ゾンビ・ウォーク

sirius2014

第1話

夜8時きっかりに、俺はマンションのドアを開けた。背後から、妻の声が追いかけて来る。

「まだ寒いから、あのニットキャップを被って行けば。」

少しだけ嘲ったような調子を感じるのは、俺の被害妄想だろう。なにしろここ数年の間に、俺の頭髪はすっかり淋しくなってしまい、寒さが地肌に直接沁み込むようになってしまった。妻は先日、散歩のときにでも被ってと言って、ナイキのニットキャップを俺に買ってくれたのだ。確かに春とは言え、日が落ちると外は寒い。

「わかってるよ。ちゃんと被ってるから。」

俺はそう言うと、ナイキのニットキャップをしっかりと被り直した。

「そうそう、先週中学校の屋上から、若い男が落ちたんだって。」

妻の言葉に思わず反応する。

「へえ、またどうして。」

「自殺らしいわよ。就職活動がうまくいかなくて、飛び降りたんだって。」

「ふーん、確かに今の大学生にとっちゃ、いい災難だよな。こんな時勢に生まれ合わせて、運が悪いとしか言いようがないよな。」

「手にはしっかりとスマートフォンを握りしめてたそうよ。」

「きっと、面接先の企業からの内定通知を待ってたんだろうな。気の毒に。」

俺はそう言い残すと、ドアを閉めて歩きだした。こんなときに妻と政治経済の話しをしたいとは思わない。

マンションのエントランスを抜け、通りに出る。辺りはすっかり暗くなっている。まだ8時だと言うのに、人の気配はない。俺は暗い道を歩きながら、去年の秋の健康診断で医者に言われたことを思い出していた。

健康診断で脂質代謝障害と高血圧を指摘された俺に、医者は運動を勧めた。今のところ、なかなかスポーツをする時間的な余裕が無いと言うと、その初老の医者は、散歩だって良い運動になると言い、但し30分以上歩くことと付け加えた。

その医者の勧めに従い、俺は毎週土曜日と日曜日に、自宅のマンションの周辺を1時間程度かけて散歩することにした。それ以来半年間、毎週散歩を続けている。我ながらよく続くものだと感心している。

しかし最近では、散歩と言っても同じような場所を目的もなく歩き回っているだけなので、飽きてしまった。そんなとき、スマートフォンで面白そうなアプリを見つけてダウンロードした。いつも散歩に行くのは休日の昼間だけで、平日の夜には散歩をしないのだが、そのアプリを早く使ってみたくて、今夜は初めて夜の散歩に出てみたというわけだ。それに、そのアプリを使うのなら、明るい昼間よりも薄暗い夜の方が、雰囲気が出て合っている。

そのアプリはゾンビ・ウォークというアプリで、遊び方は簡単だ。アプリを起動すると、自分を中心として、半径1キロメートルくらいの、自分が今いる場所のマップが表示される。そのマップの一点に青い旗が表示される。その青い旗が目的地で、そこにたどりつけばミッションクリアだ。但し、歩いているとマップ上に赤い人の形のアイコンが現れ、自分に向かって近づいて来る。これがゾンビで、マップ上でゾンビと重なってしまうと、ゲーム・オーバーとなってしまうのだ。ゾンビがマップ上に出現するときには音が鳴り、またゾンビは時間と共にだんだん増えていくのだそうだ。

ゾンビが近付くと、アラームが鳴り、距離が近いほどアラームの音も大きくなると、マニュアルに書いてあった。マニュアルには、隠れてもだめだ。目的地に着いてミッションをクリアしない限り、ゾンビはあなたを追い続ける、ともあった。単にマップ上のバーチャルなゲームで、隠れることなんてできないだろうにと、俺はそのマニュアルの文章を鼻で笑った。

俺はマンション前の道路の歩道の脇で軽くストレッチすると、スマートフォンを取り出し、ゾンビ・ウォークを起動した。

おどろおどろしい音楽が鳴り、不気味なグラフィックと共にアプリが起動する。間もなく、自分がいる場所のマップが画面に現れた。マップの真ん中にいる青い人の形が俺だ。すると、マップの左上に、青い旗が浮かびあがった。どうやら、近所の中学校の辺りのようだ。一瞬、家を出るときに妻に聞いた自殺の話を思い出して、少しだけいやな感じがした。しかし、もう先週のことだと、俺は気を取り直した。

中学校は、普通に歩けば15分もあれば到着できる場所にあった。ゾンビ・ウォークのマップは、目的地に近付くほど高精細になり、詳しい地形がわかるそうだ。俺はこれから始まる、仮想の襲い来るゾンビからの脱出に、胸をわくわくさせながらゆっくりと歩き出した。

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