七章 悲しみはいつか

 父が死んだ。

 黒金昭雄の死は、特に衝撃もなく伝わった。

 死因は急性心不全。いつもと同じ朝を迎えた黒金家の中で、一人だけ永遠に起き上がらない者があった。それだけの話だった。

 家の中での突然死ということで一応警察が来たが、黒金家に遠慮したのか形式通りのことを聞き終えると不審な点はなしとしてすぐに帰った。

 通夜と葬式は、家の中で行われた。葬儀に参列したのは颪町の外の人間ばかりで、町の人は誰も顔を見せなかった。

「これって、呪いなんでしょうか」

 通夜が終わって朝を迎えると、晶はまゆらにそう訊ねた。まゆらは昭雄の死に対し、すぐに自分の家に戻って喪服を揃えて引き返してきた。葬儀に参列することは暁美が許可しなかったが、これは気持ちだから――と寂しそうに笑っていた。

 まだ父の死ということに感慨が湧かないまま眠った晶は、まゆらの声で起こされた。見れば喪服姿のまゆらが晶を揺り起こしていた。

 暁美に言われて晶を起こしに来たのだと説明したまゆらは、しかし慌てる訳でもなく晶が喪服に着替えるのを隣の部屋に戻って待った。葬儀の開始にはまだ時間があったので、晶はなんとはなしに、まゆらに訊ねていた。

「呪いって、便利な言葉なの」

 どこか自嘲気味に、まゆらは口を開いた。

「呪いということにしてしまえば、それは時には格好の逃げ道になるし、時には底なし沼にもなってしまう。なんでもかんでも呪いにするっていうことは、実際は現実に目を瞑ることにもなりかねない。その線引きは、本当に難しいの。特に、私みたいな人間には、ね」

 それは晶への解答にはなっていない。だがそれは、晶に認識を委ねるのと同時に、正しい認識を促すものだった。

 出棺の時、姉の幹子がむせび泣いていたことが妙に印象に残った。同時に、晶は自分に人の血が通っているのかと不安になった。父の死に顔を見ても、それが棺に入れられて火葬場に運ばれる時も、燃えて骨と灰になったものを見ても、悲しいとは思ったが涙を流すことはなかった。姉との違いに、変な動揺を覚えてしまう程だった。

 夕方には弔問客をもてなすために、晶の知る限りでは初めて下座敷が使われた。晶は下がってもよいと言われたので、風呂に入ってから自分の部屋に戻った。

 布団に倒れ込み、そのまま目を閉じるとあっという間に眠りに落ちていった。

 耳元の荒い息遣いで、ゆっくりと目を開く。

 身体に、厭な寒気が走る。皮膚の上を、熱い掌が往ったり来たりを繰り返しているのだと気付き、全身に怖気が走った。

「やあ、起きたね」

 はあはあと荒い呼吸をしながら、そう囁く声。

 咄嗟に悲鳴を上げようとするが、口は塞がれていた。

「今日から僕がこの家の当主だからね。やることはきちんとやらないと、神様を怒らせてしまうだろう?」

 必死に逃げようともがくが、身体全体で覆いかぶされていて身動きが取れない。

「じゃあいくよ」

 絶叫しそうになった。自分の中に、全く知らない何かが押し入ってくる。それが乱暴に身体の中を押し広げ、抉っていく。

 訳もわからずただ涙を流した。痛かった。それ以上に悲しかった。

 身震いして何かを晶の中に吐き出すと、それで気が済んだのか晶から離れる。

「またしようね」

 満足げに笑いながら部屋を出ていく。

 放心したまま、朝がきた。一体自分が何をされたのかまるでわからないが、途轍もなく汚らわしく惨めな気分だった。下半身が痛む中、なんとか服を着て恰好だけは平静を装う。

 あれが誰かというのは明白だった。今この家の中に、男は一人しかいない。だがこのことを母に打ち明けるのは躊躇われた。自分のされたことが他人に知られたらと考えるとそれだけで耐えられない。辱めという言葉の意味はわからなくとも、自分がそれを受けたのだと晶にははっきりわかった。

「晶さん?」

 ノックの後にそう声をかけられ、晶は飛び上がりそうになる。まゆらの声だった。時計を見るともう朝食の時間を大きく過ぎている。母に言われて様子を見にきたのだろう。

「は、はい。どうぞ」

 ドアが開いてまゆらが入ってくる。変わった様子を見せまいと気を使ったが、まゆらはすぐに晶の異変に気付いたようだった。

「何か、あった?」

 ぶんぶんと首を横に振る。

 まゆらはほんの少しだけ嫌悪感を滲ませるように眉を顰め、すぐに晶を安心させるために穏やかな笑顔を浮かべた。

「朝ごはん。早く食べにきてってお母さんが」

「は、はい――」

 朝食を食べ終え、再び部屋で放心していると、窓の外から物音がした。

「あーきーらー」

「――冴子先輩?」

 はっとして身だしなみを整える。

「出てこれる? 無理ならいい」

「すぐ行きます!」

 裏口から抜け出し、全力疾走で部屋の窓が面する茂みまで急ぐ。

 晶の顔を見ると冴子はまず礼をする。

「この度はご愁傷様でした――はい! 形式終わり!」

 すぐにいつもの笑顔に戻り、冴子は晶の手を取った。

 晶はそのまま、冴子の胸の中に埋もれた。

「冴子先輩っ――」

 声を上げて泣いた。夜のあの惨めな体験を何故か冴子の顔を見た途端に思い出し、その悲しみをどうにか吐き出しくてたまらなくなった。

 多分、冴子には父の死を悲しんでいるのだと勘違いされるだろう。だが、それは格好の隠れ蓑だ。冴子に昨夜のことを知られれば、きっと晶は死んでしまう。

 冴子は何も言わずに晶を抱き止め、優しく頭を撫でてくれていた。

 晶の涙が収まると、冴子は来てよかったと笑った。

「お葬式、行けなくてごめんな。その次の日に顔を出していいか迷ったんだけど、晶が心配でさ」

 まだ言葉は出ないので、冴子の胸の中でこくんと頷く。

 かたかたと、何かが地面を通っていく音がした。

 車輪の音だろうか。だがこんな山の中を通っていくものなどそうはない。

 冴子の胸の中から顔を上げ、音のした方向を見る。

 車輪――だった。

 金属でできたような車輪が一つ、炎を纏って山の中を転がっていく。

 そしてその車輪の中心には、凄まじい形相をした男の顔が付いていた。

「冴子先輩――」

 それまで身体を預けていた冴子を思わず呼ぶが、手を伸ばすとその手が空を切る。

 車輪の中の男が、口に何かをくわえている。手――足――顔――。

「嘘――」

 その顔は、冴子のものだ。目の前にいたはずの冴子が消えている。違う。車輪の男に奪われた。

 晶は訳もわからず悲鳴を上げた。

「大丈夫。冴子さんは強い」

 いつの間にか晶の隣に立っていたまゆらが、手を握る。

「これは晶さんの問題。これを」

 まゆらは晶の手に、家の中に貼ってあった札を握らせる。

「いい? 晶さんにとって冴子さんがどれだけ大切か。その想いをありったけ込めて、冴子さんの名前を叫んで。それだけ」

 晶は転がっていく車輪を見ながら、パニックになりそうなのを必死に堪え、自分の中の冴子への想いを身体の底から呼び起こす。

 その想いで胸がいっぱいになっていく内に、思わず涙が滲んでいた。もう、ごまかしようもない。晶にとって冴子は、たった一人の、本当に大切で、大好きな人なのだ。

 それを、いつも使う呼びかけに乗せて、吐き出す。

「冴子先輩!」

「うお、びっくりした」

 隣でおどけた調子の声がする。晶がはっとしてそちらを見ると、冴子が何事もなかったかのように晶の顔を覗き込んでいた。

「え?」

 訳がわからずにまゆらを捜す。だがまゆらの姿はどこにもなかった。

 握った拳を開くと、そこにはあの札が入っていた。

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