第9話 佑樹 (三)

苦しい夢を見て目を醒ました。

息苦しく、悲しく、怒りはあるがそれよりも恐ろしさが勝つ。目が醒めた今となっては、もうどんな夢だったか覚えてはいないが、身体中を濡らす汗の量が、その夢の凄惨さを物語っている。

こんな夢を見たのは久しぶりだった。やはり昨日もらったあの葉書の影響だろうか。

空が明るい。今日も暑い日になるのかと、少し顔を顰めながら時計を見ると、まだ六時を回ったところだった。

東京の朝は早いと改めて思う。長崎から出てきたばかりの頃は、それが一番の苦痛だった。日光で寝ている瞼をこじ開けられるのだ。

長崎では五時に起きてお寺の境内を掃除していたが、夏でもまだ薄暗かった覚えがある。東京では山がないため、ビルの陰にでも建っていない限り、五時には日がさし始めている。

その代わり東京では夕暮れが早い。長崎では八時近くまでサッカーボールを追いかけていた。確実に時差は存在すると高校を辞めてから気付かされたのだった。

顔を洗い、インスタントコーヒーを煎れる。朝食はこれ一杯だけだ。新聞も取っていない。読もうと思えばネットで事足りる。その話になった時、深月には、

「自分の意思で見る見ないを決めると、偏った考え方になっちゃいますよ。テレビもそうです。最初は見たくなかったものが、見てしまうと面白かったって事ありません? だから、新聞やテレビは必要なんです」と説教を受けてしまう。

コーヒーを一口すすり、テーブルの上に置き散らかした封筒類を指先で取捨選択する。その中に昨日も見たはずの、払いが長く、止め跳ねが力強い、いかにも男らしい筆遣いが目に付いた。祖父である土雲久佑からの葉書だった。

背景に淡いトーンで「コッコデショ」の様子が描かれた水彩画があり、文字は、挨拶も何もなく、ただ、

「元気か。たまには母親に顔を見せに来い」とだけ記してある。あの不器用な師匠が筆を持っている様子が、手に取るようにわかる。

佑樹の母親は、佑樹が一才になる前に、佑樹の『巣食い』の力で『意識』を食い荒らされた。以来、知力は幼稚園児以下になり、いつも家の中で虚空を見つめて過ごしていた。おそらく今でも同じように、気が向けば仏様に額づき、花を愛で微笑んでいる事だろう。自分の中の穢れた心を全て食い散らかされ、残った清い心だけで生きているのだ。

そんな母でも、彼女の父親である久佑がいてくれるから大丈夫だと思っていたが、この葉書をもらって気付かされた。

久佑も老いたのだ。

自らの身に老化の兆しを覚えたために、母を理由に佑樹を呼び寄せているのだ。

そんな母親と祖父と、そして学歴までも捨てて、佑樹は長崎を出てきた。あの忌まわしい記憶から逃れるために。

頭を振り、雑念を振り払う。そろそろ一回帰っておくか。そんな気持ちは確かにある。しかし、まだだと言う声も聞こえる。自分が犯した罪と、その犠牲者にどう向き合い、そしてどう弔うのか、と。

自分が『巣食っ』てきた人たちは全員が何らかの悪事を働いていた。それは大きかろうが小さかろうが、佑樹にとっては関係のない、改めるべき悪行だった。

しかし、彼らにも親兄弟がいた。愛する恋人がいる人もいたかも知れない。信頼できる、信頼してくれている友だちもいたはずだ。それらの人たちの思いを考えていなかった。

いつもその事に思い至って激しく後悔をする。そんな十五年だった。

達筆の字を眺めながら、その書き手の懐かしいダミ声や、友だちの笑い声、淡い胸の疼き。そして、それに纏わる遥か昔の思い出が蘇ってきた。

あの日が始まりの日だったのだ。


うろこ雲が空を覆い尽くし、遠くに浮かぶ鷹島もはっきり見えるほど空気が澄んでいた。暑かった夏のジリジリ感はもうなく、町は長閑な秋の佇まいの準備に入っている。

そんな町の雰囲気とは裏腹に、佑樹の気分は浮かれていた。中間テストが終わったと言うのもあるが、それよりも今日が十月七日だと言う事の方が大きい。

今日から待ちに待った「長崎くんち」が始まるのだ。

長崎の街は「くんち」を境にその色合いをガラリと変える。

精霊流しが終わり、それでも街には熱気が居座ったままで、いったいいつまで続くのかと思われたが、この「くんち」が終わった途端、夏は萎んでしまう。街も人も空気さえも、すっかり秋色に変わってしまうのだ。

しかし、そんな事を喜んでいるのでは、もちろんない。佑樹の心が浮かれているのは、今日これから、宮脇雅奈が「くんち」に出没すると言う情報を得たのだ。

その吉報をもたらしたのは、香焚中の瓦版屋こと藤瀬真嗣だ。どこで仕入れてきたのかわからないが、彼の情報は正確だった。

内容はこうだ。

テスト終了の為、彼女は早く家に帰れる。そして、彼女は友だちの楠本郁、森崎美知留の三人で「くんち」に繰り出す予定。バスは香焚本村バス停を二時三十八分出発。との事だった。

早い話が三人の会話を盗み聞きしていただけなのだが、その話を自分に伝えにきた時の真嗣の勢いたるや、大スター同士の結婚報道と同様の騒ぎっぷりだった。

「ユウキ、おれたちも二時三十八分のバスに乗るぞ。そうすりゃ、たっぷり四十分は話せるぜ。これはチャンスだぜ。もちろんトオルも呼ばなきゃな」

野球部の相川徹と佑樹と真嗣は、通学路が同じのいわば幼なじみだ。幼なじみとは言え、この香焚町は元々が島だったため、小学校と中学校がほぼほぼ同じメンバーになる。全員が全員と幼なじみと言えば言えなくもなかった。

佑樹は山の上にある円徳寺に住んでいるが、そこから階段を降りた所にある藤瀬酒店が真嗣の家で、そこを真っ直ぐ進み、バス通りに出たところを左に曲がるちょうど角に建っている薬局が、トオルの家にあたる相川薬局だ。学校の行く時はバス通りに面した桟橋付近で毎日待ち合わせをしているメンバーだった。

「野球部はそんなに早く練習終わらないだろう」

「ところがだ、今日は野球部の桑原監督が出張でいないから、トオルも休めるんだよ」

相川徹は野球部のエースでキャプテンだった。身長が高く、ほっそりした体格からは想像できないほど球威のあるストレートを投げると言う。高校に行っても野球を続けるらしく、未だに練習に参加していたのだ。しかし、そう言う事なら、俄然現実味を帯びてくる。真嗣の卓球部も、佑樹のサッカー部も夏休み前に三年生は引退していたから、十分間に合うはずだ。

「そうと決まったら、早く帰って準備だな。桟橋のところで待ち合わせな」

佑樹はうんと頷いて、帰る準備を始めた。真嗣は隣のクラスの徹の所へと結集の手筈を伝えに行った。

ひとり帰宅の途につきながら、佑樹は事の始まりをなぞっていた。


香焚中の三年生は、元々硬派な学年だと言われていた。二年生までは、男子は男子、女子は女子同士の結束はあったのだが、男女の関係はどちらかと言うと疎遠に近かった。バレンタインデーなどでも、あげたもらったという噂は聞いた事があるが、本人たちは決して認めなかったほどだ。

その男女が、三年生になって急速に近づいた。思春期なんてそんなものなのだろうが、全員が「よーいドン」の合図とともに、一斉にに異性に目覚めたかのようだった。

佑樹たちがその流れに飲み込まれたのは、二学期になってすぐの事だった。

まだ夏休みの余韻が残る九月初旬。当時、ふたクラスしかない香焚中の体育の授業は、一組二組合同で男子と女子に分けて行われていた。その授業が始まる頃、佑樹ら三人だけは教室に居残っていた。

始業のチャイムが鳴り、三人は声を潜めた。授業はサボれないが遅れていく、遅れていくが誰かに見つかるのは嫌だ。三人はそれくらいの普通の中学生だった。

すぐに真嗣が机を物色し始めた。しかも、女子の机だけに狙いを定めているようで、男子の机はわかった途端に素通りだった。

「おい、マーくん、いい加減やめとけば?」

佑樹はとりあえず真嗣を諌めた。が、止まらない事も重々承知していた。徹はニヤニヤしながら眺めている。

「あ、あったあった」

真嗣が雄叫びを上げながら、とあるカラフルなノートを取り出した。

何のノートかと言うと、美知留たち三人がやり取りしている交換日記だった。真嗣はそれを覗きたかったのだ。先日、同じように授業をサボった時、真嗣が偶然見つけていた。その時は内容を確認する間もなく、他の先生が通りかかってとりやめになったが、それ以来、また覗き見できる機会を窺っていたのだ。つまり、今日の遅刻も計画的犯行なのだ。

真嗣の声に、ヤキモキしていた佑樹も、知らぬ風を装っていた徹も、目の前の砂糖に群がる蟻のように飛んで集まってきた。実はふたりも気になってはいたのだ。

そこには、女子中学生らしい丸い文字と、愛らしい色で着色された絵などが書き連ねられていた。

森崎美知留の書いたページには、徹への告白めいたポエムや、激しく熱い思いの丈が綴られてあった。彼女は徹に気があるのだが、それは誰もが知る公然の秘密となっていた。だから徹は余裕で待っていたのだ。

「フー。相変わらずですなー、トオルくーん。お前、そろそろ告らないのかよ」

真嗣が茶化すように「くん」付けで呼ぶと、徹は「おう」と鷹揚に頷いた。彼の気持ちはわかっている。相手が好きなのは確定しているのだから、できれば相手から告白させたい。なんなら、今の状況を楽しんでもいる。こいつは無口な坊主頭だが、ナルシストなのだ。

三人で顔を寄せて読み進めた。美知留は徹への恋心を書き連ね、雅奈はそれに盛り上げ役、郁は主に先生への不満や、高校生になったらという夢の話が多かった。

「おい、これってユウキのことだよな?」

その部分を見咎めたのはやはり真嗣だった。そのページは宮脇雅奈が書く番のページで、そこには、

「昨日、クラスの男子が夢に出てきたんだ。その子はお寺の子で、いつもはクールなんだけど、夢の中ではとっても優しかったよ」と書いてあった。

三人とも「おー!」と叫び声を上げ、慌てて口を閉じた。閉じながらも三人は飛び跳ね、目を丸くした。まるで同じ年頃の女子のように。

佑樹は動転していた。あまりに突然、自分が主役に躍り出た気になった。顔がお湯を沸かしたやかんのように熱くなった。

佑樹に関する事はそれ以上書かれていないようだった。ちょうどその時、教師が通りかかり、怒鳴られた。三人とも連れて行かれ、体育の先生にも怒られた。それでも佑樹にとっては、まるで夢の中のできごとのようだった。

宮脇雅奈はあまり目立たない、どちらかと言うと他人を引き立てるような女の子だった。超お嬢様キャラでブリっ子の森崎と、大人っぽく、弁舌のたつ楠本、その二人となぜか気が合うらしい。

その日以来、佑樹は宮脇雅奈が気になって仕方なくなった。いつの間にか目で追い、目が合うことも多かった。目が合うという事はむこうもこっちを見ていたということだ。そこには一筋の空気の道ができているように、どこにいても見つけられた。

その思いが、もしかしたら・・・。


校門を出て校庭を回り込むようにして町道に出る。そして真っ直ぐに寺を目指す。気持ちは台風の日に舞上がる風に翻弄される落ち葉のように上下した。

佑樹は長い階段を一気に登った。さすがに頂上付近では息が切れて肺が潰れそうになったが、なんとか一番上まで持ちこたえた。数分息を整え、山門を潜る。

「コラーッ! 一礼をせんか!」

どこで見ていたのか、師匠の一喝が飛んできた。体力を使い切っていた佑樹は、たじろぎ、そして一瞬にして臨戦態勢にはいった。

「う、うるせぇ。急いでんだ、よ。」

「何が急いでるじゃ。どこに行くんじゃ。境内の掃除はどうした」

「昨日言ったろう? 今日はくんちに行くから、明日の朝、早く起きて朝の分と昼の分やるって」

久佑はニヤッと意地悪に笑いながら言う。

「そうじゃったな。ところで、誰と行くんじゃ?」

「酒屋のマーちゃんと、薬局のトオルとだよ。あっと、時間がないんだ、それじゃな」

そう言うと、にやけながら見ている久佑を尻目に、母屋に駆け込んだ。

台所に入って麦茶を一杯煽るように飲んだ。すると奥から母の幹子がふらりと現れた。まるで赤とんぼを追いかけて迷子になった童女のように、ポツンと佑樹を見上げていた。

「お袋、ただいま。どうした?」

「ううん、どうもしないよぉ。佑ちゃんがいたからぁ、きてみたのぉ」

佑樹の母は、幼稚園児の知能しか持っていない。時々煩わしくなる事はあるが、いつもは部屋に閉じこもったきりで滅多に顔を見せない。今日は気分がいいのか、よく喋っている方だ。

「今日は忙しいから相手してやれないんだ。ごめんよ。また今度な」

佑樹は急いではいるが、いつも幹子に対しては優しかった。幹子はあどけない笑顔で手を振る。

「バイバイ、佑ちゃん。お土産買ってきてねぇ」

幹子は、佑樹がどこに行くとも言ってないのに、必ず「お土産」を要求した。はいはいと適当に頷いて、佑樹は自室に下がった。

佑樹は一張羅のパーカーにスカジャン、取っておきのジーンズとアディダスのスニーカーを履き、再び長い石段を降りた。待ち合わせの時間にはまだ余裕があったが、なぜか駆け下りてしまった。


待ち合わせ場所には他のふたりも時間通りに来た。そして、女子の三人も、いつも見る制服とは違い、それぞれが半月遅れの春に咲く花のように眩しく着飾っていた。

もちろん、女子らは佑樹たちが来ることを知らなかったはずだ。偶然バスに乗り合わせた事になるので、男女は離れて席についた。だが、美知留が徹に目配せをし、徹もはにかんでいる。その隣で、郁が美知留をけしかけ、真嗣が徹を煽る。

しかし、佑樹が一番注目したのは、もちろん、美知留の横でこっちを見ている雅奈だった。

その時の雅奈は、真に観音様の美しさだった。白いフワッとしたアウターと胸元には黒のインナー。細いベルトに黒いタイト目の膝上スカート。黒いストッキングにローファーと言うシックな出で立ちだった。それよりも何よりも、美知留たちに話を合わせながら、時おり佑樹を見る目が潤んで見えた。

約四十分後、何かをきっかけに話すようになった男女は、連れ立って中央橋バス停で降車し、いつもの二倍はいるであろう人混みの中に降り立った。

「くんち」は鎮西大社諏訪神社の秋の大祭だ。諏訪神社の三つの御神体が、大波止に設けられた御旅所まで下る「お下り」の前日、市民のみんなに見てもらい、そして市民を眺める中日、最後に再び諏訪神社に上る「お上り」の後日、この三日間で成り立つ。この三日間は長崎市の各場所で、踊り町が催す奉納踊りが見られる。踊り町とは、旧市街の五十九の町の中から毎年五から七の町が、「龍踊り」や「オランダ漫才」、「鯨の潮吹き」、そして「コッコデショ」など町独自の奉納踊りを踊る。踊り場から踊り場まで移動する最中にも、スポンサーの店舗の前などで踊っているのを見物もできる。「くんち」の楽しみ方の定番だ。

しかし、若者にとっての「くんち」はちょっと違う。御旅所の周りに出店しているたくさんの出店と、それに集まる人の波。その波に押されながら、抗いながら、知った人に会い、知った人に会わないようにする。これが長崎の中高生における「くんち」の楽しみ方だ。

佑樹たちも香焚からバスで繰り出して来た田舎者という自覚はあるので、自然と六人一緒に行動していた。

美知留は当然のごとく徹の隣を歩き、真嗣と郁は勝手に店を見て周る。

何も喋らない雅奈も、ごく自然と佑樹の横で微笑んでいる。佑樹はぶっきらぼうにしながらも、なんとか頭をフル回転して、会話を繋げて楽しんでいた。

だんだん夜の帳が降りてきて、舗道を照らす提灯の灯りが、隣の少女にも色を加える。今の佑樹からは全く想像できないほど、彼は浮かれてしまっているようだった。

御旅所近くのギューギュー詰めから一旦離脱し、出島ワーフ前にあるヨットハーバー沿いを歩くことにした。

「はー、それにしても人が多いなぁ。御旅所の前は動けなかったぜ」と真嗣がゼーゼー息を吐きながら言う。

「それでも、うちらは相川がいるから、目印には困らないよね」と、持っていたりんご飴を舐めながら郁がはしゃぐ。言われた徹は照れているのか鷹揚なのかわからない表情で「おう」と応える。それを見詰めながらうっとり微笑む美知留。

「なぁ、もう一回射的やりに行こうぜ」

真嗣が鉄砲を撃つ振りをしながら言う。しかし、その意見に賛同する人はいない。みんな、人混みからちょっと離れながらも、近くに人混みが感じられる、そんな暗闇で、何となく喋っていたかったのだ。完全に日が暮れて、中学生には刺激的な雰囲気になり、それに気付かぬ振りで、瞬く間に楽しい時間は過ぎていった。

「おれ、ちょっとトイレ探してくるわ」

ずいぶん経ってから真嗣がそう言うと、徹も行くと言いだした。そうなると佑樹も行くことになる。それに本当のところ、さっきから膀胱がパンパンだったのだ。

三人でコンビニを探して歩き、用を済ませて、また船着場まで戻ってみると、女子三人組の周りに数人の人影が集まっているのが見えた。

「なんだ、あいつら」と徹がいきり立つ。それを佑樹が止める。

「お前、推薦があるんだろう。とりあえず関わらない方がいいよ」

佑樹の言葉に、「でも」と反論しかけるが、万が一の事を考えると、やはり徹は出ていけない。

佑樹は真嗣に、

「マーちゃん、お前も徹とどこかに隠れてろ。下手に誰かいるよりいない方がやりやすい」と言って、真嗣を抑える。

佑樹はスカジャンのポケットに手を突っ込んで、女の子を囲む集団に近づいて行った。

「やあ、お待たせ。もう遅いし、帰ろうか」

そう言った佑樹に一番女子の近くにいた男が振り返る。革ジャンに革パンツ、黄色や茶色の髪、一見してヤバい感じのする男たちだった。

「なんだ、このチビは」

「この女の子たち、おれと一緒にくんちに来たんすよ。で、門限があるって言うから、帰ろうと思うんですよ」

数えると四人の男たち。その連中の雰囲気が一瞬で変わった。もしかしたら、女の子よりこっちの方を待ってたかのように、男たちの目がギラギラし始めた。

「ああ、そうか。お前ん家は門限なんてもんがあるんだ。いいよいいよ。帰れよ。ついでにそっちのブスたちも帰っていいよ。おれたちはこの子ともうちょっと遊んで行くから。それじゃな」

そう言うと、その中のひとり、髪の毛が真っ黄色で長髪、一番背が高く、一番悪どそうな男が、雅奈の肩に手をかけて歩き出す。美知留と郁は唖然とした。びっくりして声を出そしそうになったが、そんな雰囲気でもない事を察して口を噤んだようだった。

「いや、そう言う訳にも行かないんすよ。彼女たちみんな、おれがきちんと家に返すって約束したんで」

そう言いながらも、佑樹はふたりに目配せをしてその場を去らせた。美知留はちょっと憤慨したような、郁は完全に安心したような顔付きで走って逃げて行った。

「何をほざいてるんだろうね」と言いながら、その最凶の男が、佑樹の腹に強烈な一発を入れた。佑樹が腹を抑えて蹲ろうとするところを、胸ぐらを掴んで立ち上がらせ、更に二発、腹を抉った。

息ができなかった。そのまま倒れ込み、地べたでもがいた。男たちの笑い声が聞こえた。

「よく頑張りましたねー。そのまんま寝そべってな」

頬をペチペチと叩きながらそう言うと、最後に腹を蹴り、爪先を食い込ませてきた。胃から食べたものが逆流してきた。男たちの笑いながら嘲る声が聞こえた。

そして、佑樹を殴った男たちは雅奈を連れて悠々と歩いて行った。

佑樹は自分の汚物にまみれながらも、雅奈を連れた男が向かった方角だけは見逃してはいなかった。なんとか動けるようになると、佑樹は腹を押さえて男を追った。くんちで人通りは多かった。あの男たちと雅奈の組み合わせは、嫌でも目立つはずだ。

しかし、彼らの行方はわからず仕舞いだった。

佑樹は町中を歩き回り、吐き回り、這いずり回りながら、力尽きて倒れた。病院に運ばれ肋骨が二本折れていた。

翌日は一日入院し、翌々日に佑樹は学校へ行った。雅奈は来ていなかった。

学校に警察が来て、佑樹に事情を聞いた。他の四人にはすでに聞いていたようで、徹も真嗣も、美知留と郁も、一緒におくんちには行ったが、雅奈は不良軍団と一緒にどこかへ行ったと証言した。彼らと知り合いのようだった、別れる時も笑っていたと、美知留が話したのだと言う。

佑樹はそこは断固否定したが、他はみんなと同じことしか答えられなかった。金髪長髪の男たちの背格好、殴られた経緯を話したが、他の四人と違う証言のため、信じてくれたかどうか判然としなかった。

何かとても悪い事が起きるような予感しかしなかった。

その日、昼休み頃、その予感が当たった。雅奈が遺体で見つかったのだという。大波止から少し離れた中島川の上流で、衣服は破られ暴行された姿で見つかったらしい。

金髪長髪の男はすぐに逮捕された。真木田崇と言い、先週少年院から出てきたばかりの男だった。

他の三人も殺人幇助罪で連行されたようだった。佑樹は目眩がして立っていられなて早退した。折れた肋骨が痛んだが、痛みはそれだけではなかった。

家に帰ってからも、佑樹は何もできずにいた。ベッドに俯せになり、枕に顔を埋めながら一昨日の事を思い出した。何が間違っていたのか、どこで間違っていたのか。

夜になり、月明かりの中、佑樹はいつの間にか瞑想の姿勢をとっていた。

子どもの頃から久佑に毎日座るよう言われ、重要な日の前や、大事な事を決定をする時、いつも瞑想をした。今では二、三時間は平気でできる。

瞑想の時、佑樹はいつも愛染明王を御本尊として拝んでいる。これも久佑が「お前の守護仏じゃ」と言い、手彫りで作ってくれたものだ。この像を前にして、この像を胸に描きながら深い無相の淵へと降りていくのだ。

しかし、その日は心が乱れて仕方なかった。肋骨のせいかとも思った。我慢してひたすら座る。

深夜、月が上がり始めた頃、顎が熱く疼いている事に気づいた。暗闇の中、ポっと灯りがともるように、心臓の鼓動に合わせて脈打つように、その部分に確実に何かを訴えていた。

その疼きに『意識』を集中してみた。すると佑樹の『意識』は急激に回転し始めた。その回転を止められないまま、『意識』は、見えないチューブの中を通っているように、一定の方向に流され始めた。

流れ着いた場所は、ヘドロの凝り固まったような、汚物を汚物で塗り固めたような、どす黒く悪臭を放つ世界だった。

佑樹は『集合的無意識』などという言葉を、その時はまだ知らなかった。しかし、そこが、真木田崇という男の『集合的無意識』の底だと、直感的に理解した。

鈍色に光る過去の記憶の欠片の中のひとつに、佑樹の『意識』は吸い寄せられた。佑樹は佑樹の『意識』に逆らえなかった。いや、佑樹自身も逆らうつもりなどなかったかも知れない。

そのイメージに触れた。

雅奈が泣き叫ぶ姿が見えた。

涙で汚れた顔。引きちぎられたシャツ。あらわになった胸元、下腹部。

痛み、恐怖、羞恥心、悲しみ、恨み。雅奈の感じたあらゆる感情が波になって佑樹に届いた。

そして、その映像を楽しんでいる感情、全てを感じながら、喜びに震えている、真木田の禍々しい『意識』をも、佑樹は捉えていたのだ。

傍らの、佑樹の『意識』とは離れた部分で、しかし確実に佑樹の『意識』である何かが、赤い閃光を放ってグルグル回転している。まるでゴーサインが出るのを待っている獰猛な犬のようだと思った瞬間、その回転体から耳と目と口が形成され、牙が生え、爪が生えた。そはして、その禍々しい犬はそこら中に散らばっている『意識』を喰い始めた。あらゆる記憶、あらゆる感情、あらゆる意識をも噛み砕き、食いちぎった。

佑樹の『意識』は泣きながら吠えた。親にはぐれた狼のように、何度も何度も吠え続けた。

そして、佑樹が見ていたビジョンは、その場でプッツリと切れた。

意識を失った佑樹が目を覚ました時、空は明るく晴れていた。

胸が焼け、吐き気がしたが、いつものように学校に行った。

拘留されていた真木田崇が牢屋の中で発狂したと言う噂が届いた。前日の取り調べの時は飄々と話していたのに、一夜明けて見ると、真木田は、ただただ笑っているだけの、抜け殻のようになったと言うのだ。

佑樹としてはわかりきった事なのだが、改めて確認して愕然とした。昨日佑樹が見た、夢のような、そして地獄のような光景は、紛れもない事実だったのだ。

佑樹はその日、教師にも友だちにも何も言わず、学校を早退した。家には立ち寄らず、真っ直ぐに寺の裏山にある愛染堂に籠った。

これが二度目の、佑樹が意識的に他人の『意識』に入り込んで行った初めての『こころみ』と『巣食い』の一部始終だった。


佑樹が昔の思い出したくない、けれど忘れられない記憶を紐解いていた、ちょうどその時、彼の携帯が鳴った。発信元は友だちと呼べる唯一の男、時津駿太郎だった。

瞬間、嫌な予感がした。滅多な事で電話をしてこない駿太郎が、朝のこの時間にかけてくるなんて。佑樹の悪い勘は当たる。中学三年のあの日も、そして今日のこの電話も、きっと。

何か触ってはならない大事なものを持ち上げるように、携帯の通話ボタンを押した。

「もしもし」

「ああ、佑樹。俺だけど。今、ちょっといいかな?」

「ああ、いいよ。どうした?」

声を聞いてわかった。悪い予感が的中したらしい。駿太郎の声に緊張と怯えが感じられた。

「あずさが入院した。熱がすごく高くて、二日も下がらない」

頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。咄嗟に言葉も出ない。

「十五年前の、あの状況と関係あるんじゃないかと思うんだ。熱があってうなされているのは違うけど。それでな、うなされながらこう言ってるみたいなんだ」

「なんて?」

「マユラキ・・・・・・ソワカ・・・・・・って」

瞬時に孔雀明王の真言だとわかった。オン・マユラ・キランテイ・ソワカ。あの日、あずさに教えた魔法の呪文だ。辛い時、苦しい時にはこの真言を唱えれば助けてくれる、と。

「そうか。わかった。すぐにそっちに向かうよ」

駿太郎はひとこと「すまん」とだけ言った。

電話を切り、そして、また別の番号に電話をかけた。数秒して相手が出た。

「もしもし、高柳です」

「こんにちは、土雲です。朝早くにすみません」

現在、午前八時。出社前の慌ただしい時間だ。奈史の登園の準備か、朝ご飯の片付けか、何にしろ普通の家庭ならば一番忙しい時間に電話をかけて、土雲は済まない気持ちでいっぱいになる。

「単刀直入に言います。今日から何日かお休みを頂きたいと思っています。塾の方は大丈夫でしょうか?」

「教室は心配いりません。元々いなくても何とかなるようにシフトを組んでますから。ところで、何かありましたか?」

強烈なジョークも今の佑樹には効かなかった。それも深月の優しさから出た言葉だろう。少なくとも今日は土雲の代わりを探す手間がかかるはずだ。土雲は心で感謝しながら、

「実はさっき、長崎から連絡があって、あずさが突然熱を出したそうなんです。しかも原因が全くわからないらしくて」

それを聞いて、深月のハッと息を飲む声が伝わった。原因がわからないという所に反応したようだった。

「それで、見舞いがてら、一度長崎へ帰ってみようかと」

そう言うと、深月は一も二もなく賛成してくれた。

「そうですね。そういうことなら、いえ、そうじゃなくても、一度長崎に帰られるのはいい事だと思いますよ。あずさちゃんは塾長にとって妹みたいな人なんでしょうし。ちょうど夏期講習も前半が終わりましたから、本当に塾長は必要ないですから」

「本当に」という部分に力を込めて説得されると、本当なのかと不安にもなるが、そこは深く考えないようにした。

「そうですね、それなら塾長は今日からお盆休みということにしましょう。今日のシフトはひとコマでしたね。それなら今村くんにお願いしましょう。そうすればあと一日はどうにでもなります。それと塾長、お帰りは飛行機ですよね。では、塾長は荷物を作ってください。わたしが飛行機の予約をしておきます」

「いやいや、そこまでしていただかなくても」

遠慮する佑樹に深月がさらに言い募る。

「いえ。やらせてください。そう言う事はできるだけ早い方がいいんです。それに今ならまだ、わたしは時間がありますから」

「そうですか。それならお言葉に甘えていいですか。ありがとうございます。では、よろしくお願いします」

「はい、承りました。また連絡します。あずさちゃん、何事もなければいいですね」

最後の言葉が胸に響いた。あずさとは年も近く、うちの塾で勤め始めた時からいた仲間でもあるから心配だろう。

荷物を一時間で準備し、その間に十時半に飛行機が取れたと深月からメールがきた。ギリギリで一番早い。さすがと心で呟くと、羽田に向けて動き出した。

扉を開けると暑さよりも先に湿気がムッときた。外に一歩踏み出しただけで汗が滲むようだ。ビルの合間から室外機の熱風が襲う。それに気づかないふりで、佑樹は最寄り駅まで急いだ。

十五年ぶりの故郷。恨みと憎しみ、そして悲しみが折り重なって積もっている街、長崎に向かって。

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