間、ベンチから動かなかった。


 暗闇に小さな一点の光が差し込んでいた。数個のサッカーボールが光に照らされ転がっている。俺は何度も光に向かってボールを蹴り込んでいた。しばらくすると父親の声が聞こえてきた。

〝お前は何も心配するな〟

 私は今、修二さんの近くにいる。

 彼は浅い眠りから覚めると、ベットの脇にある時計を見た。時刻は丁度、朝の6時。彼の正確な体内時計が今日も働いている。彼はトレーニングウェアーに着替えると、サッカーボールを取り、外へ出た。20分ほど歩くと、河川敷にある少年サッカークラブ『港南ヴィクトリー』の専用グランドが見えて来た。彼が小学生の時に所属していたチームみたい。人工芝に付着している露が、朝日の光で反射している。彼は軽くストレッチをするといつもの様に基礎トレーニングを行った。ボールを使用しない地道な練習である。それが終わると、ボールとの距離を確かめる様に、ドリブルやシュート練習をした。この小さなボールが、彼の肉体や心を変化させている。苦しみや楽しみ、そして誰にも言えない悩みを受け止めてくれる。

 その様子を、ジャージ姿の男性が見ている。ニット帽を深く被り、黒いサングラスをしているので顔が良く見えない。いったい誰だろう。それに気付いた彼は、男性に向かってパスを出した。男性はボールを受け取ると、器用なリィフティングを見せた。

「調子はどうだ?」

 グランド内に男性の低い声が響いた。

「うん、悪くないよ」

「プロに行くのか?」

「まだ決めていない。今は最後の大会に集中したい」

「そうか」

「時々だけど怖くなる。ボールを蹴れなくなったら、どうしようって。父さんは怖くなかったの?」

 修二さんの父親みたい。何日か前、彼が友達と話をしていた。彼の父親も、サッカー少年だった。高校時代には国立競技場の芝生を踏んでいる。彼にサッカーの面白さを教えたのは父親だった。でも確か、家族を捨て家から出たはずである。

「怖くなかったって言えば嘘になる」

「俺だっていつかは」

「心配するな。俺がついている」

 修二さんは悩んでいた。自分に取ってサッカーとは何だろう。夢や人生、それとも単なる将来の仕事なのか。大きな不安から逃れる為に、ボールを追いかけているだけじゃないのかと。確かに彼を支えているのは、サッカーという情熱である。しかし彼は、本当の答えを探している。もしかすると、父親から守られているという安心感は、時に彼を苦しめているのかな。自分自身が決めた道を歩きたい。そんな言葉と一緒に、強い決意も必要になって来る。ましてや、サッカーという肉体と精神が融合した世界に身を置くなら、当然かもしれない。彼は父親の言葉を黙って飲み込んだ。まるで嫌いな食べ物を、無理やり口に放り込まれているみたいだった。

「ボールとスパイクが傷んでいるな」

 父親は財布から札を取り出し、彼に無理やり掴ませた。

「ありがとう」

 修二さんは、必死に声を絞り出した。

 美紀は、そんな2人の姿を遠くから眺めていた。普段は誰にも見せない、怖い表情になっている。彼女は持っていたペットボトルを地面に叩き付けた。ここにも、人には見せたくない、もうひとりの彼女がいた。彼女の心に眠る、兄という大きな存在と、その上に立つ父親という存在。

 

 母はホテルの最上階にあるラウンジで、ひとり静かにコーヒーを飲んでいた。窓から見える青空の下では、今日も大勢の人々が必死に働いている。母の脳裏にあった優越感みたいな自己満足は、徐々に薄れて行った。まるで映画の主人公が、魔法から覚めた様な顔になっている。母は溜息を吐きながら立ち上がると、タクシーを呼び自宅へ向かった。玄関のドアが開かれ、真っ先に向かったのは、かけ兄の部屋だった。学校の制服は壁に掛かっていない。時間通りに家を出たみたいだった。

「相変わらず綺麗な部屋」

 母の口から溜息混じりの言葉が漏れた。部屋に貼ってある写真が気になるのか、ずっと眺めている。すると思い付いた様に机の引き出しを開けた。フレームに入った家族写真が見える。父の膝に座っている私の小さな両手は、かけ兄と母の手を握っていた。どこにでもある普通の家族写真だ。

「あなたが愛したのは舞だけだったの?」

 私の名前を呼んだ。すると、母の目から涙が流れ落ちた。私は母に愛されていなかったのかな。暗闇の時間を光で照らすには、前へ向かって進むしかない。でも母にはそれが出来ない。直ぐに立ち止まってしまい、見えない心の闇が母へ襲い掛かって行く。母は6年前に自身がオープンさせた、セレクトショップに電話を掛けた。

「ごめん任せてもいいかな?何かあったら電話して。うん、それじゃ」

 

 かけ兄は、学校が終わると写真を撮る為、美紀と一緒に港ヶ池公園へ来ていた。大きな池の周りには木が植えられ、野鳥も生息している。小学生の集団が野球やサッカーをして楽しんでいた。私と一緒に遊んだ思い出の場所でもある。もし生きていれば、美紀と同い年である。

「どうして地味な場所で撮るの?」

「野鳥を撮る為さ」

「野鳥?」

「動きが読めなくて撮るのが難しい。君のお兄さんと一緒だよ」

「なるほどね」

 僕は、ファインダー越しに、アオサギを覗いていた。飛び立つ瞬間を撮る為、羽の動きに注目している。練習なので、スタンドは使用せず手で構えていた。人間が目で追える速さなんて、たかが知れている。テクノロジーの機材を使用すれば、綺麗な写真なんて簡単に撮れるかもしれない。だけど、自分にしか撮る事ができない瞬間は必ずあると思う。きっと、その時に生まれる力は、大きくて強いはずだ。写真に収まったアオサギの羽は、少しだけピントがずれていた。

「私の方が上手」

 美紀は、撮った写真を僕に見せた。カルガモの親子が池で泳いでいるショット。

「ふーん」

 かけ兄は感心する様に頷いた。親鳥が振り向きながら、一列に並んでいる子供達を見ている。母性本能を感じる一枚だった。女性ならではの感性が写真に出ている。

 ひとりの少年が辺りを見回しながら歩いて来る。

「健太君じゃないか」 

「あっ、翔さん」

 健太君は、今にも泣きそうな顔で近づいて来た。

「どうしたんだ」

「アイスクリームを買いに行っている間に、萌子が居なくなってしまって」

「何をやっている」

 かけ兄の怒鳴り声が響いた。直ぐに、健太君の目から涙が流れ落ちた。

「ちょっと、言い過ぎじゃない」

「着ている服の色とか、何か目印はあるか?」

 美紀の言葉を遮る様に、かけ兄の大きな声が再び響いた。

「ピンク色の服を着て、もらった風船を持っています」

「風船か」

 かけ兄は独り言の様に呟いた。そして望遠レンズ用のデジタルカメラで、青空を見ている。「あれか?」と聞き逃しそうな声がした。次の瞬間、かけ兄は自転車のハンドルを握っていた。

「ここに居て」

 かけ兄が乗った自転車は、ウォーキングコースの方向へ進んで行った。しばらく走るとコンクリートの道から少し外れた所で泣き声がした。

「大丈夫か?」

 木の陰で萌子ちゃんが、うずくまっていた。

「あっ、翔兄ちゃん」

 萌子ちゃんは泣きながら、僕に抱き付いた。頭の中に、遠い記憶が蘇って来る。どうしてあの時は助けてやれなかったのだろう。どうして・・・。

 私が一番傷つく言葉を知っているかの様に、かけ兄は何も言葉にしなかった。

「もう妹の手を離すなよ」

「はい」

 健太くんは、萌子ちゃんの手をしっかりと握っている。やっと2人の顔に笑顔が戻った。

 美紀は、2人の笑顔を見ながら、昔の事を思い出していた。私は〝ごめんね〟と言いながら、彼女の心を覗いて見た。兄の修二さんが、サッカーを始めたのは小学3年生の時である。彼の背中を追っかけて、彼女もサッカーを習いたいと言い始めた。しかし両親の反対は強かった。泣いている彼女を励ましたのは、修二さんの言葉だった。〝僕のサポーターになってくれないか〟人を支える事によって自身が成長できる。人に支えられる事によって相手へ感謝ができる。決してひとりでは成り立たない不思議な法則が、彼女の心を強くした。何気ない言葉や振る舞いは、時として勇気を与えてくれる。それは決して偶然では無く、相手を思う心から生まれるかもしれないね。

「どうしてあんなに怒ったの?」

「うん、実は僕にも妹がいたんだ」

「えっ」

 美紀は過去形の言葉に反応したが、何も聞けなかった。

「情けないよな」

 彼女は黙って、僕の手を握った。僕は握り返す事もなく力を抜いている。長い沈黙が続く。彼女の顔が、近づいて来る。言葉では表せない自然な温もりが、唇を伝わり全身に流れて行った。

 

 かけ兄は部室で、コンピューターの画面を見つめていた。ある写真集を探しているみたい。

「ふぅー」

「何を探しているの?」

 シンペが画面を覗き込んでいる。

「ピーター・ウィルソンの写真集『LIFE』を探している」

 確か、彼が無名時代に出した写真集だよね。自費出版だった為か、発行部数が少なく入手困難になっている。戦場とは無関係で、貧しい国の人々を撮った作品。見えない心の葛藤や苦しみ、時より見せる笑顔、それら全てが写し出されていたような気がする。〝生きるとは何か〟最後のページに、一行だけ書かれている言葉があった。著者自身も「哲学的ではなく、もっとシンプルな答えがほしい」と語っていた。だからこそ、言葉では表現できない写真に、魅力を感じていたのかもしれない。

 かけ兄が初めて葵さんから、ピーター・ウィルソンの話を聞いたのは、2年前だったと思う。彼女は熱く語る事も無く、写真を始めたきっかけだと説明していた。そこで、探していた写真集の話が出たのである。彼女が感銘を受けた一枚の写真があった。家族全員が手を繋ぎ森林の中を歩いている姿。太陽の光が森林を突き抜け、スポットライトの様に照らしている。彼らの笑顔が幸せを表していた。

 彼女が高校を卒業する前だったと思う。氷川先生に、昔の事を話していた。

 葵さんは、厳格な父親と、教育熱心な母親との間に生まれた。そんな息苦しい生活の中にも光はあった。兄の賢治である。何かあれば、いつも彼に相談していた。特に、写真家という将来の夢について。しかし、彼女が12歳の時に悲劇は訪れた。賢治が病気で、この世を去ったのである。彼女が悲しみに暮れている時、亡くなったはずの賢治から手紙が届いた。とても穏やかな気持ちで書いた事が分かる文章だった。そこに同封されていた一枚の写真がある。賢治が大好きな釣りをしながら笑っている姿だった。彼女が、彼の為に撮った最後の写真。その裏には〝俺の分も力強く生きてほしい〟と書いてあった。深い悲しみが勇気に変わった瞬間だった。彼女は両親の反対を押し切り、自らが望む道を歩き出したのである。

「あーあれか。父さんの書斎で見た事がある」

「えー本当か?何とか譲ってもらえないかな」

「大丈夫だと思うよ。ジャンル的には興味が無い写真集だと思う」

「よし、今から行こう」

 かけ兄は美紀にメッセージを残し、シンペと一緒に部室から出ていった。

 2人は駅前のコンビニで休憩しながら、ジュースを飲んでいた。

「よぉ、小坂じゃないか」

 シンペは一瞬、驚きの表情を見せた。

「こいつが昔の標的」

 中学時代の友達かな。彼は薄っすらと笑みを浮かべながら、仲間に伝えた。スポーツ系のクラブで鍛えられただろう肉体が威圧感を出していた。学生服のボタンを外し、厚い胸板を見せつけている。まるで自分の身は自分で守る、と叫んでいる様だった。

「お前らに何が」

 かけ兄の言葉を遮る様にして「行こう」とシンペは言った。

「へぇー、やっと友達が出来たのか。ラブラブだねー」

 彼の吼える様な声が、2人の背中に響いた。本当の強い獅子は、むやみに吼えない。真の強さとは、決して外側にあるものでは無く、誰も動かす事ができない内側にあると思う。

そうだよね、かけ兄、シンペ。

「大丈夫か?」

「うん、ありがとう」

 2人は、港ヶ池公園のベンチに座っていた。花びらが散った桜の木が見える。目には見えない生命という力を蓄えながら、次の一年を待たなければいけない。色々な条件が重なり合い、見事な花を咲かせる。人が困難を乗り越え、人生という花を咲かせる時に似ている。自分の周りにいる大切な人へ、目を向けてみると分かるかもしれないね。

 シンペは、消してしまいたい過去を全て親友へ打ち明けた。

 本当に理由が分からなかった。もしかすると、誰かが蹴った石が偶然、シンペに当たっただけなのかもしれない。中学3年の夏、クラスで突然いじめが始まった。仲が良かった友達も避ける様にして逃げて行く。彼は孤独を感じながら暗闇を歩いていた。そんな時、彼に光を当てたのは父親だった。ある日、彼は理由も無く学校へ行きたくないと両親に訴えた。無理にでも行かせようとする母親に対して、父親は「じゃ俺も会社へ行かない」と言ったのである。彼女の反対を押し切り、2人は共通の趣味であったラジコンをして楽しんだ。何も聞かず、何も言わない。ただ無我夢中で遊んでいた。次の朝、父親が大切にしていた腕時計と、小さなメモが机の上に置いてあった。

『これでいつも一緒だ。この時計の様に、一歩一歩、ゆっくりと前へ進んで行こう』

 彼は卒業するまで頑張った。周りから見れば孤独に見えたかもしれない。しかし彼の心は強く、広かった。

「あいつらは光で、僕は暗闇だったのかな?」

「僕はそう思わない。慎平は暗闇の中で真実の光を見つけた」

 かけ兄の温かな言葉と茜色に染まった夕日が、シンペを包み込んだ。

 港ヶ池公園を抜けると広い住宅街に出る。その一角にシンペの家がある。2人が家の門を通過すると、庭から柴犬が尻尾を振りながら近づいてきた。

「リキ、元気だったか?」

 かけ兄は、リキの首元を撫でながら微笑んでいる。2年前、かけ兄は河原に捨てられていた柴犬を見つけた。その時撮った写真に、犬の寂しそうな目が写った。どうにかして変えてあげたい。単純にそんな想いが、かけ兄の背中を強く押した。マンションでは飼えなかった為、仕方なくシンペの両親に頼んだ。みんな喜んでくれ、家族の一員として元気に暮らしている。

 玄関でシンペの母親が迎えてくれた。彼女の笑顔から幸せな日常生活が想像できる。2人は直ぐに父親の書斎へ行った。たくさんの本と、ラジコンが並べられている。電子部品メーカーの開発部長らしく、ほとんどが技術系の本で埋め尽くされていた。ラジコンの種類は、主に飛行機やヘリコプターだね。

「相変わらず、凄いな?」

「母さんは、呆れているけどね」

 かけ兄は、壁に飾られている航空写真を見つめながら驚いている。

「あっ、これだ」 

 シンペが、写真集『LIFE』を棚から取り出そうとした時、弾みで横のアルバムが滑り落ちた。「あっ、ごめん」

 かけ兄が拾い上げようとした時ー。

「この写真は?」落ちた弾みで開いたアルバムから、風景写真が見えている。

「あっ、その写真は父さんが撮った航空写真だよ」

「どうやって?」

「飛行機のラジコンにデジタルカメラを取り付け、遠隔操作で撮影したと思う」

「この場所って港ヶ池公園かな?」

「えーと、そうかな。どうしたの急に」

 かけ兄は写真を見つめながら黙っている。シンペが再び声を掛けようとした時、書斎のドアが開いた。

「やぁ、こんばんわ」

 シンペの父親が笑顔で立っている。私も思わず頭を下げた。技術者という感じが漂っている。どちらかというと、シンペは母親似かもしれない。首から掛けている証明書に、小坂慎太郎という名前が書いてある。そっか、シンペの名前は父親から取ったのか。これからは、慎太郎さんと呼ぶ事にしよう。

「あっ、おじゃましています」

「久しぶり。何を見ているの?」

 かけ兄は我に返り、慌てて写真を見せた。

「あー、懐かしい写真だね」

「そうそう。アルバムが床に」

「あの、この写真について伺いたい事があります」

 シンペが、言葉を遮られ驚いている。

 かけ兄は思い詰めた様に、慎太郎さんの顔を見ていた。

「うん、別に構わないけど。急に顔色が悪くなった様な気がするけど、大丈夫かい?」

「大丈夫です」

 2人が、慎太郎さんと向かい合う様にして座っている。テーブルの上には、開いたアルバムが置いてある。

「ここの日付を見て下さい。2005年6月3日、午後4時15分。約9年前です」

 かけ兄が、写真の右下を指差している。

「うん、よく憶えているよ。私達が、この町へ引っ越して来た時だ」

「この日に、僕の妹が亡くなりました。そして・・・」

「えっ」

 向かい合っている親子の声が重なった。幼い頃の私が写っている。亡くなっても、こうして成長を続けながら、かけ兄の側にいる。今の私を見ても、きっと直ぐには気付かないだろうな。あの時の幼さは、あの日の記憶と共に消えている。

「ここに写っている女の子は、妹で間違いありません。服や髪型も全部憶えています。あの日、僕は・・・」

 僕は、買って貰ったばかりのサッカーボールを大事に抱えていた。来年ドイツで行われるワールドカップを記念して作られた限定モデルだ。今から、妹の舞と一緒に、港ヶ池公園へ遊びに行くつもりだ。家を出た直後、僕は思い出す様に言った。アニメが始まる時間だと。サッカーボールを妹に手渡し、テレビ録画する為に家の中へ戻った。数分後、玄関から妹の名前を呼んだ。しかし返事は無かった。外へ出て何度も大きな声で呼んだ。公園も探したが見当たらない。気が付くと辺りは薄暗くなっていた。

 数ヶ月前と同じ様な感覚が蘇る。父が亡くなった時だ。あの時は、何となく予測できたかもしれない。不安とは違う何かが、僕に襲い掛かっていた。時の流れる感覚が無くなると同時に、長い夜が始まった。

 警察が家の中を何度も出入りし、近所中の注目を浴びている。捜査開始から3時間が経過していた。刑事らしき人物が母に険しい顔付きで説明している。公園内の、林にある池で妹は発見され、襲われた形跡も無く、事故という線で捜査が進められているという事だった。その後の正式な見識結果では、妹が、林に入ったサッカーボールを取ろうとした時に、誤って足を滑らせ、その弾みで後頭部を強く打ち、意識を失ったまま池の中へ落ちたという結果だった。

 私に、いったい何が起こったのだろう。あの日の事が、どうしても思い出せない。本当に私は亡くなったのだろうか。

 母は毅然とした態度で振舞っていた。その態度が、僕を追い込んでいた。何も責めないし、何も問われない。父に続き、妹の死。地方新聞に載った小さな悲しい記事は、世間の目に留まる事無く静かに消えて行った。

「もし僕があの時、妹から目を離さなかったら・・・あんな事に」

 かけ兄が他人に事故の事を話したのは、これが初めてだった。深い悲しみが部屋の中に充満している。〝かけ兄のせいじゃないよ〟と叫んでも、私の声は届かない。人に弱さを見せるのは、決して簡単な事では無いよね。

 ねえ、大丈夫、かけ兄。

「自分を責めてはいけない。不慮な事故だった」

 慎太郎さんは、次の言葉を必死に捜していた。

「それにしても不思議だね。この写真?」

 シンペが指摘したのは、写真に写っている少年の姿だった。少年の足元には、サッカーボールが見える。恐らく、かけ兄の物だよね。私と少年は3mぐらい離れ、向き合う様にして立っていた。その場所は上空から見ると分かるが、林の部分をくり貫いた様な形になっている。右隅には池が少しだけ映っていた。舗装された道は無く、公園の広場から少し離れている。

「もしかして、この少年と遊んでいたとか?」

「いずれにしても、亡くなる数時間前の出来事が写真に残っているとは驚きだ」

 2人の会話が耳に入らないのか、かけ兄は黙って写真を見つめていた。写真の私に、何か言いたいのかな。9年前には見る事が出来なかった事実。それが今、時を越え、私達の前に現われている。

「大丈夫か?なっ、翔」

「あっ、うん」

 シンペの声が、やっと伝わった。

「この写真、借りてもいいですか?」

「別に構わないけど」

「それじゃ、そろそろ失礼します」

 かけ兄は写真を受け取ると、直ぐに立ち上がった。

「あっ、これも」

 シンペは、写真集『LIFE』を手渡した。

「えっ、いいのですか?」

「うん、私が持っていても宝の持ち腐れだから」

「ありがとうございます」

 少し丘になっているこの場所からだと、街灯の明かりが良く見える。その灯りに向かって、かけ兄の自転車が颯爽と走って行く。

「力になってあげないと」

「そうだね」

 シンペは父親の言葉に頷いている。今までは自身の事で精一杯だった。友達の悩みを一緒に考え、行動に移した事など一度も無いはずだ。私はシンペの耳元で〝頼むね〟と小さく囁いた。そして、かけ兄の後を追いかけた。

 かけ兄は自宅へ戻ると、コンピューターの前に座った。先程の写真を専用ソフトに取り込み、画像を拡大している。間違いなく私が写っていた。そしてインターネットから、港ヶ池公園周辺の地図を見つけ、写真の場所を探し始めた。中央に大きな池が見え、その周りに、ジョギングコースの道が見える。西側には幹線道路が走り、そこから駐車場へ入れる。南側にも主要道路はあるが、フェンスが立っており進入する事ができない。駐車場と大きな池の間に広場、そして公園施設がある。北側から東側にかけて、大きな林が広がっていた。方角からすると、北東の位置かな。ここが恐らく写真の場所だろうと思う。林の部分をくり貫いた形になっていて、近くには、小さめの池が見える。平地からでは絶対に見えない場所だ。この場所へ進入するには、ジョギングコースから外れ、林に入るしかない。

 かけ兄は、鋭い目付きで北側の部分を見つめていた。北側には工場が広がり、林に沿って道は繋がって無い。しかし良く見ると、工場の間に路地が見える。車では決して進入できない狭さだった。もしかして、私は路地を通り、あの場所へ入ったのかな。まったく覚えていない。かけ兄と私の脳裏に、小さな疑問が浮かんでいる。確かに路地を抜け、林の中を10mぐらい進めば、あの場所へ出られる。かけ兄はマウスを動かし、工場の北側を見て驚いた。以前、私達が住んでいた町並みが広がっている。家族との思い出が詰まっている場所だった。 

 窓から冷たい風が入ってきて、かけ兄の肌を刺激した。かけ兄は、望遠レンズ用カメラを手に取りベランダへ出た。ファインダーから見る夜景ー。心の変化ひとつで同じ景色も違って見えてくる。家族と一緒に過ごす為の光や、寂しく過ごしている光もある。カメラは、港ヶ池公園の方向を見ていた。昼間は太陽と人の温かさで明るいが、夜間になると外灯だけが静かに光っている。森羅万象の変化は、人に何を与えてくれるのかな。町の灯りが徐々に消えて行く。そんな寂しさを感じながら、かけ兄は深い眠りに着いた。

 かけ兄は時計を見て驚いた。朝の9時35分を指している。かけ兄は急いで、ベッドから起き上がり裸になった。慌てている為か、手には学校の制服が見える。頭を振りながら洋服に着替えた。そして鞄に、ピーター・ウィルソンの写真集と、愛用のデジタルカメラを入れ玄関へ走っていった。こういう時は、エレベーターを待つ時間が長く感じる。かけ兄が乗った自転車は、駅へ向かっていた。景色を楽しむ事無く、必死にペダルを漕いでいる。最寄りの駅に着くと、横浜行きの電車に飛び乗った。かけ兄の呼吸は乱れ、額からは汗が流れ落ちていた。でも、薄っすらと笑みがこぼれている。

〝何年ぶりだろうか。こんなにも全速力で走ったのは〟

 そんな想いが伝わって来た。かけ兄を押し動かす大きな力が働いている。

 かけ兄は、横浜駅で成田エキスプレスの電車に乗り換えた。どうやら成田空港へ向かっているらしい。かけ兄が座った席の斜め後ろに、カップルが手を繋いで座っていた。恐らく新婚旅行に行くのだろう。私の脳裏に言葉が浮かぶ。〝その気持ちは永遠に続くのだろうか〟私達の両親も仲が良かった。家族写真を見れば一目瞭然である。でも父の病気が発覚してから何かが変わった。死という絶望感からか、それとも両親にしか分からない言葉の数々が隠されているのかな。

 かけ兄は、写真集『LIFE』を取り出した。葵さんが好きな写真をみつめている。家族全員が手を繋ぎ、森林の中を歩いている姿。私も現物を見るのは初めてだった。幸せの価値観を、どこに置くのか問われている様な気がする。きっと100人いれば、100通りの答えがあるかもしれない。

 彼女は、兄の死によって答えを追い求めていた。もしかすると、答えはいくつかの哲学書に記してあるかもしれない。しかし、哲学者達も答えを見つける為に、多くの経験を積み、苦労したはずだよね。大事なのは答えでは無く、そこへ行くまでの道のりかもしれない。ここに載っている写真は、人と出会い、話し、感じ、多くの工程を積んで出来上がっている。だからこそ、何かが伝わって来るに違いない。

 電車の扉が開くのと同時に、かけ兄は勢い良く飛び出した。多くの旅行者がアタッシュケースを引きながら、ゆっくりと歩いている。それらを交わしながら、空港ターミナルの方向へ走って行く。葵さんが乗る予定の便から、チェックインが出ている。

 僕は呼吸を整える余裕も無く、辺りを見回していた。

「初めて見た。翔の必死な姿」

 かけ兄が驚いている。長い黒髪を、バッサリと切った葵さんが立っていた。

「髪・・・切ったの?」

「うん、どう?」

 彼女は微笑ながら髪を撫でた。いつもとは違う雰囲気だ。化粧もしている。 

「先に行ってて」

 彼女は後ろの男性に声を掛けた。男性は静かに頷くと、かけ兄に軽く会釈してから、搭乗口の方へ歩いていった。

「来てくれて、ありがとう」

「うん、これを渡したくて」

 かけ兄は鞄から写真集を取り出し、彼女に手渡した。彼女は写真集を強く抱きしめた。まるで母親が子供を強く抱きしめているみたい。

「翔と私は似ている。あなたの撮った写真を初めて見た時、そう感じた。写真を通して何かの答えを探している。あなたと触れ合う事で、私が探している答えに近づきたい。あの時は純粋にそう思った。それが好きだという思いなのかと問われれば、そうかもしれないし、違うかもしれない。でも、あの時の気持ちがあるから、今こうして旅立つ事ができる」

「僕は・・・葵さんが好きでした」

 過去形ー。かけ兄が言える精一杯の言葉だろうと思った。

「うん」

 彼女は、見覚えのあるデジタルカメラを取り出し、かけ兄に手渡した。

「これが私の気持ち。あの日、あなたを撮ってから一度も使っていないの。私の大切な思い出が詰まっている。あの時の写真も残っているから」

「えっ」

「冗談よ」

「脅かさないでよ」

「翔、少し変わったよね。美紀ちゃんに出会ったからかな。でも、あの子も何かを抱えていると思う。ちゃんと見てあげて」

 彼女は、僕を抱きしめながら「ありがとね」と耳元で囁いた。その言葉に反応し「それで答えは見つかったの?」彼女から「教えない」という言葉が返ってきた。恐らく、まだ探している。だからこそ前へ向かって歩いて行けるかもしれない。彼女の後ろ姿が見えなくなった。それと同時に、我慢していた想いが溢れ出した。

 飛行機が大空へ向けて飛び立って行く。僕は、貰ったデジタルカメラの中に大切な思い出を収めた。

 かけ兄の心に大きな温もりが伝わって行く。今までの歴史をみても、形として残る物の方が価値は大きいかもしれない。その中に眠っている本当の真実は誰にも分からない。写真も、そのひとつかもしれないね。でも、自身の人生と照らし合わせる事によって、何かが見えてくる事もあるかもしれない。そこから、新たな一歩を踏み出せる力が涌いて来るに違いない。かけ兄の心に残った想いは、いつか写真という形に表れ、誰かの心へ伝わるかもしれない。それは、形としては表せないし、残らない。でも、その価値は宇宙と同じぐらい、無限に広がっていると思う。

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