青海原と、夜の光 (1)

 先日、雲宮に出雲中の貴人が集っていたのは、戦会議を開くためだったらしい。


 彦名や須佐乃男までが顔を揃えたのはその日だけだったが、その日を境に雲宮は慌しくなった。戦の準備がはじまったのだ。


 武具を見極める匠たちがひっきりなしに雲宮を訪れて兵舎に出入りし、彦名の名代を預かっているという高比古は、十日以上も雲宮の兵舎に滞在した。


「戦がはじまるみたい」


 輝矢の館に忍び込んだ狭霧は、ぼうっとしてつぶやいた。


 輝矢は隣にしゃがんでいたが、狭霧を見下ろすと寂しげに笑う。


「相手は……きっと伊邪那いさなだね。僕の国」


「そうなの?」


「きっとそうだよ。僕に勉学を教えてくれる聖たちの態度でわかる。妙におどおどとしているよ」


 飴色になった木の壁に背中をもたれて、輝矢は小さく息を吐いた。


 狭霧は顎をもたげた。遠くを見つめる輝矢の目には憂いが満ちていて……やはり、大人びて見えた。


 ふう、狭霧は肩を落とすとうつむいた。


「すごいね、輝矢は。誰かのちょっとした仕草で、そんなことまで感づいてしまうなんて。わたしなんて、輝矢よりよっぽどいろんな噂を聞いているのに、ちっとも気づかなかった」


「僕は囚われているから。いつのまにか人の仕草に敏くなったんだよ。……いいことなんかじゃないよ」


 今日の狭霧は、奇妙なほどおとなしかった。


 いつもなら嬉しければはしゃいで、いやなことがあればすねて、童女のように泣き喚くのに。


「なにか、あった?」


 輝矢は尋ねた。高比古が関わるなにかだということは、薄々気づいていたのに。


「……うん。でも、よくわからない」


 狭霧は答えた。自分のなかでもやもやとしているものの端は見えていたけれど、口に出すのが気味悪くて。


 唇をとじると、狭霧は少しずつ輝矢の肩にもたれていった。


 自分よりわずかに高い場所にある肩によりかかると、輝矢は狭霧の背中に腕を回して抱きとめる。そうして髪と髪が触れ合うと、輝矢は頬で狭霧の額を撫でる。それから彼は目を閉じた。狭霧も。


「ねえ、輝矢」


「うん」


「二人で出雲を出たら、二人で幸せになれるかなあ」


 たちまち、輝矢はぱちりとまぶたを開ける。耳元で響いた狭霧の声は、思ってもいなかったことをいったのだから。


「なにを馬鹿な……。そんなことできないよ」


「できるわよ。出雲でも伊邪那でもないところで魚をとって、畑を耕してさ。……いいもの、わたしは。姫じゃなくなっても」


「二度とそんなことを口にしないで。誰かに聞かれたら、とんでもないことに……」


 輝矢はそっと目を鋭くすると、戸口や窓を見張る。


 閉ざされた小さな館は相変わらず静かで、誰かに見張られている気配はなかった。それをたしかめると、輝矢はほっと息をついて目尻から力を抜いた。


「馬鹿なことを考えちゃだめだよ、狭霧。僕が毎日穏やかに暮らせているのは、囚われているとはいえ、大国出雲に匿われているからだ。きみだって……。世の中には戦が溢れているよ。たとえ出雲から抜け出したところで、僕はきみを守る自信だって……」


「でも、二人で頑張ればきっと……」


 狭霧はかすかな希望にすがりつくが、輝矢はどんどんと声を荒げていく。


「いまの僕ときみでは無理だ。きみを僕の道連れにするわけにはいかないよ。きみは出雲にいれば幸せに暮らせるのに」


「出雲にいたって、幸せになんかなれないもの!」


 狭霧はとうとう声を大きくした。そのうえ目には涙が溢れて、堰をきったように頬を伝う。


「出雲にいたくないの。輝矢と一緒にいたいの。輝矢がいればわたしはそれでいいんだもの!」


「落ち着いて……狭霧」


 輝矢は狭霧を抱きしめて背中を撫でる。輝矢が目尻でうかがうのは戸口の向こう側だ。


 今日も狭霧は、ここへ忍び込むことで輝矢のそばにいる。


 大声をあげてしまえば、館を守る番兵たちだって狭霧の存在に気づくはずだ。そのうえ彼らが耳をそばだてて、狭霧の声を耳にしようものなら……。輝矢の顔は、強張っていった。


「いいから、声を小さく。誰かに聞かれたら……」


 だが、涙で頬を濡らす狭霧は聞く耳を持たない。


「ね、お願い。一緒にいこうよ。わたしを連れて逃げて!」


 昂ぶった狭霧は甲高い声で喚くので、輝矢もとうとう怒鳴った。


「僕ときみじゃ無理だ! 世の中のことをろくに知らない僕たちじゃ!」


 ふだんの温厚な様子からは想像もできないほど、輝矢が強くいい切るので、狭霧は細い身体をびくりとさせた。それで、輝矢もはっと我に返る。それから彼は、いいわけするように狭霧を抱きしめ直した。


「その、いやなわけじゃないんだ。ただ……わかってよ。いまは無理だよ」


「じゃあ、いつならいいのよ。あと一年、二年もしたら、本当にわたしはどこかの豪族のもとへ嫁がされるかもしれないわ。……世の中を知ったふうな高比古みたいなやつが、わたしの嫁ぎ先を決めてしまうのよ」


「それは……」


 さすがに輝矢も口ごもる。一年後、二年後……。そんな先の話は輝矢にも想像がつかなかった。いや、輝矢の想像のなかでは一年後も二年後も、彼はいまと同じように牢屋にいた。そうはなりたくないが、これまでも、彼は自由を得ようと努力をしなかったわけではなかった。


 狭霧は、ぼろぼろと涙を流していた。


「じゃあ、出雲の男になってくれる? 輝矢さえうんといってくれれば、わたしはとうさまにお願いするわ。輝矢の嫡姫になるって。輝矢と一緒に牢屋で暮らしたって、わたしは……」


「ちょっと待って、頼むって大国主に?」


 輝矢は、眩暈を感じはじめた。


「そんなことを、あの人が許すわけが……」


「じゃあ、どうすればいいのよ!」


 狭霧が再び大きな声で叫んだときだった。


 コンコン。木戸を叩く音と、安曇の不機嫌な声がした。


「狭霧、いますね? 輝矢様、開けますよ」


 丁重な断りは入れるものの、今日の安曇は有無をいわせない。


 狭霧がそこにいると疑う気配がないところから察するに、彼は狭霧の声に気づいた番兵に呼ばれて、ここへ駆けつけたのかもしれない。


 安曇は一気に木戸を開け放ってしまうが、輝矢に抱きついて泣きじゃくる狭霧をその目で見つけるなり、彼は表情を翳らせた。


「狭霧、宮へ戻りなさい」


「いやよ、いま輝矢と大切な話をしてるんだから!」


「……馬鹿げたことを。あなたは本当に……」


 安曇は肩を落として息を吐くが、いい方は厳しい。


 結局、館の中へ踏み込んだ安曇はあっというまに狭霧の首根っこを掴んで、ひきずるように館を出てしまった。


「輝矢、輝矢!」


 呆然とした輝矢の顔が閉まりゆく扉の向こうへ消えてしまっても、狭霧は涙声で何度も彼の名を呼んだ。とうとう安曇も、大声で怒鳴った。


「いい加減にしなさい、狭霧!」


 眉根をひそめた安曇は、奥宮へ戻りゆく大路の端で足を止めると、狭霧の両肩を掴んで叱声を落とした。


「あなたがそうやって騒ぎを起こせば、不遇を強いられるのは輝矢様のほうです! 大国主の娘のあなたを罰するわけにいかないんですから」


 でも、狭霧は納得がいかなかった。目を潤ませたままで安曇を見上げると、噛み付くようにいった。


「どうして! とうさまの娘っていったって、出雲じゃわたしなんか要らないでしょう! 大国主の娘より伊邪那の王子より、もと海賊のほうを、みんなはよっぽどちやほやしてるくせに!」


「狭霧……」


 安曇は何度か言葉を飲み込む。だが、ためらったあとでついに口にした。


「少しは大人になりなさい。出雲を知りなさい。世の中を、この大乱の世を知りなさい。知りたくないのなら、無邪気でいたいなら口をつぐみなさい。あなたが大国主と須勢理様の御子であることは、絶対に変えられないんです。輝矢様が伊邪那の御子だということも」


 安曇のいい方は、噛んで含むようでとてもゆっくりだ。


 実のところ狭霧は、安曇のいった言葉がそっくり丸ごと飲み込めたわけではなかった。


 でも、あまりにも安曇が真剣で苦しげに言葉を選ぶので……。それ以上抗えなかった。






 数日後、狭霧は港を訪れていた。


 数多の軍船がひしめき合う出雲の軍港だ。


 出雲軍が戦地へ向けて出立する日だったので、安曇を見送りに来たのだ。


 実は、こんなふうに軍船が漕ぎ出していくのはしょっちゅうだった。


 時は、倭国大乱。


 そこかしこで毎日のように戦が起きているせいもあったが、出雲は自国のためだけに戦をする国ではなかったのだ。出雲は大軍を抱える戦の国として名を馳せていて、友朋となった国々へ友軍を送ることもしばしばだった。それが、出雲を動かす政の仕組みの一つなのだとか。


 ……と、いう話は聞いたことがあったけれど、あらためて思い返すと、狭霧はその意味を詳しく理解しているわけではなかった。


 戦をするのが政、その意味とは?


 それより、出雲の兵たちはいったいどこの国と戦っているのか。敵国と呼ばれるのは、伊邪那だけではないはずだ。


 そもそも、出港した軍船はどこへ向かうのか。出雲の周りにはどんな国があるのか……。それすら狭霧は知らないのだ。


(全然わかってないんだ。わたしは)


 馬上から軍船の群れを眺めていると、つくづくとそれが身に染みる。狭霧はため息をつくしかなかった。


「あの、狭霧」


 鞍にまたがってぼんやりとしていると、見慣れた顔がやってくる。勇ましい戦装束に身を包んではいたが、兜の下から覗く優しい目は狭霧を心から心配している。そこに見えるのは、父じみた温かい目。安曇だった。


 シャ、ジャラ……。鎧についた金具を鳴らして、安曇はゆっくりと近づいてきた。表情はどこか不安げだ。


「その、私が前にいったことを気にしているなら、謝りますから。狭霧は狭霧です。その……すみません。追い討ちをかけるような真似をして」


 安曇がいっているのは、先日「もっと大人になれ」といい聞かせたときの話だ。


 狭霧は、はっと我に返ったように微笑んだ。


「ううん、平気よ。わたしがなにも知らないのは、本当だもの」


「でも、狭霧――。それが悪いことでは、決してないんです。それだけは忘れないで。ふた月もすれば戻りますから、それまではおとなしくしていてくださいね。……時々なら、輝矢様のもとへ通ってもかまいませんから。狭霧がそれで落ち着くなら」


 最後、安曇は周りを気遣いながらこそこそといった。なにしろそれは、禁じられている相手へ会いに行くのをすすめるような言葉だ。誰かが耳ざとく聞きつけて難癖をつけようものなら、安曇は立場が悪くなるに違いないのに。……彼はそれほど、狭霧を気にかけているのだ。


 狭霧はほうっと口もとをほころばせて、微笑んだ。


「ありがとう」


「じゃあ、いってきます」


 狭霧の笑顔を見届けると、安曇も微笑んで背を向けた。


 安曇が向かうのは、金糸で華やかに縁取られた軍旗がいくつもはためく場所だった。そこはひときわ大きな軍船の正面で、とくに立派な戦装束に身を包んだ武人が何人も集っている。狭霧の父、大国主(おおくにぬし)もそこにあった。


(とうさまも戦へいくんだ。そうよね、安曇もいくんだものね)


 安曇はもともと、かなりの地位を持つ武人で、父の側近だ。父が出かける時はいつも一緒に出ていって、ともに出雲に帰ってくる人だ。


(それにしても……すごい数の人だわ)


 浜に集った兵は、いったいどれだけいるのだろう。千人か、二千人か。黄色に染められた出雲の軍旗は、浜を覆い尽くしていた。


 なにしろ、大国主が出陣する戦なのだ。


 武王みずからが出向いて軍を率いることはもちろん珍しくないが、それはたいてい、ここ一番という大戦の時だ。もしくは、とてつもなく重要な意味を持つ戦か。


 水辺を覆い尽くすほどの軍船が集結しているのも、大勢の兵士が浜を行き来する足音も、強い春風に軍旗がはためく音も。出立を待つ浜辺の光景は、武王を迎えるにふさわしく勇壮だ。気分が昂ぶって、思わず狭霧も剣を探して、軍船のどれかに乗り込んでしまいたくなるほどに。


 勇ましい景色のなかでも、とくに大国主は目立っていた。身にまとう戦装束はたしかにそこに集う誰のものより豪奢で美しいが、父が目立っているのは身なりのせいだけではなかった。遠目から見ても、父には異様なほどの華があった。はじめて見た人でも、あれが武王だと、きっとおののくだろう。


(……大国主か)


 大いなる国の主、大地を従える王。大国主とは、そういう意味を持つ称号だ。


 大地の王と呼ばれるにふさわしい貫禄を、父は見事なまでに身に備えていた。


 ふと狭霧は、父のそばに立つ一人の武人の姿を見つける。


 屈強な身体つきをする武将たちのあいだで、偉そうに立っている細身の少年……高比古だった。


(もとは海賊なのに)


 そういう暗い思いは、まだ狭霧に残っていた。


 海賊とは、海辺の里を襲っては強奪の限りを尽くす荒くれ者だ。女子供だろうが容赦なく殺し、犯し、浚うのだとか。噂を聞く限りでは、極悪非道の最悪のならず者だ。


 でも、位ある武人にまみれても、怖気づく様子もなく歩き回る高比古を見ていると、父、大国主のそばで、彼が大国主にかしずく武将たちと同等に扱われているのを見ると――。高比古は、けっして海賊などというならず者には見えなかった。それどころか彼は、大国主のような身分ある男の御子に見えた。少なくとも、浜の隅からおずおずと眺めている自分などよりも、よっぽど。


(とうさまと最後に話したのは、いつだったろう)


 なんとなく記憶を探るものの、それはずいぶん遠かった。


 大国主は、子供にそれほど構うほうではなかった。同じ王宮で暮らしているとはいえ、会うこともなければ話を交わすこともほとんどない。それでも、ときどきは気が向いたように父の宮へ呼び出された。


 当たりさわりのない話をするだけだったが、そういうときの大国主は、渡殿や兵舎で見かけるときの武王の顔とは少しちがう顔をした。


 本音をいえば、父は武王などというとてつもない存在だから、狭霧はできれば父に近づきたくなかった。


 でも、あの人の娘でいたい。


 胸の底でそういう願いがくすぶるほどには、父はときおり父らしい顔も見せてくれた。


 ……なぜだろう。そういうことを思い出して、浜にみなぎる熱気に頬を向けていると、狭霧の胸には、しだいに得体の知れない胸騒ぎじみたものがこみ上げていった。


 胸の前に置いた握りこぶしには、どんどんと力がこもっていく。


(もう少し、とうさまに近づきたい。出雲を、知りたい)


 目の前に集う兵たちの、勇壮な掛け声にいざなわれたのか。


 港に溢れる狂気に似た興奮に酔ったのか。


 いつのまにか狭霧は馬を下り。浜で出立を待つ軍船のうちでも一番端に並べられた、下っ端の兵が乗り込むような簡素な船を選ぶと、兵糧や武具や、ほかのさまざまな道具を積み込む兵たちの目を盗んで、舳先へと足をかけてしまった。






 舳先に掲げられた鐘がこーんと強く響いて出港を伝え、ドン、ドン……という太鼓の音が鳴り、とうとう軍船の集団は、大海原へと漕ぎ出した。狭霧が乗り込んだ粗末な船も、船団に混じって海洋へ出た。


(……どうしよう)


 積荷の中に隠れてはみたものの……。積荷のすき間から覗く出雲の港も、見慣れた山も見る見るうちに遠ざかり、いつか船が進む方向を変えてしまうと、狭霧の目の前に広がるものは青々とした波だけになる。


 朝の光が薄れて、昼の日差しが真上から降り注いで、しだいに日が傾いて。一日が過ぎても、そこにある景色は朝とさほど変わらず、のたりとうねる波だった。それほど海原は広かった。


 西日に染まる波を乗り越えながら、船団は揃って陸地を目指しはじめた。


 そこは彼らにとっていき慣れた海道のようで、狭霧が乗り込んだ小さな船の漕ぎ手たちは、世間話を続けたままで難なく櫂を操った。


 そして……。海原を覆っていた軍船は、続々と浜を目指した。


 積荷のすき間から狭霧はしきりに外を覗くが……。目をうたがった。


(ここって、出雲?)


 一日かけて海道を進んできたはずなのに、目の前に迫り来る景色は、出雲で見慣れた港のものに似ていたのだ。でも、景色をたしかめると、出雲ではないことは間違いない。浜も、その背後にそびえる山々がなす稜線も、岬も、狭霧が見たことのないかたちをしていた。


(遠く離れた異国の地だけど、出雲の領地???)


 わけがわからなくて、積荷のすき間から眼前に迫りくる陸地を見つめてぽかんとする。


 やがて船はガタガタと揺れ始めた。陸に近づいたので海が浅くなり、船の底が海底に触れたのだ。


 そして、あたりには次々と人が飛び込むような水音がこだまする。


「押せ、押せー」


「せい、や!」


 そういう勇ましい掛け声も。櫂を操っていた兵たちはみな揃って海に入り、船を浜へ押し上げようと力を合わせた。


(え、え? ここで船旅は終わり? 本当に着いてしまったの? ここが戦をする場所?)


 わからないなりに懸命に謎解きをしつつ、船の上に一人取り残された狭霧は、積荷にしがみついて揺れに耐える、が……。


 ガタガタガタ! ひときわ大きな揺れが来て積荷に思い切り倒れこんでしまうと……。なんと、積荷はあっけなく崩れて船底に散らばってしまった。


「……あっ」


 狭霧を隠していた積荷の壁が消えると、そこには……麻袋にしがみつく姫の姿がむなしく残る。


 力いっぱい船を押す若い兵たちと突然目が合ってしまうと、狭霧の顔は見る見るうちに青ざめていった。


 水に浸かりながら船を押していた兵たちは、もちろん面食らって唖然とする。


「あんた、だれ?」


 そして、しだいに大きくなる騒ぎ声。


「娘が乗ってるぞ! えらい立派な格好をした娘だ!」


「娘って……この方は狭霧姫! 大国主の御子だ!」


「大将の? ええっ、どれ? どれ?」


「押すなって!」


 たちまち、狭霧が乗り込んだ小船の周りには黒山の人だかりができて、野次馬になった若い兵たちが群がる。


 それで、狭霧の身体はますます硬直してしまった。


 頬も唇も引きつって、涙も出なかった。なにが入っているかも知らない麻袋をすがりつくように抱えて、狭霧はただ、小さくなるしかなかった。




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