第十二話 エデンの園

「マーラさん……っ!!」

 塔から身を乗り出してマーラさんの姿を追った。だが、地上に人が堕ちた形跡はない。――そう。つまり、彼は堕ちなかったのだ。時計塔の真ん中で、箒に跨るリーブル先生がマーラさんの手をしっかりと掴んでいた。

 マーラさんは夕陽の眩しさに目を細めながら先生を見上げた。幻想的な輝きを放つオレンジ色の髪の毛が、紺色に染まり始めた夜空に靡いて柔らかな陰影を描いている。

「君は僕のことをおいていく気かい?」

 先生がそう言って微笑んだ瞬間に、マーラさんの頬を一筋の涙がつたった。それから、堰を切ったような激しい嗚咽とともに、彼は肩を震わせてむせび泣いた。

 地上にはルリアとラルフ君が駆けつけていた。箒はゆっくりと彼らのもとに降りて行く。オレはそれを見届けると、安堵の溜息をついて塔の上で仰向けになって寝転んだ。



 その晩、リーブル先生はマーラさんをレディ・セ・ゼラたちの待つ宝石店へと連れて帰った。

 道すがら、マーラさんは誰に言うでもなく「姉さんたちは自分のことなど心配していない」と弱々しい口調で呟いていたが、宝石店に足を踏み入れた瞬間にその言葉は覆された。レディたちは星十字を切りながら、涙で濡れた頬を次々とマーラさんに押し付けた。

「ああ、マーラ! 無事だったのね!」

「神よ、感謝します!」

「どこも怪我はないのね?」

「あなたが無事で本当に良かった。本当に……」

 彼女たちはかわるがわるマーラさんのことを抱きしめた。当の本人は驚きのあまりしばらく呆然としていたのだが、やがて、やりきれない表情で床に視線を落としたまま黙り込んだ。弟の様子がおかしいことに気がついて、レディたちは心配そうに顔を覗き込む。

「マーラ……?」

「……私は、あなたがたに心配してもらえるような、そんな人間ではないんです……」

 マーラさんは小さな声で呟いた。

「そんな資格は、私にはないんです。だって、赤髪盗賊団は……盗賊団の正体は……」

 彼が言葉を続ける前に、背後からしゃがれた男の声が降ってきた。

「赤髪盗賊団は、もう二度とここへはやって来ないでしょう」

 マーラさんが驚いて振り返ると、そこにはセ・ゼラ家の執事が立っていた。彼は皺の刻まれた目尻にうっすらと涙を浮かべ、マーラさんに微笑んだ。「少なくとも、私はそう信じております」

 執事の言葉に、マーラさんの目から涙が溢れた。

 肩を震わせて泣くマーラさんを、レディ・セ・ゼラたちがそっと包み込んだ。「私たちも信じているわ」

 サロンの片隅で一部始終を眺めていたリーブル先生が、ふいに穏やかな声でオレに言った。

「レディたちは赤髪盗賊団の正体にいつからか気がついていたんだろうね。でも、セ・ゼラ家の執事を含め、誰もがどうすればよいのかわからなかったんだ。相手を思うが故に、相手の言いなりになる者。相手を傷つけまいとして、相手から遠ざかる者……人の愛の形って本当にさまざまだね」

 そう言って、先生は懐からオレの魔法の杖を取り出すと、約束どおり返してくれた。

 星の形をした石が持ち手の端できらりと光る。結局、この杖は聖エセルバートの杖でもなんでもないのだろうか? 少しだけ気になったが、すぐにどうでもいいやという心境になった。聖人の杖であろうがなかろうが、先生が買ってくれた大切な杖であることに変わりはないのだから……。

 リーブル先生は慈愛に満ちた眼差しでマーラさんたちを見つめていたが、やがて、オレとルリアの方に振り向くと、「帰ろうか」と言って微笑んだ。


 宿に着いたとたんにどっと疲れが押し寄せて、すぐさまベッドに横になった。先生とルリアは相変わらず寝る位置で揉めているし、豚の姿のままのラルフ君は、魔法を解いてもらおうと先生の隣でブーブーと騒いでいた。

 騒がしいことこの上なかったが、そんな相も変らぬ騒々しさが心地よかった。オレは布団の中に顔を埋めて誰にも気がつかれないように密かに微笑んだ。この世に生まれて来ることが出来て幸せだと思った。純粋に、心の底からそう感じた。

 明日聖エセルバートの街に帰る前に、母さんに会いに行こう。オレをこの世に生んでくれた、世界でただひとりの人。……母さんに会いたい。ただひたすら、そう思ったのだ。



 翌日、大都市エデンは快晴だった。食堂では寝ぼけ眼のリーブル先生が皆に遅れてひとりで朝食を摂っていた。オレは先生と直角に向き合うようにテーブル席につくと、じいちゃんの日記を読み終えたことや、『魔女の家』で幼少時代の記憶を取り戻した経緯を伝えた。

 先生はぼんやりとした表情で話を聞いていたのだが、途中からはっきりと覚醒し、すべてを話し終えると激しく席から立ち上がって、両腕でオレの体を抱きしめた。

「赦してくれ、メグ。君を騙すつもりはなかったんだ」

 先生の突然の言葉に、オレは「え?」と問い返した。

「ハリエットが、君に聖女の子孫だと言い聞かせてきたこと。彼女は君に希望を持って生きて欲しかったんだ」

「……うん」

 大丈夫。ちゃんとわかってる。それが、ばあちゃんの――そして先生のオレに対する愛の形だったのだ。『悲しい思い出』は幼いオレの記憶を閉ざしてしまったが、ばあちゃんや先生の深い愛情が、どんな悲しみや苦しみも乗り越える強い力を与えてくれた。

 人はひとりでは生きられない。他者の温かい眼差しがあるからこそ、人は人として生きることが出来るのだ――。

「母さんに会いに行こうと思ってるんだ」

 躊躇いがちに切り出すと、先生は一瞬戸惑いを見せた。

「そうか……。そうだね。君が望むなら。でもねメグ、ジョアンは決して正常ではないんだ。それでも、君は彼女に会いたいかい?」

 オレは深く頷いた。先生はオレの決心に揺るぎがないことを確認すると、有無を言わさぬ口調で自分も一緒について行くと言った。ひとりではなんだか心細かったので、先生のその言葉はかえって有り難かった。

 話を聞いたルリアは当然のように「あたしも行く!」と叫んだ。そして、人間の姿に戻ったラルフ君までもが、ルリアに続けて小さな声で「俺も」と呟いた。先生がすかさず意地悪な笑みを浮かべ、「なんで君までついてくるのさ?」と言うと、ラルフ君は真っ赤な顔で喚き散らした。「うるさい! 行くと言ったら行くんだ!」



 十三番街へ向かう途中、通りを歩きながら先生はじいちゃんの日記に描かれていた以後のことを詳しく話して聞かせてくれた。

「ジョアンは君を生む前に、エリアス――つまり、僕の父親の件がきっかけで、すでに精神的におかしくなっていた。その心はすっかり闇の魔術に捕らわれていて、真夜中に度々悪魔を喚起しようとしては屋敷中の人間がそれを止める繰り返しだったそうだ。それで、ハリエットとレイはやむなくジョアンを『エデンの園』へ向かわせたんだ。ところがある日、ジョアンに子供が出来たという知らせが『エデンの園』から届いた。病院の関係者は誰ひとりとしてジョアンの相手が誰なのかを知らなかった。なぜなら、彼女の精神はすでに崩壊していたし、誰かが彼女の元を訪れた様子も見られなかったからだ。……生まれてきた子供はハリエット譲りの金髪で、とても可愛い男の子だった。それが君だよ……メグ」

 ここで先生はひと呼吸置いた。オレたちは黙って話の続きを待った。

「その頃のジョアンは精神的にとても安定していて、レイもハリエットも彼女が君とともにウィンスレットの館で暮らせるかもしれないと考えた。まるで、どこか別の場所で生きているみたいに、ジョアンは始終夢見るような表情を漂わせていた。僕がエリアスの息子なのだということには全く気がついていないようだった。もはや他人を認識することが出来ていなかったのだろう。数年の間、僕らは何事も無く平穏な生活を送ることが出来た。たぶん、誰もが安心していたんだと思う」

 歩みを止めたリーブル先生は鉄製の門に手をかけて、それをゆっくりと押し開いた。

「そして、あの出来事が起こったんだ。君を巻き込んだ魔法陣の一件の後、ハリエットとレイはジョアンを再び『エデンの園』へ連れて行くことに決めた。……それ以来、彼女はずっとここで暮らしているんだ」

 エデンの園は、長い年月によってウェザードされた古い煉瓦の塀に囲まれていた。幻想的な白い小花のアーチを潜り抜けると、そこはまさしく妖精の楽園のごとく夢のように美しい場所だった。そこいら一体に甘い花の香りが漂っていて、花から花へと舞うように蜜蜂たちが移り飛んでいる。

 突然、ルリアがはっとしたように声を上げた。

「この花の香り、カレッジに駆けつけてきたときのリーブル先生の香りと同じだ!」

 先生は近くに咲いていた植物の花弁に触れながら言った。

「実は、君たちがソーサリエ・カレッジに行っている間、僕はジョアンの見舞いに訪れていたのさ」

 しばらく歩き続けて行くと、麦藁帽子を被った老年の修道女が、真鍮のジョウロで草花に水をやっているところに出くわした。作業を中断してこちらを見上げた老女に、先生はにっこりと微笑んだ。

「御機嫌よう、いい天気ですね。ジョアンは今どこにいますか?」

「東屋で読書をなさっていますよ。ご案内しましょう」

 オレたちは修道女に導かれ、エリンジュームやパンジーの織り成すブルーガーデンを通り抜けた。その途中、薔薇の木の向こう側に黒い人影が通り過ぎたような気がして、オレは歩みを止めて視線を向けた。目を凝らして様子を伺ったが、そこには誰がいるわけでもなく、ただ蜜蜂が舞っているだけだった。

 立ち止まっていたオレに気がつき、ルリアが声をかけてきた。

「どうかしたの? メグ」

「……何でもない。たぶん、気のせいだ」

 そう呟いて、オレはすぐにルリアの方へ歩いて行った。

 白い木組みの東屋は、遅咲きの球根花に囲まれてひっそりと佇んでいた。金髪の美しい少女がひとり、小さな詩集に視線を落とし緩やかなひと時を過ごしている。その姿を捉えた瞬間に、驚きのあまり思わずその場に立ち止まった。それはまさしくオレの母親であるジョアンに間違いなかったのだが、美しい容貌は全く歳をとっておらず、幼い頃の記憶のままの姿でそこにいたのだ。

 オレがショックを受けていることに気がついて、先生が説明してくれた。

「ジョアンはハリエット同様に歳をとらない魔法を受けているんだよ。だから、彼女の姿は永遠に少女のままなんだ」

「一体どうして? 確かばあちゃんは預言者と名乗る見ず知らずの男から、呪いの魔法をかけられたって言っていたよね?」

「その預言者というのは、例の青年宣教師のことなんだ。彼はジョアンに決して自分の名を明かそうとはしなかったが、自ら『預言者』と名乗っていたらしい。ちなみに、呪いは彼が直接かけたわけではなく、実はハリエットが自らかけた魔法なんだ」

「ばあちゃんが?」

「ジョアンが魔法教のサバトへ行ったとき、魔法教徒たちは彼女の命と引き換えに悪魔を呼び出そうとした。そのとき、ハリエットはジョアンの命を守るために反対呪文を唱えたんだ。死の反対は生。つまりは、永遠の命だ。強大な魔法の力は反発しあい、結果的にはハリエットの魔法が優勢の状態で弾けとんだ。ハリエットのジョアンを想う気持ちが、彼女を救ったんだね。でも、それ以来二人は全く歳をとらなくなってしまったんだ」

 先生に促され、オレはゆっくりと母さんの元に歩み寄った。

 人の気配に気がついたのか、母さんは読んでいた本からふいに視線を上げた。透き通るようなブルーの双眸がオレの姿を捉えた瞬間、驚くべきスピードで動揺の色が駆け抜ける。瞳は大きく見開かれ、その表情はみるみるうちに強張った。

「ごめんなさい! 赦してエリアス!」

 母さんは物凄い勢いで長椅子から立ち上がると、東屋の隅に怯えるようにあとずさった。そして、両手で顔を覆って泣き出した。

「赦してエリアス! ……私のことを赦してちょうだい!」

 どうやら彼女はオレのことをエリアス叔父さんと勘違いしているようだった。

「違うよ、母さん。オレはエリアスじゃない。オレは、あなたの息子なんだ……」

 子供をあやすように優しく言って聞かせたが、オレの声は耳に届いていないようだった。母さんはテーブルの上に置かれていた花束を手に取ると、そこに咲く白い花の蕾にそっと触れた。

「この蕾が咲いたら、エリアスは私を赦してくれるのよ」

 何かにとりつかれたかのように、彼女はぶつぶつと同じ言葉を繰り返す。「この蕾が咲いたら、エリアスは私を赦してくれる……」

 しかし、花は切花だったので、硬く閉じられた若い蕾が開くのは稀であり、それがひどく難しいであろうということは、誰の目から見ても明らかだった。

「この蕾が咲いたとき、エリアスは私を赦してくれるの。赦してくれるのよ……。あの方が、私にそう仰ったのよ……」

 その言葉を聞いた瞬間に、リーブル先生の顔色が一変した。

「あの方って……まさか、ジョアン。アイツが君の元にやって来たのか?」

 先生は慌てて誰が花束を持ってきたのか修道女に尋ねた。年老いた修道女はおろおろと自らの記憶を手繰り寄せていたが、やがて確信に満ちた口調で、今朝自分が彼女の元を訪れたときには、花束などなかったと断言した。

「この蕾が咲いたら、エリアスは私を赦してくれる。エリアスは私のことを赦してくれるの……。あの方は仰ったの……」

 子供のように何度も同じ言葉を繰り返す母さんの姿を、リーブル先生は愕然とした面持ちで見つめていた。彼女の心は未だ青年宣教師に向けられたままだったが、心の奥底ではずっとエリアス叔父さんに対する罪悪感に苛まれ続けてきたのだ。

 だが、どんなに月日が流れても、青年宣教師は彼女に赦しを与えなかった。きっと、蕾が開くことはない。彼女が救われる術はほかにないのだ――。

 そのとき、オレは咄嗟にあることを思い出し、魔法の杖を取り出した。

「メグ?」

 先生が怪訝そうにこちらを見た。

 試したことのない魔法を使うときは緊張する。オレはエデンの大学で行われていた自然魔法の授業を思い出そうと目を閉じた。


『花は魔法の力だけに頼っても決して咲きませぬぞ。花は心で咲かせるのです』


 失敗しないよう正確に呪文を唱えてから、蕾に向かって全神経を集中させ、小さく杖を一振りした。すると、膨らんだ蕾はほんのりと色づき、やがて緩やかにフォルムを変え、ゆっくりと一枚ずつ花びらを開いていった。

「咲いた! 花が、咲いたわ……!」

 母さんは無邪気な声を上げて、救われたような笑みを見せた。だが、それはほんの一瞬のことで、彼女の瞳はすぐにそのままぼんやりと霧のような夢の虚空をさ迷った。

 可愛そうな人だと思った。ただひとつの恋をして、この人の人生はそこで止まってしまったのだ。夢うつつな母親の表情を眺めていたら、知らず知らずのうちに瞳から涙の粒がこぼれていた。

「どうして泣いているの?」

 突然、母さんがオレに向かって言った。

「……泣いてはいけないわ。男の子でしょう?」

 優しく頭を撫でられて、オレは驚いて顔を上げた。

 母さんは再び夢見るような表情で身を翻すと、何かの歌を楽しげに口ずさみながら、ゆっくりと東屋から離れていった。



『エデンの園』を後にしたオレたちは、聖エセルバートの街へ帰る前に五番街のマーラ・セ・ゼラの宝石店に立ち寄った。マーラさんやレディ・セ・ゼラたちは、玄関口までオレたちのことを見送りに出てくれた。

 またエデンへ来ることがあったらいつでも立ち寄って欲しいと、レディたちは厚い感謝の言葉と共にオレたちへひとりひとり別れの抱擁をしてくれた。

 先生とマーラさんは互いに顔を見合わせると、言葉を掛け合うでもなく、ただ黙って微笑み合った。それから、マーラさんは少しだけ気恥ずかしそうにオレの手をとった。

「メグさん、私はあなたやリーブルに負けないように、精一杯生きていくつもりです。……あなたはとても素敵な人です。男とか、女とか、そういうのを抜きにして。遠く離れていようとも、私は勝手にあなたのことを想い続けます」

 本気なのか冗談なのか、マーラさんはオレの掌にキスをしてから、悪戯気にウィンクした。

「メグは相変わらずモテるねえ」

 先生が意地悪そうに口笛を吹いた。オレはどう答えてよいか分からずに、真っ赤になって俯いた。でも、なんだかマーラさんの前向きな気持ちが嬉しくて、自然と笑顔がこぼれてしまった。


 五番街を出ようとしていたとき、急にエデンの魔女のことを思い出した。それで、オレたちは見送りについて来てくれていたラルフ君と一緒に、最後に『魔女の家』に立ち寄ることにした。

「確か、ここを曲がって石畳の路地を通り抜けて……あれ?」

 確かにこの辺にあったはずなのに。どういうわけか、家があるべきはずの場所には閑散とした空き地が広がっているだけだった。

「おかしいなあ。道を一本間違えたのかな?」

 すると、ラルフ君がすぐにそれを否定した。「いや、絶対ここに間違いない。俺は一度訪れた場所を忘れたりしない」

 そのとき、隣の家から男性が通りに出てきたので、オレはすかさず声をかけた。

「あの、すみません。『魔女の家』っていうガーデナーズショップを探してるんですけど、どこにあるのか知りませんか?」

 尋ねられた街人は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑いながら教えてくれた。

「『魔女の家』? ああ、エデンの庭師の家のことだね? それなら何千年も前に焼けてなくなったよ」

 それを聞いて、オレは「へ?」と間の抜けた返事をしてしまった。「何千年も前……? 焼けてなくなった……?」

「庭師がエデンの園に行ったっきり戻らなかったので、奥さんは家に火をつけて自分の子供と自殺したって伝えられてる。君たち観光客? この話はエデンの園に纏わる悲しい物語としてこの街では結構有名だよ。エデンの大学にこれらの話に纏わるステンドグラスがあるから、興味があるなら行ってみるといいよ」

 親切に説明してくれた街人は、足取りも軽く路地裏へと姿を消した。

 オレは炎に包まれた魔女のステンドグラスを頭に思い浮かべながら、ひどくかすれた声を洩らす。「そんな……。オレ、確かに見たんだ。ここには『魔女の家』があって……オレたち話だってしたんだよ? ねえ、ラルフ君?」

 ラルフ君は丸い瞳を大きく見開き、空き地を見つめ続けている。

 先生の洋服の裾を掴みつつ、ルリアが恐る恐る呟いた。「じゃあ、メグたちが見たのは、幽霊だったってこと?」

 その瞬間、全身に鳥肌が立ち、オレとラルフ君は互いに顔を見合わせた。

「ま、まさか……」

 くすりと笑った先生が、箒に跨り大空へと舞い上がった。

「さあ、日が暮れないうちに聖エセルバートの街に帰るよ」

 ルリアは慌てたように師匠の後を追い、オレとラルフ君はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。やがて、幻想的な感覚に捕らわれたまま、オレは後ろ髪を惹かれる思いでラルフ君に別れの言葉を告げた。

「……いろいろ……ありがとう。元気でね、ラルフ君」

「ああ。……おまえもな」

 また会えると分かっていても、別れの言葉になんだかしんみりとしてしまい、急激に目頭が熱くなった。それに気づいたラルフ君は焦ったように早口で言う。

「馬鹿かおまえは! 聖地巡礼でまたすぐに会えるから……!」

 リーブル先生が上空からにやにやしながらラルフ君をからかった。

「女の子を泣かすなんて最低な男だね、君は」

 先生のその言葉に、オレとラルフ君は顔を真っ赤にさせて同時に叫んだ。

「オレは男だ!」

「そうだ! コイツは男だ!」

 オレたちは互いに顔を見合わせると、噴き出すように笑い合った。

「気をつけて帰れよ!」

 ラルフ君が空に舞い上がるオレたちに向かって声をかけた。オレは長い間手を振り続けたが、やがて彼の姿はみるみるうちに遠ざかった。そうして箒は五番街を通り抜け、エデンの大学がある一番街の上を飛ぶ。振り返ると、遥か後方には十三番街の緑が見えた。


 大都市エデンの爽やかな風が頬をくすぐる。その風の流れに乗って、ふと、魔女の声が聞こえたような気がした。




マリア教の魔法使いとエデンの園・完

(執筆期間:ニ〇〇四年二月~六月)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る