第二章 皇族たち 4

 皇帝の御前から退出した後、ジシュカは控えの間で二人の弟としばし懇談した。彼は弟エッツェルの敗北を叱らなかった。

「ほとぼりが冷めれば、また皇族に復帰することも許されよう。折を見て、陛下には私から口添えしておく。だから今は、大人しくしていろ。お前の力が求められるときは、必ず来るからな」

 むしろそう言って背中を叩き、エッツェルを励ました。

「恐縮です。兄上がたがご健在である限り、私ごときの力が求められる日が来るとは思えませんが」

 エッツェルは謙遜しているが、心の内ではどう思っていることか、神ならぬジシュカには分からない。黒髪と藍色の瞳を持つ末弟の中に類まれな才能が眠っていることを、ジシュカは知っている。エッツェル自身は、どうなのだろう。自身の秘められた力に気付いているだろうか。

「デスピナは、報告に来なかったな」

「母親が病気がちだとかで、このところあまり人前に出ていないようです」とフィリップ。「昨日も、ご自身ではなく、部下のフェルセンをゲマナ区に寄越しました」

「ああ、そうだったな。……ところでこの後、二人はどうする?」

 ジシュカが尋ねると、エッツェルはひたすら恐縮した様子で言った。

「お二人は、先にお帰りいただけますか。私はもう当分はこの皇宮に来ることもないでしょうから、知己の方々にご挨拶申し上げたいのです」

 それを了解し、ジシュカは二人の弟と別れた。自らの管轄する区に戻ろうとしていたところ、侍従が慌ただしくやってきてジシュカを呼び止めた。皇帝が、再び彼を召し出したのである。

 ジシュカは直ちに推参した。相手は絶対権力者である。待たせて不快の念を抱かせるような真似は、愚者のやることだ。

「ルーアン公女クレアは、余に対し、実に大言壮語を吐いたものだ」

 皇帝の第一声は、エッツェルの死んだ婚約者に関わるものだった。本人には厳しいことを言っていたが、やはりエッツェルのことを気にかけてはいるらしい。ジシュカは「御意」と短く答えた。

「必ず陛下にも納得いただける形で、和平を実現させてご覧に入れます」

 クレアは皇帝に対し、そう断言したのだ。どのような目算があったとしても、それが果たせなかった以上、やはり大言であったと言わざるを得ない。

「愚かな娘であったことよ。自らが信じた者どもに、むざむざと殺されおった。思えばあのとき、エッツェルもまた死んだのだ。肉体はともかく、魂はな」

「クレア公女を殺したのは、本当に反徒どもなのでしょうか」

 ふとそんな疑問が、ジシュカの口からこぼれ出した。自分の言葉に、思わずぎょっとしてしまったほど、それは突然の閃きであった。

「これは奇異なことを言う。反徒どもでなければ、他の誰だというのか」

「それは分かりません。ですが……」

 ジシュカは口をつぐんだ。憶測でものを言うべきではない。

「いえ、やめておきましょう。それより、私に何か御用がおありで」

「お前が、まだ何か言い足りなさそうな顔をしていたのでな」

「ご配慮、痛み入ります」

 言いたいことを黙っていたのは、それを言うべき時機を計っていたからである。だが、相手から尋ねてきたのであれば、迷う必要はない。今言ってしまってもかまわないだろう。幕の向こうにいる絶対権力者に対して、彼は進言した。

「反徒どもに与する者どもを血祭りにあげる件ですが、私ではなく、デスピナにやらせてはいかがでしょう。昨日は配下の将をやられて、悔しがっております。反徒どもへの憎しみを募らせていること、私以上でありましょう」

「なるほどな、ではデスピナにそう伝えろ」

 鷹揚に、皇帝は答えた。実行者が誰であるかなど、彼にとってはどうでもいいことなのだろう。民衆の憎悪を一身に集める汚れ役を妹に押し付けることができて、ジシュカはひそかに安堵した。

 この際だ。もう一つの用件を、ジシュカは言上することにした。

「エッツェルに、今一度再起の機会をお与えになる気はございませぬか」

「いや、あれはもう駄目だな。婚約者を死なせ、守るべき支配地も失った。齢十八にして奴の心は既に朽ちた」

「果たしてそうでしょうか。今回の件、私はエッツェルが無能であったというよりは、敵が巧妙であったと考えます。兄上が軍の主力を率いて外征に出ている隙をついて、彼らは各区で一斉に、計画的に蜂起しました。エッツェルだけの失態ではございません」

 ジシュカの兄である第一皇子ステファンの大軍勢が帝都に健在であったなら、今回のような事態はなかったはずである。フィリップは自らが管轄するオーミル区の反乱勢力を相手にするので手いっぱいだった。デスピナはフェルセンをゲマナ区に寄越したが、これは敗退した。ジシュカ自身はといえば、自らのズィモーク区で起こった反乱をいち早く鎮圧していたが、彼の本拠地はゲマナ区からは最も遠く、しかも不在の兄ステファンの代理として彼の支配地であるエンジ区にも気を配らなければならなかった。ゆえに援軍を送ることは極めて困難だったのである。

 エッツェルを救うことができる人間がいたとしたら、それは皇帝自身であったろう。皇宮には、二万の軍勢が健在だった。だが皇帝アレクサンデル二世は軍を動員しなかった。

「それは、余にも責任があると言いたいのか?」

 皇帝は、憮然として語気を強めた。

「昨日はブランが朝から体調が悪くてな」

 猫の名前である。皇帝は、はるか東方の友好国から送られた白い長毛種の雌猫を愛玩しているのだ。

「だからそれどころではなかったのだ」

「さようで……」

 ジシュカは内心で舌打ちした。この怠惰で愚かな男が自分の父親だと思うと、己の血が呪わしくなる。

「いずれにしても、エッツェルの件、今すぐとは申しません。彼の才が必要になるときが、必ず来るでしょう。そのときにまた、ご再考いただくわけにはいきませんか」

 皇帝は、すぐには返事をしなかった。長い沈黙の後、彼は昔の話を持ち出した。

「お前は以前、エッツェルに模擬会戦で打ち負かされたことがあったな」

「御意……」

 三年前のことだった。模擬会戦とは、二十名ほどの部下を指揮して戦う実戦形式の訓練である。それまで兄妹たちの間で無敗を誇っていたジシュカは、模擬会戦に初めて挑んだエッツェルに、思わぬ敗北を喫したのである。

 長い槍と巨大な盾で武装した重装歩兵をそろえたジシュカに対し、エッツェルは鎧も盾も身に着けず、粗末なゴム紐の投石器を装備した軽装歩兵のみで戦いを挑んできた。常識外れのことである。政府軍も軽装歩兵を用いることはあるが、鎧や盾を自足できない貧しい民兵による、あくまでも補助的なものであって、主戦力として用いられることはない。

 ジシュカはその選択の愚かさを嘲笑い、一方的に敵を蹂躙するつもりで進軍の号令を発した。だが敗者となったのは彼の方であった。エッツェルの軽装歩兵隊は、敵の射程範囲外から投石をジシュカ軍に浴びせかけると、前線から速やかに後退した。重い鎧や盾で武装したジシュカの部隊は、彼の部隊に追いつけない。走り疲れて息を切らせていると、エッツェルの部隊は再び石を放ってくる。投石の威力などたかが知れているが、あくまでも模擬戦闘であるからこれは問題ないのである。その繰り返しで、ジシュカ軍はついにエッツェル軍に対して何の打撃も与えることができずに終わった。

 ジシュカがエッツェルに敗れたのはその一戦のみで、二度目、三度目の模擬会戦では初戦の雪辱を果たした。だが、ジシュカの心にはエッツェルへの強い警戒の念が刻み込まれた。

「それで奴に秘められた才能があると信じたくなる気持ちは分かる。だが、まぐれということもあろう」

「私は、決してそうは思いません。私はそれまで、まぐれで勝ったことはあっても、まぐれで敗れたことはありませんでした」

「お前は生真面目だな」

 そう言って皇帝は笑った。そして、それがジシュカの要求に対する皇帝の回答だった。皇帝アレクサンデル二世は、少なくとも今のところは、末子エッツェルに対して再起の機会を与えるつもりがないことを、無言のうちに示したのである。



「あれが、まぐれだと? まぐれでなどあるものか」

 皇帝の御前を再び退出し、一人になったジシュカは、苛立ちを込めて拳を皇宮の石造りの壁に叩きつけた。

 模擬会戦での屈辱的な敗北は、早熟の天才としてもてはやされていたジシュカの自尊心を、ずたずたに切り裂いた。生まれてから一度も感じたことのない、煮えたぎる怒りの炎が、そのとき彼の心の奥底に宿った。エッツェルに対する怒りではない。周囲から天才と持ち上げられて自惚れていた自分自身の愚かさを、彼は許せなかったのである。

 あのときエッツェルが取った戦術は、ただのまぐれではない。模擬会戦の特性や重装歩兵の欠点を徹底的に研究し、周到に準備しなければできないことだ。他の誰よりも、ジシュカはそのことを知っていた。

「奴自身が自覚しているかは分からない。だが、奴にはまぎれもなく、乱世を生き抜くための、目を見張るような才覚がある」

 現に今回も、反徒どもに敗れたとはいえ、部下たちのことごとくが戦死し、あるいは敵の捕虜となったというのに、彼だけは無傷で逃げおおせているではないか。表面だけを見れば、エッツェルは惨めな敗者だろう。だが、そもそも彼は、どうやって反徒どもから逃げたのか。

「もしや、反徒どもと取引をして……? いや、それはないか。奴はクレアを殺した反徒どものことを、激しく憎んでいる」

 今日の報告の中では簡単に触れられただけだったが、実はそれだけでもたいしたものだ、とジシュカは思う。自分が反徒どもの捕虜になってしまったら、いったいどのような機転で切り抜ければいいだろうか。よい考えが思い浮かばない。

「やはりエッツェルの才には、油断はできぬ」

 七人の兄妹たちは、いずれ帝位を巡って血で血を洗う争いを演じる定めにある。父アレクサンデル二世からして、三人の兄を殺して即位しているのだ。破局の日は、必ず来る。

 そのときに備えて、ジシュカは早いうちにエッツェルを自らの派閥に取り込もうと考えていた。皇帝に口添えし、エッツェルの復帰を手助けすることでそれを果たすつもりであったが、皇帝が拒否したことでそれが困難になってしまった。

 だが、ジシュカはまだあきらめるつもりはなかった。エッツェルを味方にして使いこなすことができれば、ジシュカの覇道は大きく前進することだろう。

 そして万一、奴が敵に回るようなことがあるなら……そのときは徹底的に排除しなければならないだろう。

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