第4話 駿太郎 (一)

長崎は梅雨前線の影響で、昨日から断続的に雨が降っていた。

 歌の歌詞ではないが、長崎には雨がよく似合う。オランダ坂の石畳や大浦天主堂などに降るような、観光客用に烟る雨も、長崎という街には似つかわしい。しかし、坂の途中から見る一瞬の驟雨や、埠頭に叩きつける強風を伴った鉄砲雨。そしてこの、湿気の毛布でくるむような暑苦しい長雨さえも、長崎という街の風情にマッチしているように感じる。

低く薄暗い雲の下、梅雨に煙る街を走る通勤バスに揺られながら、時津駿太郎は窓を打つ雨粒を眺めていた。長崎市の南部に位置する深原町まであと十数分。そこのバス停前にある「松宮メンタルクリニック」が駿太郎の職場だ。大学病院での勤務を終えて、母方の叔父が経営するクリニックに勤め始めてもう三年になる。まだまだひよっこだが、精神科医としての自覚と責任感はできてきたように思う。

車内に効いているクーラーの助けを借りても、満員のバスの中は息苦しい。ついつい微睡みながら、駿太郎は昨日聞いた事件について思いを馳せた。

 市内のとある総合病院に勤めている医学部の同窓生から聞いた話によると、一昨日、ひとりの男性が緊急入院してきたという。

心神喪失状態で運び込まれたその男性は、医者や家族の呼びかけにも反応を示さないと言う。終始ぼんやりとしていて、時折小さな声で、「ごめんよ、ごめんよ」と誰かに謝っているのだそうだ。

駿太郎がなぜこの男性に興味を持ったかと言うと、その二週間前にも同じような状態の男性が他の病院に入院していたからだ。こちらは高校生ということだが、突然宙の一点だけを見つめて、一日中涙を流し続けているという。

 時津駿太郎は精神科医になってから今まで、今回のふたりのような症状の患者が現れることに注視してきた。監視してきたと言っても良い。

ある日突然、大の大人が赤ちゃん帰りをしてしまう。趣味や性癖などではない。一日中呆けたような状態で、人間が生きていく上で必要な「摂食」「排泄」「睡眠」だけを繰り返す、まるで赤ん坊のような状態になる。そういう症状を、だ。

 現れることはないと信じつつも、そのような恐ろしい症状が、いつ何時発生しないかと、常に頭の片隅でアンテナを張っていたのだ。

駿太郎は高校生の時、同じような現象を示す患者を目撃したことがあった。ほんのわずかの期間に五人が発症し、ひとりが死亡したのだ。

 十五年前の現象について、駿太郎はその発症のメカニズム、何が原因で、どうやって発症するのか、をわずかながら知っていた。実際に発症する現場にも遭遇した事があるのだ。

しかし、これらの症状はあの日以来、決して出現するはずのない、出現してはいけないものだった。

 二週間前の高校生が発症した要因は、そういう意味ではほぼわかっている。彼は札付きの不良であり、補導歴は三回。窃盗と脅迫と婦女暴行だ。これらの条件も十五年前と同じだった。おそらく昨日搬送されてきた男性も、同様の犯歴があるものと予想される。

「次は深原町。深原町。お降りの方はバスが停車するまでお待ちください」

アナウンスが聞こえて、駿太郎の意識は思考の淵から一気に浮上した。慌てて傘を持ち、ナップサックを背負い降りる準備をする。

バスを降車して傘をさすと、クリニックとは反対の方向に歩を進めてコンビニに入入る。ここで百円のコーヒーを買って、改めて職場へと向かうのだ。コーヒーをすすりながら、駿太郎は十五年前のあの忌まわしい事件の数々に思いを馳せていた。


 あの日、空は青かった。時折、肌に刺さるような突風が吹き抜ける。そんな日だった。

 教室は騒然としていた。誰も、ひと言も発しない。張り詰めた空気がその部屋を支配していた。

肌寒さが増してきて、黒っぽい制服に目が慣れてきた十一月の初旬。対外模試が終わったばかりで気の抜けた感のある二年C組の中で、身動きする者はひとりもいなかった。

 その教室に十七才の時津駿太郎もいた。何かトラブルが起きそうな空気の中、彼も息を詰めて状況を見守っていた。

「おい、こら。お前ふざけんじゃねぇぞ。何とか言えよ」

 そう息巻くのは、先日謹慎が解けて、今日から登校してきた、この緊張感の原因である伊萱信雄だった。その日も遅刻して、四時間目の途中にやってきた。最初は、仲のいい男子の冷やかす声にちょっとおどけて応えたりしていた。しかしその騒ぎが一段落すると、蛇のようにネットリとした視線を、土雲佑樹というひとりの男子学生に注いでいた。

そしてとうとう、午後の授業が始まろうかというこのタイミングで獲物に食いついたのだ。

長崎県立長崎鶴東高校は市内きっての進学校だ。東大にも毎年数人の合格者を出し、地元の長崎大学にほ毎年百人ほど送り込んでいる。そんな高校にも伊萱のような性質の悪い生徒は在籍していた。

伊萱の成績は中程度だったが、とにかく素行が悪かった。喧嘩沙汰は度々起こし、恐喝まがいのカツアゲもやる。

 しかし、その実、喧嘩というのも女子に因縁をふっかけるだけで、殴り合ったりはしていない。カツアゲもやったという証言はなく、全て伊萱の言い分だけだった。遅刻や早退などもない。駿太郎からすると、いつまでたっても世間に甘えているガキという印象のやつだ。しかし、そういう類の生徒というのはどの高校にも一定数いて、知らず知らずのうちに集まって群れているものだ。

伊萱が謹慎処分を受けた理由は喫煙と恐喝だった。中間試験中の十月中旬に、学校近くにある雑貨屋のそばで、たまたま居合わせた大学生の先輩から、煙草を数本分けてもらい吸ったという。その現場を、雑貨屋の小学生の息子が見ていたらしい。

その小学生に通報する気があったかどうかは疑わしい。その子の保護者が話を聞いて鶴東高校に苦情を入れることは考えられるが、名前までは特定できないはずだ。それくらいのことは、ちょっと考えればすぐにわかる。

ところが伊萱はそんなことにも考えが及ばず、数人の仲間とその小学生を取り囲み、ネチネチと問い詰めだした。

それをたまたま通りかかった土雲に見咎められた。すると何がどうなったのかはわからないが、伊萱が土雲に掴みかかったらしい。伊萱の仲間は遠巻きに見物していて、伊萱ひとりが突っかかって行ったようだ。そこをまたたまたま高三の女子数人に見られてしまい、学校に通報されたということだった。

偶然に偶然が重なりはしたが、そもそも伊萱が煙草を吸わなければよかったのだし、吸うにしろ、ちょっと場所を変えれば済んだことだ。例え見つかったとしても、小学生を詰問しなければ大事には至らなかったはずだ。いくつでも避けるチャンスはあったのに、伊萱はことごとく悪手を選んできたのだった。

その伊萱が今、土雲に詰め寄っている。

土雲佑樹という少年に、駿太郎はかねてから注目していた。注目していたとは言え、それは一緒に部活で汗を流したいとか、学校帰りにハンバーガー屋さんに寄りたいとか、テスト前に一緒に勉強したいとか、いわゆる友人として仲良くなりたいという話ではない。

もともと駿太郎には友だちと言えるだけの交友関係はなかった。彼にはある野望があったが、それが失敗したら。彼の人生を終わとも言えるくらいの事だ。その事は絶対に秘密にしなければならないし、誰にも悟られてはいけなかった。

その遠大な野望を実現させるためには、相手に対抗するだけの余裕が必要だった。金銭的余裕、社会的余裕、そして、人格的、体力的余裕だ。そのために彼は、とりあえず良い大学に入らなければならないと固く信じていた。

鶴東高校が長崎市の中心部にあるのに対し、駿太郎の住む成瀬町は南すぎた。どちらかと言うと鶴南高校の校区だ。しかし少しでも大学入試実績の高い高校に行きたいと、駿太郎が無理を通した。本当は父親の勢力圏からなるべく離れたかっただけだったのだが。

彼の通っていた金井首中学から、鶴東高校に合格したのは女子三名と駿太郎だけだった。

良い大学に合格するためには、高校の同級生は全員ライバルだと思っていた。慣れ合っていたら酷い目に遭う。それに、もしもの時に「高校の同級生は・・・・・・」などとワイドショーで流されるのは気に食わない。

そういうわけで、彼は高校生活に友だちは必要ないと思っていた。一年生の時も、挨拶程度の仲の学生はいたが、友人と呼べるほど仲良くはなかった。

二年生になり、ただ勉強をするためだけに学校に通っていた駿太郎は、同じクラスに駿太郎と同じように孤立した生徒がいるのを発見した。

 それが土雲佑樹だった。

彼は社交辞令ぐらいはよしとする駿太郎と違い、全くと言っていいほど友人と交わらなかった。クラスの班決めも、生徒会の役員決めも、全て「家の用事が忙しくてできません」で通した。修学旅行の班決めさえ、修学旅行に参加しないことで、周りに有無を言わせなかった。休み時間も黙って机に座っていて、先生に質問されれば応えるが、それ以外は誰とも親しく話さなかった。

そんな土雲に駿太郎は関心を持った。友だちはいらないなどと嘯きながら、実は人恋しかったのかも知れない。自分がやろうとしている事を、なお厳格に行っている土雲のことが信じられなかったのかも知れない。とにかく彼について、いろいろ調べて回った。

彼は駿太郎の住む成瀬町よりさらに南の、香焚町の出身で、香焚中から鶴東高校に合格したのは彼以外にいなかった。

一年生の時の同級生の話によると、やはり少し不良っぽい生徒に絡まれ、殴られた事があったが、全くの無抵抗だったらしい。しかし、別の生徒に聞くと、若干話が違っていて、土雲の方からちょっかいを出したという話もあった。

それとは別に、香焚中学の隣にある深原中出身の生徒から妙な話が聞けた。土雲には怪しい噂が付きまとっているらしい。

「元香焚中のいとこに聞いたんだけど、あいつをシメようとしたり、ボコろうとしたやつは、みんなバカになったり、改心したりするんだって」

そう言いながら笑っていたその生徒は、土雲がお寺の息子だからかなぁと、ほとんど信じてはいない様子だった。

そういうこともあり、駿太郎は俄然、土雲佑樹という男に興味が湧いてきた。もしかすると期待できるかも知れないと、密かに見守っていたのだ。

「お前、よくもチクってくれたなぁ。いつもは喋らないくせに、あんな時だけはよく口が回るんだな」

伊萱はそう言うと、後ろにいたクラスメイトに同意を求めるように笑顔を向けた。二、三人の男子がそれに追従して笑った。

その時、本を読んでいた土雲が、パタンと本を閉じた。そして、覆いかぶさるような体勢の伊萱に、視線を合わせて言った。

「で、何が言いたいんだ? 旦那に相手にされないババアじゃあるまいし、ネチネチネチネチうるせえんだよ。直接ハッキリと言ってもらえるか?」

この言葉は、伊萱の憎悪に火をつけた。土雲の襟首を掴み、激しい口調で罵った。

「何だこの野郎。お前がチクったってことはわかってんだよ。おかげでおれは謹慎くらっちまったんだ。どう落とし前つけてくれるんだよ!」

今にも殴りかからんばかりの勢いで毒づく伊萱に、土雲は冷静に言った。

「そんなにサカるなよ。あれは高三の女たちがチクったことで、おれは何もしちゃいないよ。そんなこと、お前もわかってるんだろう? あの時も今も、他のやつらに見てもらうパフォーマンスでやったんだろうけど、セリフがクサいんだよ」

クラス全員が呆気に取られた。それは伊萱も同じで、とりあえず今聞いたことを理解しようと、脳をフル回転させていたのだろう。そしてやっと言った。

「お前、何言ってんだ? 俺はお前のせいで学歴に傷がついたんだぞ!」

「なんだよ。ギャーギャーうるせえなぁ。お前が言ってる事が本当なら、さっさとおれを殴ればいいじゃないか。殴らないのか? ここで殴ったら、今度は謹慎じゃあ済まないもんな。みんなに見くびられたくないから、殴るふりだけしとこうって腹なんだろう? おれがビビッて、ごめんよ、許してくれよって言うとでも思ったか? ふざけんなよ。なんでお前みたいなバカに謝らなきゃならないんだよ」

 土雲の目はまっすぐに伊萱を狙っている。駿太郎は正直、土雲がこんなにしゃべるやつだったとは思っていなかった。それもこの状態で、真っ正面から伊萱を煽っている。

「お前、おれが殴れないとでも思って……」

 伊萱がそうやって反駁する間もなく、

「だーかーらー、殴れよ。ほら、殴ってみろよ。殴って嫌いな学校をやめればいいじゃないか。それくらいどうってことないんだろう?」

 土雲が立ちあがった。決して高くはない背が大きく見えた。いや、伊萱が萎縮して見えただけなのだろうか。

「殴る根性もないのに殴ろうとする。後先考えずに人を脅す。何から何までやってることがバカなんだよ。煙草を見つかりたくなかったら、そしてどうしても吸いたかったんなら、堂々と隠れて吸えばいい。殴りたいんなら、堂々と誰も見ていないところで殴ればいい。そうじゃなきゃ学校やめろ。どれもできやしないんだろう? 小さいやつや弱いやつばっかり相手にしやがって、反吐が出るぜ」

 二人が顔を突き合わせている最中、外で見張りをしていた生徒が教師の接近を知らせた。ギリギリまで睨みつけていた伊萱は、振り払うように土雲を椅子に叩きつけた。土雲に対する、彼の精一杯の示威行為だったのだろう。

「堂々と隠れて」とか「堂々と見ていないところで」とか、言ってることは無茶苦茶だが、言いたいことはよくわかった。要は、大人になるか子どものまんまでいるか、ハッキリしろと言うことだろう。

駿太郎は、こいつはおれと同じだと直感した。

 始業のチャイムが鳴った。クラスがまだ騒然としている中、古典の教師が入ってきた。生徒のひとりが「起立」と声をかけようとしたその時、土雲佑樹が立ちあがった。伊萱が目を見開くのが想像できた。

 怪訝そうに見る教師に向かって、彼は言った。

「ムカつくんで帰ります」

そう言うと、土雲は鞄を取ってスタスタと出入口の方へと歩いた。教師は何やら言っていたが、一切構わず退出する。

「あいつ、今『ムカつくんで』って言ったか?」

教師がそう問いかけると、駿太郎は即座に、

「弁当が傷んでたみたいで、お腹がムカムカするって言ってましたよ」と返事をした。

なるほど、と言って、頷いた教師は、何事もなかったように教科書を開いた。クラスメイトも一斉に音をたてて授業の態勢に入った。

ひとり伊萱だけが、拳を握りしめて震えていた。

駿太郎はハッとして、手を挙げた。

「あー、ぼくもお腹が痛くなってきました。早退させてください」

教師はじろりと駿太郎を見たが、何も言わずに首を縦に振った。

駿太郎は急いで鞄を手に取り、走るようにして土雲の後を追った。

下足箱のところで土雲を捉えた。靴を履くのももどかしく、つま先をトントンしながら呼びかけた。

「土雲、ちょっと待てよ」

自分の名前を呼ばれて、不思議な顔をして振り向いた彼は、追ってきた駿太郎を見て、なおさらわからないという顔をして首を傾げた。

「お前すごいな! かっこいいよ。友だちになってくれないか」

挨拶も何も後回しにして、開口一番そう言った駿太郎は、追いついた彼の首に手を回し、嬉しそうに笑った。土雲は少し身体を遠ざけながら尋ねた。

「お前、誰?」

「同じクラスの時津だよ。お前、クラスメイトの名前も知らないだろ。まぁ、おれだって同じようなもんだけど。お前、香焚に住んでるんだろ。おれは成瀬なんだ。中学は金井首中。帰るんなら一緒に帰ろうぜ。その前に、モスバーガーに寄ろうぜ。ちなみに、今おれが声かけた時、伊萱が追いかけて来たかと思っただろ?」

有無を言わせず引っ張る駿太郎の横で、離れろよ、ひっつくなよと小言を言いながらも歩調を合わせて歩く土雲だが、ほんの少しホッとしたように表情を緩ませた。


長崎の町はすり鉢状に広がっている。そのすり鉢の縁の部分にあたる小高い山の中央が建山で、そこの山頂に鶴東高校は建っている。建山から街の方へと曲がりくねった広い道路が、ドル記号の縦線のようにいくつもの階段が連なっていて、その足元に鎮西諏訪神社が鎮座している。建山の麓にできた金大工町でハンバーガーとシェイクを買い、諏訪神社の長い階段の途中、二つ目の大鳥居の下に座って、駿太郎と土雲はいろんな話をした。

近くで観察すると、土雲佑樹は思ってたほど変人ではなかった。他人に対する態度や話し方などは、駿太郎が思ってた通りつっけんどんなのだが、言ってることは大抵筋が通っていた。ものの考え方も自分と似ていると思った。土雲も悪い気分ではないらしく、いろんな表情の笑顔を見せた。時間は瞬く間に過ぎていった。

気づくとケータイに電話がいくつも入っていた。おそらくクラスメイトからだろう。いつの間にか学校が終わったようだ。

駿太郎は高校生のマナーとして、連絡用にケータイの番号とメールアドレスをみんなに教えていた。いくらなんでも、今の時代、ケータイくらいは必要だろう。そう思って土雲に聞くと、彼は、

「ケータイは持っていない。別に問題ない」と、平然と言ってのけた。

そういう風に言い切るところが潔い。

改めて土雲とは友だちになりたいと思いながら、メールをチェックしていた駿太郎が大声を上げた。

「おい! 建山公園までお前を連れてこいって、伊萱が」

それを聞いて土雲はしばらく考えていた。

「やっぱりかよ、面倒くせえなぁ」

本当に煩わしそうに言うと、土雲は立ち上がった。

「お前は帰っていいよ。あいつ、今回はちょっと気合い入ってるみたいだし」

「何言ってんだよ。行く事ないだろ。今日はさすがにやばいって」

駿太郎は止めたが、土雲は頷かなかった。

「あいつ『堂々と隠れて』おれを呼び出したんだ。ここで逃げる訳にはいかないさ」

「なら、おれも行く。おれがいれば、あいつも滅多な事はできないだろうし」

駿太郎は肩をいからせて土雲の前を歩いた。これは最初の踏み絵だと彼は思っていた。土雲は口が悪いから、自分がうまく言って丸く収めようと思っていた。

「お前、喧嘩するのに全然ビビったように見えないけど、空手か何かやってるの?」

駿太郎は悠然と歩く土雲に聞いてみた。

彼は首を横に振りながら答えた。

「いや、全く。喧嘩したいわけじゃないし、あっちが喧嘩しかけてくるから仕方なく受けてるだけさ」

「え? でも、いちゃもん付けられて、逆に言い返してたじゃん」

「言いたいこと言って何が悪い? おれははっきり言って喧嘩は弱い。だけど、言いたいことを言えないことと、喧嘩が弱いことはイコールじゃない。言いたいことを言わないのは、相手を気遣ってる時だけさ。喧嘩が強い弱いは関係ないからな」

 全くこいつはかっこいいと駿太郎は感心した。そして、改めて、おれが何とかしなくちゃと心に決めてもいた。

 駿太郎たちが建山公園につくと、そこには伊萱信雄とその仲間が三人待っていた。仲間のやつらは立っていて、伊萱がただひとりベンチに座って俯いていた。ふたりを見ると、標的を見つけたハイエナのような目をして、ゆらりと立ちあがる。手はポケットに入れている。

 口を開いたのは土雲が先だった。

「何か用か? 誰かに見られないように気を配ったのは偉いとは思うけどな」

 あたりを見回しながら、そう軽口を叩く土雲を駿太郎はひやひやしながら見ていた。これでは、何と言って口を挟めばいいのだろう。

「お前、舐めんのもたいがいにしとけよ。ぶん殴られてえのか」

 伊萱の目が座っている。口調もいつもみたいに威嚇する感じではない。ゆっくりと、そして静かに追い詰めるような話し方だ。

「うるせえ。喧嘩弱けりゃ何も言えないのかよ。総理大臣はどっかの番長だったか? 社長さんは暴走族の総長ばっかりなのか? 本当の強さなんてなあ、腕っぷしで決まるもんじゃねえんだよ」

 そう土雲が言った瞬間、伊萱が走った。胸倉を掴み、足をかけて引き倒す。駿太郎は咄嗟に動けなかったが、すぐに気を持ち直して助けに走ろうとした。しかし、伊萱の仲間がとうせんぼうして、ひとりに腕を掴まれた。仰向けにした土雲に馬乗りになって殴る伊萱を、駿太郎は無力に見つめるしかできなかった。

「おれはな、退学になるのなんかちっとも恐くねえんだよ! ウララアアア、オルアアアア」

 伊萱が雄叫びを上げながら殴る。駿太郎はやめろと叫ぶ。

 殴られる拳と拳の合間に、土雲が声を吐き出す。

「バカが! お前が退学しようが謹慎しようが関係ねえんだよ! おれはおれなんだよ!」

 それからは、駿太郎を抑えていない他の仲間も加わり、土雲をボロ雑巾のように蹴りまくった。土雲はもう声も出さず呻いている。

「おい、いい加減にしろよ。もういいだろうが」

 駿太郎は弱弱しい声で、懇願するように言った。

「お前もふざけたことやってくれたよなあ」

 そう言い、伊萱が駿太郎に向かって歩いてきた。動けない駿太郎は、それでも伊萱の目を睨みつけ、歯を食いしばった。

 一発目が強烈に左頬に入った。一瞬、目の前が真っ暗になった。その後にもう一発。これは左のこめかみに入った。仲間の誰かが腹を蹴った。息が詰まった。もう一発蹴りが入るのと同時に、さっきのハンバーガーが食道を逆流してきた。

自分が吐き散らした汚物に塗れながら、駿太郎の目はチラリと仲間のひとりに蹴られている土雲を捉えた。時々呻いているから死んではいないようだ。

それから立たされて二、三発殴られた。そうすると、ただ殴られているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。

駿太郎は伊萱が殴るのを休んだ瞬間を狙って、一発顎にパンチを入れた。人生初の会心の一撃だ。

伊萱は頬を抑えて目を剥いた。抑えた左手が震えている。すぐ仲間に蹴りを入れられたが、駿太郎は満足していた。

「お前、よくも・・・・・・グォルアアアアウウ」

伊萱が再び意味不明の奇声を発した。その右手にチカッと眩しいものが閃いた。駿太郎は本能的に避けた。

光る物体は果物ナイフのようだった。

「おいおい、やめろよ。危ねえだろ」

伊萱の仲間がそれに気づき慌てて止めたが、伊萱には聞こえていないようだ。ゆっくりと駿太郎に近づいてくる。

「お前、よくも殴ってくれたな。痛えんだよ」

伊萱は泣きながら迫ってきた。駿太郎は後ずさった。彼の仲間も既に駿太郎を掴まえていようとはせず、ジリジリと後退した。

後ずさりながら、目の左端に土雲の姿が掠めた。彼はなんと、坐禅を組んでいた。腕を両膝の上に置き、両手の指をOKマークに丸めて重ね、胸の前に突き出している。

(あいつ何やってんだ)

ナイフに追われる恐怖の中、駿太郎は不思議に思った。いよいよ頭がおかしくなったかと、馬鹿な考えが頭をよぎった。

 伊萱の目を戻した。確実に自分に向かって歩み寄ってくる幽鬼。右手のナイフが妖しく光る。遠巻きにしている仲間がやめろと叫んではいるが、伊萱の一瞥で静かになった。駿太郎は腰を抜かしたようにへたりこんでしまった。死を覚悟した。

「おい、どうした」

仲間のひとりが訝しげに尋ねた。伊萱を凝視していた駿太郎も異変に気づいた。

さっきまで異様な目つきでナイフを構えていた伊萱が、ボーッと突っ立っている。目は宙を見るともなしに見ていて、口はだらしなく開いている。

「おい、信雄。どうしたんだよ」

伊萱の仲間が彼の周りに集まってきて、心配そうに顔を覗き込んだ。

「ウア・・・ングムフ・・・・・・」

伊萱が発する奇妙な声に、仲間たちも距離を置き始めた。

「ずみまぜん・・・・・・ごべんなざい・・・・・・」

小声で誰かに謝ったかと思うと、伊萱は涙を流し始めた。

目まぐるしい展開に頭が追いつかない。

「おい、行くぞ」

その時、駿太郎の脇に手を潜り込ませて、立ち上がらせようとする者があった。ビクッと身体を強ばらせて見てみると、それは土雲だった。

「いや、しかし・・・・・・」

「しかしもカカシもない。あいつはもうダメだ。改心しちまったんだから」

そう吐き捨てて、土雲は駿太郎を抱えるようにして公園を出た。

あたりは薄暗くなりかけてはいたが、顔中血だらけの学生がふたり、よろよろしながら歩いていれば、さすがに気づかれる。ふたりは公会堂前公園まで歩き、ベンチに身体を投げ出して倒れ込んだ。

駿太郎は回らない頭をなんとか回して考えていた。

伊萱の急激な状態の変化は何だったんだ。そしてなぜ土雲は「もうダメだ」などと言ったのだろう。なぜ坐禅なんかを組んでいたんだろう。なぜ・・・・・・。

駿太郎の脳裏に、以前誰かに聞いた噂話が蘇った。

(あいつをシメようとしたり、ボコろうとしたやつは、みんなバカになったり、改心したりするんだって)

たしかそう言ってなかったか。

『あいつはもうダメだ。改心しちまったんだから』

その声が頭に響き、駿太郎は軽い目眩に襲われた。

隣でゼーゼーと荒い息をしている土雲を、横目で見ながら疑問を口にした。

「なあ、あの時、坐禅組んでたけど、あれは何のつもりだったんだ? 改心したとか何とか言ってたけど、お前、何かやったのか?」

西の空は真っ赤に燃えていた。駿太郎にはそれが不吉なものの前兆のように思えた。土雲は息を整えていて、言おうか言うまいか迷っているように見えた。

「おれ、今日の今日だけど、お前とは友だちになれそうな気がするんだ」

唐突な話題の変換に置いて行かれそうになりながら、駿太郎は黙って先を促した。

「お前はおれを見捨てなかった。これからやられに行くって時にも、一緒にボコられる事を選んでくれた。お前なら・・・・・・」

言いながらも、その先を口にしてしまうことを躊躇するような素振りの土雲。

いつでもいい、いつまでも待つ、という気持ちを込めて、黙って見つめるだけの駿太郎。

東の空には星が瞬いている。あれは金星だろうか。それともシリウスだろうか。

「ナイフを出した伊萱が悪い。あのままだったらお前がやられてた」

駿太郎は土雲が何を言い出したのかわからなかった。自分の危険を察知してくれたのはありがたいとは思う。しかし、その話と今回の結果とがどう繋がるのだろう。

駿太郎は、ホラー映画のクライマックスを見ているような、女の子から話があると呼び出された時のような、先を聞きたいのに聞きたくない、聞くのが怖い思いがしていた。

「だから、伊萱の心はおれが食っちまったんだ。おれの中に住んでる、鬼みたいなやつがな。伊萱の心は『スクワ』れちまったんだよ」

それっきり、言った土雲も、言われた駿太郎も、空を見上げたまま、しばらく何も言わなかった。

雲が速く流れていた。

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