四章 樒の舞い

 燃えたのは湯山の家の裏山の祠だった。

 根津村――火無川流域の風祭が伝わる集落では、殆どの家の裏には祠が祀ってあった。「神よばい」で用いる樒も、その祠に寄りそうように植えてあるが常である。

 それはどれも小さく簡素なもので、無論充分に家の者からは信心されているが、殆どが家の中だけの信心であって、外部の者が参拝することはまずあり得ない。

 その祠が、燃やされた。ガソリンをかけられ火を放たれた。

 湯山の孫の嫁である由美ゆみが異変に気付き、夫の誠司せいじに知らせてから一人で必死に消火器をぶっ放したという。誠司が村中に火事の一報を伝え駆けずり回っていた頃にはもう陽は暮れており、湯山の家の裏手から火が上がっているのが遠目にもわかった程だった。

 しかしガソリンが撒かれたのがごく一部だったのと、連日の雪で祠が湿気を帯びていたことのおかげで、火の手は勢いこそ強かったものの、一部を焼き落とすと自然と消えていったという。無論炎に臆することなく消火器の薬剤を浴びせ続けた由美のクソ度胸もその一助となった。

 そしてその家の主である湯山――風太夫も、その貫禄を見せつけた。

 自分の家の裏手が燃えているという情報が入った時も、湯山は慌てず、風太夫がフキナラシの途中で中座するなどあってはならないと頑としてその場を動こうとしなかった。

 勿論異常な騒動となったことでフキナラシは一時的に止まったが、それでも湯山は風溜に居座り続けることを貫いた。

 逐一もたらされる情報に坂部達がはらはらする中、湯山は風溜にどんと構えて冷静に情報を吟味し、火の手が収まったと聞くと流石にここではほっと胸を撫で下ろした。

 壱師や舞子達の間でこのまま祭を続行出来るのかと不安げな空気が渦巻く中、湯山は何事もなかったかのようにフキナラシの続きを始めた。

 当事者である湯山にこんな態度を取られたのでは、坂部達が追随しない訳にはいかなかった。

 だが意外な人物が止めに入った。

 久保若葉だ。

「このまま続けるのは考え物ですね」

 坂部達が神部屋から舞戸に移った時に、何食わぬ顔で見物席にいた久保は、火事の一報を聞いて何やら意味ありげな表情を浮かべた。最初は苦々しいものだったのが、思案顔に変わり、うっすらと冷や汗をかいた蒼褪めたものへと変わっていった。

 見物席から湯山に向かって矢継ぎ早に言葉を放っていく。

「これは警告ですね。ワーニングです。ボス戦ですね。まあ相手は中ボスにも相当しない雑魚ですが、侮っちゃいけません。いつの時代も強い雑魚というのはたくさんいますし、雑魚は画面外に出ると復活するのも世の常です。だからもうちっと警戒しないとライフ切れですよ。E缶だけは最後まで取っておかないといけません」

 相変わらずの支離滅裂さだが、まゆらの助手という扱いになっている以上、湯山も無下には出来ないらしかった。

 ただしそれはこの支離滅裂な発言についてのみであって、フキナラシの続行については一歩も譲る気がないのは明白だった。

「ご助言ありがたいですが、風はこの村で一番大切な祭礼でしてな。おいそれと中止する訳にはいかんのです。小火ですんだんですから、気にせず続けます」

 久保はそれを聞くと暫し逡巡したが、湯山の決意が固いことを見て取るとそれ以上は口出ししなかった。

 そのままフキナラシは続行された。細かい儀式を終えると、いよいよ湯立ての神事である。

 竃に置かれた釜にはウチギリで迎えた清水が張られ、火を入れて沸騰させる。竃の上には「しゃっけ」。この位置取りからわかる通り、竃――湯立ては風祭の根幹を成す神事なのである。

 風太夫は竃の前に立ち、祭文を唱えながら熊手のような祭具――キョウフリで煮えたぎった釜の湯を振り撒いていく。このベクトルは主に上方に向けられ、湯立てが終わった後のしゃっけは紙製ということもあり崩れてしまう。

 また、湯立てで撒かれる湯を浴びると無病息災の御利益があるとされ、見物客達は皆神妙に身体にかかる湯を受け止める。

 湯立てが終わると、ついに舞いの番である。ここからが祭が最も盛り上がり、最も辛く、最も眠い時間帯になる。

 舞いが始まるのは日付が変わる少し前で、ここから夜明け近くまでひたすらガクを奏で舞いを奉じることになる。見物客の中には風祭を通しで見るだけの体力がなく、前半だけを見て仮眠所――きちんと仮眠所も用意されているのだ――で寝たり、前半は見ずに後半だけを見るという手法を取る者も結構な数存在する。

 だが、風太夫と壱師はそうはいかない。舞子の中には小さい子供もいて、舞いの種類ごとに交代で舞うので自分の出番以外は休んでいられるが、風太夫は祭の中心であり、殆ど出ずっぱりの状態が続く。壱師はまだ裏で休憩する時間があるが、仮眠を取れるだけの時間はない。

 だが、風狂が熱狂するのはこの舞いにこそある。ガクと歌詞に包まれながら、異相を纏って踊り狂う。

 ――最高だ。

 この一年、坂部はずっとこれを待っていた。野外ライブやディスコのような騒がしさはないが、それを超える静かな興奮が確かにここにはあるのだ。

 それでも流石に一晩中舞戸に出ているのはきつい。なにせ今は一月の初め――真冬である。寒さは骨身に染みるし、長い夜は強烈な眠気を運んでくる。それに加えて舞戸では竃が焚かれることで煙が立ち込め、燻されているかのような空気になっている。

 饌事場でほっと一息吐き、置かれているポットから急須に湯を注ぐ。自分で淹れた茶は出涸らしだったが熱いだけでありがたい。

「あ、よかった。坂部さん」

 饌事場にまゆらが入ってきた。

 坂部は祭の昂揚感で余計なことは考えずにいられたので、少し面食らった気分だった。まゆらと話すとなると、どうしても風流しを――そして日奈子を――思い出してしまう。

「見回りはいいの?」

 まゆらは風流しを未然に防ぐために湯山に呼ばれてきたのだ。風祭の本番――つまり今だ――の間は村内を見回ると自分で言っていた。

「一応一通り見て回って、一回戻ってきたんです」

 そこでまゆらは壁の時計に目をやる。既に午前二時を回っている。丑三つ時か――と坂部は心中で苦笑する。

「この時間になると、子供の舞子はもう家に帰ってますよね」

「まあ中学生や小学生でも高学年の子達はまだここに残ってるけど、『風の舞い』を踊ったような子達はもう帰ったんじゃないかな」

「風の舞い」は小学校に入学する前後の子供達が踊る舞いだ。

「親御さんも?」

「まあ、母親の方は帰ってるんじゃないかな。係に当たるような人は帰れないけど、それでも夫婦のどちらかが残っていればいい話だし」

 まゆらは頷くと、申し訳なさそうに口を開く。

「あの、もしよければ去年のことを詳しく教えてほしいんですけど……」

 坂部は身体がかっと熱くなるのを感じた。

「いや、今は無理だな。風の途中だし」

「あっ、そうですよね、ごめんなさい」

「というか、湯山の爺さんや他の人達から聞いてないの?」

「それが……皆さんなかなか話してくださらなくて。坂部さんに案内されてるんだから、そっちに聞け、と」

 坂部は思い切り肩を落とす。坂部と日奈子との関係を知らない人間はこの村にはいない。話をさせるのなら坂部が適任だと皆が思っているのだろう。

 せっかく風に熱中していたというのに、完全に水を差された。だが日奈子について向き合わなければならないことも重々承知している。それでも今はただの風狂として祭を楽しみたい。日奈子のことはそれが終わってからでも遅くないのではないか。

「悪い、とりあえず風が終わるまで待ってくれないか」

 だから坂部はかなり棘のある物言いをした。まゆらは慌ててすみませんと謝ったが、それすらも坂部の神経を逆撫でする。

 ――駄目だな。

 とにかくあの風溜に戻らなければ。そうすれば余計なことは忘れて踊り狂える。

 次は樒鬼が登場する、最も盛り上がる場面だ。坂部は鈴でガクを奏でる役目がある。

 樒鬼とはその名の通り鬼の面を着けた舞い手で、風祭を象徴する存在である。真っ赤な鬼の面に、巨大な木製の斧――の形をした祭具――を振り回し、大立ち回りを演じる。

 風狂ならば誰もが憧れる花形である。残念ながら坂部はその役ではない。ここ十年は毎年仙内が受け持っている。普段は頼りない仙内だが、この時ばかりは主役に躍り出る。坂部も一人の風狂としてその雄姿は近くで見ていたい。

 舞戸に向かうと、既に他の奏者は全員が揃っていた。後は樒鬼が出てくればいよいよだ。

 笛と太鼓、そして鈴でガクが奏でられていく。二拍子から三拍子、四拍子へと複雑に変化する調子の中、その拍子に乗ったステップで樒鬼が登場する。

 そこで坂部はおやと思った。樒鬼が出てきたのが、神部屋から繋がる廊下ではなく屋外へと繋がる方の通路から姿を現したからだった。

 だが軽妙な拍子に合わせて舞い踊る樒鬼を見ている内に、坂部は己の責務に集中していった。

 ――仙内さん、去年より上手くなってるな。

 樒鬼の舞いは文字通り鬼気迫るものがあった。斧を振り上げ、片足を大きく掲げ、見得を切る。その一連の行動は全て変則的な拍子に乗せて行われる。一挙手一投足に全身全霊を込めた、まさに大立ち回り。自分がミスをしてこの舞いを止めることだけはあってはならないと、坂部は鈴を持つ手に力を込める。

 だが、舞いもクライマックスに差しかかろうかという時、樒鬼の動きが止まった。

 その一瞬は、今までが完璧を超えた舞いだっただけに異様に目に焼き付いた。そのままずっと固まり、ガクも止んで全てが静止するのではないかと思った程だった。

 だが時は動き出す。樒鬼は頭から重力に従ってどうと倒れた。

 全員が固まった――そう思ったが、その時にはすでに湯山が樒鬼の許に駆け寄っていた。

 面を外すのにかなり手間取ったように見えたが、湯山は何とか面を外し、はっと息を呑む。

 面の下には、千葉の真っ青な顔があった。

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