第2話



 そうしたわけで、少年の居場所はコダの部屋の隅になった。

 死んだコダの祖母が使っていた、すっかり古びてやたらときしむ寝台が運び込まれると、彼の部屋は途端に窮屈きゅうくつになった。名前の判らないこの痩せた子供は、日がな一日その上で、天井をぼんやりと見上げて過ごした。

 少年は目を覚ましていても、眠っているのと同じほど静かだった。いくら体が弱っているとはいえ、果たして生きた人間がこうもじっとしてばかりいられるものかと驚くほど、ほとんど身動きらしい身動きをしなかった。与えられるものは素直に口にしたが、何も与えられなければそのまま静かに飢えて死ぬのではないかと見えた。黙って女中に体を拭かれる間も、嫌がることもなければ、感謝のようすをみせることもなく、ただ感情の見えない緑の眼を、何もない宙に向けていた。

 その無表情を見ているうちに、もしかすると本当にこれは水神さまの遣いなのではないかという考えが、しばしばコダの胸に戻ってきた。

 女中たちにしてもそれは同じことのようで、彼女らは腫れものに触るように、おっかなびっくり少年の世話をした。ときに少年の緑の瞳に見とれては、はっと我に返って怖がるそぶりを見せた。そうして、家人がそばにいないと見るや、こそこそとひそめた小声で、少年の正体について不安げに噂をした。

 エレテもまた似たようなものだった。たまに気まぐれのように様子を見に来ることがあったが、いつもどこか怯えを隠すような目をしていて、けしてみずから少年の世話を焼くことはなかった。

 彼女に新しく増えたこの家人を歓迎するそぶりはまるで見られなかったが、追い出そうとすることも、またなかった。それもそのはずで、もとよりエレテは夫の決めたことには一切の文句を言わない女だった。

 夫をたのみ、その判断を信頼しているというわけではない。自分のいまの暮らしが、夫の地位あってのことだというのを、重々承知しているがためだった。

 エレテは若い時分、近隣でもっとも美しいといわれていた女だった。また、そうした自分の美貌を鼻にかける女でもあった。持てる者は妬まれやすく、憎まれないためにはそうでない人々よりも一層の注意と努力を必要とするものだが、そうした種類の知恵の回らない女でもあった。

 近隣のほかの里からも、男たちがたびたび訪れて彼女に求婚したが、そのことで彼女は余計に周囲の女たちの妬みを買った。里の中でエレテの身の置き所は、月日を追うごとに狭くなってゆく一方だった。そんな中、とうとう彼女は首長ウートラになったばかりだった男に見染められた。

 彼女は後に夫となったこの男を、けして好いてはいなかった。彼が貧相な体格をした、どうにも見栄えのしない男だったためということもあったが、それ以上に若きウートラが、その地位をかさに着た、権高けんだかな男だったためだ。

 鏡に映る自らの醜さを、人は憎むものだ。エレテはこの若き権力者を嫌悪した。だが男のほうは、まだそのときには彼女が己の鏡になるだろうことに気がついてはいなかった。得てして女の方が己の本性を隠すことに長けているものだ。

 かくしてウートラは半ば強引に彼女をめとった。それに逆らうだけの力は、彼女にも、彼女の父親にも持ち合わせがなかった。

 エレテは望まぬまま首長夫人となり、いくつかの月の満ち欠けを経たのちには、夫のほうでも徐々に彼女をうとむようになっていった。

 だがその頃には彼女のほうで、新しく得た立場を手放す気がなくなっていた。贅沢ぜいたくな暮らしといっても、鄙びた辺境の里のことで、ましてや吝嗇で知られた夫のもとではたかが知れていたが、ともあれ里の人々は彼女に頭を下げた。少なくとも面と向かって彼女を馬鹿にしたり、嫌がらせをしたり、恥をかかせて笑い者にしようという女はいなくなった。そのことのほうが、暮らしの豊かさよりもなお、彼女にとっては重要だった。

 彼女はじきにコダを産んだ。夫の言い分にはすべて黙って従い、夫の不貞ふていに見て見ぬふりをし、けして愛されはせずとも理由をつけて追い出すほど邪魔にはならぬ、都合のいい妻の座に落ち着いた。

 そうした夫婦だったから、コダが物心ついてからこちら、彼らの間に愛情らしき愛情のあったためしがなかった。育つにつれて父親に似てきたコダを、しだいに両親のどちらもが疎むようになったが、エレテは彼を産むときに腹を痛めて以来、次の子をはらむことがなかったから、ひとりきりの子供を否応なく大事に育てるほかなかった。

 この家の中にあったのは、利得りとくと打算、それに体裁と保身だった。女中は無理の透けて見える態度で彼に頭を下げた。誰も彼に向かって本音でものをいわないことを、コダは当然のこととして生きてきた。

 それだから、新しく家に入ってきたこの少年の徹底した無関心は、コダにとってはむしろ新鮮だった。少年が口をきかないことも、ほとんど苦にはならなかった。年若い少年がふたり、部屋で黙り込んでじっと顔を突き合わせているというのは、傍から見ればいかにも妙な図だっただろうが、コダは気にしなかった。口がきけるからといって、どのみち嘘と建前ばかりの言葉しか吐き出さないぐらいなら、いっそ何も言わないでいるほうがよほどましというものではないか。

 コダは家から出歩くことをめったにしなくなった。出掛けても、せいぜいが河沿いにひとけの少ない時間を選んでぶらぶらと歩き回り、そのまま誰にも会わずに帰るばかりだった。以前には機嫌の悪い日にはよく里の子供らを虐めて憂さを晴らしていたが、どのみちたいした気晴らしになりはしないのだ。どこにいっても、いるのは表立っては愛想よく振る舞って、殴られてもへらへらと笑って見せながら、さげた頭の下では舌を出す人間ばかりだった。そんな里の人々に、彼は飽き飽きしていた。

 返事の返ってこない相手に向かって、コダは時おり、思いつくままに話しかけた。祭りの日にだけ振る舞われる酒を、大人たちの眼をぬすんでくすねたときの武勇伝だの、アッロス河の流れを月のない晩にさかのぼってくる魚の大きさがどうのというような、たわいのない話ばかりだった。ときにはそこに、死んだ祖母が彼に語り聞かせた昔話が混じった。かつて水神の怒りを鎮めるべく河に捧げられた生贄いけにえの子供らのこと。水神の化身が大蛇の姿をとって姿をあらわし、里の娘をさらって山に姿を消したときの話。そうした話にも、少年はとりたてて反応を見せなかった。

 話題が何であれ、少年の無関心は徹底していた。やはりこの子供は何も聞こえていないのだろうと、コダは納得した。それでも気にせず、コダは気の向くままに話した。耳の聞こえない相手に向かって話すことにいったい何の意味があるのかと、自分でもときどき馬鹿らしく感じはしたものの、妙なもので、どうせ相手には聞こえていないのだという気楽さが、かえって口を軽くした。

 そんな彼らの姿をとがめて、女中たちは薄気味の悪そうな目つきをしたが、コダは気にしなかった。嫌われるのも気味悪がられるのも、どのみち彼にとっては大差がなかった。



 少年は日がな一日寝台に横たわっているか、せいぜいが腰かけてぼんやりと宙を見つめているばかりで、寝ているのか起きているのかもよくわからないことが多かったが、それでも日に四度、差し出されるままに食事を摂っているうちに、やがて少しずつ肉がつき、遅れて血色も戻ってきた。

 そうして体が恢復かいふくの兆しを見せるにつれて、少年は眠りのうちに魘されるようになった。

 低くねじれた呻きが耳に飛び込んで、コダが跳ね起きたとき、まだあたりは真夜中だった。はじめは聞き間違いかと思ったコダだったが、耳を澄ませてみれば、やはりその声は少年のものだった。

 それまで一度も口をきいたことがなかったものだから、コダはそもそもこの子供が、声が出せないものだとばかり思い込んでいた。だがいま名も知らぬ少年は、たしかに夢の中で呻いていた。その言葉にならない唸り声は、コダの耳に、悲鳴のように聞こえた。

 コダは寝台から下りて少年の枕元に歩み寄った。うなされているのが可哀相だから起こしてやろうかというよりも、うるさくて自分が寝付けなかったためだった。

 午後に激しく降った雨はすでに上がって、開け放していた窓からは乾ききらない湿った夜気とともに、青白い月の光が斜めに入りこんでいた。

 いくらか肉が戻り始めたといっても、少年の肩はいまだ薄く骨ばっていた。それをコダが掴んで揺さぶると、少年はその手を激しく跳ねのけて、大きく目を見開いた。

 月光の下で見るその瞳は、木漏れ日を受けて煌めく淵のようではなく、午後の強烈な日差しの下で黒々と沈む木陰のような、暗く底の知れない色をしていた。

 このとき少年の顔にあらわれた表情を、コダは前にも見たと、とっさにそう感じた。おかしな話だった。拾ってきた日こそ、少年は熱に浮かされて苦しげな顔をしていたが、それ以降は人間とも思えないような無表情を貫いて、感情らしい感情をけっして見せたためしがなかったのだから。

 だがコダが記憶の糸をたぐりよせるよりも早く、少年はいつもの無表情に戻った。少年はこわばっていた手から力を抜いて、コダの顔を見るともなく、ぼんやりと見返した。

 コダは正体のわからない不安に駆られて、視線を少年の顔から外した。背を向けて自分の寝台にもぐりこみ、眠ろうとして目を閉じたが、眠気は一向に訪れなかった。いつにも増してひどく蒸し暑い夜で、それがますます眠りを妨げた。

 背中越しに感じる少年の気配はひどく希薄で、コダには少年が再び眠りに落ちたのか、あるいは自分と同じように寝付けずにいるのか、見当もつけられなかった。



 翌朝、日が昇るのを待って寝台から這いだしたコダは、水を浴びようとして、女中を呼びつけた。

 水汲みは重労働だ。ここらの里に井戸はなく、みな河から汲んだ水を運んで使う。夜明け前に起きだして一日に使うだけの水を汲むのは、この家では決まって一番新入りの女中の仕事だった。夜の明けるよりもずっと前に起き出して、何度も河まで往復しなくてはならない。そのうえウートラの屋敷は里の中でもっとも河から離れた高台に建っている。これに音をあげて早々に暇を取る若い女中も多かった。

 このときの女中もすでに日々の仕事に嫌気がさしているのが目に見えるありさまで、無言でコダに桶を差し出した手つきは、ひどくぞんざいなものだった。それでも、その手に目を留めたコダの表情から彼の不機嫌を察すると、女中は慌てて顔を伏せた。

 コダはその頭を掴んで、強引に顔を上げさせた。特に考えがあってしたことではなかった。この女が下げた頭の下で、どんなふうに笑って舌を出しているものか、見てみようとしたのだ。

 女は笑ってはいなかった。コダとさして変わらない齢ごろの若い女中は、ひどく怯えた顔をして、視線をおぼつかなくさまよわせた。その卑屈ひくつなさまを鼻で笑って、コダは手を放した。女は後ずさり、逃げるようにして駆け去った。

 中庭に出て水をかぶっても、眠気は重くまとわりついたまま、一向に去ろうとしなかった。コダは庭に打ち捨ててあった古いかめに腰掛けて、そのままぼんやりと、桶の底に残った水を見つめた。このところ鳴りを潜めていた苛立ちが、久しぶりに胸をふさいでいた。

 やがてさざ波立っていた水面が静まり返ると、コダはそこに映ったものを見て、はっとした。

 昨夜、いつかどこかで見たと思ったあの顔が、そこにあった。いや、顔立ちにはどこも似通ったところはない。だがそれにも関わらず、驚くほどふたつの顔はよく似て見えた。

 水面におぼろに映る自分は、誰も信じないという目をしていた。



 その日から、少年はたびたび魘されるようになった。夢の中から響く悲鳴は、いつも小さく掠れたもので、ほかの家人を起こすまでにはいたらなかったが、コダは毎晩のように眠りを破られた。

 夜ばかりではなかった。暑い地方のことで、もっとも日の高くなる正午からのいっときの間、誰もが陽射しを避けて昼寝を決め込む。そうした午睡ごすいの間にも、少年はしばしば夢に魘された。

 かと思えば、じっと座ったまま、何かを考えこむような顔つきをするときがあった。そういうとき、コダが傍に寄ると、少年は気配を察して顔を上げ、そのたびに何かを迷うような、困惑したような顔になった。

 そうやって人なみの表情を取り戻してみると、もう少年は、水神の化身だの遣いだのというようには見えなかった。

 ある日の午後おそく、皆が午睡からさめて再び動き始めるころ、コダは少年に向かって、子供の頃のことを、とりとめなくぽつぽつと話し聞かせていた。幼いころには魚釣りが好きで、河辺に張り付いて一日を過ごしていたことや、森から細々と流れてアッロス河にそそぎこむ小川をさかのぼって、鬱蒼うっそうとしげる森の奥深くに入り込んだはいいが、そのうちに夜になってしまったときのこと、調子に乗って獲りすぎた魚を腐らせ、祖母にたしなめられたことなどを。

 自分でもすっかり忘れていたことが、次から次に口をついて出るのに、コダは話しながら自分で戸惑った。少年はコダの話に耳を傾けているとも、聞いていないともつかないような素振りで、あいづちを打つでもなく膝を抱えて、ただじっと座っていた。

 その時、窓の外でかすかに草の鳴るのを聞いて、コダはとっさに立ち上がった。

 窓辺に座っていた少年の体を押しのけると、コダは一息に窓枠を乗り越えて庭に飛び出した。一人の子供が、いままさにあわてて逃げ出したところだった。

 コダはその子供を知っていた。ヤクという名前の、里で一番のちびだった。気が弱く、いつも年かさの子供たちの背に隠れてびくびくと怯えた顔をしているので、かえってコダの目に留まり、よけいに小突かれては泣いて逃げ帰るのが常だった。

 コダの半分の背丈にもならないちびすけのことだから、走り方も危なっかしい。コダはすぐに追いついて、ヤクの襟首をひっつかんだ。

「盗み聞きか? 泣き虫のくせに、今日はずいぶん度胸のある真似をするじゃないか」

 コダがそう言って小さな体をぶら下げると、ヤクは空中で短い手足を振りまわした。「放せよ」

「口のきき方のなってないやつだな」

 コダがその小さな体を振りまわすと、ヤクは面白いように目を回した。

「おどかしたって、怖くないぞ、どうせお前ら、じきに死んじまうんだろ」

 その口から飛び出した威勢のいい言葉とは裏腹に、ヤクの声には怯えが滲んでいたし、目には早々に涙が浮かんでいた。だがそれよりも、コダは言葉の中身のほうに気を取られた。

「誰が死ぬんだって?」

「みんな、言ってる。ウートラの屋敷は魔物にとっ憑かれて、連中、すっかりおかしくなっちまったって。お前らみんな、じきにとり殺されっちまうにちがいねえって」

「ああ?」

 コダは手を放し、ヤクの体を地面に落っことすと、その尻を蹴り飛ばした。それから舌打ちをして、じろりと生垣の外を見た。誰かほかにも隠れているのが、木々の隙間に見えかくれしていた。ヤクが自分ひとりの考えで忍び込んだのではなく、おおかたほかの子供らに、度胸だめしとでもいってそそのかされたのだろう。

 ヤクは慌てて立ち上がると、逃げにかかった。蹴られた尻をかばいながらひょこひょこと走るものだから、追いかけるのはいかにも容易だったが、コダはそうしなかった。これまでずっとほかの連中にまじって彼の顔色をうかがってきた泣き虫が、面と向かって彼に反抗してきたことに驚いて、腹が立つよりも、拍子抜けするような思いの方が勝った。

 窓枠を乗り越えて自分の部屋に戻ると、少年はかわらず寝台に腰かけたまま、コダを見上げてきた。

 コダはその深緑の瞳をいっときのぞきこんで、それからぽつりと呟いた。

「魔物なんかじゃないよな、お前」

 少年が答えをよこすはずがなかったが、それでもこの家に来たばかりのころのように、コダの存在を無視することはなかった。その深緑の瞳で、じっとコダのほうを見つめ返していた。

 返事がないのを承知の上で、コダはもう一度繰り返した。「魔物なんかじゃ、ないよな」

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