この世界のすべて

月生

第1章 汚れたパンと飲めないスープ

 僕は逃げていた。


 履いていたボロボロの靴が右足から脱げてしまったけど、それでも逃げ続けた。裸足で石を踏みつけたときの痛みも僕を止めることはできなかったし、立ち止まることだけはどうしてもできなかった。男が必死の形相で僕を追いかけてくる。

「待てっ!」

 男はナイフを持っていた。振り向いた僕の目は、その鋭利な光に驚きながらも、冷静に逃げ道を探っていた。

 でも、僕は油断していた。水たまりに気付かなかったんだ。裸足だった僕の右足は、ぬかるみを踏んだ拍子に勢いよく滑ってしまった。そして固い砂利が僕の右足を激しく削った。腕に抱えていた大きなパンは水しぶきを上げて僕と共に水たまりに突っ込んだ。パンの半分近くが泥水に浸かってしまった。

 僕は慌ててパンをつかみ、立ち上がった。男はすぐそばまで来ていた。男は右手に握ったナイフを天に突き上げながら、左手で僕の首をつかもうとした。とっさに半身を翻した僕の首のすぐ横を男の左手はかすめ、勢い余った男はそのまま水たまりの中に倒れこんだ。


 僕は再び走り出した。右足が激しく痛むけど、走り続けた。そして路地の角を曲がってすぐ、建物の隙間に隠れた。次の瞬間、男も角を曲がってきて、僕の行方を捜した。でも、男の目は僕を見つけることはできなかった。

 僕は建物の陰から男の背中を見ていた。僕を見失った男の苛立ちはその背中からも見て取れた。僕の位置からは男の顔は見えなかったけど、きっと怒りに満ちた表情をしていることだろう。息を切らしていたものの、気持ちは冷たく落ち着いていた。

「あのガキ、次は絶対に許さねえ」

 男は悪態をついて、来た道を戻っていった。僕は逃げ切ることができた。けれど、建物の陰でしばらく時間を潰すことにした。なぜなら、ああいう奴は帰ったふりをして、どこかに身を隠した僕がうっかりその姿を見せることを期待しているだろうから。僕はそんなに馬鹿じゃない。右足がズキズキと痛むけど、勝ったんだ。


 僕は日干し煉瓦で造られた古い壁にもたれながら空を見上げた。建物の屋根越しに、太陽が僕を見下ろしている。誰も見ていなくても、この空はいつも僕のことを見ている。灼熱の太陽の暑さとは裏腹に、腕の中のパンが泥水で冷たくなっていることが、今はただ悔しかった。

 


*          *



「ただいま」

 小屋のドアを開けた僕は薄暗い部屋の中に声をかけた。そして、黒髪の少女が僕の呼びかけに答えた。

「おかえり!」

 少女は屈託のない笑顔を僕に向けた。幼いその頬には乾いた泥がこびりついていた。僕はその泥を左手で拭きながら聞いた。

「バドゥルは?」

「井戸に水を汲みに行ってる」

「そうか。アイシャ、腹減ってるよな。パン、持ってきたよ。食べるか?」

「うん、バドゥルが帰ってきたら、みんなで食べよう」

 僕はその黒髪を優しく撫でた。少女の笑顔は僕の足の痛みを忘れさせてくれる。この子のためなら僕の足はちっとも痛まないんだ。僕は小屋の片隅に置いていた麻袋の中にパンをしまった。


 日が暮れた頃、バドゥルが井戸から帰ってきた。壊れかけた小屋のドアから夜の冷たい空気が流れ込んできた。昼の暑さと違って砂の街の夜は思いのほか冷える。僕はランタンに火を灯した。

 彼が持っている大きなボトルには水が溢れるくらいに入っていた。

「全然こぼさなかったよ」

 少年は自慢げに言った。俺は井戸でたくさん飲んできた、そう言ってボトルを差し出した。僕はそのボトルを受け取り、アイシャに手渡した。アイシャは嬉しそうにボトルの水を少し飲んで、再び僕に返した。僕も水を少し飲んだ。

「パン食べるか」

 僕はパンを麻袋から取り出し、無造作にちぎって二人に渡した。

「これ、なんていうパン?」

 バドゥルが聞いてきた。

「エキメキだよ」

「何それ?」

「んー、トルコのパンみたいだな。パン屋の親父が店先でそう言いながら宣伝してたんだよ」

「トルコって?」

「そういう国があるんだよ」

 正直なところ、トルコなんて知らない。

「スークのパン屋?」

「ああ、そうだよ」

 バドゥルはそれ以上聞かなかった。彼は子供のくせに、いつも察しがいい。僕のズボンが昨日までよりもひどく破けていることを見てとっていた。だから、そこから先を聞くことは僕の痛みをアイシャにも聞かせることになることを知っている。だから聞かない。

 アイシャはパンを近づけたり遠ざけたりしながら珍しそうに見ていた。

「綺麗なパンだね」

 僕はアイシャの言葉に嬉しくなって微笑んだ。

「一番上等なパンを手に入れたんだよ」

 そして、ちょっと誇らしげに答えた。


 僕は彼らにあげたのとは反対側をちぎり取った。半分近くが泥にまみれたパンの汚れは、たった一つのランタンの炎なんかじゃ照らし出されることもない。

 パンについた泥を軽く掃いながら、パンを口に押し込んだ。シャリシャリと歯を軋ませる砂の味なんかどうでもよくて、淡い炎の灯りの中、パンをほおばる二人の姿を見ているだけで安心する。本当は何もかもが怖いけど、今日も二人を守ることができたんだ。



*          *



 街はずれのゴミの集積場には、いつも人が溢れている。僕たち三人もそういった人たちと一緒にゴミを漁っていた。


「ターリック、これはどう?」

 アイシャがゴミの中から見つけた靴を僕に見せた。それを履いてみた。

「ああ、ちょうどいいな」

そう答えるとアイシャは嬉しそうに笑った。

「これでもう痛くないね」

 足の痛みをアイシャに見透かされているようで、なんだか恥ずかしくなり、思わず苦笑いをした。

「アイシャ、これじゃあ右と左で靴が違うけど?」

「大丈夫、大丈夫」

 アイシャは笑っていた。


 その時、バドゥルの大声が聞こえた。

「返せ! 俺のだ!」

 声のほうを振り向くと、バドゥルが一人の男と短い鉄筋を取り合っていた。相手の男は痩せているけど大きな男で、バドゥルが敵う相手なんかじゃなかった。

「俺が先に取ったんだ!」

 しかしバドゥルはひどく興奮していて、右手に持っていた金属の小さな板を男の顔に向かって投げつけてしまった。板は男の口に当たり、真っ赤な血がボタボタッと流れ落ちた。

「バドゥル! やめろ!」

 僕は声を荒げた。バドゥルの元に駆け寄り、後ろからバドゥルを抱えた。鉄筋は、男によってバドゥルの手から強引に抜き取られた。顎が血まみれになった男は叫んだ。

「このガキッ!」

 年端もいかない少年と鉄屑を取り合うことのみじめさと、金属の板で傷つけられた怒りによって、男の衝動はもう誰にも止められないものとなっていた。右手に持ったその鉄筋は無慈悲にもバドゥルに向かって振り下ろされた。


 次の瞬間、バドゥルの背後からスッと抜け出した僕の左手が、振り下ろしてきた男の右手首に軽く添えられ、その軌道を変えた。鉄筋は僕のすぐ左側にすさまじい勢いで振り落とされた。そして鉄筋が落ちたときには、すでに腰のサックから抜き取ったナイフを手に持ち、その切っ先は男の喉のすぐ手前に突き立てられていた。

 男は顔を動かすことさえできず、光り輝くナイフの光を視界の下のほうで捉えるだけで精一杯だった。バドゥルは慌てて僕と男の間から抜け出た。

「や、やめろ」

 男はかすれるような声で懇願した。

「──お前は俺の弟を殺そうとした」

「ち、違う。そんなつもりじゃなかった」

「お前は生きている価値がない」

 僕の声は冷酷だった。こんな奴、殺してしまえばいい。


「ターリック!」

 アイシャの叫び声が僕の意識をかすめた。それと同時に、僕の視界の片隅に老人がいるのに気付いた。老人はカフタンという袖と裾の長い服を着ている。古くてあちこちが解れているが、今時見ることもない伝統的なアラブの服装だ。老人は静かに、しかし強引に僕の殺気の中にその左手を差し込んだ。老人の手は、ナイフを持つ僕の右手にそっと添えられた。

 老人は何も言わず、ただ軽く微笑んだ。体から何かが抜け落ちていく感覚に襲われた。老人は右手で男をはたき、その場を去るように促した。

「お前、教会の爺だな」

 男は流血した口を押さえながら、老人を睨みつけた。しかし、老人は笑うだけで、男に言葉を返すことはなかった。

「いつも邪魔しやがって。覚えとけよ」

 男は悪態をつきながらその場を離れていった。老人は落ちていた鉄筋を拾ってバドゥルに手渡した。

「お前のだよ」

 老人は優しくバドゥルに声をかけた。バドゥルは小さく、ありがとう、と答えた。

 僕は行き場を失った矛先のしまい方がわからず、ただ不満そうなふてくされた表情をしていた。そんな僕を見て、老人は笑っていた。



*          *



 その老人と初めて出会ったのはちょうど一年前のことだ。


 当時、僕たち三人が住むマラカンダ村は森の中にあった。村人たちは家族であって家族ではない、特殊な繋がりを持っていた。それは血よりも濃く、しかし何よりも残酷な繋がりだった。僕は戦争を生業とする村で育つ少年兵だった。

 

 その日、バドゥルとアイシャと三人で井戸にいた。水汲みをする僕とバドゥルをよそに、アイシャは遠くの方にいる何かをじっと見ていた。アイシャはこの村で生まれた子供だ。しかし、その母親はアイシャを生んだときに亡くなり、父親も戦死している。彼女はこの前五歳になったばかりだ。

「なにやってんだ。アイシャも手伝えよ」

「うん、ちょっと待って」

 アイシャはおざなりな返事をした。彼女は森の方向をじっと見ている。何を見てるんだろうと思い、僕とバドゥルもその視線を追った。その視線の先には、太陽の光を浴びて輝くアゲハ蝶の姿があった。それはヒラヒラと漂うように舞っていた。

「キアゲハだ」

 バドゥルが言った。村でよく見かけるアゲハ蝶だ。

「捕まえる」

 アイシャはそう言うと、アゲハ蝶に向かって、忍び足で近づき始めた。

「そんなの珍しくないだろ」

「静かにしてよ。逃げちゃうじゃない」

 しょうがないなと思いながらも、退屈していた僕とバドゥルは水汲みの手を止め、アイシャの後ろについて行くことにした。


 アゲハ蝶に近づいたアイシャが手を伸ばした。蝶はその手をするりとかわした。そして蝶は森の中に向かって飛び始めた。それは僕たちを誘っているかのようだ。

 やがて、蝶は森に逃げ込んだ。僕たちはその後を追った。待って、待って、と言いながら、アイシャが蝶を追いかける。蝶は風に揺れる木の葉のように舞いながら、奥へ奥へと飛んでいく。

 つやつやした苔に覆われた深い森の奥で、大きな樹の幹に蔦が絡まり、樹と樹を結んでいる。辺り一面うっそうとしている。アゲハ蝶はふわりと蔦に留まった。

「やっと追いついた」

 息を切らしながらアイシャは言った。その顔は紅潮していた。そしてアゲハ蝶にそっと手を伸ばした。


 しかし、その手は急に止まった。アイシャは、アゲハ蝶の向こうに何かを見つけた。

「あ── 」

 一言だけそう言うと、彼女は後ずさりし始めた。僕とバドゥルは不審に思い、アゲハ蝶の先に目をやった。


 ギョロッとした二つの目が僕たちを見ていた。迷彩のカモフラージュを施した顔が蔦の隙間に見えた。僕たちがその存在に気付くや否や、蔦を掻き分けて、体の大きな兵士が僕たちの前に姿を現した。アゲハ蝶も慌てて飛び立った。顔にペイントをしているから誰かわからないけど、この男が着ているのは僕が知っている軍服じゃない。この村の人間じゃない。

 兵士は自動小銃を両手で抱えている。僕の鼓動が激しくなった。緊張で足が震える。アイシャの腕をつかみ、僕の方へ引き寄せた。

 追い打ちをかけるように、ガサガサと草木を揺らして数人の兵士が僕たちの前に現れた。僕たちは気付かぬうちに、見知らぬ兵士たちが隠れる森に入り込んでいたんだ。


「村の子供か?」

 目の前の大きな兵士が言った。その言葉を遮るようにバドゥルとアイシャに叫んだ。

「逃げろ!」

 僕たちは踵を返した。この兵士たちは村を襲いに来たんだ。それを直感した。

「おい、待て! そっちは危ない!」

 兵士はそう叫んだが、僕たちは一目散に逃げた。兵士の声は深い森の中に取り残された。


 僕たちは森を抜け出し、村に戻った。

「お前たちは家に戻れ!」

 幼い二人にそう指示して、村の大人を探した。しかし、あちこち見回したが誰もいない。集会所にも行ってみたが誰もいない。焦りで息が詰まる。

 その時だった。村の鐘が鳴り響いた。森に隠されたマラカンダ村でこの鐘が鳴るのは、この土地の終焉を意味していた。すぐ後に、激しい機関銃の銃声が立て続けに聞こえてきた。


 突然、体が地面にめり込むような圧迫感が僕にのしかかってきた。それは空を覆ってしまうくらい巨大な象が地面を踏み鳴らしたような地響きだった。森の木立の向こうに見え隠れする砲身から煙が立っているのを見た次の瞬間、僕の目の前の家が木端微塵になった。轟音の直後、激しい爆風が僕に襲いかかった。僕は瓦礫とともに吹き飛ばされた。そしてそのまま気を失ってしまった。


 気が付いたとき、周囲からは炎が立ち始め、碧い森の木々が燃え出していた。紅蓮の炎は僕を恐怖のどん底に突き落とした。

「アイシャ! バドゥル!」

 二人と別れた場所に駆け戻った。でもそこに二人はいなかった。瓦礫をどんなに掻き分けても、二人はどこにもいなかった。激しい銃声がそこら中で鳴り響いている。しかし、今の僕には飛び交う銃弾なんてどうでもよかった。姿が見えない二人のことで完全にパニックに陥っていた。


「ターリック! こっちだ!」

 青年の声が聞こえた。彼の足元にアイシャとバドゥルの姿が見えた。二人はハシシを作る小屋の陰にいた。ハシシはこの村で栽培している大麻草で作る麻薬だ。

 僕は慌てて彼らの元に駆け寄った。青年は遠くに目を凝らしながら呟いた。

「イラク軍だ」

 そして僕に言った。

「お前はまだ戦力にならない。子供たちを連れて逃げろ」

 その言葉に激しく首を振った。

「俺も戦う!」

「誰がこいつらを守るんだ!」

「バドゥルがアイシャを守る」

 そう言った僕に彼は冷たく答えた。

「見ろ」

 彼はそれだけ言うと、バドゥルを指差した。僕はバドゥルを見た。彼はうずくまったまま、苦しそうに左目を押さえていた。指の隙間からポタポタと血が流れ落ちていた。

「バドゥルが ── 」

 アイシャが泣きながらそう言った。そして、僕の腕をつかみ、絞り出すような声で訴えた。

「バドゥルを助けて!」

 青年はもうそばにはいなかった。近くで激しい銃撃戦が始まった。機関銃と砲撃の音は僕の心臓を激しく鼓動させ、自分の膝がガクガクと震えているのを知った。

「ターリック!」

 アイシャが叫んだ。その瞬間、僕の体は自然に動いた。バドゥルを背中におぶり、叫んだ。

「バドゥル、落ちないように自分の力でしがみつけ!」

 強くバドゥルを励まし、そして、右手をアイシャに差し出し、その小さな左手をきつく握りしめた。


 燃え盛るマラカンダ村を抜け出した僕たち三人はひたすら歩き続けた。山を下り、麓の街セルジュークに辿り着いた頃、日はもうすっかり暮れていた。

 バドゥルの目から血はもう流れていなかったけど、彼の顔は蒼白だった。それは夜の色に浮き立つほどの冷たさだった。

 僕は家々のドアを叩いて回った。

「すみません! 医者はどこですか!」

 窓に灯りが点いていても、返事はなかった。どの家もそうだった。時折り近くの家の窓からこちらを伺う影が見えたけど、すぐにその姿は消えた。

 僕は冷たい路地の真ん中で、途方に暮れていた。傷ついたバドゥルの体は冷え、幼いアイシャの手は震え、僕たちは自分の居場所を見失っていた。


 その時、道の向こうから手招きする人影を見た。そこには二人の男がいた。僕たちは慌ててそこへ向かった。手招きしていたのは年老いた男だった。老人は薄汚れたカフタンを着ていた。

「助けてください!」

 その一言しか言えなかった。もう他の言葉さえ思いつかなかったんだ。その後の記憶がない。僕はバドゥルをおぶったまま崩れ落ち、もう一人の若い男が僕を支えた。


 片目は失明したが、命は助かる。僕が目を覚ました時、老人はそう言った。

 薄汚れた小屋の中で横になっていた。バドゥルもアイシャも隣で寝ていた。バドゥルの顔には包帯が巻かれていた。それを見て深い安堵を覚えた。

「私は医者ではない」

 老人は最初にそう断った後、バドゥルの目から破片を抜き取ったことを僕に伝えた。

「この街に医者はいるが、お前たちは金を持っているのか?」

 僕は首を横に振った。老人は僕をジロッと見て言った。

「お前、ゲリラだな? マラカンダから来たのか?」

 それには答えず、ただ老人を警戒するような目で睨んだ。

「ゲリラを助ける人はこの街にはいない」

「なぜだ?」

 そう問いかけ、強い口調で続けた。

「俺たちがみんなを守ってるんじゃないか!」

「お前たちが勝手にやっていることだ」

 僕の激しい言葉と違い、老人の言葉は厳しくも穏やかだった。


 老人の指摘は的を射ていた。これまで、僕たちマラカンダの闘争に多くのセルジュークの住民が巻き込まれてきた。同じイスラーム教を信仰しているムスリムとはいえ、過激な闘争を繰り返すマラカンダとは相容れない大きな壁があった。

 そして今、僕たちが住んでいたマラカンダ村が焼き払われ、その真っ赤に染まった空を見て、セルジュークの住民は恐怖で怯えたに違いない。じきにこの街も襲われるのかもしれない。でもそんなこと、僕の知ったことじゃない。恨むなら襲ってくる敵を恨めよ。

 しかし、返す言葉を飲み込んだ僕に対し、老人は続けた。

「この子たちをどうするつもりだ?」

「俺が守る」

「お前、年は幾つだ?」

 僕はその問いに答えなかった。そうすると、近くにいた若い男が言った。

「自分の年を知らないんだろう?」

 老人も続けた。

「ゲリラにさらわれたか、拾われたか」

「こいつ、十三歳か十四歳くらいですかね?」

「ふむ、そんな気もするが、もっと子供にも見えるな」

「私たちとは人種が違いますね。もしかして中国人じゃないですか?」

 勝手に自分の事を喋る二人を無視するように、僕はただ黙っていた。

「さて、どうするか」

「私たちの家に住まわせることは危険ですよ。私たちには敵が多いですから」

「そうだな。不当なジズヤを拒んでいることで謂れのない脅しを受けているしな。いつ襲撃に遭ってもおかしくはない」

 この老人が言ったジズヤとはセルジュークの自治政府による人頭税のことだ。この街では異教徒にジズヤを課していると聞いたことがある。とすると、彼らはムスリムではないのか。異教徒と接したことがなかったから心の中に警戒心が湧いたが、今はそんなことに拘るだけの余裕はなかった。

 老人は若い男から視線を外し、僕のほうに向き直った。

「自分たちの力で生きるしかないな」

 ただし ── 、と言葉をはさんでゆっくりと続けた。

「我々もこの街にいる」

 この小屋を使っていいと、老人は言った。小屋の隣には五メートルくらいの高さのコトカケヤナギがそびえている。


 去り際に老人が言った。

「村を出るときに、クルアーンは持ってこれたのか?」

「いや」

 クルアーンはムスリムにとって最も大切な聖典だ。しかしそれを持ってくるほどの余裕はなかった。

 すると老人はカバンから古ぼけた一冊の本を取り出し、僕に渡した。

「字は読めるかね?」

「ああ、でもアイシャはまだ読めない」

「この本でその子に字を教えるといい」

「これは?」

「旧約聖書だ」

「キリスト教のか? そんなのはいらない」

「まあ、そう言うな。クルアーン程の価値はなくとも、お前たちムスリムにとってキリスト教の聖書も啓典の一つなのだろう?」

 確かにその通りなので、反論することはなかった。すると老人は僕の手を取り、僕に聖書を持たせた。

「文字の読み書きは必要だ。そのために使いなさい」

 僕は頷いた。

「ああ、これも使いなさい。何かと役に立つ」

 そう言って老人は使い古しのカバンを僕に与えた。それは赤い幾何学的な模様が織り込まれた布のカバンだった。

「これはキリムで作ったカバンだ」

「キリム?」

「トルコの伝統的な布製品だ。古いが頑丈だ。肩にかけられるから便利だろう」

 そして二人はこの小屋から出て行った。老人はイブラヒムと名乗った。


 次の日、イブラヒムと一緒にいた若い男がもう一度やってきて、僕たちに服を与えた。ゲリラの服は捨てろと言った。

 


*          *



 僕たち三人は生活の糧を得るために毎日のようにゴミの集積場に通い、鉄屑を集め続けた。


 鉄屑は大した金にはならなかったけど、それでも頑張ったからだいぶ金もたまったし、今日くらいはいいかなと思って、アイシャとバドゥルを連れてスークに行くことにした。スークはたくさんの店が集まっている市場だ。セルジュークで一番賑やかな場所だ。僕は二人に温かいスープを食べさせてあげようと思って、内心わくわくしていた。きっと二人は喜んでくれるはず。


 でも、この日、ほとんどの店は閉まっていた。ちょっと不思議に思いながらも僕たちは歩き続けた。すると、ある店の前に長い行列ができていた。

「何の行列だ?」

 僕は独り言のように言った。

「ちょっと聞いてくるよ」

 バドゥルはそう言って、列の最後尾の人に声をかけに行った。

 しばらくして戻ってきたバドゥルが言った。

「パンとスープを売ってるんだって」

「そうか。他の店は閉まってるみたいだし、俺たちも並ぼうか」

 僕がそう言うと、アイシャは嬉しそうに答えた。

「うん! あったかいスープ飲みたい」

 

 行列がだいぶ進んで店の様子が見えてきた頃、思い出した。数年前にこの店に来たことがある。バドゥルと二人だけでここに来た。そして、あったかくてとてもおいしいスープを飲んだっけ。しかし、その記憶を思い出すと同時に、ある異変に気付いた。

 先頭のほうの人たちが激しく言い争っている。店はドアを閉めきっていて、道路に面した小窓から食品を出し、金を受け取っている。

 一段と激しい声が聞こえたのはその直後だった。店の前で食品の奪い合いが始まった。

「俺が買ったんだ!」

「俺が買うはずだったんだ!」

 二人の男たちが店先で殴り合いの喧嘩を始めた。やがて一人の男がナイフを取り出し、相手の男の腕を刺した。刺された男は大声で悲鳴を上げ、よろけながら逃げ出した。すぐに騒ぎは収まった。どちらの男が食品を買い、どちらの男がその食品を手にしたのかはわからなかった。それより、僕の前にいた年配の女性が、これもデノミのせいだ、と言ったのが頭にこびりついた。


 ようやく僕たちの順番がやってきた。

「やった! やっと買えるね!」

 アイシャが嬉々とした声を上げた。その満面の笑みに釣られて僕も笑顔になった。喜ばせられたことを誇らしく思った。多くの客が小窓越しに店主と揉めていたことが気になったけど、それでもやっと順番が来たことが嬉しかった。


「スープを二つ下さい」

「いくら持ってる?」

 僕は店主の言葉に耳を疑った。

「え?」

「いくら持ってるかを言え」

 よくわからないまま、今持っている金額を伝えた。

「馬鹿か、お前は」

 店主はそう言うと、僕の頭越しに大声を出した。

「次の人!」

 あまりのことに動揺しながらも僕は言った。

「ちょっと待てよ。俺はスープを買いたいんだ!」

 店主は僕の言葉を遮るように言った。

「桁が二つも足りないんだよ」

 

 スープを買うことができず、紙幣を握りしめたまま店の近くで呆然としていた僕に、さっきの列で僕たちの前にいた女性が声をかけてきた。

「知らなかったのかい?」

「え? 何を?」

「デノミだよ。通貨の切り下げ」

「何それ?」

「あんたが持っているその金は、今じゃ百分の一の価値しかないんだよ」

「え?」

 僕の頭は混乱した。意味がわからなかった。

「ついこの前、通貨の単位が変わったんだよ。あんたのお金はただの紙屑だよ」

「でも、鉄屑屋からいつもと同じように金をもらったよ?」

「騙されたんだよ。可哀そうに」

 言葉をなくした僕に代わってバドゥルが言った。

「じゃあ、俺たちの金じゃスープは買えないの?」

「仕方ないよ。あんたたちがスープを買うには今の百倍のお金が必要なんだから」


 そのとき、僕の左手を握っていたアイシャの右手にぎゅっと力が入ったのを感じた。でも不甲斐ない僕はアイシャの表情を見ることができなかった。僕が無知なばかりに、スープを買ってあげられない。


 悔しくて、あふれる涙をこらえることができなかった。

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