05.

「おつかれ!」

 流羽の労いはそれに集約された。余計なことは言わないし、聞かない。だから「おつかれさまでした」と足早に職場を後にする。

 それでもその日は結局、定時から二時間遅れで解放された。急いで千香に電話をしてみたが、出る気配がなく、嫌な予感をしたのはこういうことだったのかもしれない。帰ったら千香がもういなくて、そして二度と会えないのではないのか。そんな気さえした。

 急いで、マンションに戻りエレベーターを待とうするがエレベーターは最上階にある。待っている時間がもったいなく感じられた。焦って階段で駆け上がる。今更一分二分の差など些細なことだと冷笑する自分も中にはいた。だからといって、のんびりしている余裕は相葉の心にはない。

 部屋には鍵がかかっていて、チャイムを鳴らしてみる。いるなら開けてくれるはずだ。だが、反応はない。相葉は、その場にへたり込みそうになった。それでも、なんとかポケットから鍵を出して部屋に入る。

 部屋の中には人の気配はない。階段を一気に駆け上がったために息はすっかり上がっていた。しかも、真夏の夕暮れ。暑い。死ぬほど暑い。思考が奪われる。流れる汗がうざったらしかった。

 玄関で数分ぼうっとしたあと、部屋の奥へと入る。整えられたベッド。だけど、彼女の姿はそこにはなく、きれいに整えられていることで余計に虚しさが募る。今には、今日の新聞と脱ぎ散らかしたパジャマ。借りてきたまま放置されたDVD。やっぱり、ここにも生活が残っていた。

 それらは昼間の現場を連想させ、また気分が悪くなる。そういえば、昨日の夜からなにも食べていないことを思い出した。いくら気持ち悪くなっても吐かないわけだ。

「晩ご飯どうしよう」

 ぼそりと呟いたが、実際そんなこととはどうでも良かった。問題は千香との関係の修繕だ。まだ間に合うはず。いきなり壊れておしまいなんていう関係ではなかったはずだ。

 だが、電話に出てくれないという現実。相当怒っているのだと思われる。家に行ってみようか。それが早いかもしれない。

 そう思ったが早いか、相葉は一度脱ぎかけたスーツをもう一度着直して部屋を後にする。千香の家まではそれなりの距離があり、焦りも手伝ってタクシーを利用することにした。

 千香のマンションに着いたときには、陽は落ちていたが、生暖かい風が相葉を撫でていく。相葉は、深呼吸を一つして千香の部屋へと足を向けた。

 マンションの階段を全力で駆け上がる。部屋の前で息を整えた。そこで、手土産がなにもないことに気付く。だけど、きっと今はそんなことを越えているレベルだろう。

 緊張する。この世の終わりが近づいているような感覚。頭の中で、こう言われたらこう返すというプランを練る。そして、チャイムを押した。

『はい』

 紛れもない千香の声だ。相葉のもっとも愛おしい人の声。

「あの、僕だけど……」

 なんと言っていいかわからない。

『……』

 向こうも無言。なにを言っていいのかわからないのは同じらしい。

『ちょっと待って』

 暗く冷めた声で、それだけ言うとインターフォンは切られた。代わりにスリッパを履いて歩いてくる音が聞こえ、ドアが開けられる。

「あ、あの、なんていうか……」

「入って」

「あ、うん。お邪魔します」

 千香の部屋の中に入るのは久しぶりのことだ。相変わらず、良いにおいがする。どうして女性の部屋には心地良いにおいがするのだろう。短い廊下を通って、居間に入る。

 以前と同じように、食卓の椅子に腰掛けた。昔と変わらない。そうだ。以前のように振る舞えるじゃないか。変な自信が湧いてきた。

 だけど、千香は一言も口を利いてくれない。キッチンでなにか飲み物を入れてくれているようだ。できれば甘いものがいいと思ったがそんなことを要求できる場面じゃないくらい相葉にもわかる。

 千香がカップを二つ手にしてダイニングテーブルにやってきた。中身は冷たいココア。非常にありがたい。

「顔」

 千香は、ぼそりといった。

「え?」

「顔、青いけど大丈夫?」

 相葉はとっさに言い返すことができなかった。青くなる理由は目白押し。朝ご飯からなにも食べていない、死体とのご対面、現場の正体、半日探索しっぱなし、そして千香との関係。平常でいられる理由の方が弱い。

「今日、初めて殺人現場に行ったんだ」

「……そう」

 一瞬息を飲んだ後、平坦な口調で千香は言った。

「理解を求めようとは思わない。ただ、なんていうか、飲み込む、いや、認めて欲しい。そういうものなんだって」

「恭一、それは無茶というものよ」

「そ、うだよね。だけど、僕のしている仕事はそういうものなんだ」

「わたしは、そんなに欲張りなことを言ってる? 好きな人と一緒の時間が欲しいと言っているだけ。朝ご飯を一緒に食べるという些細な望みを持ってるだけ」

「…………。でも、その簡単なことが果てしなく難しい人もいるんだよ」

 こんな話をしに来たわけではない。関係の修復に来たはずだ。

「そう。わたしは、それを簡単にできる人と付き合いたい」

「ごめん」

 それ以外に、うまい返事は見つからなかった。

「朝起きたとき、朝食を共にすることを約束した恋人がいなくて、置いておかれた気分がわかる? その寂しさがわかる?」

「こんなときにいう言葉じゃないかもしれないけど」

「なに?」

 相葉はわずかに逡巡したが、すぐに決意した。

「結婚して欲しい。結婚すれば、一緒の時間も増えるし、寂しい思いをさせずに済むと思うんだ」

「本気で言ってるの、それ? わたしはなかなか帰ってこない恭一を待って一人過ごすのは嫌よ。余計にもの悲しいわ」

「でも、君の元に帰るよ?」

「それは余計に、帰ってこないときの寂しさが募るわ」

「そう言われると返す言葉がないよ」

「そんな青い顔してまでやりたいことなの?」

 千香は、少しうかがうような声で言った。

「それは……」

「転職して。そしたらきっとわたしたちうまくいくと思うの。そんな辛い思いをしてまで続けることじゃないでしょ?」

 相葉は押し黙る。返す言葉がいちいち見つからない。自分はなんで警察官なんだろう。しかも花形部署の刑事課とはいえ、鑑識だし。朝早くに起こされるし、恋人とも深刻な状況に陥っている。死体は見るわ、犯罪現場に引っ張りだこだし、警察官自体楽な仕事ではない。良いことなんてないように思える。

「なんで警察官なの? 恭一はなにか信念があって警察官をやってるの?」

 信念。警察官としてはない。警察官としての信念はなくとも、人生の信念はある。相葉は、なにかをするなら最低限そこでなにかを得なくては気がすまない性分だったし、自分はそうして生きてきた。そうすることでしか、自分は自分らしく生きていけないような気がしている。

 簡単に言えば、投資に対する、利益をまだ得ていない。

「僕は、信念なんて大層なものを持って警察官になった訳じゃないよ」

「じゃあ……」

「でも。でもね。今、警察を辞めるわけにはいかないんだ」

「どうして?」

「それを今更、語らなくちゃいけない間柄でもないだろう?」

 千香なら自分のことを理解してくれていると思っている。

「わたしと仕事、どっちを取るの?」

 どこかのドラマで聞いた定番の質問。答えは千香に決まっている。だが、相葉はすぐさまそのことを口にできなかった。警察官には未練がある。いや、未練を持つほど勤め上げていない。しかし、今感じている警察官としての感覚、鑑識作業の手応えは未練に繋がるものだと思う。

「…………ち」

「わかったわ」

 千香に決まっている、と言いたかった。だけど、そのほんの数秒のタイムラグで全ては語られ、全て終わった。

「わたしは、わたしを見ていてくれない人とは付き合えない。終わりにしましょ」

 あまりショックは受けなかった。相葉が千香が自分のことを理解してくれていると考えるのと同時に、自分もまた千香の一番の理解者である自負がある。だから、こういう結末になることは心のどっかでわかっていたのだ。

 心に吹き込む、虚無の風。全身を覆う倦怠感と脱力感。

 終わった。

 相葉は、カップに入ったぬるくなったココアの残りを煽る。名残惜しくカップを持っていたが、意を決して立ち上がると、千香の部屋の鍵を鍵束の中から外し、テーブルの上に置いた。

「じゃあ」

 それしか言葉が出てこなかった。

「……もっと、ごねられると思ってた」

 千香は、両手の平でカップを包むように持ち、視線はその中身に注がれていた。

「ごめん」

 決して相葉にとって縋る価値のないという意味にはならない。だけど、覚悟を決めていた分、冷静になっていたのが仇となったようだ。確かに、ここは惨めにでも縋っておくべきだったのかもしれない。それは得てして千香の価値を高めることに繋がるからだ。

 それに関しては心底申し訳ないと思った。最後に、相葉が千香にしてやれることがまだあったということだ。それを上げられなかったことで、全部が台無しになった気がした。

「君は素晴らしい女性だよ」

 本心だった。

「それを手放そうと言うんだから、あなたは愚か者よ」

「そうだね。僕は愚かだ」

「わたし、そういう恭一の素直過ぎるところ、嫌いだわ」

「うん」

 千香の声に少しずつ声に涙が混じっていく。顔も少しずつ下がっていって、完全に俯いてしまった。

「人から言われたことをすぐに、受け、入れ……る、とこ、とか」

「うん」

 千香は、鼻をすすった。

「なんでも、取り組んだことに、価値が、ないといけないと、思っているところ、とか」

「うん」

「全部全部嫌いだった。でも、愛して、いたの」

「知ってる」

 じゃあ、なんで? という顔をする千香。だけど、その理由を千香は知っている。だから、一度上げた顔をもう一度俯かせた。

「僕は、渡石千香を愛してる。だから、お別れだ」

 千香が跳ね上げるように顔を上げたときには、相葉は廊下に向かっていてすでに背中を向けていた。

 相葉は千香の泣き崩れるのを耳と肌で感じ取りながら、部屋を後にした。この後の展開がどうなるかは大方予想できる。一日も早く、自分のことを乗り越えて欲しい。そう思うだけだった。

「あ~、僕の部屋の鍵を返してもらうの忘れた。……まあ、いいか」

 マンションの前で、頭を軽く掻きながら家路につく。早く帰ってシャワーでなにもかも流してしまいたかった。

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