第十話 幻のキノコ
自分たちの縄張りへ帰る途中、ウサギは教授の歩幅に合わせて器用に二足歩行しながら、何気なさを装って尋ねた。
「なあ教授。どうしてわざわざ危険を冒してまでその鞄を取り戻しに行ったんだよ?」
「盗まれたことを知っておきながら見過ごすだなんて、僕の倫理観に反するからねえ」
自分で答えておきながら、教授は倫理がどうのこうのと論ずる自分に苦笑した。人でなくなってから五十年もの月日が流れたというのに、自分はまだ人間の気でいるらしい。
ぽっかり浮かんだ満月がまるで嘲笑っているかのように思えた。月光が足元に映し出す影は明らかに人ではない。狼男以外の何者でもないのだ。
教授はウサギの頭上からシルクハットを無言で奪い取ると、両耳だけでなく表情までをも覆い隠すようにして深く被った。
そのとき、前方の暗がりにゆらゆらとした明かりを見つけて、クマが悲鳴を上げた。森の仲間たちは少しばかり身構えた。明かりの主は蝋燭を片手に持ったジライマだった。
「ミス・ジライマ、まだ起きていたんですか?」
もうとっくに眠っているものと思っていたので、教授は少しばかり驚いた。ジライマの方は教授を取り巻く野生動物の存在に驚いたが、そんなことより何より幽霊の方がよっぽど怖かった。
「どこへ行っていたのよ?」
怒ったような口ぶりだったが、彼女は実際に怒っていた。深夜の森小屋に置き去りにされ、枯葉の敷き詰められた寝所の片隅で、恐怖に怯えてずっと震えていたのだ。外に飛び出したはいいが、月明かりに照らされた辺り一面に草が茂っていて、ひとりで歩くこともままならず、にっちもさっちもいかなくなっていたところだった。
「月があまりにもきれいだったので、夜の森をそぞろ歩きしてたんです」
「こんな真夜中に散歩するなんて、どうかしてるわ」
ジライマはふてくされたように吐き捨ててから、ふいに教授が見覚えのある鞄を担いでいることに気がついた。月明かりに照らされたその鞄は、間違いなく自分の物だった。
「まさか、この鞄を取り戻しに行っていたの?」
「ああ、いや、偶然狩人の小屋の近くを通りかかっただけです。言っておきますが不法侵入ではありませんよ。先に盗みを働いたのは向こうなんだし、立派な家宅捜査です」
そう言ってから、教授は少女が木の枝に引っ掛けてしまった帽子や、森の小道に落とした日傘を道すがら拾ったことも報告した。
偶然通りかかっただなんて、そんなの嘘に決まってる。教授は私の持ち物を探すために森の中を散策し、狩人のアジトに忍び込んでくれたのだ――。
教授の親切さに触れ、ジライマは途端に泣きたくなった。我慢していた恐怖や不安が溢れ出るかのように、瞳からポロリと涙の粒が零れ落ちた。
「あ、泣いた」
ウサギがボソっと呟いた。
女の子にこんな風に泣かれたことなど未だかつて無いことだったので、教授はどうしたらよいかわからず動揺した。だが、足元で胡桃を齧っていたシマリスに、「何やってんだ教授! 抱きしめろ、早く!」と急かされたものだから、慌てて少女の体を優しく包み込んでやった。
抱きしめられたジライマは、パタパタと動く教授の尻尾を目で追いながら、オオカミというより犬みたいだと思った。今は帽子の中に隠されている三角形の両耳だって、愛嬌があって別段恐ろしいとは感じなかった。
人を襲う狼男だなんて名ばかりで、ただの大きな犬っころじゃないの――。
なんだか急におかしさが込み上げてきて、ジライマは泣きながら笑った。その拍子に、頬から流れ落ちた涙が一粒、足元に生えていたキノコの笠に転がり落ちた。先程からそこで頬杖をついて木の実を食べていたシマリスは、キノコが見る見るうちに成長したので、あっという間に身長を追い越され、より一層開かれた傘にぶらさがるようにして宙吊りになってしまった。
小鹿が目を輝かせて声を上げる。
「うわあ、きれーい! 虹色のキノコだ!」
月の光を受け、夜の闇にきらきらとした七色の光を放つキノコを目にし、ジライマはもしやという思いが過ぎって教授を見た。キノコに真剣な眼差しを向けていた教授は、確信したように言葉を紡いだ。
「間違いない。これは幻のキノコです」
「本当に?」
「ええ。僕は五十年間ずっとこのキノコを探し続けていましたが、どうしても見つけることが出来なかった。『きらきらまん丸 お月様 きらきら光る虹色キノコ 涙はいつも隠し味』まん丸お月様――、つまり満月の光を浴びたキノコは涙の成分によって形状を変化させたんだ。幻のキノコを発見した植物学者は、きっとなんらかの偶然からこのことを知ったのでしょう」
教授が解説している横で、虹色のキノコに魅せられたウサギとシマリスが味見をしようと大きな口をあんぐり開けた。だが、すんでのところで教授によって阻止された。
ジライマは蝋燭を地面に置き、キノコをそっと採取した。そして、それを両手で握り締めると、大切そうに胸に抱いた。
「このキノコをおばあ様のところに届けに行かなければならないわ」
「朝になるまで待った方がいい」
「いいえ、だめよ。今すぐに行かなければ! だって、おばあ様の体調は……」
いつなんどき、どうなるかわからないのだから――。
優しい祖母の顔が思い出されると、急激に悲しみが溢れてきてジライマは再び涙ぐんだ。そんな彼女の様子に教授は愕然とした面持ちで尋ねた。
「君のおばあ様はそんなに具合が悪いのですか?」
ジライマは黙って頷いた。
教授は何かを考え込むようにしてしばらく俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げた。彼は颯爽と少女の体を抱き上げ、クマの背にそっと下ろした。
「ミス・ジライマ、君を街までお送りしましょう」
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