第十二話 存在の証

 津波が去った後のランズ・エンドは、サン・スクワール城の先端だけがぽっかりと取り残されて、あとにはただ大海原が広がっているだけだった。

「ランズ・エンドは滅亡した。これが神の意向なのか?」

 リーブル先生がオレの肩越しで呟いた。

 明け方の空を飛んでいたオレたちの箒に寄り添うようにして、一羽の白い鳥が群れから離れて飛んで来る。

「ルリアだね?」

 尋ねると、鳥はまるで返事をするかのように可愛い鳴き声で応えた。

 箒や魔法の絨毯に乗った魔法使いたちは、次々と対岸にある丘の上へと降りて行く。緩やかな傾斜地に咲く花々や、辺りを舞う蝶たちの姿は至って平和であり、今までの出来事がまるで嘘みたいに思えた。

 地上についた瞬間に、ルリアにかけられた魔法がとけて元の姿に戻った。

「ルリア!」

 箒から飛び降りたリーブル先生はルリアの元に走り寄ると、両腕で彼女の体をぎゅっと抱きしめた。

「怪我はない?」

「うん。大丈夫」

 遅ればせながら舞い降りたばあちゃんを発見し、オレは思わず走り寄って抱きついた。

「ばあちゃん! 良かった無事で!」

「またあんたは! あたしはばあちゃんじゃないって言ってるだろ!?」

 少し離れたところからゴドウィンさんがオレたちを呼ぶ声がした。手を振る彼の横にはマリアさんとファインズ総長もいた。みんな無事だったのだ!

 オレは預かっていた星十字の留め金を総長に手渡し、捕らわれの魔法使いたちの中にロズモンドさんがいなかったことを伝えた。すると、総長は複雑な表情を携えて、「そうか」と留め金をぎゅっと握り締めた。

 そのとき、白いマントを翻し、ひとりの青年が慌てた様子でオレたちの元に近づいて来た。歳若い青年はどうやら聖ユーフェミア騎士団の一員のようだった。

「ファインズ殿! ご無事で何よりです」

「ヘーゲル、皆は無事か?」

「わかりません。私は総長の命により、カストリアからたった今こちらに着いたばかりなのです。一体ランズ・エンドで何が起こったのですか?」

「星が流れ堕ちたのだ。聖ノエルの予言は誠であった」

 畏敬の念をあらわに星十字を切ってから、総長は厳粛な面持ちで青年に尋ねた。「時に、カストリアの状況は?」

「恐れていたとおり、一部の信徒が暴動を起こし聖職者や貴族たちと衝突しました。カストリアの民はもはや王室も国教会も信用してはいない。パッシェン総主教とフォルスター公爵がランズ・エンドを訪れたことが明るみになり、貴族たちが次々と血祭りにあげられています。カストリアは今とても危険な状態です」

 丘の麓には聖ユーフェミア騎士団の騎士たちが集まっていた。彼らは白いマントを靡かせて、湖面に残された人々や怪我をした魔法教徒を介抱したりしていた。総長は騎士特有の精悍な顔つきで、青年を従え丘の斜面を下って行った。

 二人の聖騎士を無言で見送っていたマリアさんが、ふいにふらりとした足取りでその場から離れた。リーブル先生がすぐに気がつきその後を追う。

 マリアさんは顔を正面に向け、真っ直ぐにランズ・エンドの大海原を見渡していた。

「私はもう二度とカストリアに戻れないかもしれないわ」

 先生はどう言葉を返したらよいかわからなそうに、日差しの照り返しの中で黙って彼女の後ろ姿を見つめていた。時代に翻弄された王女の姿はとても小さく儚げだった。

「でも、たとえ遠く離れていても、カストリアのすべての民が幸せであることを、私は祈り続けます」

 マリアさんのその言葉に、リーブル先生の瞳から音もなく涙の粒がこぼれ落ちた。先生が泣いているのを見たのは、これが最初で最後だった。「僕も君とともに祈るよ」

 オレは革の鞄から禁書の一葉を取り出してマリアさんに手渡した。カストリアの王女はそれを大事そうに胸に抱え込むように握りしめ、それから慌ててドレスの裾を摘んで深く頭を垂れた。

「暁の魔法使い、あなたのおかげでカストリアの王家が代々受け継いできた『秘密』を守ることが出来ました」

「ええ? ちょっと待って。オレ、暁の魔法使いなんかじゃないよ。あのときは単に偶然が重なって星が堕ちたり夜が明けたりしただけで……だから、顔を上げてください」

 マリアさんは畏れ多いと言わんばかりに一層深く頭を下げ、オレはどうしてよいかわからずうろたえた。そのとき、開きっぱなしになっていた革の鞄から一枚の紙切れがふわりと地面に舞い落ちた。それはカストリアの記念紙幣だった。

 オレは紙幣を拾い上げると、それを迷うことなくマリアさんに差し出した。

「これは?」

「今から数年後に発行されるカストリア国教会の記念紙幣だよ。信じてくれなくてもいいんだ。でも、未来のカストリアはエメット三世が総主教に即位したことによって、いい意味で大きく変わるんだ」

 紙幣を手にしたマリアさんは、驚いたように目を見開いた。

「あの方が……総主教に……?」

 彼女は両手で顔を覆って咽び泣いた。

「私はあの方を信じておりました。あの方は……カストリアの民を導く希望の星なのです」

「あの方って……まさか、マリアさんが禁書を送った相手の人ってエメット三世のことだったの?」

 マリアさんは答えようと口を開きかけたが、そのまま片手で口元を覆うと、苦しそうに地面にもう片方の手をついた。それに気づいたルリアが我を忘れて彼女の元に走り寄る。「お母さん! しっかりして!」

 ルリアに続いて駆けつけたばあちゃんが、マリアさんの様子を見て悟ったように呟いた。

「マリア……あんたもしかして妊娠してるのかい?」

 その言葉を聞いた瞬間、オレの脳裏にあるひとつの思いがよぎった。もしかすると、ルリアの父親はカストリア国教会の未来の総主教、エメット三世なのではないだろうか――?

「すぐにどこか近くの村に連れて行ってやらなくちゃ」

「俺に任せろ!」

 ゴドウィンさんが近くにいた魔法教徒の仲間たちに声をかけて、魔法の絨毯を運んできた。ばあちゃんとマリアさんを乗せた絨毯がふわりと宙に浮かび上がったとき、マリアさんは何かを問いたげに二番弟子に視線を向けた。だが、二人が言葉を交わす間もなく、絨毯はあっという間に緑の稜線の向こうに飛んで行った。

 ルリアは絨毯の消えた方角をしばらくのあいだ名残惜しそうに眺めていた。

 そんな彼女の背後から遠ざかる絨毯を見送っていた先生が、やがて頬に流れる涙の痕を拭い、決意を固めたように空に向かって呟いた。

「僕、魔法使いになる」

「え?」

「君たちに会ってそう思ったんだ」

 先生はオレに顔を向けて言葉を続けた。

「メグ、前言撤回するよ。初めて会ったとき女の子みたいだって言ったけど、君はとっても男らしかった」

 オレは嬉しさと気恥ずかしさで、自分の頬が赤くなるのがわかった。

「もうすぐイトコが生まれるんだけど、僕が名付け親にってハリエットから頼まれてるんだ。その子の名前は絶対にメグにする」

 すると、ルリアがすかさず口を挟んだ。「じゃあ、女の子だったらルリアにする?」

「ルリアは駄目」

 思いがけずに先生から否定され、ルリアはふむくれた顔をした。

「どうして!?」

「だって……」

 先生は穏やかな笑みを浮かべた。「それはきっと、マリアの娘の名前だから……」

 彼はオレたちに背を向けると、丘の向こうに広がる雄大な景色に目をやった。柔らかな朝の光がランズ・エンドに降り注ぐ。瞳に映る世界はすべての罪が洗い流されたかのように、ひたすら美しく輝いていた。

「またすぐに会えるよね」

 拡散した陽の光が先生のシルエットを七色に照らし、オレはその眩しさに右手をかざして目をつぶった。



 瞬きした後、目の前に見えたのは、眩しげに手をかざして目を細めている自分自身の姿だった。オレとルリアはウィンスレットの屋敷にある鏡の前に立っていた。

「あたしたち、帰って来たの?」

 鏡の中のルリアが呆然とした表情でオレを見た。そのとき、背後から声がした。

「おかえり」

 振り向くと、リーブル先生が階段の手すりに腕を組んで寄りかかり、オレたち二人を見つめていた。

「先生……!」

 オレはこみ上げる思いを抑えきれずに、すぐさま先生の胸元に飛びついた。今までずっと幼い先生と一緒にいたせいか、オレたちの世界の師匠がなんだか随分と大きく感じられた。

「よく頑張ったね」

 先生はそう言うと、大きな手で優しくオレの頭を撫でた。その瞬間に今まで我慢していたものが一気に弾け飛び、あっという間に視界が安堵の涙でぼやけ始めた。

「オレたちがどこに行っていたか知ってたの?」

「当然だろう? だって僕の過去なんだから」

 先生は笑いながら言った。

「今朝ハリエットが忠告してくれた。『あの子たちが鏡に捕らわれる暗示が出てる』って。それで、ずっと昔、子供の頃に出会った二人の魔法使いの言葉を思い出したんだ。『鏡を通り抜けて過去の世界にやって来た』。君、確かにあのときそう言ったよね?」

 オレは黙って深く頷いた。

「君たちが『僕』に会う日はもうすぐなんだって確信した。未来が変わってしまうのが怖くて今までずっと黙っていたけど、僕は、本当は、この日をずっと待っていたんだよ」

 リーブル先生はそう言うと、柔らかな微笑を傾けた。それから、ふいに鏡のそばに突っ立ったままのルリアに気がつき顔を向けた。

「ルリア?」

 ルリアは複雑な表情で俯いていた。

「先生は、マリアさんのことが好きだったからあたしのことを引き取ったんだね。あたしがお母さんに似ていたから……だから……」

「どうしてそうなるんだい?」

 先生が困ったように溜息をつくと、ルリアは目にいっぱい涙を浮かべて叫んだ。

「だって、初めて会ったとき『マリアみたい』って言ったじゃない!」

 一瞬の沈黙。そして、その後に先生が声を上げて笑い出したものだから、ルリアはとうとう泣き出してしまった。「笑うことないでしょ……!」

 ルリアの涙は次から次へととめどなく溢れ出て、頬を伝って流れ落ちた。リーブル先生はそんな彼女をいとおしそうに見つめると、苦笑しながらこう言った。

「ああ、そうだね。確かにあのとき言ったかもしれないな。……『聖女マリアみたいだね』って」

「……え?」

 ルリアは急に気が抜けたように顔を上げた。

 レーンホルムの丘で幼い先生が彼女に向かって言ったのは、『マリアさん』のことではなく、『マリア様』のことだったのだ。

 先生はゆっくりとルリアに向かって右手を差し出す。

「おいで」

 その手を見つめる二番弟子の瞳から、再びぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ルリアはまるで幼い子供のようにぐちゃぐちゃに顔を歪ませて、リーブル先生の懐に飛び込んだ。



 それからの数日間、レーンホルムでの日々を心ゆくまで楽しんだ。後から聞いた話だが、オレたちが過去の世界に行っている間中、何も知らないじいちゃんはひとりでかくれんぼの続きをしていて、ずっとどこかの部屋に隠れていたのだとか。

 聖エセルバートの街に帰る日、じいちゃんとばあちゃんは揃ってオレたちが旅立つのを玄関先まで見送ってくれた。

「またいつでも遊びに来なさい」

 ルリアの頭を撫でながらじいちゃんが言った。それを押し避けるようにしてばあちゃんが二番弟子を抱きしめる。

「ルリアちゃんが帰っちゃったら寂しいねえ」

「おばあちゃんたちも聖地巡礼に行くんでしょう?」

「もちろんさ」

「じゃあ、そのときに会おうね!」

 箒に跨ろうとしていたオレを呼び止めて、じいちゃんが懐から取り出した一冊の古びた本のようなものを手渡してきた。

「メグ、おまえにこれを渡すときが来たようだ」

「何、これ?」

 パラパラとページを捲ってみると、それは物置部屋にあったじいちゃんの古い日記帳のうちの一冊だった。

「読みたくなければ、読まなくてもよい。だが、おまえ自身が過去に何があったかを知りたいのならば、たとえすべてを受け入れることが出来なくても、やはりおまえは知っておくべきなのだと思う」

 じいちゃんのその言葉に、オレは思わずリーブル先生の顔を見た。

「僕から話すよりも、レイの日記の方が忠実だと思ったんだ」

 どうやらそれは、リーブル先生やばあちゃんが聖エセルバートの家で話していた、『悲しい思い出』について言っているようだった。

 オレはわずかに躊躇ったが、おずおずとした仕草でじいちゃんから日記帳を受け取ると、それを慎重に鞄の中にしまい込んだ。

「じゃあ、今度は聖地巡礼で」

「またねー!」

 箒に乗ったオレたちは、じいちゃんとばあちゃんに手を振りながら大空へと羽ばたいた。



「すっかり飛べるようになったね」

 箒に跨るオレの姿を見て、先生が感心したように言った。

 今日のレーンホルムは訪れたときと同じように気持ちの良い晴天だった。きらきらと輝く陽光が湖面に反射し、まるで鏡のようになだらかな丘陵を映し出している。

 丘の上の樫の木のそばを飛んでいたとき、ふいにある事を思い出した。

「そういえば、宝箱を探すの忘れてた!」

「じゃあ、今から探しに行こうか」

 リーブル先生が先を行くルリアを呼び止めた。

 オレたちはレーンホルムの丘に下り立ち、樫の木の根元に埋めた宝箱を探した。

「あった!」

 地中深くに埋められていた缶は、湿った土の匂いがした。当時はきっと別の色だったに違いないが、錆びてすっかり表面が赤茶色に変色してしまっていた。ルリアは待ちきれない様子で、早く開けるようにとオレを急かした。

 錆びた蓋を開いて一番最初に出てきたのは、子供向けの魔法の参考書だった。手に取ってパラパラと捲ってみると、最後のページの下の方に、大きな文字で『ラルフ』と名前が書かれていた。

「ラルフのやつ、魔法の参考書を入れてたのか」

 先生が呆れたように呟いた。勉強嫌いなルリアは露骨に嫌な顔をして見せる。

「教科書がラルフの一番大切な物なの?」

「きっと当時の彼にとってはそうだったんだろうね。心の底から魔法使いに憧れていたから。でも、馬鹿なやつだな。土に埋めたら勉強が出来ないじゃないか」

 オレたちは声を合わせて笑い合った。

 参考書の次に入っていたのは、一枚の古びた写真だった。だいぶ色あせてはいたが、そこに写っていたのが金髪の双子であるということはわかる。

「これって、もしかして……」

 オレが口にする前に、リーブル先生が言った。「ジョアンとエリアス……。つまり、君の母親と、僕の父さんの若い頃の写真さ」

 写真をしげしげと見つめていたルリアが目をぱちくりとさせた。

「両方女の子みたい」

「ハリエットいわく、父さんは姉のジョアンに憧れていて、よく彼女の真似をしていたらしい」

「ふうん。この写真は誰の宝物なの?」

「メグだよ」

 リーブル先生にはっきりと断言され、オレは驚いて手の中にある写真をまじまじと見下ろした。

「オレが埋めたの? でもオレ、今まで母さんの写真を見たことなんて一度も無いよ? こんな写真があったなんて……」

「……覚えてないのかい?」

 探るような先生の問いかけに、オレは黙って頷いた。不思議なことに、自分の母親の姿を確かに知らないはずなのに、写真を見た瞬間になんだかとても懐かしい感じがした。

 そのとき、宝箱の底に張り付いていた一枚の紙切れを見つけ、ルリアが驚きに目を見張った。

「もしかして、これが先生の一番大切な物?」

 彼女は取り出した紙切れを天にかざして透かせて見せた。

「それは……」

 それは、間違いなくカストリアの記念紙幣だった。陽の光に照らされて、法衣を身に纏ったエメット三世の姿が凛々しく浮かび上がる。

 リーブル先生は眩しそうに目を細めた。

「マリアが死ぬ前に僕に託してくれたんだ。その紙幣はカストリアが救われるという、未来の世界に対する希望そのものであり、そして、何よりも、君たちの存在の証だったんだ」

 レーンホルムの心地よい風が木々の葉を優しく揺らす。それに伴い、先生のオレンジ色の髪の毛が緩やかに風になびいた。


 魔法使いが嫌いだった少年は、いつしか立派な魔法使いに成長した。

 世の中は相変わらず混沌としていて、数え上げればきりが無いほど世界中のあちらこちらで悲しい事件や争いごとが溢れている。しかし、それでも、人は信じて切望するのだ。よりよい未来の訪れを。明日という日に願いを込めて。



『またすぐに会えるよね』



マリア教の魔法使いと鏡の世界・完

(執筆期間:ニ〇〇三年十月~二〇〇四年一月)

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