05:『あり得ない物語』の始まり≫≫

 

 ふくらはぎの辺りに何かふわふわしたものが触れたかと思うと、もぞもぞと顔の方に近付いてきた。レイだ。私が飼っている真っ黒な猫だ。 


 いつの間にか眠ってしまったのだろうか、目を覚ますと私はベッドの上にいた。窓の外はすっかり暗い。何かとても変な夢を見ていた気がする。とっても奇妙な………へ? 


 ふみゃ~ご、とこちらを覗き込むレイを私は横になったまましげしげと見つめた。


 レイ? 猫? ふむ、え~と、


 私の体は硬直した。変な汗が吹き出してくる。


 私……猫なんて飼ってたっけ?


『いや、飼ってないぞ。その設定はさっき俺がおいた』

「ひぃっ!」


 私は跳ね起きた。レイが、猫が喋っている。人語を悠長に操っている。


「落ち着け。俺だよ。上条かみじょうだ。別に姿を変える必要なんてなかったんだが、いくら仮想現実とはいえあの姿のまま女子高生の部屋に入るってのは忍びなかったんでね」


「夢じゃ…… なかったの?」


「まあ、どちらかといえば今現在すでに夢の中にいるようなもんだけどな」

 

 猫はペロリと掌を舐めるとゴシゴシと顔を洗った。


「女子高生と喋る猫の組合せなんてまさに物語っぽいシチュエーションだろ? まあ、残念ながら俺は君を魔法少女にも美少女戦士にもしてやれんがな」


 そんな猫顔でドヤ顔をされても。


「よくやったぞ、麗美れみちゃん。これで第一段階は突破したな。おそらくイグジステンス=レベルがかなり増加してるはずだ」


「ふぇ? エク……ソシ……ス……ト?」


 なんのこっちゃと首を傾げているとレイはごろりと寝転がった。そして掛け布団に首を擦り付けながら私の声真似をする。


『私は井戸部いとべくんのことが好き! しゅきになっちゃたのぉ♪』

「わーーーっ! わーーーーっ!」


 私は恥ずかしさのあまり枕で顔を半分隠した。そのまま顔の火照りで枕が燃えあがっちゃうんじゃないかと思うくらいだった。猫はふにゃははと笑っている…… ように見えた。


「嘘? あれも夢じゃなかったの? ま~じ~でぇ? どおぉぉしよぉーーーっ!」


「だからすでに今現在が夢の中みたいなもんだって言ってるだろ? いいんだよ、あれで。ようやく物語が転がり始めたんだからな」


 私は頬をつねってみた。痛い! 痛いってことは…… 夢? あれ、どっちだったっけ?


「それは〈REM〉によって“痛い”と脳が勘違いさせられているだけだ。何度も言わせるな。いいか、今、俺たちがいるこの空間は現実世界じゃない。認識しろ」


「れむ……?」


「〈Realityリアリティ・-Entertainment エンターテイメント・-Motionpictureモーションピクチュア〉の略だ」


 猫は、いや、猫の姿をした上条という男はベッドから飛び降りるとふんふんと鼻を鳴らし、部屋の中を散策するように歩き周り出した。


「ちょ、ちょっと、おしっこなら外でしてよね」

「あのな…… 」


 猫は少し憤慨ふんがいした様子でしかめ面をする。ようやくお気に入りの場所を発見したとみえ、その場に腰を下ろすと猫は坦々と語り始めた。


「今は西暦何年だ」


「えっと、2023……だっけ?」


「そうだ。だがそれはこのヴァーチャルの世界の時代設定だ。この世界を見ている君の『母体』が実際に暮らしているのは2173年」


「にせんひゃ……はぁ?!」


 つまり、このカミジョウという男は150年後の世界からきたということか? いや、そうじゃなくて、ええと、未来世界に住んでいるが見ているのが150年前を舞台にしたこの仮想現実ヴァーチャルということで……ああ、ややこしい。


「つまりラノベなんかでよくあるよね。オンラインゲームの世界に入り込んじゃって、どーたら……みたいな……?」


「いや、残念ながらあれはまだ夢物語だな」


 黒猫はふるふると頭を振った。


「ひとつの仮想空間の中に何十人もの意識が入り込んで活動する“オンライン”なんてのは今の技術ではとても無理だ。こうして個人で楽しむための“映画”くらいが限界だ」


「映画?」


「そうだ。2164年をさかいに、映画は劇場で見るものから完全にヴァーチャルに取って代わられた。自分が主人公となり、様々な物語を体験できるようになったんだ。映画は見るものから疑似体験するものに変わり、やがてそれは一家に一台、手軽に楽しめる商品として普及されるようになった。それが〈REM〉だ。そして君は今、その中の世界にいる」


「『母体』って、私はってこと?」


「君は所謂いわゆるアバターってやつだな。意識的には本体でもあるわけなんだがどちらかといえば無意識に近い。外見も性別も年齢も、身体的にいえば偽物ってことになる」


「それって、つまりは十七才じゃなくて、奥田麗美おくだれみって名前でもなくて……その、中年のおばさんとか、もしかしたらお婆さんだって可能性もあるって……そゆこと?」


 猫はちょっと困惑し、尻尾をくねらせた。


「……それは教えられない規則になってる」


「そんな…… 自分のことなのに!」


「弁護士の守秘義務みたいなもんだ。世の中にはいろんな性癖の人もいてだな…… 仮想現実でマッチョな男になってみたい女ってのもいれば女子高生になってみたい男とかもいるわけで」


「えー、なにそれ。やだ、きも」


「だろ、もとの世界に戻った時、他人や俺みたいなのにそんなことが知れたとわかったらキモいだろ? 君のためのプライバシー保持なんだぞ」 


「ちょ、ちょっと待って。今、性別も・・・って言ったわよね。だったらひょっとして…… 男かもしれないってこともあるわけ?! 私の本当の姿は二日酔いのおっさんかもしれないってこともあるわけなの?」


「まあ、待てって。落ち着けって。そうだとは言ってないだろ」


 猫は尻尾を巻くと、ケホンと咳払いした。


「……が、まあ、その可能性がないわけではない」


 がーん!


「もちろん名前だって違う。お前さんの麗美れみって名前は大方おおかたヴァーチャルに入る直前、マシンに商標ラベルされてる〈REM〉って文字が目に入って適当に設定したんじゃないかと俺は推測している」


 REM=REMI


 なるほど、言われてみれば。

 

 私はシーツに触れてみる。指先から──手のひら全体へと、その触感を確かめてみた。

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