仮想世界における日常

 亜熱帯のジャングルを髣髴とさせる鬱蒼と茂った森の中、どういう理由からか自然の侵食を免れた一角は、周囲の景色から切り離されたように明るい陽の光を頭上からたっぷり注がれていた。

 半径にして十数メートルほど。綺麗な円形に木がごっそりと切り取られ、足元には丈の短い草が同じくらいの高さで生え揃っている。

 こういった場所を、妖精の遊び場と呼ぶ地方もあるらしい。

 なるほど、確かにじめじめとした空気が肌に纏わりつく不快なジャングルにこの様な安息地があればそう思うのも無理はない。


「あー、早く湧かないかな」

 その広場の中央であぐらをかいて座っていた、まだあどけなさの残る少年が堪えきれないとばかりに立ち上がって背中に吊るされた剣を抜く。

 鞘に使われている革は色が落ち、所々黒ずんでさえいたが、使い古した印象が先立つおかげでみすぼらしい感じはしない。

 引き抜かれた剣の刃渡りは凡そ1メートル半。

 少年の160センチ程度の身長には不釣合いだというのに、細腕1本で苦労する様子もなく肉厚の鉄塊をぶんぶんと振り回している。


「気がはえーぞ。沸くまでにはまだあるっての」

 はしゃいでいる彼をどこか呆れた様子で草の絨毯の上に寝転がっていた長身の青年が嗜めた。

 背には首から足までの長さを誇る大型の盾が背負われ、ベッド代わりに使われている。

「そうよ。まだセシリアさんが来ていないでしょう?」

 青年の隣で地面に直接ぺたん、と座っている赤色が眩しいショートカットの女性も同調して言った。

「分かってるって。今度こそレア出ねーかなー」

 注意された少年は暇つぶしとばかりに剣を構えると、軽やかなステップを踏みながら澱みのない剣戟を虚空に見舞う。

 両手で握り締めた剣が目で捉えきれないほどの速度で振りぬかれると、広場の端にある鬱蒼と茂る木から剥がれ落ちた1枚の葉が一瞬の内に10に及ぶ破片へと寸断されていた。

 どうだとばかりにふんぞり返る少年を、青年と女性はどこか微笑ましげに眺めている。


「凄いですね。2桁達成は初めてじゃないですか?」

 そんな2人とは対照的に、奥の木陰から一人の少女が絶妙なタイミングで顔を出すと、蕩ける様な柔らかい春の陽射しに似た笑顔で惜しみない賛辞を送ってみせた。

「レベル上がったからな。Agiも上限達成(カンスト)しちまったし」

 すると少年は照れつつもどこか誇らしげに鼻の頭を掻く。

「セシリア。あんま褒めると増長するだけだぞ」

 寝転がっていた青年が立ち上がる。

 地面の草は背負っていた盾と同じ形に潰され見るも無残な様相を呈しているが青年に気にした様子はないし、オブジェクトは一定時間で元に戻るのだから気にする必要もないだろう。

 邪魔にならない程度に切られた黒髪には寝転がった時にはみ出していたせいか、緑の草が幾つかくっついていた。

 少年より頭半分くらい大きな背丈は、同じく立ち上がった女性や少年の背が小さい事から2割り増しで大きく見える。


「ごめんなさい。待たせてしまいましたね」

 セシリアと呼ばれた少女が申し訳なさそうに頭を下げるとシルクのような光沢を持った、銀に少しの金が混ざった淡い白金の髪がはらりと舞い、太陽の陽射しを受けてきらきらと光の粒子を振りまく。

「いや、待ってなんかないから謝んなくていいって」

 少年が慌てて手を振るとセシリアは顔を上げてくすり、と微笑んだ。

 年の頃は10の半ばを過ぎたあたりだろうか。あどけなさを残す顔には少女と女性が危ういバランスを保って同居している。

 肌は透き通るように白いが朗らかな笑顔のおかげか病弱なイメージは伴わない。

 作り物めいた顔の造りは一つの芸術の完成形といっても謙遜ではないだろう。

「セシリアさんもきたし、そろそろ準備しよっか」

「はい。リースさん、カイトさん、キリエさん、今日もよろしくお願いしますね」




 言わずともがな、これはフルダイブシステムによって構築された汗と努力の結晶でもあるVRMMO、『World's End Online』の中だ。

 降り注ぐ太陽の暖かさや踏みしめる土の感触は現実とそう遜色ないのだが、良く見るとやはりゲーム的な部分は見え隠れする。

 HPバーや名前の表示、様々なシステムウィンドウは言わずともがな、この世界の風は現実の繊細さはなく、まるで見えない壁に押されている様だし、地面の土は粒からできている訳ではなく、平べったい別の何かだ。

 とはいえ身体を動かす感覚は現実世界と少しも変わらないのだから、多少のエフェクトの荒さは目を瞑るしかない。

 その内技術が発達すればより現実的な絵柄に変わり、いつの日にかは現実と微塵も変わらない世界が生まれるのかもしれない。


 ダンジョンの中でこうした他と違う景色が広がる場所は何かのイベントで使われる事が多い。

 この場所も例に違わず、1日に1回だけ再出現(リポップ)するボスモンスターの固定沸きポイントだった。

 ご丁寧な事に倒してから丁度24時間後に再出現(リポップ)するおかげで、誰にも知られずに倒せれば対抗パーティーに気付かれ難い利点がある。

 集まった4人も例に違わず、1週間前にこのボスが出現しているのを見つけてからずっと独占し続けていた。

 いつかは気付かれてしまうだろうが、その瞬間をなるべく遅らせる為に、沸き時間の直前で集合したのだ。


 彼らが欲しているのはボスモンスターが約0.2%でドロップすると言われているレアアイテムで、効果も優秀かつ需要も高いが、何分供給が全くない。

 サービス開始から2年経った今でもサーバーに2つあるかないかと言ったところだろうか。正確な数さえ把握されていなかった。

「カイトさんが取り巻きを抱えてキリエさんとリースさんで攻撃を担当。キリエさんはボスのヘイト管理を徹底してタゲが回らないように。暴走後は勝手にタゲ固定されますから、いつも通りに。これでいいですか?」

 セシリアの言葉に4人がそれぞれ軽い調子で頷いて見せる。

 生真面目な彼女の性格がそうさせているだけで、実際には打ち合わせの必要などないくらい何度もこのボスを狩ってきている。


 構成としては前衛2名、後方火力1名、支援1名とこのゲームではオーソドックスな組み合わせだ。

 キリエは先ほど舞い散る葉を10分割せしめた少年。

 見ての通りの前衛で、両手剣を使った高速かつ高威力の攻撃を好むが、特性上盾を持てず防御力に難がある。

 カイトは先ほど寝転がっていた大きな盾を持つ青年で、キリエとは真逆の防御性能に重点を置いた前衛だ。

 前衛はアタッカーとタンクに分類でき、キリエは前者、カイトは後者という事になるだろう。

 その後ろに控えていたショートカットの女性はリース。

 セシリアよりも一回り成長したアバターは少女というより女性、もしくはお姉さんという表現がよく似合う。

 支援が似合いそうな装いだがその実、火力特化ステの魔法職を嗜んでいた。

 そしてセシリアは外見通りといえばいいのか、とある理由からこのゲームでは貴重な存在になっている純支援だ。味方への回復や防御、敵への簡単なデバフを得意とする。


 彼らの共通点は誰もがゲーム内で上位に入るレベルを有している事。

 キャラの操作、いわゆるプレイヤースキルが抜きん出ている事だろう。

 それ以外には同じギルドに入っているわけでもなければ、いつも同じパーティーを組んでいるというわけでもない。

 しいて言えば、全員セシリアを中心として知り合い、互いのプレイヤースキルに惚れ込んだくらいか。

 それからというもの、美味しいボスを狩る時は何となく声をかけあう関係になっていた。


 他にも幾つか細かい最終確認をしてから広場の中心にカイトだけが立ち、3人はボスに認識されない程度の距離を取る。

 画面に表示されている現在時刻をじっと睨んで再出現(リポップ)までの残り時間をカウントし始めた。

「3……2……1……!」

 カイトのが0を告げると同時に目の前の空間が歪んで像を結ぶ。出てきたのは二本足で歩く人の子どもサイズの猫だ。

 手には真っ赤なボクシンググローブを嵌めていて、左目には3本の引っかき傷が走り開かれる事はない。

 頭には学生帽を被り、口には草の葉を咥え、身体に纏っているのは前時代的な裾の長い学ラン。さしずめ猫の不良番長といった出で立ちだ。

 次の瞬間、【ワイルド・キャット】は目の前のカイトを敵として認識、腕を突き上げて一声鳴く。

「にゃーん!」

 外見のワイルドさとは裏腹に、子猫のような可愛らしい鳴き声が空いっぱいに響いた。


「あぁ、やっぱり可愛いですよね」

 セシリアが細い腕を胸に抱きつつ、目を細めうっとりとした様子で【ワイルド・キャット】の円らな隻眼を見つめた。

 ボスモンスターといえばおどろおどろしかったり、メカメカしかったり、格好いい幻想獣を思い起こすが必ずしもそうではない。

 中にはこの【ワイルド・キャット】の様なイロモノ系ボスも幾らか存在している。


「惚けるのはスクショだけにしとけ! 来るぞ!」

 カイトの声にセシリアが小さく甘い息を零すと思考を切り替え前を見据える。

「にー」/「みー」/「みゃー」/「にゃ?」

 声に呼応して山ほどの猫が空からぼたぼたと降ってきた。

 そのどれもが現実世界の猫を程よく丸めにデフォルメした物で愛らしい事この上ない……のだが。

 【ワイルド・キャット】が天に向けていた腕をカイトに突きつけた瞬間、降ってきた猫達の円らな目が一様に細められ、招き猫のような姿勢を取ると爪が軽快な音と共に突き出された。

 リポップの時だけ見る事が出来る特殊な演出が完了する。


 イロモノ系のボスには幾つか共通点がある。

 そのどれもが一癖も二癖もある特性を持っていて正面から相手取ると非常に手強い。


「せぁッ!」

 カイトが自身を丸々覆い隠すほどの盾を力の限り水平に振りぬき、招き猫の一群を吹き飛ばす。

 悲しげな猫の鳴き声が哀愁を誘うが、空を舞った猫はきちんと体勢を整えて着地すると敏捷さを活かして攻撃してきたカイトへ飛び掛った。

「【リメス】」

 セシリアのあどけない声が、その中にも凜とした響きを持って紡がれると、カイトの周囲に薄青の膜が一瞬だけ浮かび上がる。

 1匹目がカイトに飛びつくと鋭利な爪を可愛らしい鳴き声と共に振るうが、盾に届く僅か手前で薄青の光によって弾かれた。


 セシリアの職業である最大主教(アークビショップ)が使える防御魔法の一種で、対象に独自の耐久力を持ったシールドを展開する魔法だ。

 規定の攻撃回数を受けるか耐久力がゼロになると消滅してしまうが、ディレイとクールタイムが短い事から汎用性が高く愛用されている。

 ちなみにディレイはそのスキルを使った後、他のスキルが使えるようになるまでに必要な時間の事で、クールタイムは同じスキルがまた使えるようになるまでの時間だ。

 よって、クールタイムはともかく、ディレイが長すぎると他の魔法も使えなくなってしまい、幾ら強力なスキルであっても考えなしに使うと立っていることしかできなくなる。

「キリエ、準備はいいな! 行くぞ!」

 2匹目、3匹目、4匹目が同時に爪を振るい、再び薄青の燐光によって阻まれるも、その後には6から12匹目が続いている。

 カイトは襲い来る攻撃の一切を無視して距離を取るべく駆けだした。


 ボスの取り巻きである【キャトル・キャット】は攻撃力こそ少ないものの数が異様に多い……のだが間違っても倒してはならない。

 手が滑ってついうっかり倒してしまうと【デス・キャット】という別モンスターになって蘇るのだ。

 そうなったが最後、足りなかった攻撃力が大幅に強化され、ついでに見た目も大変凶悪かつあまりお茶の間には披露できない姿に変わり色々な意味で大参事になってしまう。

 初見で挑んだパーティーは真っ先に取り巻きを狩り尽くし、それはそれは凄惨なトラウマを心に宿したという逸話もあるくらいだ。


 カイトの初撃はターゲットを自分に固定する為の物だ。

 【キャトル・キャット】には同じ種類のモンスターが攻撃を受けた場合、視認距離に攻撃したプレイヤーが居ると一緒になって襲い掛かってくる【リンク】という特性が付いている。

 仲間思いなのだ。良い話である。

 【キャトル・キャット】のターゲットがカイトに向いた事を確認したキリエが、待ってましたとばかりに飛び出し、本体である【ワイルド・キャット】に向けて慣れた手つきで斬りかかる。

 ちなみに【キャトル・キャット】が【リンク】を発揮するのは同じ【キャトル・キャット】だけで、【ワイルド・キャット】は対象外になっている。

 ……もしかしたら裏では嫌われているのかもしれない。下っ端の飲み会では上司に対する愚痴や文句が飛び交っていたりするのだろうか。不憫な話だ。


 何はともあれ、首尾よく取り巻きを引き剥がした所にキリエの全力を篭めた一閃が走る。

 胴を引き裂く確かな感覚と共に【ワイルド・キャット】がダメージモーションを表示し、僅かに身を引くと頭上に表示されたHPゲージが数ドット分後退する。

 何をしやがるとばかりに【ワイルド・キャット】も場違いなボクシンググローブを、側面から回り込むようにキリエの顎目掛けて振るうものの、曲芸染みた動きでうす笑いさえ浮かべながら上半身を逸らし回避して見せた。

 目と鼻の先をグローブが通過した瞬間、逸らしていた身体を前に押し込んで下段からの切り上げ、跳ね上がった剣先を力技で跳ね返し上段からの袈裟斬りにかかる。

 攻撃後の隙を突いた剣閃を【ワイルド・キャット】が避けられるはずもなく、再びHPゲージが後退した。

 振り抜いたグローブが胴へと引き戻され、今度は針を刺すかの如く鋭く突き出される。

 しかしキリエにはそれすら見えているのか、軸足を僅かに動かすだけで難なく回避して見せた。

 が、キリエが避けた時の事を想定しているのか、回避場所にもう片方のグローブが迫る。既に重心がずれているせいで同じように避けるのは難しいだろう。

 キリエの判断はここにおいても迅速だった。避けるのを諦めた彼は分厚い剣の腹を使って高速で迫りくるグローブを弾いたのだ。

 それどころか強引に割入った隙を使って更に数発、高速で剣を振ってさえいる。


「もう、早く出過ぎ!」

 リースがキリエの剣舞を尻目に半ば呆れながら告げると、予め用意していた魔法を解き放つ。

 温かな陽射しに包まれていたキリエの周辺が一瞬で雪の舞う極寒地に色を塗り替えられた。

 【パーマフロスト】、通称【凍土】と呼ばれる、敵のAgiを低減させる設置系デバフ魔法だ。

 感覚や筋肉がないと思われる魔法生物や寒さに耐性のある敵には効かないが、動物系のボスには効果覿面である。

 本来ならば【ワイルド・キャット】はAgiが高く設定されているので、こういったデバフ魔法がなければ攻撃を避ける事は難しいとされているのだが、キリエは持前のステータスに加えて軽業師じみた天性の身のこなしのおかげで全く問題はない。

 VRMMOではこうした現実の身体的能力が役に立つ場合もあり、システムに定義されていないプレイヤースキルとして羨望を集めている。


 セシリアはそんな彼らの動きを後方からじっと観察していた。

 彼女の職業である最大主教(アークビショップ)はいわゆる支援職で、パーティー全体の動きを把握しつつ適宜指示を送る司令塔の役目も付いて回るのだ。

 カイトは現在、山ほどの猫にもっさりとたかられながら牙と爪の洗礼を一身に受けている。

 流石にこうも数が多いと盾や先ほど使った防御魔法によるダメージ軽減は難しく、盾で受けきれない背後からの攻撃によって僅かずつではあるもののHPゲージを確実に後退させていた。


「【これより彼の地を聖域と定める】」

 セシリアの声と共にカイトの足元へ魔法陣が展開される。

 噴き出してきた淡い緑の粒子はカイトのHPゲージを減る以上の速度で増やし始めた。

 通称【聖域】と呼ばれる地面設置型回復魔法。

 範囲が狭い上に、通常の回復魔法と違って敵味方関係なく回復してしまう難点はあるが、モンスターを抱えるだけで攻撃が必要ない今みたいな状況下では非常に便利だ。


 続けてクールタイムが消えたのを見計らい、今度はキリエに向け【リメス】を再使用する。

 前衛のHP係数を考えれば例えAgi型であっても攻撃を1発貰っただけでHPが全損するようなことはない。

 しかし【ワイルド・キャット】には回避率に関係なく必中し、かつダメージが発生すると対象をノックバックさせる【猫だまし】というスキルが用意されている。

 前衛が吹き飛ばされるとターゲットロスが発生し、後衛に流れてしまう可能性が出てくるので、小まめに【リメス】を更新しダメージを無効化することでノックバックを防ぐ必要があるのだ。

 だから【ワイルド・キャット】を抱えるのは通常攻撃を難なく回避することができ、【リメス】の防御回数を削らなくて済むキリエの様なAgi型の前衛が好ましいとされていた。

 とはいえ多数の取り巻きごと抱えると折角の回避率が大幅に落ちるペナルティを受けてしまう。

 カイトが居るのはわらわらと群れる取り巻きを別に持つ事で回避率の低下を防ぐ為。このボスにはどうしてもこの2役が必要不可欠なのだ。


「1発目、そろそろ行っちゃうね」

「お願いします。【キャストリダクション】」

 見ればキリエの連続攻撃によって【ワイルド・キャット】のHPゲージは既に2割ほど削られていた。

 ヘイトを余分に加算させる【挑発】のスキルを使いながらここまで減らしたのであれば魔法で大ダメージを与えても早々ひっくり返ることはない。

 リースに使われた魔法は今までとは毛色の違う、名前の通り対象者の詠唱時間(キャスティングタイム)を軽減させる魔法だ。

 高レベル、高威力の魔法になればなるほど詠唱時間は跳ね上がる傾向にある。

 装備やステータスで下げる事は勿論できるのだが、火力をこよなく愛する彼女は詠唱時間の低減よりも1発の威力に重点を置いている為、同レベルの平均と比べて詠唱時間が長い。

 ソロでは欠点になってしまう事が多いのだが、こうして補う事で詠唱速度は遜色ない物に変わり、威力が栄えることになるのだ。

 リースが詠唱を始め、魔法陣が敵の足元に展開されるのを見届けてからキリエに向けて再び【リメス】を、カイトの足元の【聖域】を再展開、スキル攻撃を受けて回復しきれていなかったカイトのHPを【ヒール】で最大値まで回復させる。


 十秒程度の長い詠唱時間が過ぎた頃、ようやくリースの魔法が完成し解放された。

 刹那、巨大な炎の龍が大気中に形成され【ワイルド・キャット】目掛けて食らいつく。

 全身を灼熱の炎に焼かれるとコミカルな動きで地面をのたうちまわった。

 リースの魔法はたった1撃だというのに、今までキリエが削っていたのとほぼ同じ長さをHPゲージから奪い去っている。その上、この魔法の効果はこれだけではない。

 通常、ボスモンスターは状態異常にならないのだが、リースの職業である魔導師(ウォーロック)にはボスであろうとも状態異常を付加できる魔法を幾つか揃えている。

 先ほどの魔法がまさにそれで、攻撃を受けた対象は暫くの間炎熱状態となり、状態異常中は何もせずとも微量のダメージ、通称【ドットダメージ】が残り続けるのだ。

 ただ立っているだけだと言うのに【ワイルド・キャット】のHPゲージが数ドット、また数ドットと目に見える速さで減っていく。


「リースさん。ドットダメージ、この間より増えてませんか?」

「実は装備を新調したの。炎系の魔法ダメージならドットダメージ含めて10%も底上げしてくれるみたい」

 そう言って胸に下げられた赤い炎を灯すペンダントを振ってみせる。

「それ、確かこの間のパッチの目玉アイテムですよね。凄い、もう手に入れたんだ」

 大分無理しちゃったけどね、と片目を瞑り茶目っ気たっぷりに笑う姿はどこか嬉しそうだ。

 彼女は火力の為とあらばどんな高額な装備であろうとも必ず手に入れる頼れるアタッカーなのだ。


 そうこうしている内に【ワイルド・キャット】のHPゲージが半分を割る。

 途端にキリエへ襲いかかっていた勢いはどこへやら、急に四肢から力を抜くとまるで燃え尽きたぜ、真っ白になとでも言うかの如く猫背で立ち竦んだ。

 4人の表情が今まで以上に引締められる。

 ここまではただの前哨戦、取り巻きさえ別に抱えれば低レベルのパーティーでも然程苦労せずに辿りつける。

 問題なのはここからで、【ワイルド・キャット】はまだ変身を2回も残しているのだった。


「キリエ、絶対に倒すなよ!」

 【ワイルド・キャット】の頭上に詠唱中を示すバーが現れ、ゆっくりと充填されていく。

 絶好のアタックチャンスだがキリエはさっと飛び退くと大量の猫を抱えているカイトの隣に走り、群れている猫めがけてスキルを発動させた。

「任せとけって! 【スラッシュ】ッ!」

 キリエにとってはとっくの昔に卒業した基本職で覚える、久しく使っていないスキルを解き放つ。

 消費MP量は少ないが威力も乏しく、上位スキルを覚えると自然、スキルリストの肥やしになる。

 しかし1撃で敵を殺さない程度に、かつ程よいヘイト値を稼ぐのには最適だった。

 【キャトル・キャット】が可愛いらしく抗議の声を上げると追従するように他の【キャトル・キャット】もターゲットをカイトからキリエに変更する。

 全てのターゲットがキリエに向かったのを見て取ると、カイトは未だ詠唱中の【ワイルド・キャット】の前に躍り出た。


 このゲームは敵に囲まれれば囲まれるほど回避力にペナルティを受ける。取り巻きすべてに囲まれたキリエが攻撃を避ける事は出来ない。

 かといって、カイトの様に【聖域】の上で立っているだけで安全を確保できるわけでもない。

 あくまで耐久力を集中的に育て、防具に並々ならぬお金を注ぎ込んだカイトだからこそできる芸当なのであって、回避を旨とするキリエとは立場からして違うのだ。

 そんな彼が取り巻きのタゲを取りつつ対抗する手段は1つだけ、そのAgiを活かして逃げ回る事だ。

 サークルトレインと呼ばれる、大きな移動を伴わず、円を描くように、かつ敵に追いつかれないようにぐるぐるとまわり続ける終わりなき追いかけっこ。

 それが【ワイルド・キャット】が倒れるまでの間キリエが勤め上げる役目だ。

 そこいらに沸く普通のMobにこのような行為をすれば溜めこみと称され揶揄される事はあるがボスモンスターの取り巻きであれば関係ない。

 リースの【パーマフロスト】によって【キャトル・キャット】の動きは鈍っているが、ちょっと間違うだけでも囲まれてしまう危険がある。

 中々にコツが必要な、システム上で定義されていないプレイヤースキルの一種なのだが、キリエ自身の華麗な立ち回りを以ってすればなんてことはない。


 群れを成す【キャトル・キャット】との傍から見れば幸せそうかつ平和そうな運動会を始めたキリエを尻目に、カイトは【ワイルド・キャット】へ続く限りのスキル攻撃を連発する。

 激しいエフェクトが次々に迸るが、肝心のダメージは殆ど発生していなかった。

 ヒーローの変身中に攻撃するなんて無粋だろう? とでも言いたいのか、ほぼ全てのボスモンスター、特にイロモノ担当が行う攻撃用ではない演出用の詠唱は【ハードスキン】と呼ばれる特殊状態で保護されてしまう。

 もっとも、この後カイトは一切攻撃に参加しないので削れるだけ削ってしまえと遠慮する事はない。


 やがて詠唱が終わると、【ワイルド・キャット】は両の手からボクシンググローブを引き抜き地面に捨て去る。

 鉄塊が落ちたかのような重量感のあるエフェクトが2回分、物々しさを持って響き地面を揺らした。グローブが落ちた場所には小さな凹みが生まれている。

 自由になった手から鋭利な爪をシャキーンと突き出すと着ていた学ランを引き裂く。そちらも同じようなエフェクトと共に地面に落下し、やはり小さなクレータを作り出した。

 最後に頭に被っていた学生帽に手をかけると、空に向かって大きく放り投げる。

 ニヤリ、と肉食動物が獲物を捕食する時の獰猛な笑みを浮かべた直後、降ってきた帽子が【ワイルド・キャット】のつま先にめり込み、可愛らしい鳴き声がまた響き渡った。

 イロモノ系だけあってコミカルさを忘れてはいない。


 可愛らしいモーションなのだが、涙目でカイトを睨む【ワイルド・キャット】の能力は先ほどまでと比べて大幅に強化されている。

 一体どこの少年漫画だと思しき超重量による過負荷トレーニングから解放された彼は、主人公補正もかくや必中攻撃でなければどんな攻撃も避けてみせらぁとばかりの異常な回避力を見せる。

 こうなってしまうと魔法や必中効果のあるスキルでなければあらゆる攻撃が当たらなくなるのだ。

 同時に、てめぇの動きなんざ蚊が止まってるのも同じだぜとばかりに命中率が増大する。いや、増大と言うよりも、全ての攻撃に必中が付いたかのようだ。

 これはキリエの類稀なる回避力を持ってしても避けようがない程で、防御力に乏しい彼では変身後の【ワイルド・キャット】を押さえられない。

 前半は回避型の前衛を、後半は盾型の前衛を、恐らくこのコミカルな変身の演出はネタ要素のついでにスイッチする為の猶予時間、と言う扱いなのだろう。

 ここからはとにかく急いで【ワイルド・キャット】のHPをゼロにするしかない。

 

 演出が終わりハードスキンが解除された瞬間、リースの魔法が【ワイルド・キャット】を包み込んだ。

 しかし今度は残っていたHPゲージの1割も削れていない。ドットダメージにしても先ほどとは雲泥の差だ。

 上昇したステータスは魔法耐性までもを大幅に引き上げたのである。

「うー、にゃー!」

 唸りながら力を溜め、両手を突き出すようにしてカイトにとびかかる。

 目をきつく(><)といった形に閉じて襲い掛かる様は、さしずめ玩具に飛びつく猫でワイルドさの欠片も感じられないが、カイトを覆っていたセシリアの防御魔法はたったの1撃で無残にも切り裂かれた。威力だけはワイルドである。

 爪と構えられた盾がぶつかり金属質な音をまき散らす。カイトはもう剣を構えていなかった。

 ただ盾だけを握りしめ、上下左右、時には裏から回り込む【ワイルド・キャット】の攻撃をひたすら防ぎ続ける。

 【聖域】は敵まで回復してしまうから使うわけにはいかない。

 セシリアは回復魔法である【ヒール】を連発しながらクールタイムが過ぎるのを見計らって【リメス】も隙間なく使っていく。

 それでもHPが減少する速度の方がずっと速い。

 折を見て、カイトはインベントリから取り出したHP回復薬であるポーションを仰ぐ。

 こちらにもクールタイムが設けられているから連発は出来ないが賄いきれないHPを誤魔化すのには丁度いい。

 【ワイルド・キャット】の攻撃速度は完全に常識を逸脱していた。

 秒間にして凡そ4、5回。もはや振られる爪を視認する事さえ難しい。


 再びリースの魔法が火を噴く。先ほどのドットダメージの蓄積も相成ってHPゲージが25%を切った直後、【ワイルド・キャット】が飛び退き再び演出に入る。

 ぜいぜいと肩で息をしつつ辛そうに額の汗を拭うが口元には堪えきれない笑いが張り付いていた。へへ、やるじゃねぇかとでも言いたげである。

 だが少年漫画的な様相を醸していたのはそこまで。

 おもむろに咥えていた葉を摘むと、隠されていた1本の細い管を取り出し、端を折ってから鼻へ近づけもにょもにょした。

 途端に今までの追い詰められた様な表情が恍惚に緩みきり、ごろごろと愛らしい動作で床を転げ回り始める。

 隙だらけではあるがこの瞬間も当然の様に【ハードスキン】が働いていて攻撃を受け付けない。

 明らかにヤバイとしか形容できない一連の動作だが、公式の質疑応答ではこう説明されている。

 Q.【ワイルド・キャット】が吸っている物は何ですか?

 A.もちろんマタタビです。白い粉末状のマタタビです。ちょっとハイになれるだけのただのマタタビです。それ以外の何物でもありません。決して真似はしないでください。

 なお、最近PTAから不適切ではないかと苦情が殺到しているらしい。


 閑話休題。

 【ハードスキン】は確かに厄介だが1つ利点がある。

 効果終了時間をきっちり計れるようになれば、その瞬間を狙って高威力の魔法を実質無詠唱で叩き込めるのだ。

 こちらもシステム上では定義されていない【先行入力】と呼ばれる難しい技術ではあるのだが、そこは互いに腕を惚れこみ合った間柄。

 リースが失敗するはずもなく、目をとろんと蕩けさせ、頬を上気させた【ワイルド・キャット】の【ハードスキン】が解除された瞬間に準備していた魔法が発動する。

 25%を切っていたHPゲージは凡そ1割五分まで量を減らし赤く染まった。次か、遅くともその次の一撃で決まる。

 ところが勝利を確信の手前まで意識した瞬間、背後からリースのものではない魔法が唐突に吹き荒れ、キリエが連れまわしていた【キャトル・キャット】を一匹残らず消し飛ばしてしまった。


 キリエやリースが唖然とする中、セシリアだけは攻撃の飛んできた方向を冷静に振り返る。

 そこにはやはりと言うべきか、同じ【ワイルド・キャット】を狙う対抗パーティーが数人立っていた。

 それもボスを狩る為ならMPKから妨害までなんでもござれで有名な、関わり合いになりたくない一団だ。

 まずい、と思う暇もなく【キャトル・キャット】の死骸が起き上がる。

 全身から血を流し、所々には白い物が突き出て、かつ首が異様な方向へ曲がっている。

 HPは全回復していた。別モンスターである【デス・キャット】となって甦ったのだから当たり前か。

 数は全部で20匹以上。どんな前衛でも一人で抱えるのは難しい。


「おおっと大丈夫か? 追いかけられてるみたいだったからついつい助けちまったよ。一日一善だなぁおい!」

 あからさまな妨害行為ではあるが規約上に取り巻きを攻撃してはいけないと言う記載はない。

 とはいえ、彼らの行為が悪意に満ちていたのは誰から見ても明らかだった。

 何が面白いのか、彼らは一様にげらげらと下卑た笑い声をあげる。

「セシリアちゃんもさぁ、そんなのと一緒にいないでこっちで組もうぜ?」

 またか、とセシリアは内心嘆息した。

 色々な原因が重なったし、自分から飛び込んだ感も拭えないが、セシリアの群を抜いた可憐な容姿と穏やかな物腰、支援の腕はサーバー内でも有名になっている。

 ただパーティーに居るだけである種のステータスとなり、こういった勘違い集団から声をかけられる事も多いが、その全てを断っていた。

 しかし、彼らのリーダー格がセシリアにご執心な様子で断ってもしつこく纏わりつかれている。

 もしかしてログインしてからこの方、見張られていたのだろうかという考えがセシリアによぎり、内心ぞっとするが、今はそんな事にかまけている場合ではなかった。


「リースさん、もう一度魔法をお願いします。カイトさんは手持ちのポーションでできるだけ頑張ってください。キリエさん、私の魔法が完成したらこちらへ!」

 そんな彼らから距離を取るべく、セシリアはキリエのやや手前に移動する。

 集団は何もせずにじっと4人を眺めているだけだった。

 ここでボスを横から掻っ攫っても既にダメージの80%以上を与えているセシリアたちの方がドロップアイテムの優先権は高い。

 また、このゲームでは通常マップでの直接的なPKが禁じられている。それができるのは特殊なイベントか、専用の部屋だけだ。

 ここにはMobが沸くわけでもないから出来る妨害は【デス・キャット】の召喚くらい。

 恐らく4人が倒された後で残りのHPを削りきり、ドロップアイテムを回収する思惑なのだろう。

 当然ながら、死んでいるプレイヤーはドロップアイテムを拾えないのだ。

 けれどセシリア達もここまで削った意地がある。そう簡単に死ぬわけにはいかなかった。


 セシリアはインベントリから小さな小瓶を数個取り出すと蓋を開けてせっせとばらまく。

 きらきらと煌きながら地面に撒かれた水は仄かな燐光を灯していた。

 勿論普通の水ではない。アイテム名は聖水。支援職が特殊なスキルを使う時に触媒として消費するアイテムだ。

「【これより此の地を聖堂と定める】」

 撒かれた聖水が空に向かって一斉に光を放った。四角い空間が形作られ眩いばかりの光を溢れさせる。

 魔法が完成したのを見計らってキリエが大量の【デス・キャット】を引き連れながら空間の中に飛び込んできた。

 バランスを崩し転んだ彼に向けて大量の躯が飛びつき食い荒らすかに思われるも、純白の空間は【デス・キャット】の侵入を許さず強い力で弾き返す。


 通称【聖堂】。

 最大主教(アークビショップ)で習得可能なボスモンスター以外の侵入・攻撃を遮断し、休憩可能な場所を提供する便利な魔法なのだが、効果中はMPが断続的に減り続ける上に他の行動が一切できなくなってしまう。

 それどころか、味方による内側から外側への攻撃も全て遮断してしまう為、使いどころはあまりない。

 しかしこうなってしまえば他に選択肢はあるまい。

 【聖堂】にも耐久値はあるのだが、ことアンデットや悪魔に対しては効果や耐久値が飛躍的に上昇する性質を持つ。

 【デス・キャット】は名前からも容姿からも分かるようにアンデットである。いかに彼らが強力だとしても相性的に早々破れはしない。

 未だキリエをターゲット認識したままの彼らは既に考える頭がないのか、何度もぶつかっては弾き飛ばされを繰り返しながら臓物をそこかしこにぶちまけていた。

 大変にグロい光景である。どう考えても度重なるデスマの末に製作者の頭が病んでしまったとしか思えない。

 小動物との可愛らしい追いかけっこは一転、化け物に追い詰められ家屋へ逃げ込んだスプラッタ映画に様変わりしていた。


 一刻も早く終われとセシリアが念じた時、リースの魔法が完成し【ワイルド・キャット】を包み込む。

 HPゲージがゆったりとした速度で減少するが僅か1ドットを残して動かなくなった。

 盾役のカイトのHPもとっくにレッドゾーンへと突入しており限界が近い。【聖堂】の展開で動けなくなったセシリアからの回復が途絶えたのだ。寧ろよく耐えている方だろう。

 このままでは次の一撃を耐え切れまい。

 ふらついていた【ワイルド・キャット】が主人公補正の力を見やがれとばかりに、手持ちのポーションも使い果たしHPゲージを僅か一ドットだけ残したカイトへ爪を振り上げた。

 ダメかと思った瞬間、【ワイルド・キャット】の身体を覆っていた炎が再び光を取り戻し、ドットダメージが最後の1ドットをあっさりと削り取る。

 ぐらり、と爪を振るう力もなく【ワイルド・キャット】の身体が崩れ落ち地に伏した。

「にゃーん……」

 最後に聞こえたのは何とも情けない、甘えた様な猫の鳴き声だった。


 ボスが倒された事で【デス・キャット】もまた綺麗さっぱり消滅すると共に、猫の身体から半透明になった【キャトル・キャット】が頭に輪を、身体に純白の羽を生やして空を駆ける。

 良かった、死体に囚われた猫なんて居なかったんだ。

 ようやく平穏が訪れた広場でカイトが【ワイルド・キャット】の落としたアイテムを回収するとインベントリに手早く仕舞った。

 残念ながら求めていたレアアイテムは今日もドロップしなかったようだ。

 単純計算、毎日倒したとしても1年以上はかかるのだから当然と言えば当然なのだが。

「ケッ、まぁいい、次の再出現(リポップ)時間はメモったからな」

 一団はからくもボスを倒した一団へ忌々しそうに捨て台詞を吐くとプリーストが出した【ポータルゲート】に乗って姿を消す。

 恐らく自分のホームに帰ったのだろう。

 これで次回のボスが妨害工作満載の血と血で洗う醜悪な様相を呈するのは確定的になった。

「次回はなしだな。時間は公表するがみんないいか?」

 キリエは渋々と、セシリアとリースはやれやれとばかりに頷いて見せる。

 誰もそんな神経が磨り減るような戦いは望んでいない。ならばせめて時間を公表して対抗を増やしてやろうという腹積もりだ。


「な、時間あるんならこの後どこかいかない?」

 キリエの申し出にカイトとリースは時計をちらっと確認してから1時間くらいなら、と頷く。

「ごめんなさい、このあとちょっと人と会う約束をしてるんです」

 しかしセシリアには予定があるようで申し訳なさそうに頭を下げた。キリエは心底残念そうな顔をするが引き留める事はしない。

「また"あれ"か?」

 カイトの言葉にセシリアが意味深な笑みを浮かべた。それだけで、"あれ"なのかとカイトが理解する。

「しっかし、お前も本当に訳わからんな。どうしてそんな事の為にここまでするんだか」

「カイト、それは誰にも言わないって」

「分かってるよ。ぶっちゃけ俺もその瞬間は楽しみなんだ。もうすぐなんだろ?」

「カイトが邪魔したりとちったりしなければね」

 普段の丁寧な物腰はカイトを相手にする時だけ少し崩れる。それをキリエはどこか羨ましそうに眺めていた。

 2人が特別な仲であることは、セシリアを知る者にとってはごく当たり前の事実だ。

 リア友。ゲームの中だけでなく現実世界でも顔を合わせる関係と言うだけで、この世界では特別な扱いになる。

 とはいえリアルで男女として付き合ったりしているわけではない。そういう噂が流れることもあるが大きな間違いだ。

 というか、現実の2人とってそれだけはありえない。


「それじゃ、町までゲートを出しますね」

 【ポータルゲート】と呼ばれる転移魔法。

 最大4か所まで自由に記録でき、記録した場所へ繋がる扉を展開できる魔法で、移動の際に重宝する。

 記録できる場所は街だけに留まらず、イベント限定のマップ以外なら例えダンジョンの中でも構わない便利な代物だ。

 一瞬の暗転の後、ただいま読み込み中と言う一文が流れた後に視界が開け街の只中に出現する。

 拾ったアイテムの分配は後でまとめて、と話をしてからセシリアは一人パーティーを抜けると、4人は各々の好きな様に解散した。

 セシリアが参加しなければパーティーは組まない。というより、組むのに時間がかかりすぎる。

 ならばソロで狩った方が断然美味しく、廃人である彼らはお気に入りの狩場に向かっていった。


 赤煉瓦で作られた町並みは整然としているとは言い難いが、だからこそ雰囲気が良くでていた。

 地面は対照的な乳白色の石が歪な形ながらもきっちりと敷かれている。

 リアリティを追及するために街並みは現実にある物をベースに多少のアレンジを加えて作り出されているらしい。

 こんな景色が世界のどこかにあるのなら眺めてみるのもいいかな、とセシリアは思う。

 けれどこの世界はやはりゲームで、だからこそゲームでしかありえない景色も作れるのだ。


 時は既に夜半、町外れに到着したセシリアは心からの感嘆を興じずにはいられない。

 もう何度この光景を見たかは覚えていないが、作られたビジュアルは余りにも圧倒的で幻想的だった。

 周囲に明かりは設置されていない。

 ぽかりと開いた空間には大きな、それは大きな桜の大樹が幻想的に咲き誇り、燐光の灯る花弁を蛍の様に空へと舞わせる。

 いつの頃からか幻想桜と呼ばれるようになった、夜にだけ咲くオブジェクトだ。これがあるからこの町をホームにしているという人も数多い。

 周囲には同じ様に桜を見上げているプレイヤーがちらほらと見て取れる。そのどれもが男女一組のペアで熱い眼差しを送っていた。

「来てくれたんだね」

 うっとりと桜を眺めていたセシリアの背後から男性の低い声が聞こえ、華奢な肩に無骨な手が載せられる。

 くるりと振り向けばカイトよりもなお背の高い精悍な青年が照れた笑みを浮かべて佇んでいた。


 青年のエスコートに従うままセシリアが歩を進めれば、辿りついたのは桜の木の幹だった。

 近くには数人の男女が居たが、セシリアと青年の姿を見止めるなり意味深な笑顔を作って立ち退いていく。

「忙しい所突然呼び出してすまなかった」

「いえ。丁度暇してたところですから。どうしたんですか? 急に呼び出すなんて珍しいですよね」

「いや、それは……」

 青年が言葉を濁した。どこかそわそわしていて、心ここに非ずといった様子だ。

 その理由が何であるのか、セシリアは鋭敏に感じ取りながらも黙っている事を選択する。


 過去の経験からして、こういう時は促すべきではないのだ。

 暫くそうしていると、青年は一度大きく息を吸ってからえいやとばかりに顔を上げてセシリアの大きな瞳をじっと見つめる。

「あのさ、良かったら俺と固定PTを組んで欲しいんだ。できれば、ずっと」

 この場所に男女のペアが多いのは、単純にデートスポットとして利用される事が多いからだ。

 誰が言い出したのか、この桜の幹の下で想いを伝え受け入れて貰えれば相思相愛になれるという乙女ちっくな噂がまことしやかに囁かれている。

 先ほど場所を譲ってくれたのは緊張した青年の表情が今から意中の相手に告白すると克明に物語っていたので空気を読んでくれたのだろう。

 だからセシリアもとぼけるような真似はしない。


「ごめんなさい」


 花弁の光がふわふわと舞い踊る中で、セシリアが小さな頭を精一杯下げる。

 動作に合わせてさらさらと流れた薄桃色の光が白金の髪をほんのりと染めていた。

 青年の申し出は簡潔に言えば相方になって欲しいという物だ。ゲーム内システムにある【結婚】を見越しての発言であることは想像に難くない。

 断られた青年は呆けたようにその場で立ち尽くすが、どこか吹っ切れた様な表情をしている。

 元よりセシリアは遥か高みの華であり、今まで同じように告白してきた相手を全て断っているのは有名な話だ。

 自分がその例外になれればと妄想したことは数え切れないほどあるが、頭のどこかでは断られるだろうと冷静に断じていたのも事実。

 だから呆けたのは悲しいからではない。ただ単に、彼女の姿があまりにも儚く幻想的だったから見惚れてしまっただけだ。


「いや、いいんだよ。ごめん、俺の方こそ悪かった。顔上げてくれよ」

 俯いたセシリアの表情は青年からでは窺い知れない。

 ただ微かに漏れる嗚咽と震える華奢な肩は、青年を大いに狼狽えさせるには十分過ぎる威力を持っている。

 一陣の風が吹き抜け、セシリアの長い髪が躍る。極上の細い絹に似た質感が男の手をくすぐった。

 引き上げられたセシリアの瞳は涙で潤んでいて、桜の花弁の燐光を吸い込みながら煌いている。

 大きな瞳から溜まった涙が一滴、ぽろりと零れることで男がさらに狼狽えてみせた。

 傍から見れば偉丈夫の大男が少女に何かしでかしているようにしか見えないだろう。

 周りでこっそりと2人の様子を見ていたプレイヤーはご愁傷様、とばかりに、青年に対し憐憫の視線を投げかけていた。


 告白イベント失敗。フラグは立たず。

「あー、でもさ、できれば友達では居てほしいんだけど……ダメかな」

 男性が気恥ずかしそうに笑いかけるとセシリアは瞳を少しだけ開いて、見る物を虜にするような暖かな笑顔を作ってみせた。

「はいっ」

 うっと、男性が呻き声を漏らす。セシリアが胸元で合わせていた手がいつのまにか男性の手を取ったからだ。

 笑顔と握られた温かな手に視線を彷徨わせ、男性の頬が朱に染まる。

 セシリアはそんな男性の様子を見て無垢な笑顔を浮かべ続けていた。

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