第12話 佑樹 (四)

バスの窓から外を眺め、改めて感じたことがある。東京と比べて、見える空の面積が格段に違うということだ。海岸沿いではトンビが円を描いて獲物を物色し、狙いを定めて海に真っ直ぐに飛び込む。その様子が最初から最後まで観察できるのも、遮るものがほとんどないからだ。

今日は八月十三日、長崎では盆のいりのこの日、道の途中に点々とある墓に提灯が飾られる。坂の街長崎の、その坂のあちこちにある墓地にいっせいに灯りがともされるのだ。その夜の遠景は、山の中に蛍の大群が群れをなしているようであり、また、暗い地中に埋められた宝石が、ところどころで土を払って露出しているようでもある。宝石箱をひっくり返した状態の三日間が始まり、その最終日には精霊流しが華やかに行われる。

深原であずさの様子を見舞った佑樹は、代わりに診ててやるからと、ろくに寝ていないであろう駿太郎に無理矢理仮眠を取らせた。

あずさのそばで、佑樹はしばらくの間黙って彼女を見ていた。今は落ち着いていて、少女のように寝息を立てている。三十分ほどして、看護師が目回りにやって来た。佑樹に挨拶をして、体温と血圧、点滴のチェックをして行った。

看護師が出て行ってから、佑樹はそっとあずさの手を握った。人形のような指は軽く温かく、手のひらは幾分湿っていた。

目をつぶり深呼吸を何度かすると、急激にあずさの『魂』に潜航して行った。

数分後、佑樹の『魂』は戻ってきた。まるで本当に目をつぶって祈っているようにしながら、その実、彼の『意識』はあずさの『意識』と接触し、原因となるような事象を検証し、そして壊れた『意識』と孔雀明王を再建して戻ったのだ。

この十五年で『試み』の力は数段進歩していた。直接相手に触れた状態で『試み』た場合、痕跡だけで潜り込むよりも短い時間で、集中もそれほど必要とせず、ダイレクトに相手の『意識』に手が伸びた。そして、もうひとつ、相手の『意識』についた刻印から、その足跡をつけた人物へも飛ぶことができるようになったのだ。

しかし、あずさの『意識』はかなり破壊されていた。佑樹の目には、破壊と言うよりも食い荒らされたように見えた。孔雀明王の効用で、ごく一部だけに留まってはいたが、少なからず障害は出るだろう。

侵入者の痕跡は、食い荒らされたことによってあらかた消えてしまっている。簡単には見つけられない。さらに詳しく『試み』るためには、静かに集中できる環境に身を置かねばならない。

長崎でそんなことができる場所といえば、もちろん答えは決まっている。

それから四時間後、自宅から戻ってきた駿太郎に、また明日来ることを約束すると、佑樹は故郷へと繋がるバスに乗車していた。

香焚本村のバス停でバスを降り、誰も歩いてない大通りを歩く。真っ直ぐに行けば相川薬局があるはずだが、駐車場になっていた。左に折れるとすぐ藤瀬酒店が見えるはずだったが、そこには三階建てのアパートが建てられていた。

胸が締めつけられ、なぜか怒りにも似た感情を吐き出すすべもないまま、寺への長い石段をのぼり始めた。途中にあった保育園が空き地になっていたり、傍らにあったあばら家が新しい一軒家に変わったりと、やはり時の流れを感じさせられた。

だが、頂上に近づくにつれ、あたりは佑樹の見知った、懐かしい景色を見せ始めた。円徳寺の大門の前にある道路に足を踏み入れる前に、佑樹は疲れきった太腿を鳴らしながら振り返った。

そこから見る香焚、その先に続く深原や長崎市街南部の街並みは、あの頃とちっとも変わっていない。渋谷駅前などは新しい高層ビルが次々と立ち並び、もう5年前の街並みもわからないほどだ。

徐々に薄暗くなる中、ジージーと鳴く蝉の声ももはやビージーエムの一部になり、都会に比べるとやや乾いた海風が、時折首筋に涼風を運んでくる。

この風景を奈史にも見せたい。素直にそう思った。きっと休みながらも最後まで歩いてのぼるはずだ。そして、今の自分と同じように、この景色を見て何かを感じるはずなのだ。

この石段をのぼりながら、佑樹は何度自分と向き合ってきただろう。

小さい頃、祖父とともに歩きながら、禅問答のように思考の訓練をされてから、ある時はなぜ人は死ぬのかをひたすら考え、ある時は若者らしく異性のあれこれに思いを馳せた。秋の夕暮れに、父のいない自分の身を密かに憐れんでみたり、冬の木枯らしの中、特殊な能力の可能性に身を震わせながら歩いたこともあった。

高校三年生の初夏。あの日も、佑樹はこの階段で、親友の告白について熟考していた。


その日、駿太郎と別れ家路についた佑樹は、長い階段を歩を踏みしめながらのぼっていた。夕陽まであと少しで、徐々に気温が下がり始める頃だ。一番過ごしやすい時間を、汗をかかない程度にゆっくりとのぼりながら、彼は親友からの切実な依頼について考えていた。

 時折振り返ると、手前に香焚町の漁港、湾を挟んだ向こう側に、長崎半島の山並みが、徐々に全容を現し始める。

佑樹はこの光景が好きだった。物心つく前からこの石段を歩かされ、少しのぼるごとにパノラマが大きくなっていく。そして、のぼり切ったときには、この町を手に入れたような錯覚さえ覚えた。

「この景色、日本一の富士山から見下ろしたらどうだと思う。世界一の山、エベレストの頂上から見下ろすとどう見えると思う。人間のやることはそれと同じなんだ」

佑樹がそうやって晴々と景色を見やるとき、爺さんはそう言って、同じようなことを繰り返したものだ。

今、佑樹は自分の想念を空高くまで飛ばして、状況を俯瞰で見るよう努力していた。駿太郎の父を『巣食っ』た場合と『巣食わ』なかった場合、もちろん情報は圧倒的に足りないが、それでも考えることはやめたくなかった。見える景色が変わるかもしれないと願いながら、何度も何度も違う角度で飛翔させる。

円徳寺に着いた頃には、寺の裏山はすっかり日が陰り、田舎の寺でさえも古刹と言い換えて差し支えないような侘しさを醸し出していた。

帰ったらいつもそうするように、本堂に向かって合掌する。口の中で南無大使遍照金剛と三回唱える。

そうしてる間に、母屋の方で何かしら和尚が叫んでいるのに気づいた。あの爺さんががなり立てるとは珍しいと思い、佑樹は声のする方へと急いでみた。

家の裏側の駐車場の真ん中に久佑が仁王立ちの状態でいる。その眼差しは、真っ直ぐにある男へと向かっていた。

白の高級車に、今にも乗り込もうかとしているその男は、こちらも高級そうなスーツを着ている。緩んだネクタイを直しながら久佑を見て、苦笑するようにおじきをした。

「貴様のような奴は二度と顔を見せるな!」

久佑が吠えるが、相手の男はそれさえも楽しいような素振りで、腰を屈めて後部座席に乗り込む。と同時に、音も立てずに車が滑り出す。

「爺さん。あの人はいったい誰なんだ」

事態の飲み込めない佑樹は、そう言うと久佑をじっと見つめた。久佑はそれでもしばらくは去った車を凝視していたが、

「彼奴はお前の父親じゃ」と吐き捨て、そのまま本堂の方へと歩き去った。

佑樹は呆気に取られた。

彼の父親については、なんとなくだが、どこかで生きているとは聞いていた。しかし名前や住所などは、全く知らされてはいなかった。

そもそもは自分が生まれる前、当時、離れ小島だった香焚島と本土との間を埋め立て、そこを大企業に貸し出すという、町と県による一大プロジェクトがあった。佑樹の父親はその工事に土工として参加していたらしい。

そして、その頃まだ高校生だった母の幹子と恋に落ちたということだった。

高三の秋に妊娠がわかった。幹子の産む決意は揺らがなかったし、父親についても語ろうとはしなかった。当時も高校生の妊娠はセンセーショナルであり、学校は辞めざるを得なかった。それよりもさらに驚いたことは、退学する時にはすでに父親は母の元にはいなかったということだ。

結局、後々になってそこまでは久佑が調べて判明したことを他の見習いの坊さんや長くいるお手伝いさんなどから又聞きのよにして聞いていた。しかし、久佑の口からは父親の名前すら聞いたことがない。

佑樹は、もうとっくにいなくなった駐車場を見やった。かすかに見た、綺麗に撫でつられたシルバーの髪と、いかにも叩き上げという黒く日焼けした肌が印象に残っている。それと同時にどこかで見たようなその顔の記憶を断片を手繰り寄せながら、本堂に向かって歩き出した。

賽銭箱と本坪鈴のある向拝の横から伸びる外縁に、久佑は半跏趺坐の姿勢で目を瞑っていた。坊さんだからか、それがもはや習慣なのか、久佑は考え事があるときや、暇でテレビを見ているときなども、背筋を伸ばして半跏趺坐していた。そして、その姿勢のときは、何を聞いてもおちゃらけないで答えてくれた。まるで、そのときだけは本物の和尚さんのようだった。

それでもなかなか聞きにくかった。父親替わりに育ててくれた人が、実際の父親のことを話さないと決めたのなら、それが正しいのではないか。それとも、佑樹には実の父親を恋しく思う気持ちがあると思われたくないのか。どちらにしろ、久佑が話す気になったときに聞けばいいと、かたく心に決めていた。

佑樹は何も言わずに隣で坐禅を組んだ。

五月の夜はすずろに肌寒く、その分、法界定印を結んだときの気の定まり方は鋭かった。

精神を集中するとき、ついいつものように愛染明王を観じようとして慌てて結びかかった像を解いた。そして、気を取り直して、心の中に明々と輝く真円を描いた。月輪観というこの作法は、心を研ぎ澄ます訓練として幼い頃からやっているものだ。

まずは目で見た平面の満月を心の中心に浮かべ、大小自在に伸縮させる。次に、その円が徐々に球体になっていき、その中心に自分が坐禅を組んでいるかのように観じるのだ。

佑樹は坐禅を組み、瞑想に耽っても『無』の境地を経験したことはなかった。「これが無の境地か?」と思ったことはあったが、そう思う自分がいると感じていたから『無』ではないのだろうと思う。

しかし何度も瞑想を重ねるうに、瞑想とは『無』を経験するためにするのではなく、心または脳をリセットするためのものではないかと考え始めた。瞑想を深めることによって、日常生活でついた人生の垢やサビを落とし、壊れたり古くなった部品を修理し、エネルギーを補充する。すると思考がどんどん速くなり、相対的に内的な時間がゆっくり過ぎるように感じる。

だからと言って、すぐに答えが見つかる訳ではない。筋道がはっきりしてきたり、答えに通じるヒントがチラッと見えたり、そのヒントのためへの行動を思いついたりするだけだ。

「なあ、爺さん」

佑樹は瞑目したまま久佑に話しかけた。返事はなかったが、ちゃんと聞いてくれているとなぜかわかる。

「友人の頼みだとしても、その事が逆に友人を傷つけたり、友人の不利益になる可能性が否定できないときは、その頼みは聞かない方がいいのかな」

風が流れた。緑色の香りが一瞬佑樹を包んだが、すぐに元に戻る。

その時、久佑が思ったよりも気合いのこもった声で答えた。

「お主の問いへの答えではないが、ほとんどの場合、すでにその問いの中に答えは出ておるのじゃ」

佑樹は目を開いて久佑を見た。久佑も見られていると感じているのだろう、目を瞑ったまま、うんと頷いて続ける。

「『AとBどっちがいい』とか『どう思う』と聞かれた場合、答えはA、Bどっちでもいいんじゃ。その時は本人でさえどっちでもいいと思っていることが多い。そうして『AとBだったらAは良くないよね』と尋ねられたら、『Aは良くない』と答えるんじゃ。人は無意識に誘導しようとするのじゃよ」

久佑はそう言うと、はじめて目を開き佑樹を見た。

「『良いかな』と聞かれれば『良い』と答え、『ダメかな』と聞かれれば『ダメ』と答える。理由なんぞ後からどうとでも合わせてやりゃぁいい。ただし、クイズなんぞには通用せんぞ。何気なく問われたときに使えるんじゃ」

そうだったかと膝を叩く思いだった。そして、自分もまだまだだと痛感した。

爺さんの言うことを全て信じるつもりは毛頭ないが、確かに自分の場合は的を射ていた。そして、それに気づいた瞬間、それまで四の五の考えていたことが、単純な問題に思えてきた。

佑樹も目を見開き、爽やかな笑顔で言った。

「なあ、爺さん。うちに二人ほど下宿させるのは無理かな。いや、無理じゃないよな」

あとは駿太郎をどうやって説き伏せるかだと、佑樹は矢継ぎ早の思考回路を楽しみ始めていた。


翌日、登校して早々に、駿太郎をつかまえて自分の考えを伝えた。

駿太郎の父親を『巣食』うのはできないことはない。しかし、他人の恨みを晴らすために『巣食』うのは初めてだから、目標を完遂できる自信がない。そして、父親を『巣食』ったとした場合、法的な方面や経済的、社会的な予期せぬ問題が、駿太郎やあずさに振りかかってきはしないか。どんな問題が生じるか、ふたりで考え抜いてからでも遅くはないのではないか。

そんなことを、授業が始まる前の短い時間では説明できるわけもなく、必然的に一度学校の敷地外に出て、建山公園のベンチに腰を落ち着けてじっくり話をした。

「だけどな、お前だけじゃなくて、あずさちゃんがどう思うかなんてわからないだろ。お前は今もこれからも変わらないと言うし、その通りかも知れない。だけど、あずさちゃんの気持ちなんて我にらないだろ」

「でも、あずさは実際に奴の手にかかったんだぞ。あずさこそ、奴を憎んで当然だろう」

駿太郎がエキサイトして食ってかかる。しかし、今日の佑樹は簡単には引き下がらない。

「だから、あずさちゃんがそう言う判断ができるようになるまで、それまで待たないか」

「そう言う判断って、いつまで待つんだよ」

「あずさちゃんが高校生になるまで。三年間だ。その間、よければお前とあずさちゃんと、ふたりしてうちに下宿しないか」

駿太郎が黙り込む。今日何度目だろう。

頭の中では駿太郎も理解はしているのだ。あずさちゃんの考えが変わらないとも限らない。その前に、あずさちゃんは父親のことをそこまで嫌ってはいないかもしれない。あずさの心はあずさのものなのだ。高校生になるまで、あずさが自分の意見を堂々と言えるようになるまで、その間、佑樹の寺で精神修養を兼ねて下宿するのもひとつの手だと。

ただ、今はまだ怒りが理性を上回っているのだ。その理性を必死にねじ伏せようと、駿太郎はもがいている。

天気予報て、台風並みの低気圧が接近していると言っていた。雲の流れが速く、黒い雨雲と青い晴れ間が交互に見える。風も徐々に強くなり、時折コンビニのビニール袋やペットボトルが道路を渡って行く。

「ウオオオオオ!」

突然、駿太郎の絶叫が響いた。周りにいた数人の大人とその子供たちが、授業をサボっている鶴東高生を見る。この近辺での鶴東高生の評判がまた落ちただろうが、気にしないふりでそっと駿太郎を見遣った。またしばらく沈黙が流れた。

「わかったよ。でも三年は待てない。俺たちが大学生になったら。その時、あずさがきちんと意思表示ができたら。その時は頼む」

泣きながら潰れた声を吐き出す駿太郎に、佑樹は何も言わず肩を叩いて了承を伝えた。

結局建山公園をあとにしたのは昼過ぎだった。カバンは学校に置いたまま、ふたりは山をくだり金大工町で牛丼を食べた。今にも雨が降りそうな空で、ふたりはこのまま家に帰ることにした。

善は急げという訳ではないが、あずさのことを考えると一刻でも速い行動が望ましいと駿太郎は考えていて、とりあえずこれから駿太郎の家に行き、あずさに了承を取ろうと言うことになった。

長崎市営バスで成瀬町まで約四十分のいつもの帰り道、昨日までの悲観的状況ではなく、明るい展望が開けてきたようで、ふたりは少しオーバーにはしゃいだ。

バス停で車を降り、瀟洒な家の立ち並ぶ坂道をゆっくりと歩いた。空にはたっぷりと雨粒を溜め込んだ雲が、今にも盛大に破裂しそうに東へ急いでいて、それを少しでも手助けするかのように風が吹きすさんでいた。

時津家の見えるところまで来た頃、駿太郎の血相が変わった。

「親父が帰ってる」

駐車場に止めてある車を確認したのだ。そこには黒塗りの高級車が、何事もないような素振りで静かに佇んでいる。

呟いた瞬間、駿太郎は家の中に突進した。慌てて佑樹もそれに続いた。そして、同時に、何か途方もない違和感が佑樹の頭を締めつけた。

少し遅れて家の中に入ると、吹き抜けの玄関右手の階段の上で対峙する親子が目に入った。次の瞬間、駿太郎が飛びかかったかと思うと、父親と思われる男が駿太郎を殴りつけた。

「お前にしては頭が回るなぁ。あずさはどこかへやったのか。まあいい。お前を動けなくして相手してもらうか」

ニヤリとそう呟くと、倒れている駿太郎を数度蹴った。

佑樹は走って行き、父親である男の背中を突き飛ばし、駿太郎を庇う体制になった。たたらを踏みながら振り返ったその顔を見たとき、何かがカチリと音を立ててはまった気がした。

そこに立っていたのは、駿太郎の父親である時津健太郎であり、その顔は昨日円徳寺に来ていたあの男、佑樹の父親だと久佑に追い返された、あの男だったのだ。

(この男が駿太郎の親父、時津建設の社長で県議会議員の時津健太郎。たということは)

「なんだお前は。こいつの友だちか。まあいいから、ちょっとどいてろ」

そう言うと、佑樹を軽く小突いた。

「あんた、こいつの親父でしょ。息子が家に帰ってきて早々殴る蹴るって、どうなんすかね」

突き刺すような佑樹の視線をまともに受けて、健太郎は面白いものを見るように佑樹を覗き込んだ。

「君の言う通りこいつは俺の息子だ。父親が息子の躾をするのに、時間は関係ないんだよ。それよりも、そんな親子の大事な時間に他人の君がしゃしゃり出てくるのは、いかがなものかねぇ」

そう言うと、健太郎は佑樹の胸ぐらを掴み、グッと顔を引き寄せた。

「で、友だち思いの君は、殴られてるこいつを助けようと思ったんだろう。反撃してこいよ。一発は殴らせてやろう」

引き付けていた手を乱暴に放し、一歩下がって腕をだらりと下ろす。目には余裕の表情が浮かんでいる。

「なんでおれがあんたの口車に乗らなきゃいけないんだよ。いい大人が正当防衛でしたってか。どこまでバカなんだろうね。力でしか自分を誇示できないとか、バカの極みだな」

負けずに佑樹が口で攻撃する。

「ほほう。口だけは達者だな。俺は正当防衛なんて甘っちょろいもんは信用してないし、使うつもりもないが、そこまで言うんならこっちからやってやろう」

言うが速いか、右手が佑樹の腹部を弾いた。そして痛みを感じる前に左頬に衝撃が走った。大きな音が鳴り、脳が揺れた。殴られた腹の痛みが、その時になって襲ってきて、息ができなくなった。健太郎は顔色も変えず、ゆっくりとその場で佑樹を見下ろしている。

「やめろ! 土雲に手を出すな」

駿太郎が自分の腹を押さえながら、フラフラと立ち上がって言った。その言葉を聞いた瞬間、健太郎の眉が動いた。

「土雲? お前、円徳寺の息子か。と言うことは・・・・・・」

言葉が出なかった。今、この場で自分とこの男の関係を暴露するのだろうか。佑樹は歯を食いしばった。

「そういえば確かに面影があるなぁ。確かに似てる。へえ、そうかぁ」

意味ありげに微笑むと、もう興味がなくなったのか、くるりと背を向けて歩き出した。

「またお邪魔するよ」

最後の一言はどちらに向けて行った言葉なのか、はっきりしないまま嵐の中心は出ていった。

外はいつの間にか暴風雨が吹き荒れていた。

駿太郎と佑樹はお互いに無事を確認した。その日はとりあえず何もないだろうと、駿太郎にはあずさへの提案をしてもらうことと、いつでも来れるように荷物を作っておいてもらうことにした。

「すまん、土雲。親父はああいう奴なんだ。あいつは誰でもかれでも力でねじ伏せようとするんだ。マジで、あいつの息子ってことが嫌で嫌でたまらない!」


雨のため、昼間でも電灯をつけて運行するバスの車内は、いつ乗っても物悲しい。いつもは陽気におしゃべりに興じるであろう女子高生や幼児なども、疲れたような表情でうなだれていた。窓を打つ雨音が、後者後に濡れて重くなってしまった靴が想像できて鬱陶しい。

佑樹の場合は寺に続く石段が、雨の日、最大級に鬱陶しくなる場所のはずだが、今日のように本当に嫌なことがあった日の、この山頂まで続く苔むした石の階梯は、抗いようのない運命というものの存在を教えてくれているようで、逆に心地よくさえある。

もはや用を足さない傘には縋らず、全身を濡らしながら歩くこの階で、佑樹の目だけは赤く燃えていた。

あの男は『巣食』ってやるしかない。駿太郎やあずさ、恐らくはその他何十人もの人々のため、そして捨てられた俺のため、何より母のために、あいつを許すわけにはいかない。

佑樹は駿太郎にさえ、その事を言わないと決意していた。これはすでに駿太郎には関係のない、佑樹自身の存在の問題だったからだ。

住み慣れた寺まで、山の中腹にかかるような雲の中を通り抜ける間、佑樹は口の中で愛染明王の真言を唱えていた。

戸惑いや躊躇する気持ちはもう微塵もなかった。

心臓の拍動に合わせて、左の頬がズキンズキンと脈打ち、そこだけが熱い。

深夜一時まで待った。すぐにでもあいつを『巣食』ってやりたかったが、念には念を入れた。ほとんどが眠っている丑三つ時。この時刻が『巣食う』には最適の時間なのだ。

その時がきて愛染堂へと向かった。口の中が切れていて、その部分が腫れ始めた。大きく身体を動かすごとに、鈍い痛みが走る。

暗い暗い洞窟。もしくは星の見えない夜の空。光の届かない深い深い海の底。はたまた重力までもがなく上も下も区別がつかない宇宙空間だろうか。

そんな暗闇の中に一本の赤い糸が、定規を使ったように真っ直ぐ伸びている。その先にはきっと見たこともないような醜悪で残虐な心の世界があるのだろう。

佑樹の『魂』が形を変えた愛染明王は、唸りを上げて回転し、線路を走るロープウェイのように糸を辿って驀進した。

ブレーキのかかる反動もないまま、愛染明王はその身体の色よりもなお赤い、燃えるような緋色の世界が広がっていた。

昼間、あの男と話してみてよくわかったこと。そらは、佑樹とあの男がよく似ていたことだ。特に話し方が似ていた。ちょっとひねくれていて、しかも相手を小馬鹿にするロジックは誰にでも真似できるものではない。あの男と話してみて、はじめて「おれはこの男の息子なんだ」ということが、実感として感じられた。

もしかしてとは思ったが、心の世界までも似ているとは。佑樹は無性に悔しかった。

そこに散らばっている、真っ赤な墓石のような記憶の箱のいくつかに接触してみたが、そこには色のない人間と話し、次々に顔面にバツの印をつけていく様子しかなかった。夜の高級クラブのママやホステス、車の運転手、取引先の会社の役員、社員たち、県議会議員、役所の職員、誰しもが一度会話しただけでバツを塗られていた。

あの男は人を人と思っていないのだ。今日一日が始まってから、一度はちゃんと向かい会おうとする。しかし、一言会話を交わすと、顔にバツ印をつけていく。成長がないということのようだ。そうやって、会う人会う人、全員の顔がバツだらけになるのを、楽しみにしている節もある。

通常、『巣食う』相手の記憶にはできるだけアクセスするのだが、あの男の記憶にはこれ以上興味がなかった。母との馴れ初めに興味はあったが、そんなに古い記憶は辿るだけで時間がかかる。そらに、待ちに待ったため、もう佑樹の愛染明王は暴走寸前だった。

『オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク、オン・マカラギャ・バゾロ・ウシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク・・・・・・』

手は愛染明王の根本印を結び、愛染明王の真言を響かせながら、光背までも真紅に染めた愛染明王の憤怒の尊顔と同化しながら、佑樹は自分の『魂』を旋回させ始めた。その旋回のスピードが最高潮に達したとき、無造作に置き散らしている記憶箱に向かって突進した。

荒れ狂う回転体が、音を立てて箱型の赤い物体を噛み砕く。その予定だった。しかし、あの男の『魂』の欠片はそうそうやわではなかった。表面は削れるのだが、その下に鈍く輝く、まるでプラチナのようなもう一枚の殻があったのだ。

佑樹は驚いた。今までの『巣食い』とは根本的に違うと感じた。そこら辺のやわな大人の精神ではなく、事を成した男の『魂』は、文字通り鋼が通っているのだろうか。

佑樹はギアを一段階上げた。愛染明王は唸りを上げて回転し、火花を散らし始めた。

まさにあの男の精神力の具現である記憶の箱が、

「そんなものか。お前の力はそれぐらいなのか」

と、佑樹に力較べを挑んでいるように、横綱が新人席取りに胸を貸しているように、絶叫しながら火花を飛び散らかす回転体の攻撃を、完全に受け止めている。

見えている視界が歪んできた。あまりにエネルギーを放出しすぎて、一種の酸欠、または飢餓状態に陥ってしまったようだ。

(この世に『巣食』えない人間がいるのか)

絶叫が悲鳴に変わったような気がした。回転が徐々にスピードダウンしていき、ガツガツと鳴っていた衝撃音が間遠になっていった。

(一旦退くか)

敗北の予感がひしひしと近づいていた。しかもあの男の『意識』にだ。

佑樹はそれでも一度引こうと決意した。時間がかかっても必ず『巣食っ』てやると心を固めていた。

しかし、最後に少しでも、その兆しが欲しいと思った。

一番角に『意識』を集中させて、再び愛染明王にエネルギーを与えた。瞬間、明王が高い金属が弾けるような破裂音をだした。

あの男の記憶の箱、その一端に微かだがヒビが入ったのがわかった。するとそのヒビはもう何もしていないのに、自ら割れ、自ら増殖し、他の『意識』にも伝播して、あの男の『精神』は音を立てて崩壊していった。まるで歴史の授業で習うローマ帝国や秦、漢のように、一瞬で呆気なく崩れ去ってゆく。そこには個人の思想も、歩んできた道のりも関係なかった。

もう佑樹にも愛染明王にもどうすることもできなかった。あの男の『精神』は強すぎた。ゆえに佑樹の『魂』は全力以上の力で応戦した。その結果、彼の『魂』は崩壊した。

佑樹の分身はすでに回転することをやめ、静かにひとりの人間が壊れゆく様を眺めている。その三つの目からは、赤い血のようなものが流れていた。



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