20.

「ねえ、千香。今の電話の人に、流羽のことを任せられた。止められるのは僕しかいないんだって。資格的にも立場的にも。それってどういうことかな?」

「どういうことって、どういう意味?」

「いや、君から見て、僕にはその資格があるように見えるかなって」

 千香は、押し黙って怪訝な顔をして、次に憐憫を含んだ顔になっている。

「この状況で、あなたに資格がなかったら。流羽さんに物申せる人はいないんじゃないかなって思う」

「そんなことはないと思うけど……」

「でも、どう見ても流羽さんは恭一に心開いているよね。一緒の部屋で寝起きして、一番無防備な時間のボディガードを任せて。ううん。その前だって、鍵を持っていたり。信頼がないとできないことだと思う。……よく、そんな状態のあなたに嫉妬しなかったわたしは偉いと思う」

「う。千香の理解には感謝してるけど、でもそんなんじゃないんだって。仕事なんだから」

「やりがいのある仕事で、よかったわね」

「それが原因で僕たち別れたんだけど?」

「もちろん、イヤミに決まってるでしょ」

「ああ。ごめん」

 それっきり、お互い黙ってしまった。でも、嫌な空気じゃない。以前のような、いるだけで幸せになれる関係に戻ったように感じる。もしかしたら、もしかするかもしれない。

 そのためにも、まずは目の前のことに集中しよう。流羽を守る。生きて帰る。それからだ。

 タクシーは、三日月区の工場地帯に止まった。ここは、死んでる倉庫などがあって隠れるには困らない。それにここは、ヒマリアの言うところの直線上にある場所だ。

 タクシーを降りると、まず目に入ったのは陽光だった。太陽が軽く顔を覗かせている。

「まずいな。急ごう」

 そう言いつつも右腕と左脇腹をかばっているので、そんなに早くは動けていない。倉庫の端の方に移動してとりあえず身を潜める。

「ねえ、大丈夫? すごい汗だよ?」

 千香が心配して声をかけてくれた。

「うん。人生には頑張りどころがあって、今まさにそのときだと思うんだ」

 虚勢を張ることもできた。だけど、千香にはなるだけ嘘はつきたくない。人間誰しも誠実でいたい人がいると思う。相葉にとって千香はそういう人だった。

 相葉は、ネクタイを抜き取るとそれで銃を右手に固定しようとして、失敗。千香になんとかしてもらった。これで、後は引き金を引けば弾は出る。

「千香、ここにいて。なんかあったら警察呼んで」

 なんかあってからでは間に合わないだろう。単なる気休めに近い。

 それでも相葉は、そう言い残して、一番影になる倉庫の裏から回り込んだ。一個目の倉庫に気配はない。そういう訓練は積んでいない。でも、生き物独特の気配はわかるくらいには普通のつもりだ。

 縛り付けたので銃は落とさないが、動かすと右腕に痛みが走る。こんな様では、満足に撃てるかわからない。右腕をまっすぐにして銃口を下に向けて構えるが、とっさに上げられるだろうか。

 玉のような汗が額に滲む。脂汗もかいている。照準は左腕のサポートでなんとかなりそうだ。痛いことを除けば引き金を引く握力くらいはある。

 それよりも問題は肋骨の方だ。素早い動きが封じられている。昼間を恐れているとはいえ、相手は人狼だ。懸念は強い。

 だが、そんな懸念を頭から追い出す。迷ってる時間はない。そんなことして引き金を引くのが一瞬遅れればそれだけ死ぬ確率が増える。

 二つ目の倉庫も異常なし。三つ目の倉庫はちょっと離れてて、他の倉庫の影になっている部分が多い。相葉は、そっと近づく。気配の消し方など知らないが、とりあえず物音を立てないように気を付ける。

 三つ目の倉庫は前の二つより大きく、中も雑然としていた。相葉は、自分が踏んだ砂の音に驚きながら、中へと進んでいく。冷や汗と脂汗が流れた。この倉庫街のどこかに権堂がいる。それは不思議とただの勘でしかなかったが、なにより信じるに足る根拠だと思った。

 うっすらと人の気配を感じる。だが、それよりも確実に生き物がいるとわかった。夏の暑さに炙られて、生ぬるい風が奥から流れてくる。それに乗った、生臭いにおい。それは、三つの殺人現場でも漂っていたにおい。命の残滓。血の香り。

「く」

 怯えすくむ足。だが、言い聞かせる。これは権堂のものかもしれない。だから、真相を確かめに前へ進めと。

 固唾を呑んだ後、足を動かす。そのときなにか硬いものを蹴っ飛ばした。鉄製のもので、おもちゃのような音。聞き覚えのある音だった。それは、権堂に銃を捨てさせられたときに聞いた音。嫌な予感がして足下を確認すると、自分の持っている銃と同じものが転がっていた。

 背筋を寒いものが走る。衝動的に、なにも考えなしに倉庫の奥へと駆けだした。痛みは、忘れている。息が不必要に乱れた。

 その奥で、衝撃的なものを目にする。それは決して見たくなかったもの。流羽が喰われている光景。

「はっ、はっ、はっ……」

 呼吸が乱れる。落ち着け。まだ生きてるはずだ。今なら間に合う。そう言い聞かせて、今度は姿を完全に見せた。

「権堂ぉ!」

 注意をこちらに向けさせる。素早く、流羽を盾にするより早く弾を撃ち込む。が、痛みで精緻な射撃が出来なかった。弾は、権堂の周りの障害物に当たって火花を散らすだけ。

 それでも、威嚇の効果はあったらしく、権堂は流羽を落として物陰に隠れた。すぐに流羽に駆け寄る。息は細いが生きている。ひどい。首を真っ赤に染めていた。

「あ、いば、か」

「しゃべらないで! 傷に障る」

「すま、ん」

 誰かが、倉庫の扉を開けて外に出て行くのがわかった。その後には静寂。自分の荒い息と、流羽の細い、少し引きつった呼吸だけが聞こえる。

「こういうときはどうしたら良いの?」

「血を」

「血? そんなものどこに?」

 とっさに思いついたのは流羽の家の冷蔵庫だ。だけど、遠すぎる。

 流羽は弱々しく相葉を指さした。

 失念していた。そうだ、自分を生かしているものも血。しかし、伝承では吸血鬼に血を吸われたものは吸血鬼となるという。まだ人間に未練がある。どうしたものか。

「だい、じょう、ぶ。血を、吸われ、ても、……にならな、い」

 その流羽の言葉を吟味している時間話さそうだ。相葉は、首筋を差し出す。

「いい、腕を」

 相葉は、左腕を上着から抜き取り、シャツの袖をまくり上げた。

「すまん、恩に、着る」

 流羽は、相葉の腕に顔を近づける。生ぬるい吐息が腕にかかった。だけど、怖い思いはない。もしかしたら人間が終わるかもしれないとも思ったが、吸血鬼は人間と共存出来る。そう確信を持つに至っていた。

 流羽は、弱々しく口を開け、相葉の腕に噛みついた。不思議なことに痛みはない。でも、自分の血が吸い出されている感覚は、採血の比ではなかった。

 元々、怪我をしている身なので血は充分ではない。だからか、軽い目眩を覚えた。流羽は、それを察したのか、すぐに口を離してくれる。だが、その顔には、若干の未練があるように思えた。

「相葉、あたしを家の棺おけに、放り込んでくれ」

 弱々しい声に違いはなかったが、声に芯が通った。

「わかったよ」

 上着を流羽の頭に被せて、背負った。軽い。本当に軽い。こんな小さな身で権堂に挑んでいったというのか。頭が下がる思いだった。流羽の銃を拾って、千香と合流する。

 千香が呼んだのか、遠くから警察車両のサイレンの音が聞こえてきた。ありがたい。この血まみれの流羽をタクシーに乗せるのは気が引ける。



 流羽のマンションに覆面パトカーで急いで戻ると、棺おけに流羽を寝かせた。そして、蓋を閉める。その直後、相葉は腰を抜かしてしまった。驚いたとかそういうわけではない。単純に疲れが襲ってきただけだった。

 そのまま、流羽の棺おけの横で眠りに落ちれたならどんなに良かったことか。ここに来て、脇腹と腕が痛み出した。その様子を見ていた千香が慌てて駆け寄ってきて、なにかを言ってきているが、なにを言ってるか理解できない。

 千香は相葉の身体をなんとか背負うと、相葉が使わせてもらっている寝室に連れてきてくれた。苦しい。呼吸する度に脇腹が燃えるように熱く、痛む。

「……じょうぶ? 救急車呼ぶ?」

 そういって、踵を返そうとする千香の腕を掴んで、首を振る。

「だって、あなた今日の朝、病院に入院して、一ヶ月は安静だったでしょ?」

「だ、けど。僕、は、ここを離れるわけ、にはいかない」

 力は入らないが持てる力で、千香の瞳を覗き込む。

「そんな身体で、なにかあったときに動けると思っているの?」

「そ、うだね。でも、離れる、わけには、いかない」

 流羽の背中を預かったのだ。そう易々と放棄できる仕事ではない。なにもできなくたって、いなくては。

「わかったわ。お医者さんをここに呼ぶわ。それならいいでしょ?」

「ご、めん。あり、がとう」

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