第二話 翔一くん鶸梅寮管理人体験始まる

翌週、月曜日。

翔一は放課後、自宅へ一旦帰ったあと普段着に着替え、自転車を利用して夕方六時半頃に鶸梅寮の玄関前へやって来た。石段の両側には自転車も走行出来るバリアフリーの通路があり、ここまで辿り着くことが出来たのだ。

上手くやっていけるかなぁ? 

 専用の駐輪場に自転車を置いた翔一はわくわくしながらも恐る恐る、玄関入口横のチャイムボタンを押した。翔一の心拍数は高まる。

 数秒後、住民の誰かによって扉がガラガラッと開かれた。

「!!」

翔一の心拍数はさらに高まる。 

「おう、翔一ちゃん、いらっしゃい」

 出て来たのは、照子さんであった。

「いらっしゃーい、翔一くん。私、首を長ぁーくして待ってたよ♪」

「いらっしゃいませ、翔一お兄さん」

「……いらっしゃい」

 寮生の三人もすぐ後ろ側にいた。翔一を温かく迎え入れる。

 ミャァ~ン♪

三毛猫の大五郎も、歓迎の言葉を述べてくれたような気がした。

「あっ、きょっ、今日から、お世話になります、押部、翔一です。皆さん、よろしく、お願い致します」

 翔一がかなり緊張気味に挨拶すると、

「翔一ちゃん、そんなに畏まらなくても」

「翔一くん、もっとリラックス、リラックス」

「こちらこそよろしくお願いしますね、翔一お兄さん」

 照子さん、千景、ヤスミンは優しく微笑んだ。

「翔一ちゃんが実家から送った荷物はもう届いてるよ。そのままの状態で翔一ちゃんのお部屋で運んでおいたから」

「お気遣い、ありがとうございます」

「いえいえ、どういたしまして。翔一ちゃん、今から玄関前で鶸梅寮をバックに記念撮影するよ」

 照子さんはそう告げて、デジカメを翔一の前にかざす。

「俺、写真はあまり……」

「まあまあ翔一ちゃん、そう言わんと」

「翔一くん、真ん中に並んでーっ」

「わわわ」

 戸惑う翔一は千景に腕を引っ張られ、玄関出て少し進んだ所に並ばされた。

照子さんは鶸梅寮の全景が写る位置まで移動し、デジカメを構える。照子さんから見て翔一の右隣に千景、左隣にヤスミン。ヤスミンの左隣に彩織。千景は大五郎を抱きかかえている構図だ。

「そんじゃ、撮るよ。はいチーズ」

 照子さんはそう伝えてから約三秒後にシャッターを押した。これにて撮影完了。

「すごくきれいに撮れてるね。さすがお婆ちゃん」

 千景は照子さんの側へ駆け寄り、保存された画像を見て感心する。

千景と大五郎は爽やかな笑顔。他の三人は普段通りの素の表情であった。

「おら、最新式の機材も難なくこなせるからね。さて、もうすぐ夕飯時だ。翔一ちゃんのために、出前を取っておいたよ。近くの〝ウリ坊寿司〟っていうお店で」

「ありがとうございます。俺のために」

 照子さんの計らいに、翔一は深く感謝した。

 すでにダイニングテーブルの上に夕食が並べられてあった。

大きな舟形のお皿に乗せられた鯛やマグロ、イカ、ウニ、伊勢海老などの刺身盛り合わせ。他に大皿に盛られた中華料理。オーストリアの郷土料理で牛肉とタマネギ、パプリカなどを煮込んだシチュー【グーラシュ】。小麦粉とジャガイモ、パン粉などを混ぜて丸めて茹でた【クネーデル】。薄切りにした仔牛肉のカツレツ【シュニッツェル】。

デザートにアップルソースが添えられ粉砂糖が塗された、干しぶどう入りパンケーキ風の【カイザーシュマーレン】、ザッハトルテも用意されていた。

「わたしの故郷の郷土料理オンパレードのうち、ザッハトルテは近所のケーキ屋さんで買ったものですが、こちらのグーラシュとクネーデルとシュニッツェルと、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世のために初めて調理されたと言われているカイザーシュマーレンはわたしの手作りです。照子お婆さんもかなり手伝ってくれましたけど」  

 ヤスミンはちょっぴり照れくさそうに伝えた。

「そうなんだ。めっちゃ美味そうだ」

 物珍しさも相まって、翔一はヤスミンの手料理に目が釘付けになる。

時計回りに翔一、千景、ヤスミン、彩織、照子さんという座席配置で、翔一と彩織が向かい合う形となった。

 大五郎は床に並べられた鯖缶と市販のキャットフードの前に座る。

「ほな手を合わせて」

 照子さんがそう告げると、寮生の三人はすぐに両手を合わせた。

「あっ……」

 翔一はワンテンポ遅れてしまった。

「翔一ちゃん、そう慌てんでもええんよ」

 照子さんは優しく微笑む。

「ほなおあがり」

「「「いただきます」」」

 こう告げると寮生三人、

「いっ、いただき、ます」

 ミャーォン。

そして翔一と大五郎、照子さんも食事に手をつけ始める。

「翔一ちゃん、遠慮せずにどんどん食べな」

「はっ、はい」

 俺、女の子達に囲まれて食事をするのは人生初体験だよ。

そんな理由からか翔一はけっこう緊張していた。

「翔一お兄さん、これどうぞ」 

 ヤスミンは、翔一の前に並べられていた小皿に餃子とシューマイをよそってくれた。

「あっ、どうも」

 翔一は軽く会釈する。

「翔一くん、大トロだよ。すごく美味しいよ」

 千景もよそってくれた。

「あっ、ありがとう」

えっと、刺身醤油。あっ、すぐ前にあった。

 翔一は恐る恐る左手を伸ばし、刺身醤油の瓶を取ろうとした。

「あっ、ごめんね」

 そのさい、同じく取ろうとしていた彩織の手の甲に触れてしまい慌てて謝る。

「!!」

 彩織はびくっとなって、反射的に手を引っ込めた。さらにその子は俯いてしまった。

どうしよう、嫌われちゃったかな?

 翔一はとても気まずい気分に陥った。

「翔一ちゃん、飲み物どれでも好きなのを選んで飲みな」

「はい」

 ダイニングテーブルの上には烏龍茶、オレンジジュース、メロンソーダ、レモンサイダー、コカコーラのペットボトルも置かれてあった。

 翔一は慎重な動作で烏龍茶のペットボトルを手に取り、コップに注ぎ入れる。

「ねえ翔一くん、今彼女はいるの?」

「いや、いないよ」

 千景からの突然の問いかけに、翔一はびくりと反応し慌てて答える。思わず烏龍茶をこぼしそうになった。

「意外だね。翔一くん格好いいのに」

「いや、そんなことないと思う」

 これは千景ちゃんからの私と付き合って下さい告白フラグか? いや困るよ。俺、女の子とどう付き合っていいか分からないし。

 翔一は戸惑い、意識を移そうとウニの刺身に手をつけた。

「翔一お兄さんは、大学は東大か京大狙いですか?」

 今度はヤスミンが質問してくる。

「いや、俺そこまで狙えるほど成績良くないよ。この間の中間も三百人ちょっとのうち五〇位台だったし。阪大、神大はじゅうぶん狙って行けるって担任からは言われたけど」

「それでも素晴らしいと思います。なんといっても神高でも学業成績上位層ですし」

「そっ、そうかな?」

 尊敬されたようで、翔一は少し照れてしまった。

「やっぱり翔一くんは神高の中でも賢い人だったね。私の目に狂いはなかったよ」

 千景もかなり嬉しがっているようだった。

「翔一ちゃんの通ってる神高、確か明日六月一日は創立記念日で休みだったね」

「はい、よく御存知ですね」

「おら、この近辺の学校のことにはけっこう詳しいよ。特に神高は旧制中学の頃から知ってるさ」

「そうでしたか」

翔一はこのあとも緊張気味に照子さん、千景、ヤスミンと会話しながら食事を進めていった。

 照子さんはよく噛んで食べていたためか、みんなの中で一番後に食べ終えた。食後の煎茶を啜って一息ついて、

「ほな手を合わせて」

この合図。寮生の三人はすぐに手を合わせる。

「あっと……」

 翔一はまたもワンテンポ遅れてしまった。

「翔一ちゃん、慌てんでもええよ。ごちそうさま」

 照子さんはにこやかに微笑みかける。

「「「ごちそうさまでした」」」

寮生三人、

「ごちそうさま、でした」

翔一もワンテンポ遅れて食後の挨拶。大五郎はすでにどこかへ消えていた。猫らしく気まぐれなのだ。

「じゃあ、お皿持っていくね」

 千景は使った食器類を何枚か重ねて両手で持ち、台所の流し台へ運んでいく。ヤスミンと彩織も同じようにした。夕飯後の食器洗いは、いつも寮生の三人が担当しているそうだ。毎日美味しい料理を作ってくれる照子さんに感謝の意を込めて、という理由らしい。

「俺も、後片付けを手伝います」

「おう、気が利くね、翔一ちゃん」

 翔一は今回、出たゴミをポリ袋に捨てる作業を担当した。

それを終えたあと、

「あっ、あのう、俺、見取図を確認して疑問に思ったのですが、ここには、男湯は、ないのでしょうか?」

 翔一は恐る恐る照子さんに尋ねてみた。

「おう、今は女湯オンリーさ。旅館だった頃は、男湯もあったんだけどね。寮にするさい女湯にまとめて広くしたのさ。ついでにトイレもね。だから翔一ちゃんも気兼ねせずに堂々と女湯を使いな」

 照子さんはにっこり笑う。

「……」

 翔一はこの寮が女性専用に改築されている点を、当然のように不安に思った。

「翔一くん、お風呂先にどうぞ。廊下突き進んで一番奥の別館だよ」

 千景はロビー奥を手で指し示す。

「寝巻きも用意してあるよ。脱衣場にタオルとセットで置いてあるから」

 照子さんは伝える。

「ありがとう、ございます。俺、寝巻き、持って来ているのですが」 

「まあ、今日はあれを着な。荷解きはあとにして」

「はい」

 翔一はやや重い足取りで廊下を突き進み、別館の大浴場へと向かっていった。

 おう、蛍だ! 山が近いだけはあるなぁ。

 途中、中庭の前を通りかかった所で何匹か光っているのを見つけ、ちょっぴり感激。

金太郎飴と若あゆと……独楽とでんでん太鼓を模った休憩用椅子まであるぞ! これまで和菓子和もの仕様とは。だるま落としとえび天の巨大なオブジェまであるし。斬新かつ究極の和風さだな。

直後にこんな発見もした。庭園灯が灯されていたため桜や梅や松の木、花菖蒲、紫陽花などなどが植えられた和風な中庭の装いと、別館の外観もぼんやりとした明るさで窺うことが出来たのだ。休憩用椅子には雨除け日除けの和傘も差され、岩を囲った人工池で錦鯉も飼われていた。

確かに外観が握り寿司だな。

感心気味に大トロ、タイ、イカ。三通りに塗り分けられたネタ型の屋根が乗っかり外壁の模様がシャリの形になっている別館の、わさびを模ったかのような黄緑色の横開き扉を引いて出入口を通り抜けたあと、

本当に、入って、いいんだよな?

 女湯と行書体で書かれた暖簾の前で一旦立ち止まり、ゆっくりとした動作で恐る恐る脱衣場に足を踏み入れる。脱衣場には全自動洗濯機も設置されており、洗面台も三つ並んでいた。脱いだ服は、洗濯機横に置かれてある籠に入れるようにと張り紙に書かれてある。

翔一は脱ぎ終えると手ぬぐいで大事な部分を隠し、ガラガラッと扉を引いて浴室に入り、シャワー手前の風呂イスに腰掛けた。休まずシャンプーを押し出し、頭を擦る。

その最中、

「翔一くん、お背中流してあげるよ」

 入口扉がガラガラと開かれた。

「うわっ! あっ、あの……」

 千景が浴室に入って来たのだ。彼女は服を着たままだったものの、翔一は当然のように慌ててしまう。

「私、実家でもお父さんによくやってたよ」

 千景は手に持っていたハンドタオルに、みかんの香りのボディーソープを染み込ませると、翔一の背中に押し当てゴシゴシ擦っていく。真剣な表情だった。

「……」

 翔一の頬はだんだん赤みを増していき、心拍数は急上昇する。

すごくありがたいんだけど、早く出て行って欲しいな。と心の中で思っていた。

「翔一くん、気持ちいい?」

「うっ、うん」

「ここのお湯は温泉成分も入ってるから打ち身、切り傷、捻挫などにもよく効くよ。じゃぁ翔一くん、ごゆっくりくつろいでね」

 千景は翔一の背中にお湯をかけると、こう伝えて嬉しそうに浴室から出て行った。

やっ、やっと出て行ってくれた。

 翔一はホッと一安心する。

その後も、また戻ってくるかもしれない。と警戒し、大事な部分は手ぬぐいで隠したまま髪の毛を洗い、千景の残していったハンドタオルで体を擦り洗い流していき湯船には五分ほど浸かった。

浴室をあとにすると、そそくさ体を拭きトランクスを穿いてTシャツを着た。休まず照子さんが用意してくれていた藍染め浴衣の寝巻きを着込み、ロビーへと戻っていく。

「翔一ちゃん、サイズもピッタリだね。とってもよく似合ってるよ」

 照子さんに微笑み顔でじーっと見つめられ、

「そっ、そうでしょうか?」

 翔一は少し照れてしまう。

「翔一お兄さん、お風呂上りの一杯どうぞ」

 ヤスミンは冷たい麦茶を用意してくれていた。

「ありがとう」

 翔一は軽くお辞儀する。

「翔一くん、湯加減どうだった?」

 千景からの質問に、

「最高だったよ」

 翔一は満足げな表情を浮かべて答えた。

「それはよかったよ。じゃ、私達も入ってくるね」

「では翔一お兄さん、またのちほど」

 自室にいる彩織を呼びに行き、寮生三人は大浴場へ。いつもいっしょに入っているのだ。

「翔一ちゃん、覗きに行かないのかい? 絶好のチャンスだよ」

 照子さんはにこにこ顔で問い詰めて来た。

「すっ、するわけありませんよ」

 翔一は慌て気味にやや強く主張する。

「おう、おらの思った通りの紳士だねえ」

 照子さんはハハハッと笑う。

「俺、荷物の荷解きをして来ます」

翔一は居た堪れなくなったのか、早足に彼に割り当てられた204号室へ向かっていった。机、布団、収納ケースといった必需品は元から用意されてあったため、彼が持って来た荷物は中くらいのダンボール三箱分だけで済んだ。そのため引越し業者に頼まず、宅配便で済ますことが出来たのだ。主に衣服と書籍と学用品が詰められてある。

制服と、その他の小さな荷物は通学鞄に詰めて翔一が自分で運んだ。

五分ほどで荷解きを済ませたあと、イスに腰掛け一息つこうとしたら、

「翔一ちゃん、ちょいとお盆片付けるのを手伝ってくれないかい?」

 階段下から照子さんの叫び声が聞こえて来た。

「分かりました」

 翔一はすぐに返事をし、快くロビーへと向かう。そのあと照子さんに台所へ案内された。

「翔一ちゃんは背ぇ高いし、これをあそこに置いてくれないかね。おらじゃ、手が届かないんでね」

 照子さんは食器棚を見上げながらお願いする。彼女の背丈は一四五センチほどだった。

「俺、同世代じゃ小柄な方ですよ」

 翔一は照れくさそうに言いながらお盆を受け取り、床からの高さが一八〇センチほどの所にある収納スペースにしまってあげた。

「さっぱりしたー、アイス、アイスーッ」

 ちょうどその時、風呂から上がった千景がここへ駆け寄ってくる。

「うわぁっ!」

翔一は思わず目を背けた。 

「こりゃこりゃ千景ちゃん、バスタオル一枚で歩いちゃいけないよ」

 照子さんはにこにこ微笑みながら優しく注意した。

「あっ! いっけなーい。今日からは翔一くんがいるんだった」

 千景はてへりと笑い、くるりと踵を変えて脱衣場の方へ戻っていく。

「うわっ!」

 翔一はとっさに視線を床に向ける。千景の桃のようなぷりんっとしたお尻が丸見えになっていたのだ。

       ☆

「さっきはごめんね、翔一くん」

 二分ほどのち、パジャマに着替えた千景は再び戻ってくる。

「翔一さん、千景さんがご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ないです」

「……」

 ヤスミンと彩織もそれからすぐに台所にやって来た。この二人は最初からパジャマを着込んでいた。

なんか、女の子特有のいい匂いが……。

寮生三人の体からぷんぷん漂ってくる、ラベンダーやミントのシャンプーや石鹸の香りが、翔一の鼻腔をくすぐっていた。

「翔一くん、ここの寮には、とっておきの場所があるの。私について来て」

「べつに、いいけど……」

翔一は千景に招かれるままに大浴場へと足を進める。大浴場の浴室には、翔一はさっき入浴したさいは特に気にならなかったが裏庭へ通じる、ガリを模ったかのような薄黄色の横開き扉があったのだ。

翔一と千景は出てすぐの所に並べられてあった草履を履いた。

「裏庭もけっこう広いんだね」

「旅館時代はここに露天風呂があったらしいよ」

「どうりで」

「翔一くん、前方に石段があるでしょ。あそこを上っていけば、神戸の夜景が見られる絶景スポットに辿り着くの」

 千景は手で指し示す。

浴室を出てさらに二〇メートルほど北へ進んだ所にそれはあった。

千景を先頭に一段ずつ登っていく。数メートル置きにある外灯が足元を照らしてくれているおかげで、二人は夜道を難なく歩くことが出来た。

「ハァハァ……なんか、登山、してるみたい。勾配がきつい」

 二百五十段くらい登った頃には、翔一はかなり息が切れていた。

「六甲山の中だからね。もうあと少しだよ。頑張って翔一くん」

 千景はまだ余裕の表情だった。体力はけっこうあるらしい。


「さあ着いたよ、翔一くん」

三百段ちょっと上がった所に、展望台兼休憩所があった。

「これも和菓子の形になってるんだね」

「本当に食べれそうでしょ? ここは近所の人の散策コースにもなってるけど大評判だよ」

 そこに建つあずまやは、屋根が栗饅頭。四本の柱がみたらし団子、花見団子、草団子、きな粉団子。円卓がどら焼き、長方卓が菱餅、間を挟む二基の長椅子が梅羊羹と最中を模っていた。

二人は南方向を向いて立ち止まる。

「……すごい。神戸の夜景、写真では何度か見たことあるけど、本物は違うなぁ」

 翔一はハッと息を呑んだ。眼下に広がる宝石のように煌く街並み。右手には赤色に光り輝くポートタワー。正面遠くには人工島群が見え、その一つ、神戸空港に飛行機が着陸していく様子も確認することが出来た。東遠方には大阪方面の夜景も窺えた。

「ここは私の一番のお気に入りスポットなんです。寮のお部屋からも一応見えるけど、ここの方がずっと見晴らしが良いので」 

 千景は微笑み顔で嬉しそうに言うや、翔一の手をぎゅっと握り締めた。

「あっ、あのう……」

 翔一はびくりと反応した。彼の頬は瞬く間に赤みを増し心拍数もどんどん上がっていく。

「風がすごく気持ちいいね」

「そっ、そうだね」

「翔一くん、この素晴らしい夜景を眺めると、疲れも吹き飛んだでしょ?」

「まっ、まあ、確かに……」

「夜景もいいけど、昼間の景観もすごく良いよ」

「そっ、そう?」

「それじゃ、そろそろ寮へ戻ろう」

「うっ、うん」

 翔一と千景は手を繋いで並ぶようにして歩き、石段をゆっくりと降りていく。

 俺にこんなにも快く接してくれた女の子は、初めてだよ。

 翔一は嬉しさ七割、照れくささ三割といった気分だった。

       *

鶸梅寮ロビーに帰り着くと、

「翔一ちゃん、神戸の夜景は美しかろう?」

 照子さんからさっそく感想を訊かれる。

「はい! 写真で見るのとはまた違って、絶景でした」

 翔一は満足そうな表情で答えた。

「私は翔一くんとデート出来てすごく楽しかったぁっ♪」

 千景は満面の笑みでとても嬉しそうに照子さんに伝える。

「デッ、デートって……」

 翔一の表情はやや引き攣った。

「そうかい、そうかい。ところで千景ちゃん、キスはしてあげたのかい?」

 照子さんは囁くような声で千景に耳打ちする。

「あっ、忘れてたよ。ごめんね翔一くん。私とデートしてくれたお礼だよ」

 千景はそう言うと翔一の側へずいっと寄り、何の躊躇いも無く翔一のほっぺたに、チュッとキスをした。

 柔らかい感触が一瞬、翔一の頬に伝わる。

「…………あっ、あの、こっ、幸岡さん……」

 翔一の頬は瞬く間に熟れたいちごのごとく真っ赤になり、併せて心拍数も急上昇する。あまりに突然のことで放心状態になってしまったようだ。

「この様子じゃ翔一ちゃん、女の子にキスされたのは初めてだったようだね」

 照子さんはにんまり微笑む。

「私も、男の子にしたのは、翔一くんが初めてかな。ヤスミンちゃんや彩織ちゃんには何回かしたことがあるけど」

 千景はてへりと笑う。

「おーい、翔一ちゃーん」

「……えっ、あっ、なっ、何でしょうか?」 

 照子さんに大声で呼ばれ、翔一はようやく我に帰った。

「翔一ちゃんに鶸梅寮管理人としての適性能力を測るために、一つ重大な任務を与えるよ」

 照子さんから突如告げられる。

「どういった、任務なのでしょうか?」

 翔一の心拍数は依然高いままだった。

「そうだねえ……これは、千景ちゃんから発表した方がいいかな?」

 照子さんがそう言うと、

「翔一くん、お勉強お助けしてね。私、勉強大の苦手なの。高校入ってからはますます成績下がっちゃって。私、この間の中間テスト数学と化学で赤点採っちゃったの」

千景は照れくさそうに打ち明けた。そのあと、一学期中間テストの個人成績表を自分のお部屋から持って来て翔一に手渡す。そのプリントには各科目の平均点と個人の得点と偏差値、学年順位が記載されていた。

「化学が平均56点の27点。数Ⅱが59の28点、Bが63の24点か。もう数ⅡB習ってるんだね」

「摂蔭では、数学と英語については中学三年生から高校課程に入るんです。わたし達の学年で数学ⅠAを習ってますよ」

 つい先ほどトイレから出て来たヤスミンが伝える。

「やっぱ中高一貫だから進度が速いんだね」

「そうなんだよ。私、授業速過ぎてついていけないよう」

千景は悲しげな表情で嘆く。他の科目についても世界史Aと現国以外は平均点を下回っていた。

「大学受験のことを考えると、早めに全過程を済ませるに越したことは無いと思うけど。俺も高校の数学は中学卒業する頃には独学である程度マスターしたよ」

 翔一が爽やか笑顔でこう伝えると、

「それはますます頼もしいよ。さすが神高生だね」 

 千景の顔にホッとした笑みがこぼれた。

「というわけで翔一ちゃん、千景ちゃんが期末テストで赤点を回避させることが出来るように、勉強の手助けをしてやってくれないかね」

「はい、分かりました。俺もすでに数ⅡB、よほどの難問でもない限り解けるので」

 翔一は快く引き受けるも、

俺に、幸岡さんに勉強教えることなんて出来るのかな? 今まで人に勉強教えた経験なんてないし。

脳裏に一抹の不安がよぎった。

「ヤスミンちゃんは、ものすごーく頭良いんだよ。これ見て」

 千景は、ヤスミンの先日行われた中間テスト個人成績表も見せてくる。

「あっ、こら、千景さん。わたしの勝手に持ち出したらダメでしょ」

 ヤスミンは優しく注意する。ヤスミンの中間テスト総合得点は五〇〇点満点中四九五点。学年トップだ。国語九七点、社会九八点で、他の三教科は全て満点だった。

「すご過ぎる……」

 それを見て、翔一は驚愕した。彼も学年トップというのは、公立中学時代にある一教科だけでしか取れなかったのだ。

「ヤスミンちゃんは私が中学の頃、九〇〇点満点の期末で取ってた点数よりも高い点中間テストで取ってくるんだよ。私もヤスミンちゃんの天才的頭脳が欲しいよぅ」

 悔しそうに嘆き、千景はヤスミンの頭をなでる。

「わたしはちゃんと真面目に勉強してるもん。千景さんは、勉強量が全然足りてないと思うの」

「そうかなあ? 私、一日三〇分は机に向かってるよ」

 疑問を浮かべる千景に、

「少な過ぎ。高校生の自宅での勉強量は学年プラス三時間が基本よ」

 ヤスミンは呆れ顔で再度指摘する。

「そんなに出来ないよぅ。あっ、もう十時過ぎてるのかぁ。今日は眠いからもう寝よ。翔一くん、いっしょに寝よう。私、いつもヤスミンちゃんと彩織ちゃんといっしょに同じ部屋で寝てるんだ。毎日が修学旅行気分ですごく楽しいよ」

「俺、それは、無理だな」

 千景の要求を、翔一は即、かたくなに拒んだ。

「お願い、お願い、翔一くん」

「でっ、でもね……」

「翔一ちゃん、いっしょに寝てあげな」

 照子さんは翔一の肩をポンッと叩き、笑顔で説得する。

「いや、でも……」

「翔一お兄さん、親睦を深めるためにも私達といっしょに寝ましょう!」

 ヤスミンも強く要求してくる。

「彩織ちゃん、翔一くんいっしょに寝てくれる方がいいよね?」

「……」

 千景からの問いかけに、彩織はこくりと頷いた。

 ミャーォン。

大五郎もなぜか鳴き声を上げた。

「ほらね、翔一くん。ヤスミンちゃんも彩織ちゃんもいっしょに寝たいって言ってるよ」

「…………分かった」

 千景ににこにこ顔で言われ、翔一はとうとう引き受けてしまった。

「やったぁ!」

 千景は大喜びで翔一のお部屋へ駆け込み、押し入れに仕舞われてあったお布団を取り出し自分のお部屋へ運び入れる。

 お布団は出入口付近から、一番奥の窓際に向かって一列に四枚並べて敷いた。昨日までは川の字に敷いて彩織を真ん中、その両隣に千景とヤスミンが挟む配置にしていたらしい。

「俺は、一番端っこで」

「ダメだよ、翔一くん。翔一くんはここっ!」

 千景は強制的に、窓際から二番目の布団を指定する。

「千景お姉ちゃん、あたし、ここ」

「翔一くんのお隣がいいんだね?」

 千景が確認すると、彩織はこくりと頷いた。彩織は、廊下に近い方の布団を指差したのだ。

「……」

 翔一はどう反応すればいいのか分からなかった。

「わたし、窓際ね」

「あーん、私も窓際で翔一くんのお隣がいいっ!」

 ヤスミンの希望に、千景も譲らず。

「翔一お兄さん、わたしと千景さん、どちらにお隣になって欲しいですか?」

「……えっ、えっと……」

 翔一は返答に窮する。

「翔一くん、私だよね?」

「わたしですよね?」

 千景とヤスミンに腕を引っ張られる。翔一は今、両手に花の状態だ。

「あの、布団を、一列に並べるんじゃなく、山の字に敷けば、いいんじゃないかな? それで、俺が下側の一の字の部分に寝れば、みんな平等に俺の隣になるかと……」

「それはいいアイディアですね」

「翔一くん、天才! さすが神高生だね」

 翔一のとっさの思いつきに、ヤスミンと千景は大賛成した。千景が布団を並べ替え、事態はあっさり収まる。昨日までの配置の枕元に翔一の布団を横向きにして敷くという配置だ。

幸岡さんのお部屋、やっぱ女の子らしいな。甘いお菓子の香りもぷんぷんするし。

この部屋をよく見渡してみて、翔一はそんな第一印象を抱いた。

ピンク地白の水玉カーテン、本棚には少女マンガなどが合わせて二百冊ほど。学習机の周りには鯛焼き、お団子、羊羹、ケーキ、ドーナッツ、アイスクリーム、いちご、みかん、バナナなんかを模ったスイーツ&フルーツアクセサリー、ゆるキャラ系の可愛らしいぬいぐるみ、着せ替え人形、オルゴールなどがたくさん飾られてあり、女子高生のお部屋にしては幼い雰囲気だった。  

「おやすみーっ、翔一くん」 

「おやすみなさい、翔一お兄さん」

「……」

寮生三人がお布団に潜ったあとに、

「おっ、おやすみ」

 翔一は長い紐を引いて電気を消してあげ、自身もお布団に潜り込んだ。


 それから三〇分ほどして、

「……眠れない」

 翔一は天井を見つめながら硬い表情で呟く。

寮生三人はもう、すやすや寝息を吐きながらぐっすりと眠っていた。

翔一が眠り付けたのは、布団に入ってから一時間半以上が経ってからだった。

ともあれ、翔一の鶸梅寮管理人体験初日の夜は静かに平和に更けていく。


        ☆


翌朝、午前六時二〇分頃に自然に目が覚めた翔一は、まず自分のお部屋に向かい、実家から持って来た私服に着替えた。

続いて脱衣場へ向かい、顔を洗ってから台所へ。

「おはよう、ございます。おばあちゃん」

 先に起きて朝食の準備をしていた白割烹着姿の照子さんに、緊張気味に挨拶する。

照子さんは、いつも五時頃には起きるそうだ。

「おはよう翔一ちゃん、昨夜はよく眠れたかい?」

「いやぁ、それほどは。朝起きたら、クースタスさんが俺の布団に潜り込んでいて、かなり焦りました」

 翔一は一度あくびをしてから打ち明けた。

「ハッハッハ。あの子、一番しっかり者だけど、案外甘えん坊さんだからね。今でも一人じゃ寝られないんだよ。まだ彩織ちゃんが来てない頃、千景ちゃんが野外活動へ行っていない時なんか、おらといっしょに寝てたんよ。まあ、これからもあるだろうけど、そのうち慣れてくるさ」

 照子さんは大きく笑いながら言う。

「そうでしょうか? 俺は不安です。ところで、中庭に接してる廊下の屋根が、落雁や甘納豆や紙風船、お手玉、おはじきを模ってるのも和風で趣がありますね」

「気に入ってくれたようだね。翔一ちゃんのお部屋からだとよう見えただろ?」

「はい。記念に写真も撮っておきました。あの、おばあちゃん。俺も何かお手伝いしましょうか?」

「おう、やってくれるのかい。本当に翔一ちゃんはいい子だねえ」

「いえいえ」

 翔一は謙遜した。

「そんじゃあ、これをつけてくれないかい」

照子さんは黒の割烹着を手渡す。

「分かりました」

 翔一はすぐに装着した。

「よう似合ってるよ」

 照子さんは優しく微笑みかける。

「そうで、しょうか?」

「翔一ちゃん、卵焼きは作れるかい?」

「まあ、一応は……」

 翔一はそう言うと、調理台に出されてあった卵をボールに割り入れ、塩、コショウをまぶし菜箸でかき混ぜる。続いてガスコンロの火を付けて卵焼き器にサラダ油を引き、溶き卵も垂らしていく。

「なかなかいい筋をしてるね、翔一ちゃん」

 照子さんは並行して他のメニューも作りながら、楽しそうに観察していた。

「まあ、俺、家でもたまに料理手伝ってますし」 

 翔一はちょっぴり俯き加減で照れくさそうに言う。

卵焼きは六人分完成させた。千景のお弁当の分も作っているからだ。中学部では給食があるため、作る必要は無いと照子さんは説明する。

二人で協力して、出来上がったメニューの数々をお皿やお茶碗、お椀に盛り付け、ロビーにあるダイニングテーブルへと運んでいった。

 照子さんは大五郎の朝食メニュー、鯖の缶詰も蓋を開けて床に並べた。

ミャーォ。

すると蓋を開ける音に反応したのか、すぐさま大五郎が管理人室から飛び出して来て駆け寄って来た。大五郎が夜寝る時は、照子さんと同じ管理人室にいるらしい。

食事と、お箸とスプーンも並び終えほどなくして午前七時、鶸梅寮での起床時刻となった。千景のお部屋からヒンカラカラカラ♪ ヒンカラカラカラ♪ と駒鳥の鳴き声な目覚まし時計の鳴り響く音が聞こえてくる。

「千景さん、起きてーっ!」

 その音が止むと、すぐさまヤスミンの声がこだました。

「まだ眠いよぅ。あと一分だけでもぉー」

「ダメ、ダメ。彩織さんはもう起き上がってるよ。ほらっ!」

「あーん」

 千景がぐずっている様子が、ロビーからも分かった。

「確かにクースタスさん、しっかりしていますね」

 翔一は感心する。

それから数分のち、

「おっはよう、翔一くん、お婆ちゃん」

「おはようございます。翔一お兄さん、照子お婆さん」

「おはよー」

三人とも身支度を済ませてロビーにやって来た。

「おう、おはよう」

「おはよう、ございます」

 照子さんと翔一は挨拶を返す。みんなは昨日と同じ配置で椅子に座った。

「あっ、あの、阪谷さんは、今日は、学校お休みなのかな?」

 気になったことがあり、翔一は彩織に、少し緊張しながら初めて話しかけてみた。

「!! うっ、うん。中学部の二年生は、今日はお休みなんだ」

 彩織はびくっと反応した。制服姿の千景とヤスミンに対し、彩織は私服姿だったのだ。

「違うでしょ、彩織さん。翔一お兄さん、この子は今、不登校になっちゃってるの。一年生の二学期頃からほとんど教室へ行ってないのよ。二年生になってからは始業式の日に行ったきりで」

 ヤスミンは困惑顔で伝える。

「そうなんですか……」

 訊いちゃいけないこと訊いちゃったかな?

翔一は罪悪感に駆られた。

「まあまあ、ヤスミンちゃん。彩織ちゃんも時たまは保健室登校してるんだし。では、おあがり」

 昨日の夕食時と同じく照子さんからの食前の挨拶があり、朝食タイムが始まる。

「彩織ちゃんも何とか教室まで行けるようになれるよう努力してるよ。そういや今日の卵焼き、いつもと少し味が違うような。お婆ちゃん、お塩多めに入れた?」

 千景はきょとんとした表情で突っ込んだ。

「今日の卵焼きは、翔一ちゃんが作ってくれたのさ」

 照子さんは伝える。

「まあ、ほんの、少し手伝っただけだけど……」

 翔一は照れてしまったのか下を俯く。

「そうなんだ! 翔一くん、お婆ちゃんに匹敵するくらいすごく美味しかったよ。また作ってね」

「翔一お兄さん、ぜひともお願いします」

「うっ、うんっ」

 千景とヤスミンに褒められ、翔一の頬の赤みはより一層増した。

「それじゃ、お婆ちゃん、翔一くん、彩織ちゃん、大ちゃん、行って来まーすっ!」

「行って来ます」

 千景とヤスミンは午前八時頃に鶸梅寮を出た。ここから学校へは約一キロ、徒歩十五分ほどらしい。

「ほな食器洗いを始めるかね。翔一ちゃんは、脱衣場に置いてある洗濯物を洗濯機に入れて回してくれないかい?」

「はい」

 翔一は返事をすると、足早に脱衣場へ向かっていった。

「あっ、あのう、おばあちゃん。ちょっと、困ったことが……」

 しかし数十秒後、すぐに戻って来た。台所でお皿洗い真最中の照子さんに伝える。

「彩織ちゃん、あとはやってくれないかい?」

「はーい」

 彩織は笑顔で対応した。

 こうして照子さんも脱衣場へ。

「あれ、なのですが……」

 翔一は洗濯籠を指し示す。

籠の中には、動物の絵柄がプリントされたものと、水玉模様のショーツが入れられてあったのだ。そして真っ白なブラジャーが二枚。さらに汗がいっぱいしみ込んだ夏用体操服上下も一着あった。それはヤスミンのものであることがゼッケンから分かった。

 昨晩最初に風呂に入った翔一の洗濯物は、一番下に埋もれてしまっていた。

「ハッハッハ、翔一ちゃんも男の子だねえ。さすがに女の子の洗濯物はまずいかね」

照子さんはそう言うと寮生三人の他、翔一の分も合わせて洗濯物を両手で抱え込み、洗濯機の中へ入れた。そしてテキパキとした動作で洗剤を入れ蛇口を回し、スタートボタンを押す。

「ありがとう、ございました」

 翔一はその手際の良さに舌を巻きながら、お礼を言った。

「こりゃ悪かったね。でもあの子達、きっと翔一ちゃんに触られること全然気にしてないだろうから、翔一ちゃんも堂々と触ればいいさ」

 照子さんは笑顔で言い張る。

「いえいえ、そのようなことは絶対出来ません」

 翔一は照れくさそうに宣言した。

「紳士だねえ」

 照子さんは再び笑う。

 同じ頃。

「おはようございまーすっ、幸岡先輩、ヤスミス」

 通学路を進んでいた千景とヤスミンは、柚陽に挨拶された。面長でおでこが広く、ポニーテールに束ねたしなやかな黒髪が特徴的な子だ。

「おっはよー、柚陽ちゃん」

「おはよう、柚陽さん」

 千景とヤスミンは爽やかな声で返す。柚陽と通学途中で会うことはわりとよくあることなのだ。

「ねえ、昨日新しい管理人さん来たんやろ。幸岡先輩とヤスミスとサオちんのとこって、すごくこぢんまりとした寮やから賑やかになったんじゃない?」

「いや、ほとんど変わってないわ。押部翔一さんっていうお方なんだけど、おしゃべりな感じでもなかったので」

「そっか。身長はどれくらい?」

「一六〇センチ台半ばくらいかな」

「ワタシ一六四やからいっしょくらいかぁ。お歳は?」

「十五歳で高校一年生よ」

「そうなんや。幸岡先輩と同学年なんやね。肉食系か草食系かでいうたら、やっぱ草食系になるんかな?」

「まあ草食系ね」

 好奇心旺盛に尋ねてくる柚陽の質問に、ヤスミンは淡々と答えていく。

「なんか純粋な人っぽい」

 柚陽は目をきらきら輝かせた。

「当たってるよ。翔一くんはとても純粋な人だよ」

 千景はにこにこ顔で言う。

「お会いしたいなぁ」

 柚陽は二人のお顔を交互に見つめ要求してくる。

「もちろんいいよ。ぜひ会いに来てね」

「わたしはべつにいいんだけど、翔一お兄さんがどう思われるかな?」

 快く承諾した千景に対し、ヤスミンは少し躊躇いがあった。

「やったあっ! おめかししていこっかなぁ」

 それをよそに柚陽は大喜びする。行く気満々な様子だ。

    ☆

 八時五〇分頃、鶸梅寮。

 脱衣場の洗濯機からピー、ピー、ピーと、終了を知らせるアラームが鳴り響く。

「翔一ちゃん、これをハンガーにかけてくれないかい?」

 照子さんは蓋を開けると寮生三人の下着類を中から取り出し、翔一の目の前にかざす。

「おっ、おばあちゃん、それは、ですね……」

 翔一はとっさにそれから目を背けた。

「本当に純粋な子だねぇ。でも翔一ちゃん、これが触れないようじゃ、ここの寮の管理人は務まらないよ。気にせず触ってごらんよ」

 照子さんは翔一の目の前に近づけ、笑顔で勧めてくる。

「わっ、分かり、ました」

翔一は強い罪悪感に駆られながらも、恐々と手に掴んだ。

「――っ!」

瞬間、彼の心拍数は急激に上がった。ここの管理人候補になるまでずっと女の子とは無縁の人生を歩んで来た翔一にとって、刺激がかなり強過ぎたようだ。

「顔、赤くなってるね」

 照子さんは笑顔のまま指摘する。

「そりゃ、なりますって」

翔一は機敏な動作でそれらをハンガーに吊るしていった。その間に照子さんは寮生三人の靴下など他の洗濯物、自分の分と翔一の分をテキパキと吊るし終えていた。

このあと裏庭の物干し竿に掛けていく。もちろん彩織と照子さんも手伝ってくれた。

「今日はいい天気だねぇ」

 照子さんは澄み切った青空を見上げながら柔和な表情で呟く。

「そうですね。それに、けっこう、暑いですね。わっ! 和太鼓そっくりな形になってるのがありますけど、あれは、物置でしょうか?」

 翔一は見つけた瞬間ちょっぴり驚く。

「その通りさ。物置小屋は五年くらい前にこの形に改装したんだ」

 照子さんは楽しげに伝える。

「そうでしたか。昨晩は暗くて気付けませんでした。叩くと和太鼓の音が出そうですね」

 翔一は近寄って周囲をぐるっと一周して外壁を触ってもみたりした。

高さは二メートルくらい。周囲は六メートルほど。皮面を模った部分が屋根で胴材が外壁。胴材に掛けられたカンと呼ばれる金具を出入口の取っ手に対応させていた。

「あっ! そろそろ始まる時間だ」

 彩織はスカートポケットからスマホを取り出すや否やそう呟いて、裏庭からロビーへ駆け寄る。ソファーに座り込むと、座卓上に置かれてあったリモコンを手に取りテレビのスイッチを入れ、お目当てのチャンネルに合わせた。

テレビ画面左上には、8:59という表示。何かの番組のEDが流れている最中だった。それが終わり九時ちょうどになると、今度は乳幼児向けの教育系番組が始まった。

 彩織は瞬きもほとんどせず、熱心に見入る。

「あのう、阪谷さんは、こういう番組が好きなのかな?」

「うん! 大好き♪」

 ロビーへ戻って来た翔一がやや緊張気味に話しかけると、彩織はえくぼまじりの笑みを浮かべ、嬉しそうに答えてくれた。

「そっか。俺はこういう系の番組見たの、十年振りくらいかも」

 翔一もソファーに腰掛け、視聴してみることにした。

           *

たまには、こういうアニメもいいな。最近は萌え系の深夜アニメばっかり見てて、こういう幼い子ども向けの絵柄のやつは見なくなってたし。

 十五分の番組を見終えて、翔一はそんな心境に陥る。先ほどやっていた番組は、擬人化された果物や野菜やお菓子などが登場するクレイアニメだった。

「ねーえ、翔一お兄ちゃん」

「!! なっ、何かな?」

 いきなり彩織に甘えるような声で話しかけられ、翔一は少し動揺した。

「あたしのお部屋に来て」

 彩織は服をぐいっと引っ張ってお願いしてくる。翔一は招かれるままに彩織のお部屋へ足を踏み入れた。

出入口引き扉側から見て一番奥、窓際に設置されてある学習机の上はきちんと整理されていて教科書やプリント類、ノートはきれいに並べられていた。サンタクロースのお人形さんやビーズアクセサリー、クマやウサギ、コアラ、リスといった可愛らしい動物のぬいぐるみもたくさん飾られてあり、カーテンはピンク系の水玉模様。女の子のお部屋らしさが千景のお部屋以上に感じられた。本棚には幼稚園児から小学生向けの少女漫画誌や少女コミック、児童図書、絵本、アニメ雑誌、ラノベなどが合わせて二百冊以上は並べられてある。普通の女子中学生が好みそうなティーン向けファッション誌は一つも見当たらなかった。

「阪谷さんは、読書が好きなんだね?」

 翔一はお部屋を見渡しながら尋ねてみた。

「うん。読むのも大好きだけど……じつはあたし、趣味で小説を書いてるんだ。あたし、ちっちゃい頃から物語を作るのが大好きで」

 彩織は俯き加減で、照れくさそうに打ち明けた。

「そっ、そうだったんだ」

 翔一は意外に思ったようだ。

「おかしいかな?」

「いやいや、そんなことないよ。じつは、俺も……」

「えっ!? 翔一お兄ちゃんも小説書いてるの?」

 彩織は目を大きく見開いた。

「うん、時々気が向いたら書いてる。ラノベの新人賞にも中学の頃一度だけ応募したことがあるよ。一次であっさり落選したけどね」

 翔一が苦笑いして打ち明けると、

「そうなんだ。あたしの書いた小説、ちょっとだけ見せてあげるね」

 彩織は満面の笑みを浮かべて、マイノートパソコンを立ち上げた。

「これ、先月の童話賞に投稿したやつ。和菓子屋さんの頑固親父サトっつぁんと、ねこぽんって愛称の、サトっつぁんの作った和菓子をよく盗むイタズラ好きでお魚も好きなしゃべる三毛猫さんとのお話なんだけど、『おばあさんのねこになったねこ』と『だってだってのおばあさん』の絵本を読んで思いついたの。ねこぽんのモデルは大五郎だよ」

 マイドキュメントに保存されていたテキストデータを開き、照れくさそうに伝える。

翔一は全文目を通してみて、

「素敵なお話だね。ねこぽんのですみぃって語尾も、キャラのかわいさが引き立たされててとっても面白かったよ」

 率直に感想を述べてあげた。

「ほっ、本当? お世辞じゃない?」

 彩織は上目遣いで尋ねてくる。

「うん、俺にはこんなに良い作品は書けないから。阪谷さんはすごい文才があるよ」

「ありがとう、翔一お兄ちゃん。あたしが小説書いてること、褒めてくれて嬉しい。学校ではバカにしてくる子も多かったから。翔一お兄ちゃんは、あたしの書いた小説を褒めてくれた小学校の時の先生に似てるの」

 彩織はそう打ち明け、翔一の背中に抱きついた。

「そっ、そうなんだ」

 翔一はちょっぴり焦る。

「あたし、お絵描きも大好きだよ」

 彩織は続いて学習机の本棚からB4サイズのスケッチブックを取り出し中身を見せてくれた。ライオン、ゾウ、キリン、ウサギ、リスといった動物さんの絵を中心に、メルヘンチックに描かれていた。

「とっても上手だね。俺よりも上手だよ」

 翔一はじっくり見て褒めてあげる。

「ありがとう、翔一お兄ちゃん」

 彩織は急に照れくさくなったのか、スケッチブックをパタリと閉じた。

「翔一お兄ちゃんも絵、描くの好き?」

 そのあと照れ笑い顔で質問してくる。

「うん、めっちゃ好きだよ。幼稚園の頃から」

 翔一は爽やか笑顔で答えた。

「ますます嬉しいな♪ あたし、今度はラノベの新人賞に初めて応募するつもりなんだ。長編小説に初挑戦するの。まだ四百字詰め原稿用紙換算で、三百枚以上も書ける自信は無いけど。翔一お兄ちゃん、何かいいアイディアない?」

 彩織は興奮気味に問いかける。 

「うーん、ラノベにおいて学園物やファンタジーバトル物、退魔物、VRMMO物、異世界転移転生チーレム物はありふれ過ぎてるし、吸血鬼、ゾンビ、ドラゴン、ゴーレム、妖精、勇者、魔王魔女、亜人獣人、神様、生徒会、執事、探偵、メイド、アンドロイド、異星人美少女キャラなんかが登場するってのもまた使い古されてると思うし、主人公の設定も俺TUEEEな男子中高生で、ツンデレ風の幼馴染ヒロインと、やたらからんでくる男友達がいるっていうのは、定番過ぎると思う」 

「確かにそうだよね。そういう設定は使わない方が無難だよね」

「いやぁ、そういうのがダメってことはないけど、似たタイプの作品が多いってことだから受賞するにはかなりハイレベルなクオリティが求められると思うなぁ。俺は独自性を強く出すことが重要だと思う。今までのラノベには見られなかったような、新しいタイプの作品を生み出すことが新人賞では有利になるんじゃないかな。主人公に関しても中高生向けだからといって中高生を主人公にしなきゃいけないって決まりはないと思うよ。まあ、その場合も読者が感情移入しやすい、共感を持てる、憧れを抱けるキャラクター像であることが大切だろうけど」

 翔一は生き生きとした表情で楽しそうに長々とアドバイスしてあげた。

「つまり、斬新なアイディアを出して、今までに無いようなタイプの作品を書くことが、受賞への近道なんだね。九月末締切りのやつを目指して頑張るぞぉーっ!」

 彩織は投稿用次回作に向けて考えを廻らせる。

「じゃ、邪魔にならないように、俺はこれで……」

「見ててもいいんだけど、気を遣ってくれてありがとう」

「いやいや、どういたしまして。頑張ってね」

 翔一はエールを送って静かに彩織のお部屋から出て行き、自分のお部屋へ。

 阪谷さん、こういう一面もあるんだな。俺のこと嫌ってなくてよかったよ。俺と趣味も合うし、今後も嫌われないように気を付けなきゃな。

ホッとした気分で机に向かい、B5の大学ノートを広げて趣味のイラスト描写をし始めた。鶸梅寮の奇抜で雅な外観に影響されたのか、和ものや和菓子のイラストをシャープペンシルでいくつか描いていく。

その最中に、彼のスマホ着信音が鳴り響いた。

「母さんからか」

 翔一は三回目で通話アイコンをタップする。

『翔ちゃん、管理人のボランティアは楽しくやれとう?』

「うん、管理人さんはとても良い人だし、寮生もみんなすごく良い子達ばかりだったから、めっちゃ楽めてるよ」

『この弾んだ声の調子だと、本当に楽しめとうようね』

 母はホッと一安心して喜んでいるようだった。

       ☆

正午過ぎ。

「彩織ちゃん、翔一ちゃん。お昼ご飯出来たよ。食べに来なー」

 一階から照子さんの声がかかると、自室にいた翔一と彩織は同じようなタイミングでロビーへ降りていく。

 ダイニングテーブルに、親子丼が三皿並べられていた。

 向かい合って座った翔一と彩織、

「ほなおあがり」

「いただきまーすっ!」

「いただきます」

 照子さんからの合図でお箸を手に取り、食事を進める。

「あっ、阪谷さん。ほっぺたにご飯粒が」

「あっ、いっけない」

 翔一に指摘されると彩織は照れくさそうに呟き、自分の手で取った。

「彩織ちゃん、いつも以上にいい笑顔だね。翔一ちゃんのこと、好きかい?」

「うん! 大好きぃーっ!」

 照子さんの問いかけに、彩織はとても嬉しそうに答えた。

「うぐっ……ケホッ、ケホッ」

 翔一はむせてしまったようだ。

「翔一お兄ちゃん、大丈夫?」

 彩織は翔一のお顔を覗き込んで、心配そうに尋ねる。

「だっ、大丈夫です」

 翔一は苦しそうに答える。

「ハッハッハ」

 照子さんは微笑ましく翔一を眺めた。

 ちょうどその時。ピロピロピロリン♪ ピロピロピロリン♪ と、彩織のスマホの着信音が鳴り響いた。

「茉莉乃からメールだ」

 件名を見て、彩織は嬉しそうに叫ぶ。

「お友達?」

 翔一は尋ねてみる。

「うん!」

「彩織ちゃんと、中学入った頃から仲の良い子だよ」

 照子さんは加えて説明してくれた。

 彩織はわくわくしながらメールの中身を開く。

《やっほー、サオリちゃん (^_^) 元気? 今日、調理実習でカスタードプリン作ったよ♪》

 画像も添付されていた。

《元気だよ、マリノ(*^_^*)》

 彩織はすぐに返信した。

 茉莉乃は毎日のように、彩織に学校であった出来事とかを伝えてくれるらしい。

《プリントけっこう溜まってるよ。渡したいから、今日遊びに行っていい? 新管理人さんにもお会いしたいし》

 十数秒後、その子からまたメールが届く。

《もちろんオッケー(*^。^*)》

 またすぐに返信した。

 それからさらに数分後、

 ルルルルルルルルゥ♪ ルルルルルルルルゥ♪

今度はロビー壁際設置の固定電話の着信音が鳴り響く。

「彩織ちゃん、先生からだよ」

 ディスプレイに表示された電話番号を見て、照子さんは伝える。

「はーい」

彩織は嬉しそうに駆け寄り、受話器を手に取った。

「もしもし」

『あっ、阪谷さん。先生よ、元気にしてる?』

「はい。とっても元気です」

『なんだかいつもよりいいお声してるね。そういえば確か昨日、新しい管理人さんが来たんでしょ?』

「はい。すごくいい人でした」

『それはよかったわね。先生もそのお方にご挨拶したいから、今日お伺いしてもいいかな?』

「はい。もちろんいいですよ」

『楽しみにしてるわ。じゃあね、阪谷さん』

 電話の相手は彩織の担任、上垣先生だった。

「翔一お兄ちゃん、今日の夕方、茉莉乃と担任の上垣先生が来るって」

 受話器を置いたあと、彩織は翔一に向かってこう伝えた。

「なんか気まずいなあ。制服に着替えた方が良さそうだ」

「学校内じゃないんだから、そんな堅苦しい格好する必要は無いさ」

 照子さんはにこにこ顔でアドバイスした。

「普段着のままの翔一お兄ちゃんでもじゅうぶん格好いいよ」

「そっ、そうかなぁ」

 彩織に称えられ、翔一は照れくさそうな表情を浮かべた。

          *

 昼食後、翔一は照子さんに呼ばれ談話室へ。

ここも和室だった。十畳の広さで、大きな漆塗り長方形ちゃぶ台と、それを囲むように座布団が八つ敷かれてある。ちゃぶ台の上には比較的新しいノートパソコンが一台。

「翔一ちゃん、パソコンで家計簿を付けてくれないかい? 今までずっと手書きでやって来たけど、パソコンの方が便利だと思って、家計簿ソフトをインストールしてたんだよ。先月分と今月分だけでいいから、写してくれないかね」

 照子さんは機嫌良さそうに、これまで使っていた家計簿手帳を翔一に手渡す。

「それくらいなら、一応、出来ると思います」

 翔一は自信なさげに答え、パソコン前の座布団に腰掛けた。

起動中のソフト表示画面に、家計簿手帳の数値を見ながら水道光熱費や日用品費、通信費、交際費、食費、寮生から徴収した家賃などの収入支出額を慎重に入力していく。最近はずっと黒字が続いている。提携寮にしたことで、学校などから助成金や寄付金などが支給されるようになったためだ。鶸梅寮では、寮生が一人でも入寮してくれれば黒字となり運営は十分成り立つらしい。

「おう、ばっちりじゃないか。やるねえ翔一ちゃん」

 照子さんはとても喜んでいた。

「いえいえ、それほどでも。俺の高校、普通科なので簿記の知識全くないですよ」

 翔一は謙遜の態度を示した。

「こぢんまりとした寮だからお金もあまり動かないし、簿記の知識は特に必要ないさ。家計簿の記入は、これから翔一ちゃんに任せるよ」

「えっ! いいんですか? 高校生の俺なんかがこのような、寮にとって非常に重要な業務に携わってしまって」

「もちろんさ。翔一ちゃんはとっても優秀な子なんだから、もっと自分に自信を持ちなよ。次はトイレ掃除と裏庭の草むしりをしてくれないかね?」

「はい、分かりました」

照子さんから次の作業を頼まれると、翔一は快く引き受けた。彼が入居したことで男女共用となったトイレに入ると、ウォシュレット機能付き洋式便器後ろの棚に置かれたウェットティッシュを手に取る。

「そんなに汚れてないな。俺もきれいに使わないとな」

便器周りを拭いていると、

「……これは、触らない方が絶対いいよな?」

 扉側隅に置かれた白色のサニタリーボックスが否応なく視界に入ってしまう。

 それは無視しておいて、引き続き便器周りの清掃作業を進めていく。便器の中へ洗剤スプレーをシュッシュとふりかけ、ブラシで黄ばみを擦って水を流した。

そのあとは台所の戸棚から軍手とゴミ袋を取り出し、裏庭へ。

「ん?」

 雑草を抜いている最中、翔一はぴくりと反応した。木の陰からガサゴソガサゴソと物音がして来たのだ。

どっ、泥棒?

 翔一はびくびくしながら、林へと恐る恐る歩み寄る。そこにいたのは、全身がブラウンヘヤーに覆われ、四本足、扁平なお鼻をしていた野生動物。

「イッ、イノシシ!?」

 正体が分かると翔一は仰天した。

体長1.4メートルくらいはあった成獣のイノシシは翔一の声に反応したのか、ピクッと反応し翔一の方を向いた。

そしてトコトコ追いかけて来たのだ。

「うわぁっ!」

 翔一は時折後ろを振り返りながら、必死に逃げ惑う。

イノシシはフゥフゥ鼻息を荒げながら、翔一を追いかける。

 翔一は大浴場を通り抜け、廊下を駆け抜けロビーの方へ。イノシシもあとに続く。

「おや、翔一ちゃん」

 ロビーの掃き掃除をしていた照子さんは、翔一の方を振り向いた。

「おばあちゃん、イッ、イノシシが……」

 翔一は逃げ惑いながらすぐ後ろにいるイノシシを手で指し示す。

「おやまぁ、また遊びに来たのかい」

 照子さんは爽やかな笑顔だった。

「あっ、あの、おばあちゃん。なんとかして、いただけないでしょうか?」

 翔一とイノシシはダイニングテーブルの周りを何週も走る。

「おらに任せな」

 照子さんは冷静に、竹箒をイノシシのお鼻目掛けて突きつけた。

 イノシシはビクッと反応し、ピタッと動きを止めた。

「山へ帰りな」

 照子さんがそう命令すると、イノシシは理解出来たのかくるりとターンし、大人しくロビーから出て行き裏庭の方へ向かっていった。

「ハァハァハァ……あっ、ありがとう、ござい、ました。まさかイノシシが、出るとは」

 翔一は息を切らす。彼の目は点になっていた。

「ここではイノシシなんて日常茶飯事さ」

 照子さんは豪快に笑いながら言う。

「条例でイノシシにはエサをあげちゃダメみたいだよ。あたし、中庭の鯉さんみたいにあげたくなっちゃうけどな」

 彩織は残念そうに呟く。

 六甲山地の麓にあるこの場所では、イノシシの出没は珍しくないらしい。

 翔一は、次に任された花の水遣りと風呂掃除も快くこなしていく。

 全ての作業を終えた頃には午後四時を少し回っていた。

「翔一ちゃん、すまなかったねぇ。重労働させ過ぎてしまって」

「いえいえ、とても充実した作業でした。めちゃくちゃ楽しかったです。如雨露が急須の形になってるのも和の遊び心がありますね」

 申し訳なさそうにしていた照子さんに、翔一は満足げな表情で伝えてソファーに腰掛ける。

その時、彩織もソファーに腰掛けていて、教育系の子ども向け番組を楽しそうに眺めていた。

照子さんからおやつに振る舞ってもらった高級芋羊羹を、翔一は彩織といっしょに味わいながらしばしくつろいでいると、ピンポーン♪ と玄関チャイムが鳴らされた。

「はいはい」

 照子さんが玄関扉を開け、対応する。

「こんばんは」

「阪谷さん、来たわよ」

二人の来客に、

「おやおや、いらっしゃい」

 照子さんは笑顔で出迎えぺこりとお辞儀した。

「いらっしゃーい!」

 彩織はすぐさま立ち上がり、嬉しそうに玄関へ駆け寄る。来客は、上垣先生と茉莉乃だった。

「翔一ちゃん、こちらが上垣先生だ。もう一人がお友達の茉莉乃ちゃん」

「ワタクシ、二年三組担任の上垣加奈子と申します。はじめまして」

「はじめまして、アタシ、胸永茉莉乃です」

 上垣先生と茉莉乃は翔一の方を向いて自己紹介し、ぺこりとお辞儀した。

「はじめ、まして。俺、この度、この鶸梅寮の、新しい管理人を短期のボランティアで勤めさせていただくことに、なりました。押部翔一と、申します」

 翔一は舌を噛みそうになりながら挨拶し、深々と頭を下げた。

「かなり若いお方で、とても誠実そうなお方ですね」

 上垣先生は翔一のことを褒めてくれる。四〇歳くらいの女性。小顔でぱっちりした瞳、濡れ羽色に美しく輝く髪をフリルボブにし、とてもお淑やかそうな感じのお方だった。

「いえいえ、そんなことは……」

翔一はいつもの癖で謙遜してしまう。

「このお方が新しい管理人さんかぁ」

 茉莉乃は翔一のお顔をまじまじと見つめる。茉莉乃は彩織より五センチほど背が高く、丸っこいお顔をしていて、後ろ髪は水色地白の水玉ダブルリボンでお団子風にまとめられていた。

「あっ、どうも」

 翔一は軽く一礼する。

「クリエイターさんっぽさを感じます!」

 茉莉乃は興奮気味に彼の第一印象を伝えた。

「そっ、そうかな?」

「そう思うでしょ? 翔一お兄ちゃんはあたしや茉莉乃と同じで小説や絵、描いてるもん」

 彩織は嬉しそうに伝える。

「そうなんですか! 趣味が合いますね」

「そっ、そうだね」

 屈託ない笑顔でしゃべる茉莉乃を眺め、めちゃくちゃかわいいな。と翔一は思った。茉莉乃から感じられる初々しさに惚れてしまったのだ。

「小説や絵の創作は先生もとても素晴らしい趣味だと思うわ。先生も何か書いてみようかしら。ところで阪谷さん、課題はちゃんと仕上げてるかな?」

「はい。当然出来てます」

 上垣先生からの質問に、彩織は笑顔でそう答えると一旦自分のお部屋へ向かい、言われた物を取りに行った。

「宿題を提出させてるんですね」

 翔一はちょっぴり感心していた。

「はい。公立校とは違い、中学でも退学処分となってしまいますので」

上垣先生は不登校の彩織のために、各教科の問題集や課題プリントを提出させているとのこと。そのため彩織の学力は特に問題ないらしい。技術・家庭科、美術、音楽といった副教科の課題もさせており、定期テストは保健室で受けさせているとのことだった。

「はい、先生。どうぞ」

彩織は戻ってくると、上垣先生に言われた提出物を手渡す。

「ありがとう。阪谷さん、一時限だけでもいいから、出席してくれたら嬉しいな」

「教室内には、入りたくないです」

 上垣先生がそう伝えると、彩織は暗い表情を浮かべてしまった。

「そっか。ごめんね。それじゃ、先生はそろそろお暇致するね」

 上垣先生はちょっぴり寂しそうに挨拶して帰っていく。

茉莉乃はこのあと二十分ほど、ロビーで彩織といろいろおしゃべりしてから帰った。

それからさらに一時間ほどして、

「翔一お兄さん、ただいま」

「翔一兄さん、はじめましてーっ。ワタシ、ヤスミスの親友の、南中柚陽でーす」

 ヤスミンが、柚陽を連れて帰って来た。

「あっ、どっ、どうも」

 元気よく挨拶され、翔一はまたも緊張気味になった。

「おう! 翔一兄さん、さほどイケメンじゃないところがまた親しみやすいわ~」

 柚陽は目をきらきら輝かせながら翔一のお顔を見つめる。

「そうか?」

 翔一は思わず視線を床に逸らした。

「柚陽、失礼なことは言っちゃダメよ」

 ヤスミンは軽く注意する。

「分かってまーす♪ 幸岡先輩やヤスミスの言ってた通り、すごく誠実でええ人そうやね。あのう、翔一兄さん、似顔絵描いてもよろしいですか?」

 柚陽は通学鞄からB4サイズのスケッチブックを取り出し、お願いする。

「べつに、かまわないけど……」

「よっしゃっ!」

 翔一がちょっぴり戸惑いつつも承諾すると柚陽は大喜びし、4B鉛筆も取り出した。スケッチブックを開き、4B鉛筆を走らせる。

 三〇秒ほどのち、

「はい、完成しました。どうぞ」

 柚陽は描いていたページをビリッと千切り、翔一に手渡した。

「えっ、もう出来たの!? しかもかなり上手い」

 翔一は自分そっくりな似顔絵を見て、驚き顔になった。

「柚陽さんは美術部に入ってるの」

「あっ、どうりで。あの、お礼に、南中さんの似顔絵、描いて、あげよっか?」

「描いてくれるんっすか! ぜひお願いします」

 柚陽は嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。

 こんなに喜んでくれるとは。とってもいい子だな。中学の頃、休み時間に美少女キャラのイラスト描いてたらキモがって来た教養低そうなビッチ臭の漂う女共とは大違いだよ。さすがクースタスさんのお友達なだけはあるね。

 翔一は楽しげな気分で柚陽のスケッチブックと4B鉛筆を借り、ササッと描いてあげた。

「ワタシそっくりや。翔一兄さんも絵ぇめっちゃ上手いっすね」

「まあ、俺、将来漫画家になりたいなぁっともなんとなく思ってて。新人漫画賞に投稿出来るようなレベルの作品を仕上げれたことは一度もないけど」

「ワタシと同じやね。めっちゃ親近感が湧くわ~。漫研か美術部入ってます?」

「俺、部活は入ってないよ。中学の頃もね。みんなでわいわいやるの苦手だし」

「そうなんっすか。まあ気持ちは分かるなぁ。翔一兄さん、ありがとうございました。ほなまたお会いしましょう」

 柚陽は満面の笑みでお礼を言って、ここをあとにした。

「明るい子だね」

 翔一は綻んだ表情でコメントする。

「休み時間中はけっこううるさいよ、あの子」

 ヤスミンは苦笑いしながら伝えた。


 それから少し時間が流れ、午後六時ちょっと過ぎ。

「ただいまぁー。南京町でゴマ団子とシューマイ買って来たよー♪」

 千景が帰ってくる。部活動には入っていないが帰りに三宮や元町へ寄ってお買い物をしてくることもたまにあり、その時はいつもこのくらいの時間に帰ってくるらしい。

寮生の三人が帰宅したところで、照子さんは夕飯を作り始める。

 千景が買って帰った食材もダイニングテーブルに並べられた。

 こうして今日も夕食の団欒が始まる。

        ☆

夜九時頃。

「翔一くぅん、明日までに提出しなきゃいけない宿題がいっぱいあるの。手伝ってぇー」

 千景がげんなりとした表情を浮かべながら翔一のお部屋へ押し入って来て、こんな要求をしてくる。

「それは、かまわないけど」

 翔一は快く引き受けた。

「私、数学の問題全然分からなくて。27ページの問い六から問い八までが宿題なの」

 千景は数学ⅡBの問題集の該当箇所付近を指で押さえる。

それほど難しい問題じゃないな。

翔一はそこを眺めてみて出来ると直感した。

図形と方程式に関する問題だった。

翔一はシャーペンを手に取ると、千景の数Ⅱ用ノートに問題をすらすらと解いていく。彼にとって基礎から標準レベルの問題を解くことはた易いことだった。

「すごーい。翔一くんは〝数学の達人さん〟だね」

「いやぁ、そんなことはないよ。俺以上に数学出来るやつ、同じ学年でも二十人以上はいるし」

「次はこれ、数Bの小テスト、間違えた問題を全部直して提出になってるの。翔一くん、私二問しか合ってないから大変だよぅ」

 続いて千景はそのプリントと数B用ノートを取り出し、翔一に手渡す。

 小テストは一問一点の十点満点だった。分野は数列に関するものだ。

千景の取得した点数は、わずか二点。

これは、さっきよりも基礎的で簡単だな。

 翔一は、千景の使っている数B用ノートにすらすらと解答を記述していく。

「あのう、翔一お兄さん、あまり千景さんを甘やかさない方が……」

 ヤスミンもお部屋に入って来て口を挟んだ。

「それも、そうだね」

 翔一はハッと気付き、手の動きがぴたりと止まる。

「あぁーん、ヤスミンちゃん、余計なこと言わないでぇ~。翔一くぅん、お願ぁーい」

「分かった」

 千景にせがまれると、心優しき翔一は断り切れず問題の続きを解いてしまう。

「もう、翔一お兄さんったら」

 その様子を目にしたヤスミンは困惑顔だ。

「ありがとう翔一くん。助かったよ」

 数学の宿題を完成させたのを確認すると千景は礼を言って、翔一の手をぎゅっと握り締める。

「いやぁ、これくらいは……」

 翔一の頬は少し赤く染まった。

「千景さん、数学が出来ないと後々本当に困るよ」

 ヤスミンは困惑顔で忠告するも、

「大丈夫だよ。私、二年生から文系クラスに進むし、大学は受験で数学使わない私立の文系学部行くもん」

 千景はのほほんとした表情で主張した。

「それでも、数ⅡBまではしっかりと学んどいた方が絶対いいと俺は思うよ。急に進路変更したくなった時にも対応しやすいだろうし」

「翔一くんがそう言うんなら……私、数学も頑張る!」

「神高生の翔一お兄さんのご意見は説得力がありますね」

 ヤスミンから褒められ、

「いや、俺、ごく当たり前のことを言っただけと思うけど……」

 翔一は照れくささからか少し俯き加減になる。

「ねえ、翔一くん、次は古文の宿題やって。徒然草を現代語訳にするの」

 千景は国語総合の教科書と、古文用のノートをそんな翔一の目の前にかざした。

「こらこら千景さん」

 ヤスミンはニカッと笑って注意する。

「古文は、ちょっと……俺、国語は苦手科目だし」

 千景のこの要求には、翔一は表情を曇らせた。

「あーん、困ったよぅー」

「ごめんね。役に立て無くて」

「翔一お兄さん、謝る必要は全く無いですよ。千景さんがご迷惑お掛けしてすみません。わたしがちゃんとやらせますから」

「わぁーん、翔一くぅーん」

 千景はヤスミンに腕を引っ張られ、ヤスミンのお部屋へと連れて行かれた。

     ☆

それから一時間ほどが経った頃、

「やっと解放されたよう。なんとか出来てよかった。翔一くん、いっしょに寝よう」

 千景はくたびれた様子でヤスミンのお部屋から出て来て、ヤスミンといっしょに自分のお部屋へ。昨日と同じ配置で四枚のお布団を敷いた。

「眠い、眠い」

 ほどなくして彩織がやって来て、お布団に潜り込んだ。

「ヤスミンちゃんは、まだ寝ないの?」

「わたしはまだ、やることがあるので」

「じゃ、先におやすみヤスミンちゃん」

「おやすみー、ヤスミンお姉ちゃん」

「おやすみなさーい」

 ヤスミンは笑顔でそう言い残し、自分のお部屋へ戻る前に、

「翔一お兄さん、ちょっとだけわたしとお付き合いしてくれませんか?」

 翔一のお部屋へ立ち寄った。

「いいけど」

 翔一は快く引き受けてあげる。彼がヤスミンのお部屋へ足を踏み入れたのは今回が初めてだ。学習机の上はきちんと片付いていて、備えの本立てと本棚には動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物・日本の妖怪などの図鑑や学習参考書、教養系の読み物が多数並べられてある。ヤスミンが学業優秀な理由が頷けた。机棚には京うちわや、折り紙で作った鶴や蟹や猿の他、日本固有種として知られるオオサンショウウオ、ムササビ、ニホンザル、ニホンカモシカ、ニホンイシガメ、ニホンザリガニ、モリアオガエル、ニホンライチョウ。計八体の精巧なフィギュアも飾られていた。本棚上や箪笥上には姫路城、京都、雷門などの観光提灯や凧。窓際には黒竹や浜木綿などの和風なミニ観葉植物もいくつか飾られていて、中央付近に置かれた漆塗り座卓上にはテレビゲーム機も。二四V型液晶テレビもそれと向かい合わせに配置されていた。 

ヤスミンはテレビ下にある収納ケースを引き出す。中にはゲームソフトが五〇本くらい詰められていた。テレビゲーム機用と携帯型ゲーム機用両方あり、RPG、アクション、音ゲー、学習用、パズルなどなど様々なジャンルが揃えられてあった。

「こちらへどうぞ」

 ヤスミンに招かれ、翔一はテーブル横に敷かれてある座布団に腰掛ける。

「クースタスさんは、ゲームが好きなんだね」

「はい。日本のゲーム、特にアクションとRPGが大好きです。照子お婆さんも時たまテレビゲームをプレイされますよ」

「へぇ。意外だ。あのお齢で」

 翔一は少し驚いたようだ。

「ボケ防止に最適だからだっておっしゃられてたよ。翔一お兄さん、これ、いっしょにやりましょう。先週発売されたばかりのやつなんです」

 ヤスミンが取り出したゲームソフトのジャンルはアクションだった。テレビゲーム機にセットし、電源を入れる。

「いいけど」

 俺こういうファミリー層向けのゲームやるの、小学校の時以来だな。

 翔一は快く引き受けてあげ、コントローラを握る。

「難しいな」

 5‐4面の半分くらい進んだ所で落とし穴に落ち、ミスしてしまった。

「わたしもこの面、全然クリア出来ないんですよ。でもそれが魅力的です」

 このゲームを三〇分ほど楽しんだあと、ヤスミンは別のソフトに取り替えた。

 セーブデータを選択すると、和菓子店内の画面が表示された。

「これは、RPGかな?」

「はい」

「なんか、変わってるね。和風だ」

「普通RPGって架空の世界を舞台にするものですけど、このRPGは現代日本が舞台で、町の名前や山とか川とか駅とかの名前なんかも実在のと同じですよ。敵キャラもご当地に関連したのが登場してて、わたし今、愛媛県松山市内を旅してるんですけど、いよかんとか野球拳の踊り子とか姫だるまとかじゃこ天とかがモンスター化されてたわ。手に入る回復アイテムも坊っちゃん団子とか一六タルトとか母恵夢とか、ご当地ならではの実在するものになってます。魔王とかドラゴンとか、エルフとか騎士とか亜人獣人とかゴーレムとか定番のものも出て来ないですよ。魔法も召喚獣も一切使えません」  

 ヤスミンは生き生きした表情で楽しそうに伝えてくる。

「それは斬新だね。面白そうだ。俺、地理けっこう好きだし」

「わたし、剣と魔法がメインでファンタジー色の強い架空の異世界が舞台な、ありきたり過ぎるRPGはあまり好きではないんです」

「そうなんだ。あの、クースタスさんが鶸梅寮に入った理由って、やっぱ和風な造りに惹かれてなのかな?」

「はい、それが一番の理由です♪ 和菓子や和食、和ものを模っている外観は芸術的です。それと、照子お婆さんの人柄にもとても惹かれました。摂蔭を選んだのも、校舎や中庭が和風だったことに惹かれたからです。今や日本でもほとんど見かけなくなってしまった和式トイレも一部備えられていることにも魅了され、わたし、学校で用を足す時はいつも和式の方を使ってます。ところで、翔一お兄さんは、体育は、苦手ですか?」

「うん、かなり苦手だな。この間のスポーツテストの結果、全部平均以下だったし。通知表も中学時代は5段階の最高で3しか取ったことがないよ」

 翔一は苦笑いした。

「そうでしたか。わたしも体育大の苦手なんです。期末の保体のペーパーテストではいつも満点近く取ってますけど、実技はどうしてもダメなんです。気が合いますね」

 ヤスミンは嬉しそうににっこり微笑む。

「そっ、そうだね」 

 翔一は少しだけ照れてしまった。 

「中学の頃、体育の授業で日本の習った剣道も全くダメでした。わたし、日本文化は好きですが武道は馴染めないです。大相撲とか、見るのは楽しいのですが。千景さんと彩織さんも体育苦手みたいですよ。その彩織さんのことなんだけど、わたし、学校行ってないこと、すごく心配で。小学校の時にいじめられて、みんなと同じ中学に行きたくないから、私立の摂蔭を受験したってわたしや千景さん、照子お婆さんに泣きながら話してくれたの。けど彩織さん、そこでもやっぱりクラスに馴染めなかったみたいで、不登校になってしまって」

 ヤスミンは困惑顔で話題を切り替えた。

「中学生くらいの年頃の人間関係は複雑だからね。まあ、行きたくなければ、無理して学行く必要は、ないんじゃ、ないかな。勉強は独学でも出来るし」

 翔一は若干緊張しているのか時々言葉を詰まらせながら意見を述べる。

「でも、やっぱり行かないよりは、行った方が絶対いいと思うの。わたしも小四の時に日本の学校に転校した時は、やんちゃな男の子にからかわれて、学校行きたくないなって思ってた時期があったから、彩織さんの気持ちはよく分かるんだけど……月に一、二回程度、二、三時限目の時間帯に保健室に登校して、ちょっとだけ過ごしてるみたいだけど、やっぱり教室でみんなといっしょに授業を受けて、学校行事に参加してもらいたいなって思うの」 

「確かに。学校行事はその時しか体験出来ないからね。まあ、でも、胸永茉莉乃ちゃんっていう、仲の良いお友達もいるようだし、あまり心配することは無いと思うよ。学校の課題もきちんと仕上げてるみたいだし。俺なんかプライベートでしょっちゅう付き合うような親友なんて一人もいないよ。学校にいる時だけちょっと会話する程度のものだよ。阪谷さんのことだけど、保健室登校の回数を少しずつ増やしていくとかして、やがて教室へ入れるようになれればいいんじゃないかなっと、俺は思う」

「確かにいきなり教室へ入れというのは、彩織さんには酷ですね。でも、二学期までにはちゃんと教室へ入れるようになって欲しいなって、わたしは思うよ」

二人はそんな会話を交わしたあと、このゲームを一時間ほどプレイしたのであった。

「あっ、もう0時半過ぎてますね。翔一お兄さん、夜分遅くまでお付き合いして下さり、誠にありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

二人はゲームとお部屋の電源を切って千景のお部屋へ向かい、静かに布団に潜る。

それから三分ほどのち、

「あの、翔一お兄さん。起きてますかー?」

 ヤスミンがまた、話しかけて来た。

「うん。何かな?」

 翔一はすぐに応答する。

「一つ大事なことを言い忘れてました。照子お婆さん、翔一お兄さんがここに来てくれたこと、すごく嬉しがってたよ」

「そうか。それは、光栄だな」

「照子お婆さんにとって、翔一お兄さんは宝物のような存在だとおっしゃってましたから」

「俺なんかが!?」

「はい。それには、ある理由があるからなんだそうです」

「どういった、理由なんだろ?」

「ごめんなさい、わたしも分からないです。でも、今年ももうすぐやって来る、あの日に教えてくれるそうです。では、翔一お兄さん、おやすみなさい」

「おっ、おやすみ」

 ヤスミンから暗に伝えられた事、翔一は当然のように気がかりになった。

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