第十話 遠い過去の記憶

 赤銅色の満月が異様なほどの重圧感で上空に佇んでいる。光が消えた後の森は月明かりに照らし出され、辺りが静寂を取り戻した頃にはすでに青年宣教師と魔法教徒たちの姿はなかった。

 箒から飛び降りたばあちゃんは、魔法陣の中で憔悴しきっている母さんのもとに駆け寄った。じいちゃんや村の人々も二人を取り囲むようにして集まった。

 ばあちゃんの腕に抱かれた母さんは、狂ったような笑みを浮かべた。

「私は、あの方のお役にたてたかしら。あの方は、喜んで下さったかしら」

 ばあちゃんはそれに対して何も言うことが出来ずに、ただ悲痛な面持ちで自分の娘の顔を見つめた。

 そのとき、遠くの方からじいちゃんの名を呼ぶ男の声が聞こえてきた。

「レイモンド殿! レーンホルム伯爵殿はこちらにおいでですか?」

 男は息せき切らせてじいちゃんの元に転がり込んできた。

「大変です、レイモンド殿! ご子息が村の外れにある教会の地下聖堂で……」

 男はそこで一度言葉をきってから、呼吸を整え言いにくそうに口にした。「集団自殺を……」

 それを聞いた瞬間、ばあちゃんはショックのあまりその場で気を失った。

「ジョアン! 待ちなさい!」

 じいちゃんの叫び声にはっとして、母さんの姿を目で追った。母さんはばあちゃんの箒に跨って、濃紺の空へと舞い上がり教会の方角へと飛びたっていくところだった。じいちゃんはばあちゃんのことを近くにいた従者に任せると、箒の後を追って森の中を駆けて行った。

 瞬きと同時に場面が切り替わり、オレの目の前にはいつの間にやら古びた教会が建っていた。そこは今はもう使われていない、うらぶれた廃墟だった。長い間雨風に晒されてきたことを物語るかのように、尖塔の星十字は角が丸く変形していた。

 草地に舞い降りた母さんは、箒を勢いよく放り投げて教会の中へと入って行く。その後に続くようにしてオレも建物の中へと足を踏み入れた。

 地下聖堂への階段は古い石畳になっており、一段ずつ踵を落とすたびに奇妙に拡張された音が辺りに鳴り響いた。霧のような煙に見え隠れする視界の先を捉えた瞬間、静かな戦慄が全身を駆け抜ける。

 狭い密室で火を焚き続けたのだろう。部屋に横たわる人々は霧のベールに包まれて、まるで眠るように死んでいた。薄暗い部屋の隅には、棺に寄りかかるようにしてエリアス叔父さんの亡骸もあった。彼は星十字の首飾りを片方の手で握り締め、隣にハンネ・ローレと呼んでいたメイドの少女を抱いていた。

 その光景を見つめていた母さんは、力が抜けたようにがくりと膝をつくと、頭を抱えて悲鳴を上げた。

「いやああああ……っ!」

 遅れて教会にかけつけたじいちゃんが、発狂する母さんの体を両腕で強く抱きしめた。

「ジョアン、落ち着きなさい! ジョアン!」

 母さんは泣き叫ぶように声を上げながら、次第にじいちゃんの腕の中で意識を失くした。

 じいちゃんは母さんの体を地上へ運び出し、聖堂の長椅子にそっと横たわらせた。そして再び地下に戻ると、その場に立ち尽くしていた従者たちに声をかけ、司祭にこの出来事を伝えに行くよう頼んだ。

 ひとり地下聖堂に残ったじいちゃんは、エリアス叔父さんのそばに近づくと、顔を覆い隠すようにして自らの額に手を当てた。彼は声を出さずに泣いていた。オレの瞳からも涙が溢れて頬をつたった。

 鼻をすする音に紛れて、ふいに赤子の声が耳に届いた。初めは空耳かと思ったのだが、どうやらそれは棺の中から聞こえてくるようだった。

 不審に思ったじいちゃんがおそるおそる棺の蓋を開くと、驚くべきことに、そこには無邪気な笑顔で手を伸ばす赤ん坊の姿があった。じいちゃんは震える手で星十字をきると、両手でその子を抱き上げた。

「神よ……」

 そう呟いて、彼はオレンジ色の髪の赤ん坊――もとい、リーブル先生を強く抱きしめた。

 いつの間に現れたのか、オレの隣にはエデンの魔女が立っていた。とめどなく流れる涙を拭いながら、オレは魔女に言った。

「こんなのってない。オレ、知らなかった……。リーブル先生のこと……。母さんや叔父さんたちのこと、何も知らなかったんだ……」

 すると、魔女はまるで試練だとでも言うように、三角の瞳をオレに向けた。

「これは単なる伏線に過ぎないんだ。あんたは思い出さなきゃならない。おばあさんがなぜあんたを聖女の子孫だと話したのか。それを知るためには、閉ざされた記憶を取り戻さなけりゃならないんだ」

 魔女の声に重なるようにして、懐かしい声が耳に届いた。


「いいかい、メグ。肩の力を抜いて、このペンが浮かび上がるように心の中で念じるんだ」

 一瞬にして場面が切り替わると、そこは再びレーンホルムの屋敷だった。まだ少年の面影を残したリーブル先生が、自分よりも小さな子供に魔法を教えている。金髪のまるで女の子みたいな男の子――。あれは、幼い頃のオレだ。

 部屋の隅にはラルフ君の姿もあった。椅子の背もたれに魔法の参考書を立てて、覗き込むような格好で二人の様子を固唾を呑んで見守っている。

 幼いオレは真剣な面持ちでテーブルの上の羽根ペンを見つめていた。しばらくするとペンはゆらゆらと不安定に浮かび上がり、テーブルに映し出された小さな影がそれに伴って揺れ動いた。

「すごいじゃないか、メグ」

 先生がオレの頭を優しく撫でた。初めて魔法で物を動かせた嬉しさから、幼いオレの顔は満面の笑顔で満たされた。

 そのとき、視界の端に廊下を歩くひとりの少女の姿が映った。淡色のドレスの裾を引きずるようにして歩いていたのは、相変わらず若い姿のまま、何一つ変わらぬ風貌の母さんだった。幼いオレは彼女の姿を追いかけて部屋から飛び出す。

「母さん、今日はいい天気だね! 薔薇の花を見てきたの?」

 オレが話しかけても、母さんの表情は夢見心地で何も聞こえていないようだ。

「ねえ母さん、オレ、さっき初めて魔法でペンを浮かばせることが出来たんだよ!」

「……魔法?」

 母さんは魔法という一言に反応して、ぶつぶつと何かを呟き始めた。

「あの方は、必ずここに戻って来る……。私を迎えに来てくれるのよ……」

 彼女は戸棚から粉末状のハーブを取り出すと、魔法陣を描くようにしてそれを床の上に撒き始めた。

「母さん、何してるの?」

「ここへ聖エセルバート様を呼び出すのよ。そうすれば、あの方は私のことを前よりもっと好きになってくださるわ。あの方は……きっと私を迎えに来るわ……」

 母さんの様子は尋常ではなかった。淀んだ両の瞳には目の前にいるはずの幼いオレの姿が映っていない。まるで、オレを通り越して何か別の物が見えているような、そんな目をしていた。

「私の命と引き換えに、聖エセルバート様をここへ呼び出すの。そして、おまえは聖エセルバート様の身代わりとなって、魔法陣の中で永遠に生きるのよ。おまえはなんて果報者なのでしょう」

 母さんは幼いオレの腕をつかむと力強く引っ張った。

「嫌だよ。離して母さん!」

 オレは無理やり魔法陣の中に連れ込まれ、彼女の腕の中に捕らわれた。

「お願い、ここから出して!」

 低い声で母さんは魔法の呪文を唱え始める。すると、まるで夜の帳が下りるように辺りが緩やかに暗くなってゆく。

「誰か助けて! ばあちゃん! じいちゃん! ……リーブル先生!」

 オレの声を聞きつけたリーブル先生が止めに入り、ラルフ君が慌ててばあちゃんを呼びに行った。部屋にはばあちゃんやじいちゃんをはじめ、屋敷中の人間が駆けつけた。皆に取り押さえられ、発狂する母さんの声が不協和音のように辺りに響き渡り、それと同時にオレの視界は真っ暗になった。


 レーンホルムの階段の踊り場にある大きな鏡に、泣きながら階段を下りる幼いオレの姿が映し出される。向かった先には暖炉の前の揺り椅子に腰をかけたばあちゃんと、本を読むリーブル先生の姿があった。

「もう泣くのはおよし」

 ばあちゃんが優しい声でオレに言った。

 幼いリーブル先生が読んでいた本から顔を上げて立ち上がった。先生はそっとオレの手をとると、両手を重ねて握りしめた。

「僕が君を守るから」

 先生がそう言うと、オレは一生懸命に泣くのをやめようと努力した。

 部屋の向こう側では、扉の隙間からじいちゃんが悲しげな表情で部屋の中の様子を見守っている。

「オレ、恐い……んだ……」

「またあの夢を見たんだね?」

「……みたいに、……たく……ない……」

 激しく息を吸い込み、しゃくり上げながらオレは同じ言葉を繰り返した。

「聖エセルバートみたいに、なりたくない。魔法陣の中に……閉じ込められたく、ない……」

「おいで」

 ばあちゃんはオレを揺り椅子に呼び寄せて自分の膝の上に抱き上げた。そして、優しく頭を撫でると、まるで昔話でも聞かせるような口調で言った。

「おまえのご先祖様は三人の弟子と共に、世界中を旅して回っていたんだよ」

 リーブル先生が驚いてばあちゃんの顔を見た。すると、彼女は幼いオレに気がつかれないよう、先生に片目を瞑って黙っているように合図をした。

 ばあちゃんはオレの肩を抱くと、まるで子守唄のように何度もオレに言い聞かせた。

「おまえはマリア様の血を引く暁の魔法使いなのだから、自分に自信と誇りを持ちなさい」



 そうだ。思い出した。オレはすべてを忘れていたんだ――。



「しっかりしろ、メグ! 大丈夫か?」

 気がつくと、目の前には心配そうに覗き込むラルフ君の顔があった。彼の背後にはエデンの魔女も立っていた。どうやら『魔女の家』に戻ったようだった。

「……オレ、母さんと暮らした数年間のこと、ずっと忘れてたんだ。魔法陣に閉じ込められそうになったことも……」

「思い出したのか?」

「ラルフ君は知ってたんだね」

 逆に言葉を返すと、ラルフ君はゆっくりとオレから視線を外し、やがてコクリと頷いた。

「幼いおまえは精神的なショックに耐えられずに、自ら記憶を閉ざしたんだ」

 魔女はただ黙ってオレのことを見つめていた。オレは彼女に向かって言った。

「やっぱり、聖女の子孫なんかじゃなかったみたいだ。……あの話は、ばあちゃんが幼い孫を助けるために……悪夢にうなされていたオレのために語ってくれた、単なる夢物語だったんだ……」

 話しながら、オレの瞳からは涙の粒が零れ落ちた。暁の魔法使いじゃなかったから泣いているんじゃない。ばあちゃんもじいちゃんも、リーブル先生も、ここにいるラルフ君も、みんな『悲しい思い出』からオレを守ってきてくれた――彼らのかけがえのない愛情に支えられ、今の自分があるのだ――そう思ったら、涙があとからあとから溢れ出て止まらなかった。

 魔女から手渡された日記帳は、まだぼんやりと魔法の光を残していた。オレは日記帳に挟んであった母さんとエリアス叔父さんの写真を手に取って、日記の記憶の中で見た母さんの姿を心に思い浮かべた。

 盲目にひとりの青年を愛した少女――。彼女にとって、オレはいてもいなくてもどちらでもよい存在だったのではないだろうか。オレが生まれてきた意味は、彼女にとっては何もなかったのかもしれない……。そう思うと心が痛かった。

 庭の花々に視線を傾けながら、魔女が唐突に呟いた。

「私はあんたの母親みたいに、ずっと待ち続けたんだ。あの人がエデンの園から戻って来るのを、あの子と一緒に、ずっとずっと待ち続けたんだ……」

 そのとき、奥の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

「……母親のしたことを赦しておやり」

 魔女はオレにそう言い残すと、部屋の奥へと姿を消した。

 オレは手の甲で涙を拭いながら、ラルフ君に尋ねた。

「エデンの園って、マリアバイブルに出てくるあの妖精の楽園のことだよね?」

 すると、ラルフ君は少し考えるような素振りをしてから声を潜めて言った。

「大都市エデンの十三番街にある精神病院のことを、人々はその美しさから『エデンの園』と呼んでいるんだ。もしかしたら、そこのことを言っていたんじゃないだろうか……」

 オレたちは魔女が部屋に戻るのを待ってみたが、このあいだと同じように再び姿を現すことはなかった。やがて、オレたちはあきらめて店から出ていくことにした。

 魔女の戻りを待っているときから、ラルフ君はなんだかそわそわとした様子で、オレに何かを伝えたそうだった。緑のアーチをくぐり抜け、通りに出たところで、散々迷った様子ながらも彼はようやく切り出してきた。

「メグ、おまえジョアンに会いたいか?」

 驚きと躊躇いから、オレは黙ったままラルフ君の顔を見返した。

「おまえの母親は……ジョアンは、『エデンの園』にいるんだ」

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